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川崎賢子 手塚治虫と宝塚 幻想の相乗効果──『ヴェニスの商人』から『ブラック・ジャック』まで[『図書』2023年5月号より]

手塚治虫と宝塚 幻想の相乗効果
──『ヴェニスの商人』から『ブラック・ジャック』まで

 

 二〇二二年十一月から十二月にかけて、宝塚歌劇団月組は『ブラック・ジャック 危険な賭け』『FULL SWING!』で全国各地ツアー公演を行った。芝居の『ブラック・ジャック』(脚本・演出正塚晴彦)はいうまでもなく手塚治虫原作である。初演は一九九四年花組公演。宝塚歌劇団創設八十周年の年、宝塚市立手塚治虫記念館開館設立を祝う公演で、この時併演されたショーはこれも手塚治虫作品に想を得た『火の鳥』(演出草野あきら)だった。

 手塚治虫記念館と宝塚大劇場は、ほんの目と鼻の先に、ならびたっている。手塚治虫と宝塚の深い関係は、ファンの間ではよく知られていよう。小学校にあがる前から母の膝で宝塚レヴューを観ていた、大スター天津乙女に可愛がられたといったエピソードには事欠かない。

 一九四七年から一九四九年ごろにかけて、『歌劇』『宝塚グラフ』『歌劇グラフ』などの歌劇団機関誌、ファン誌に手塚治虫が寄稿していたことは知る人ぞ知る。初期手塚治虫の貴重な資料である。その校正紙がGHQ/SCAPの検閲機関であるCCD(Civil Censorship Detachment民事検閲局)に提出されており、米国メリーランド大学のプランゲ文庫におさめられていることは、研究者が掘り起こしている。今回ご紹介するのもプランゲ文庫資料のもので、検閲の際の整理番号が振られている。

「宝塚菜園」(『歌劇』一九四九年一〇月号)_Special_Collections_and_University_Archives_University_of_Maryland_Libraries
Special Collections and University Archives, University of Maryland Libraries.

 本稿で紹介する「宝塚菜園」(『歌劇』一九四九年一〇月号)は、スターを野菜に見立てた似顔絵で、手塚治虫の筆致としては珍しいものかと思う。手塚治虫記念館には春日野八千代と乙羽信子を描いた水彩画などの遺品が所蔵されているというが、こちらは一筆書きのような似顔絵である。越路吹雪(コーノイモ)、淡島千景(三寸ケイニンジン)、乙羽信子(オカブ)、春日野八千代(カスガダイコン)など、スターの表情、愛称のもじり、そして芸風についての愛ある批評をまじえた表象となっている。

 一方、「『ヴェネチア物語』幻想曲」(『歌劇』一九四八年二月号)の構成はやや複雑である。『ヴェネチア物語』(演出高崎邦祐)は一九四八年一月月組初演、二月雪組続演、その後東京の江東劇場でも上演された。実はこれ、シェイクスピア『ヴェニスの商人』のレヴュー版なのである。演出の高崎邦祐は、「場面が多くて展開のスピイデイな点、また運びの上に絶えず流れがあつて」「音楽劇として構成する意欲」を刺激されたと語る。シャイロックの娘ジェシカが男装して家を抜け出しキリスト教徒の恋人ロレンゾと駆け落ちする件など「白井鐵造先生のレヴユウの何処かに表れたことがありさうなくらい宝塚的」(「『ヴェネチア物語』について」『歌劇』一九四八年一月号)であるとさえいう。人肉裁判の筋、はこ)選び(婿選び)の筋、そして指輪の挿話をおさえて、よりスペクタクルに、よりスピードアップした自信作であったらしい。一方で、ヴェニスとの差異化をはかるためにベルモントの風俗を「やや異国趣味のオリエンタル」なものに変えたこと、ヴェニスの風俗衣装が、中世イタリアというよりはロココ調に変えられていたことなどは、当時から議論の的になっていた。

「『ヴェネチア物語』幻想曲」(『歌劇』一九四八年二月号)_Special_Collections_and_University_Archives_University_of_Maryland_Libraries
Special Collections and University Archives, University of Maryland Libraries.

 『ヴェニスの商人』には、ポーシャ、ネリッサ、ジェシカの男装や、アントーニオとバッサーニオとの鉄板の男同士の絆すなわち二人の魂が同じ一つの友愛で結ばれるという「崇高な男同士の友愛」など、現代の眼で再読しても興味深い、多様な欲望が交錯している。幕開きから、アントーニオのゆえしれぬ憂鬱と、次の場の冒頭におけるポーシャの憂鬱は反復している。バッサーニオをめぐって、アントーニオとポーシャがライバル関係にあるということなのだろう。現代の宝塚ファンであれば男役同士のバディ関係を大歓迎するところだが、残念ながらGHQ占領期の宝塚では解釈が違ったらしい。主役はアントーニオではなくバッサーニオ、ポーシャとバッサーニオの男女の恋模様に焦点が当てられている。月組版ではバッサーニオ久慈あさみ、ポーシャ淡島千景、雪組版ではバッサーニオ春日野八千代、ポーシャ乙羽信子だった。久慈も春日野もいずれもバッサーニオではなくてアントーニオが適役であったろう。人肉裁判で男装するポーシャ役に乙羽は苦戦したらしいが、淡島はこれがはまり役となった。手塚治虫『リボンの騎士』のサファイヤ姫には淡島千景の面影があるともいわれるゆえんである。

 シェイクスピア『ヴェニスの商人』に立ち戻るなら、「匣選び」の筋は、遺言で娘の婿選びを束縛する、父の権力を象徴するものである。誤った箱を選んだ求婚者は、その後、いかなる女性にも求婚しないことを約束させられるなど、家父長による娘の支配と所有の意志に貫かれている。娘の求婚者である若い世代の男たち(擬似的には息子たち)をライバルとして蹴落とそうと遺言する父の欲望も、あからさまである。これに対して宝塚版の脚本では亡父の遺言は娘の求婚者をそこまで徹底して抑圧するものではない。

 指輪の挿話は、ポーシャからバッサーニオに、ネリッサからグラシアーノに贈られた愛の誓いの指輪を、人肉裁判の法廷でアントーニオの窮地を救った博士(ポーシャ)と書記(ネリッサ)にねだられて渡してしまい、男たちがなじられるというもの。これも男女の愛の誓いの上位に、男同士の恩義、友誼の欲望が位置していることの風刺だろう。法廷の場でもバッサーニオは思い余って「生命も、女房も、いやこの全世界すらも、僕は君のその生命ほどに尊いとは思わん」とアントーニオにむかっていいつのり、博士のポーシャに「これこれ、もし奥様が側にいて、そんな話を聞けば、あまり有難いとは申されんだろうな、きっと」とたしなめられていた。

 宝塚版『ヴェニスの商人』であるところの『ヴェネチア物語』をさらにパロディ化したのが、手塚治虫の「『ヴェネチア物語』幻想曲」である。絵柄は後年のものと比べて丸みを帯びていて、顎の張りが少なく、男性性/女性性の描き分け方も少し異なっている。人肉裁判、匣選び、指輪の挿話をそれぞれにおさえて四つの景に仕上げている。匣選びで求婚者たちの圧力にふるえるポーシャは、人肉裁判で毅然とした裁きを見せる男装の麗人の風姿からはるかに遠く、のぞまぬ結婚におびえるおさない娘の風情である。人肉裁判の法廷でのやりとりが「闇取引」になぞらえられているのは、戦後占領期の闇市の世相に通じる。指輪の挿話については、裁判の謝礼に博士と書記官に渡したはずの指輪が女性たちの指に戻っていたくだりをひねったものである。シェイクスピアではポーシャとネリッサが、誓いの指輪を失ったバッサーニオとグラシアーノを問い詰める場面だ。手塚版パロディでは、グラシアーノは相手を取り違えて嫉妬をし、バッサーニオは、同じようなたくさんの指輪にまぎれさせてしまおうとして、かえって自分でも本物の指輪の見分けがつかなくなり、ポーシャの助けを求めるという、高度なオチとなっている。情報が詰めこまれた、にぎやかなテクストである。

 手塚版「『ヴェネチア物語』幻想曲」は「幻想曲」という形で、見抜くこと、見透すことの可能性と不可能性を主題化したテクストとなっている。そしてこれはシェイクスピア『ヴェニスの商人』のもうひとつの主題でもあった。

 男装したポーシャとネリッサを女性と見抜く者は法廷にはいない。

 指輪を所望されたバッサーニオとグラシアーノは、目の前の博士と書記官が、他ならぬ結婚の誓いを立てた相手だと気づくことすらできない。

 もとより人肉裁判で、アントーニオの胸の肉一ポンドが「肉」だけではなく、そこには切れば血を流す血管が縦横にはりめぐらされているということを見透したものは、いまだ男に触れたことのないポーシャだけだったのである。

 匣選び(婿選び)の筋も、まなざしの不可能性の挿話だった。求婚者たちは、正しい匣を選べばそのなかにおさめられたポーシャの絵姿にまみえることができる。誤った匣には、髑髏や愚者の図像が入っている。シェイクスピアでも宝塚でも、彼らは次々に挫折する。

 だが手塚版「幻想曲」はこれをつくりかえている。求婚者たちは集団で押し寄せ口々に匣のなかを見通す方法について述べて、ポーシャを圧倒する。他者の欲望を欲望する男同士の絆と競争が、ポーシャにたいする男たちの欲望を暴力的に増幅し、それがポーシャを震撼させている。手塚版「幻想曲」は、笑いのかげにかくれて、『ヴェニスの商人』に仕掛けられた、まなざしの限界や過剰性という主題を暴露している。のみならず『ヴェニスの商人』の求婚者の欲望の構造も明かすことになる。

 また、宝塚版ではバッサーニオを男役トップスターの役としたために、借金まみれの遊民の弱さなどは描きこまれていないのだが、手塚版「幻想曲」では、これもつくりかえている。どの指輪が本物の愛の誓いの象徴かわからなくなって妻に救いを求める夫つまりは自分でも真の自分がわからない〈私〉、としてバッサーニオを描き出しているのである。そしてこの時ポーシャはズボンを履いている。その横顔は凜々しく、どこかしら淡島千景に似通った面差し。男役トップスターと娘役トップスターの舞台上の力関係を反転する図柄にもなっている。

 「『ヴェネチア物語』幻想曲」を描いた時、手塚治虫は二十歳にもなっていない。男役のセクシュアリティ、娘役による男装という越境を、エロティシズムの対象として掘り下げたというわけではない。また、宝塚版『ヴェネチア物語』は、結婚と家父長制やら、異性愛の欲望の上位に位置するホモソーシャルの欲望やらについて、きわだたせて描いていたというのでもない。だが、手塚治虫と宝塚の幻想の相乗効果は、現代の読者に、その問題系に至る回路を示している。

 さて現在の手塚治虫と宝塚に話を戻そう。宝塚版『ブラック・ジャック 危険な賭け』は、原作の如月恵の挿話を引用している。如月恵はブラック・ジャックのただひとりの恋人だったが、ガンに侵され、子宮・卵巣(女性の生殖器官)をブラック・ジャックの執刀により切除され、命だけはとりとめる。原作の如月恵はブラック・ジャックに別れを告げ、女性としての人生を捨て、男性に姿を変えて、船医として新たな人生を踏み出す。このエピソードのガン手術とブラック・ジャックとの別れが、宝塚版に引用されている。

 宝塚版では如月恵の男装、男性としての人生には言及されない。そのかわり、オリジナルのエピソードとして、ブラック・ジャックが如月恵に瓜二つの女性とめぐりあうというシークエンスがある。宝塚版では、それに触発された回想シーンに如月恵が登場し、ブラック・ジャックは彼女を幸福にできなかったことを悔やみ、自らを責める。

 原作と共通する登場人物は、回想のなかの如月恵と、現に生活を共にしているピノコだけである。生殖器官を侵され切除される如月恵。双子の姉の畸型嚢腫のなかからブラック・ジャックによって救い出され、組み立て直されて、幼女体型のまま成人したピノコ。ピノコはブラック・ジャックの冒険譚のあいだじっと家で待ち続ける、自称「妻」である。生殖の可能性を奪われた二人の女性だけを、原作から引用した意図はなんだろう。演出家にとって、宝塚歌劇的な女性性の一側面でもあったろうか。

 手塚記念館オープンに合わせた初演の企画では、当初『リボンの騎士』が構想に上がっていたともいう。「『ブラック・ジャック』を取り上げたところに、宝塚の変わり身の早さというか、時代を見る目を感じましたね。だから八〇年すたれずに来た。いま『リボンの騎士』だったら、甘くて、宝塚につき過ぎてしまうでしょう」(新井満・田辺聖子対談「笑う文化と女性のおしゃれ」『潮』一九九四年八月号)とは、宝塚の見巧者で知られた田辺聖子の言葉である。が、一点、初演の如月恵の扱いだけは、ファンのあいだで物議を醸した。病に侵され生殖器官を切除された彼女が、「女でなくなる」と言明する。もっとも、それは手塚治虫の『ブラック・ジャック』からそのままの引用である。だが、それにしても──。SNSの時代のはるか前から宝塚ファンの口コミはかまびす)しい。違和感を表明した女性ファンのほとんどが、手塚治虫の原著の思想も含めて、生殖器官を失ったら「女ではなくなる」という言説に反発していたのである。

 二〇二二年の再演では、この設定は書き換えられていた。如月恵に病名はない。ただ愛の言葉を求めるが、なぜかブラック・ジャックはそれを告げることができない。彼は愛の誓いを立てる資格がないかのように、頑なである。関係が成り立たないのは、如月恵の病のせいではなくて、ブラック・ジャックの心の闇のなかにある。そしてブラック・ジャックのメスはどこまでもエロティックである。二十一世紀宝塚版『ブラック・ジャック』の象徴性は、手塚治虫のありうべき『ブラック・ジャック』読解の道標になりそうである。

(かわさき けんこ・演劇評論家)


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