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安彦良和 思想と「主義」[『思想』2025年8月号より]

『機動戦士ガンダム』の生みの親の一人にして、いまなお精力的に活動を続けられている、漫画家・安彦良和さん。
11月からは渋谷の松濤美術館に移った、ご自身の活動の半生を回顧する「描く人、安彦良和」展や、本年9月に小社より刊行された『原点 THE ORIGIN』(岩波現代文庫)では、その活動の「原点」が、弘前大学時代の学生運動にあると語られています。
そこで重要な役割を果たしたのが、カール・マルクス。昨今、新たな角度から取り上げられるマルクス思想に対して、ご自身の感じた「気の滅入り」を綴ります。

 

 遅まきながら斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、二〇二〇年)を読んだ。読んで気が滅入った。そのことから、すこしばかり「思想」と「主義」について書く。

 僕は人並みに若かった一時期「マルクス主義者」だった。正確には「マルクス主義者になろうとしていた一時期」が、若い頃にあった。しかしなりきれず、これも人並みに無思想な人間になった。と、こう書いただけで「思想」と「主義」が妙にからみ合う。そこにやっかいな問題がありそうだと判る。言うまでもないことだが、それは「マルクス主義」という特別な主義が関係するからだ。他の主義、例えば「構造主義」とか「菜食主義」だと別に面倒なことにはならない。

 マルクスの思想に興味を持ち、「主義者」までになろうとするとそこにはいくつか関門があった。先ずマルクスやエンゲルスの著作を一定程度読むことが求められた。出来れば『全集』に挑戦するくらいがよく、『レーニン全集』がそれに加わればもっと良かった。が、そうした全集がアマゾン通販で数千円で手に入るような今とはちがって当時は入手もままならず、加えて量的なハードルも高かったから多くの若者はそこで戦わずして降りた。そういう手合い向けには「資本論学習会」というのがあって、学習レベルの進んだ者をチューターにして読み合わせのようなものをやったものだが、怠け者だった僕は回を数えるまでもなくそこへも通わなくなった。

 そんな程度だから「主義者見習い」といってもタカが知れている。

 そういう『資本論』である。そういうものを気鋭の若い研究者が堂々と真向う世間に再提示したのだから世の中は驚いた。特に、若い頃にマルクス研究にあけくれ、その為に現在いまは学会の隅で悶々としているようなマル経学者や歴史家、哲学者達は「救世主が顕れた」と思った(のではないか)。

 これはいささかうがった僕の見方である。ひねくれた考えである。そういう考えだから僕は『人新世の「資本論」』を手にとらなかった。が、あるちょっとしたきっかけで「読まなければ……」と思い、僕は電車で最寄りのやや大きい本屋へ行き、それを入手して読んだ。そうして「気が滅入った」のだ。

 当然のことだが、モノを知らない僕は若い優秀な学者斎藤氏に反論なぞしない。新たなマルクス復権プロジェクト『MEGA』の存在を含め、知らなかったことの数々を教えられて大いに勉強になった。「読んでよかった」と思い、僕の息子以上に若い氏のような優秀なマルクス研究者が日本にいることを誇らしく思った。しかし、気分は重くなった。どうしてか。そのことを書く。

 

 有史以来、「マルクス主義」ほど多くの人の不幸、とりわけ「死」に責任を持つべき思想はない。敢えて探せば暗黒中世のカトリシズムの異端審問がそれに比するのかもしれないが、それは余りにも遠いもので、今の我々は資料からの想像でその苛烈さを想うしかない。しかし「マルクス主義」の桎梏は違う。

 一九九一年のソ連崩壊で、この桎梏はひとまず取り除かれた。しかしその後遺症は重く、様々に形を変えて在り、現在も多くの不幸の一因となっている。

 例えば世界各地での民族解放闘争がそれだ。つい最近、クルド人武装闘争組織PKKの創設者オジャラン氏が獄中から「武闘を放棄せよ」との声明を出した。その中で言う。

 「PKKは、二〇世紀という歴史上最も暴力が激しい時代に生まれた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。この時代は、二度の世界大戦、現実社会主義、そして世界的な冷戦の環境の中で形成された。」(傍点筆者)

 この文章の続きで彼が言うように、トルコ国内でクルド人のアイデンティティが(一定程度にせよ)解消されているのかどうか僕は知らない。しかしオジャラン氏が「「暴力の時代」だったからこそ武装闘争路線をらなければならなかった」としている点は重い。

 もともと、虐げられた民族の気持と労働者の意識は別のものだ。そういう民族の解放と社会主義革命の成就も関係がない。事実、社会主義国だったソ連や、現在も社会主義国の中国で民族を抑圧する事態は(より過酷な状態で)起きている。「虐げられた者同志の連帯」なぞ、過去も現在も空論でしかない。それでもPKKやPFLPや「サンディニスタ解放戦線」や「センデロ・ルミノソ」や、わけても「南ヴェトナム民族解放戦線」や「クメール・ルージュ」が社会主義陣営に連帯を求めたのは、そうすることによって「世界の半分」が味方についてくれるという望みがあったからだ。その「半分」が金科玉条としていたのが「マルクス主義」だった。

 思えば、じつにすさまじい力と魅力が「マルクス主義」にはあったということだ。しかしその「マルクス主義」は斎藤氏や、彼の同士である『MEGA』研究者たちが再評価の対象としている「晩期マルクス」の「主義」ではない。『共産党宣言』のマルクスであり、「進歩の果てにこそ革命がある」という教えであり、来たるべき革命のために対立構造を出来るかぎりえぐり出し、矛盾を顕在化させ、仲間とのみ手をとり合い、敵を容赦なく撃てと檄をとばすマルクスだったのだ。

 そういうマルクスに、我々「全共闘世代」は一種の「つき合いにくさ」を覚えていた。特に、スターリニズムの影をどうしてもぬぐいきれないレーニンには(頑固な党派活動家達を除いては)ある種辟易していた。『レーニンから疑え』(三浦つとむ、芳賀書店、一九六四年)というのはなにも社青同解放派のスローガンだっただけでも三浦つとむの思想だっただけでもなく、汎く、なんとなく共有されていた「気分」だった。

 そういう気分が向かわせたのは「初期マルクス」だった。『資本論』の学習会から脱けた者や、経済的理由以上に、むしろ生理的に「指定文献」をスルーした連中は『経済学・哲学手稿』や『ドイツ・イデオロギー』を読んだ。だからいま、斎藤氏のような聡明な人が「晩期マルクス」にこそマルクス主義の核心があると説く様を見るのはいささかまぶしい。「それはないよ」という気がしてくる。だから「気が滅入る」のかもしれない。

 

 『ヴェラ・ザスーリッチへの手紙』への言及が『人新世の「資本論」』では後半のハイライトである。ロシアに特別な農村共同体(ミール)に晩年のマルクスは社会主義的未来の萌芽となりうるものを見、かつてナロードニキの闘士であり、老いてはメンシェヴィキの一因となるザスーリッチと意味深い親書を交わし合っていたというのだ。

 この「手紙」を読んだ記憶が僕には曖昧だ。が、ザスーリッチの名は不滅のものとしてある。

 左翼思想に接近する時、往々導きの糸となったのはロシア文学だ。それはマルキシズム以前のアナーキズムをはらんでいて、ザスーリッチ達はナロードニキと呼ばれた。

 地方の大学で、大学新聞の不如意に業を煮やして僕は仲間とミニコミ紙を立ちあげたが、『こんみゅん』という紙名の「本紙」の他に数号出した「姉妹紙」は『ヴ・ナロード』といった。冷徹なボルシェヴィズムとは馴じまないと思えるプチブル的心情左派のアンティークなたたずまいをしのんでの、当時ありきたりの名付けだった。

 ザスーリッチはメンシェヴィキに属した。そして内戦の渦中、赤軍の勝利が明確になった一九一九年にペトログラードで死んでいる。彼女の死の詳細は知らない。しかし、政敵メンシェヴィキへのレーニンの容赦ない処置を思えば、その死が平穏であったわけはない。

 

 メンシェヴィキを中核とする社会革命党(エスエル)の末路は悲惨なものだった。数の上では革命派内で多数を占めていたものの、「鉄の規律」を誇るボルシェヴィキに分断され、各個撃破され、スターリンの粛清によって完全に根絶やしにされた。地下のマルクスが「ザスーリッチの仲間達」を襲ったそういう運命を知ったらなんと言うだろうか。

 

 僕は『乾と巽』という漫画を去年脱稿した。一一巻という、僕としては『機動戦士ガンダム』というアニメシリーズを絵解きした作品に次いで長いものだ。テーマは「シベリア出兵」ということになっているが、後半はむしろ「ロシア内戦」が主になっている。

 いぬいという帝国陸軍の兵士とたつみという新聞記者がダブル主人公で、それぞれの立場から「革命戦争」にかかわるのだが、主人公が赤軍ではなく・・・・白軍の側で戦うというのが(自分で言うのもナンだが)新しい。彼は結局白軍の殿軍しんがりである「カッペリ兵団」の将校になり、国内戦「最後の戦い」として革命史でも名高い『ボロチャエフカの戦い』で戦死するのだが、その前には白軍側のパトロンでもあった富豪の令嬢と結婚している。富豪の前身はナロードニキで、その血筋を引いた令嬢は前線で様々な苦難に遭い、悲惨な現実に心を痛める……。

 所詮は漫画の筋だから他愛もないものだが、内戦の勝者が国際政治という戦場で敗北し、旧帝国、即ち敗者であった白軍の旗が国旗に帰り咲いている今日から見ると、日本人である自分でも複雑な想いを禁じえない。

 

 マルクスの思想は「思想」である。初期の哲学批判や宗教批判であれ、経済学批判であれ晩期の「思索」であれ、優れた一頭脳の営みであって人類史的な達成のひとつといっていいほどのものだろう。

 しかし、それが「マルクス主義」という政治的主張となり、更に教条ドグマ化して人を狂わせるほどになる時、それはもはや人の頭脳が考え出した一成果とはいえない化物ばけものになる。

 オジャラン氏の云う「二〇世紀という暴力の時代」は、マルクスの分析した資本の暴力的対決と、もうひとつ、彼の思想が導いた世界の二極対決という非妥協的な認識が生み出したものなのだ。「主義」と化した思想は恐ろしいと言いきっていい。

 

 『冷戦』は、多くの人が絶望的に予測していた「核戦争をともなう熱戦ホットウォー」とはならず、一方の雄ソ連が屈服して終結した。しかし「戦争」がもたらした人的損害=死者の数では先の大戦にもたぶん劣らない。

 先日「戦後五〇周年」を祝ったベトナムは対米戦争の死者を五〇〇万人としている。朝鮮戦争の死者も同程度と見込まれ、カンボジアでは死者「以外」に二〇〇万人が殺されている。人民中国を成立させた国共内戦の死者数も明らかではないが、初期に主戦場となった旧満州では「首都」だった長春の包囲戦だけでも三〇万人の餓死者が出たという。アフリカや中南米、南アジアや中東で繰り返された様々な形での代理戦争の死者は、おそらく驚愕すべき数字になるだろう。「冷戦」は決して冷たく・・・はなかったのだ。

 これほどの悲劇を生んだ背景にはマルクス主義の描いた未来図とそれに対する恐怖心があった。生産力と生産関係がいずれ必然的に齟齬をきたすという「科学的な」未来予測と、その動力として階級対立を置くという巨大な歴史哲学がマルクスによって確立されたとされ、その唯物的・進歩的な発展は「急速に」であれ「ゆるやかに」であれ、人為では停められない法則性のもとに進行するのだとされた。それはまさに神のいない神の行進だった。人道主義も改良主義も、出る幕はないとされたのである。

 これに対して反マルクス主義の側は修正資本主義で応じた。ニューディール政策や社会保障で対立構造をゆるめ、それでも足りないと見れば強権を発動して弾圧に打って出た。事態に最終的に決着をつけたのは社会主義の側の自壊だったが、それによってマルクス主義は「科学」の旗を降ろしたわけではない。冷戦の「終着」がイデオロギー論争を経ることなく終ったという意外な結末が、マルクス主義を「主義」として延命させようというもくろみを生きさせているとしたら、それは余りにも巨大だったマルクス主義の「主義」としての怖さに幾分気付いていない営為のように思える。

 

 『資本論』第一巻以降のマルクス、ことにザスーリッチと手紙をやりとりし、ロシアの農村共同体を含めた様々な「コモン」の形を「次の歴史段階」への移行の可能性として考察していたという晩期マルクスがもしいたとしたら、それは革命的「主義者」としてのマルクスではなく・・、深い思索の人、「思想家」としてのマルクスだったのではないか。

 そういうマルクスになら、僕もしみじみと愛と共感を覚える。

(やすひこ よしかず・漫画家)


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