思想の言葉:近藤和彦【『思想』2023年7月号 小特集|E・H・カーと『歴史とは何か』】
【小特集】E・H・カーと『歴史とは何か』
日本におけるカー受容の特徴について
加藤陽子
出会いと再会
──E・H・カー『歴史とは何か』のグローバリティとローカリティ
小山 哲
清水幾太郎が訳す,『歴史とは何か』をめぐる二,三のこと
成田龍一
中国におけるカー『歴史とは何か』
吉澤誠一郎
近藤和彦のカー新訳をロシア史研究者が読む
池田嘉郎
国際関係論から歴史学へ
──変化の探究者としてのE・H・カー
三牧聖子
危機の時代と変化の歴史学
小田中直樹
「偶然」と「進歩」から見るカーの歴史理論
勝田俊輔
カー『歴史とは何か』と〈言語論的転回〉以後の歴史学
──近藤和彦の新訳をめぐって
上村忠男
アクトン,カー,シートン=ワトソン
──帝国・国民国家・民族自決の理解をめぐって
中澤達哉
Self-as-Anything
──道元における自己・世界・他者(中)
出口康夫
いま『歴史とは何か』を読み直す
E・H・カー『歴史とは何か新版』(岩波書店、二〇二二)の翻訳に取り組みながら、ふとよみがえる場面があった。一九七〇年代の終わりだったか、ある研究会合の休憩時に年長の先生方が集って、清水幾太郎がいかに博学で英語のセンスに優れているか、清水訳『歴史とは何か』(岩波新書、一九六二)がいかに名訳か、といった話に興じておられた。文脈はよくわからないまま、そこに居合わせたのである。清水幾太郎(一九〇七―八八)はわたしの四〇歳年長で、面識はないが、昭和の初めの東大社会学研究室の名助手、教授たちより偉かったとかいう「伝説」も語られていた。大塚久雄と同い年、丸山眞男の七歳年長である。懇談中の先生方にとって端倪すべからざる大学者であったろう。わたしも清水訳『歴史とは何か』を読んでいたし、清水が英語だけでなくドイツ語、フランス語、イタリア語などにも通じていて、『論文の書き方』(岩波新書、一九五九)も著した文章の達人という評判も承知していた。
しかし、その後しばしば清水訳『歴史とは何か』とカーの原著(初版、一九六一)を手にするたびに、その場面を想い起こして、いささか困惑するにいたる。センスの良い名訳というためには、個々のセンテンスは明快で、パラグラフの緩急はまちがいなく伝わらなければならないだろう。
たとえば第一講の真ん中あたり、一九世紀の実証史学のかかえた根本的な課題、アクトンの苦悩が論じられる箇所(清水訳では一五―一六頁)はどうか。L・ストレイチを引用して笑わせた直後、カーは不都合な事実を述べる。「一九世紀の異端説[heresy]……に屈服した人は、歴史は損な仕事だと棄ててしまい、……古物蒐集へ転向……そうでなければ、精神病院へ入る……」、そして「益ゝ小さなことを益ゝ多く知るインチキ歴史家の、巨大な、日増しに巨大になる一大集塊を生み出す」といった文が連なる。表現は強いが、悪口を連ねているだけのようにも聞こえる。「一九世紀の異端説」がどうであれ、「インチキ歴史家」がどうであれ、中核の歴史家がしっかりしていれば問題ないではないか。読者の側でそうした残留感が消えないのである。
ところが、ここでカーのいうheresyとは正統にたいする異端ではない。語の元来の意味で、複数の説のうちの一つ、一九世紀を圧倒した「間違った説/邪教」、彼が「事実の/史料の物神崇拝」と呼ぶものなのである。この論理の運びを把握しておかないと、読者はただ言葉の戯れに付き合わされているような気になってしまう。また、ここで語られているのは清水の「インチキ歴史家」ではなく、アカデミックな教育を受けた「歴史家候補生たち」(would-be historians)のことである。彼らにより「ドイツでもイギリスでも合衆国でも[日本でも!]……微に入り細をうがつ専門研究が……巨大な山のように積みあげられ、事実の大海に跡形もなく沈んでいます」と、現実的な情況が語られている(一七―二〇頁)(1)。アクトンも、シュトレーゼマン文書も、大学院教育も、こうしたアクチュアリティのなかで議論されている。
本書は読み進むにつれ難解さが増し、多くの説が引用され、大事なことが論じられているらしいが、結局は何がどう明らかにされたのかぼんやり、といった読後感も少なくない。たとえば最後の講の最後の小見出し「それでも──それは動く」のセクション(清水訳では二二九―二三四頁)について、その筋道を説明できる読者は何人いるだろう。そもそも本書のコーダは、岩波新書の二二八頁から(新版の二五六頁から)始まっていた。ここでカーは本書の最初に立ち返り、一八九〇年代と一九五〇年代の違いを再論する。六週におよんだ入魂の連続講演の最後は、多くの人名と引用に粉飾された雑然たる数頁であってはならない。本書は十分に準備され、練りあげられた作品である。ましてや最後のセンテンスは、それ(it)が何を指しているのか曖昧なまま「それでも──それは動く」などと締めてはならない。「現在と過去のあいだの終わりのない対話」として始まった『歴史とは何か』は、現代世界(の変貌)論としてシャープに締められている。そして、「第二版への序文」へと連続する。
楽屋おちとアクチュアリティ
こうしたことを述べると、むしろ、カーは一九六一年のオクスブリッジの楽屋おちに興じるあまり、外の世界/後の時代の読者のことは考慮していなかったのではないか、といった対質がありそうだ。二一世紀の読者は、第六講の最後の数頁でくりかえされる人名のうち、かろうじてポパーは聞き知っていても、よほどの専門家でなければ、ネイミアもオークショットもトレヴァ=ローパもモリスンも知らないかもしれない。特定の年にローカルな場でローカルな聴衆を相手に語られた、歴史と歴史家についての講演。だが、当時のオクスブリッジはあたかも(英語圏の)知的世界の中枢のように見なされていたから、特権性をおびたローカルである。それが証拠に、この連続講演は、すこし編集されてBBCラジオで放送され、さらに『ザ・リスナ』誌に連載された。わたしたちが手にしているのは、講演後、数ヶ月の推敲・補筆をへてマクミラン社から公刊された版である(新版、三五四―三五八頁)。ここに表出される特権的知識人の小宇宙に首を突っこんで、いかにもスノッブのインタヴューを連ねたのが、V・メータの『ハエとハエとり壺』(一九六三)である。これはこれで、『歴史とは何か』が刊行された直後の、イギリスの哲学と歴史学をめぐるゴシップ証言集として意味はある。
とはいえ、そもそも普遍や真理を語るさいに、はたしてローカルで時代に制約された語法を用いてはならないのだろうか。「苦難をつうじての歓喜」を謳いあげるベートーヴェンは、ハイドン、モーツァルトが確立し、みずから試行を重ねてきた語法を十二分に活用し、シラーを知るウィーンの聴衆に向けて表現した。しかし、ローカルで時代的な特性は、作品の独創性と普遍性をいささかも損ねてはいない。また、ローカルな来歴をすべて知らなければアクチュアリティも感動も伝わらないというわけではない。
カーにとって一番の問題は、「一九世紀の邪教」であり、アクトンの挫折であった。「まちがっていたのは、かたい事実を歴史の基礎として、たゆむことなく終わりなく蓄積するという信念、事実はみずから語るし、事実が多すぎることはないという信念でした」(一九頁)。一九世紀から各国で文書館が整備され、史料の編纂刊行が進み、二〇世紀にはシュトレーゼマン文書のようにすべて写真版で読めるものも増えた。二一世紀にはさらにディジタル化が進行中である。これですべてが解決すると期待したのがアクトン的な史料崇拝であった。「言うまでもなく、事実と史料は歴史家にとっていのちです。しかし、これらを物神崇拝してはならない。……「歴史とは何か」というこの難問にたいする出来あいの答えは、事実と史料のなかには用意されていません」(二四―二五頁)。
こうして史料フェティシズムを強く批判するカーは、第二講で歴史家とその時代を論じるさいにはT・モムゼンの主著『ローマの歴史』を賞賛するあまり、彼の『ラテン碑文集成』および『ローマ国法』といった史料編纂については一段下と見なす勢いである。このレトリックに賛同しない研究者は多いだろう。歴史と史料編纂とはたしかに異なる作業である。しかし、後者は従属的で低価値という評価は、どうか。
カーの議論を正確に受けとめるために、「歴史家とその事実」をめぐる遅塚忠躬の批判にも触れておこう。遅塚の『史学概論』(二〇一〇、一七二―一八四頁)によれば、カーの「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセス」というのは巧妙な「トリック」で、そもそも歴史家がその事実を選び制御するのだから、両者の関係は「相互作用」といえるようなものではない。主体である歴史家が従属的な事実を選び料理する、非対称の主従関係であり、カーはもろもろの詭弁を弄しているが、結局は主観論者/ポストモダニストだというのである。ここだけを読むと──清水訳への批判も含めて──遅塚の形式論理は説得的であるかに見える。だが、遅塚のような近代主義/方法的個人主義の立場をカーはとらない。むしろ第二講でくりかえされるのは、独立独歩の個人の立場の破綻である。歴史とは社会的・時代的に条件付けられた歴史家が、やはり社会的・時代的な事実とのあいだで試みる対話/相互関係なのである。等式の両辺ともに独立でも定数でもない関係が示され、次の第三講におけるサイエンス論議に向かう。遅塚はこうした論理の運びを見ないまま、(相対性理論以前の)近代主義の観点から、第一講におけるカーの非対称性なるものを言挙げしていた。
遅塚のカー批判のもう一つ、ステイリブリッジ大祭日における暴行事件のあつかいも関係する。第一講(一三―一四頁)を字面のまま読むと、遅塚のいうとおり、カーは学説が正しいかどうかは「よくできたお話をつくりあげた方が勝ちだ」(『史学概論』二〇一頁)と主張しているかに見える。だが、ここは「某博士」ならぬ同じ学寮の友人キトスン=クラークの近著のエピソードで聴衆の笑いを誘う場面である。「歴史的事実クラブ」も「動議の賛同者、推薦人」も戯れ言で、「博士の勇敢な救出劇は無に帰することになります」と聴衆を湧かせる。ちなみにキトスン=クラークは、トレヴェリアン記念講演の委員会でカーを候補者とすべく動いた一人で、また講演後の歴史学部でカリキュラム改革を発議し、改革派として動く。聴衆を爆笑させたあと、カーは真面目な顔で、「それ[ことの当否]は思うに……この事件を引用したときの議論、解釈が有効で意味あり、と他の歴史家たちが承認するかどうかにかかっています」と結ぶ。「議論、解釈」(thesis or interpretation)とはただの主張や意見ではなく、根拠(ここでは史料)をあげての論証、説明のことであろう。カーは再び四〇頁でこの点に戻り、「歴史家の責務/本分」を説く。律儀な遅塚なら、後の段落には苦笑しつつ賛同するだろう。
遅塚の近代主義的な、カーのいう「常識版の歴史観」(八頁)は、二宮宏之や安丸良夫のようにデリカシーのある歴史家に言及するときには慎重に抑制される(『史学概論』一二〇―一二四、一八八頁など)。遅塚がもし『歴史とは何か』第三講における現代科学論およびその後の「E・H・カー文書より」を読み受けとめていたなら、彼のカー批判も、二宮や安丸にたいするのと同じ程度に慎重なものとなっていたのではないか。
文書主義修正派と言語論的転回
哲学談義は別にしても、素朴実証主義にたいするカーの批判は、歴史における偶然性/個性を重視する立場の批判へと連なる。第二講では当時よく読まれた文章を引用しつつ、歴史における偶然性や個性について軽くあしらって済ませるごとくである(七〇頁)。たとえば「一七世紀のイギリス革命は、ステュアート朝のジェイムズ一世とチャールズ一世がバカだったから起きた「偶発的」事象である」といったラウスの言は、論駁するまでもないナイーヴな説、善玉/悪玉に歴史の説明を帰する「偉人史観」と片付けられる。論拠は、「歴史とは、かなりの程度まで数の問題だということ」(七六頁)。なにより世の中には、スミスやヘーゲル、トルストイが「見えざる手」「理性の狡知」といった言葉で表現したような、人知を超えたしくみがあるという。だが、これだけでは不十分と考えられたからこそ、第四講「歴史における因果連関」を独立させて、歴史家の問いの立てかた、解答のしかたを再吟味し、ポパーとバーリンを標的に、歴史的必然性/決定論、自由意志論をめぐる議論を華麗に展開するのであろう。
しかしながら、『歴史とは何か』の刊行後には欧米でも日本でも大きな知的展開があり、これによりカーのあしらい/議論は力強さを失うことになった。この展開には二つの局面があり、一つは一九六〇年代以降の大学、大学生および若手教員の急増、それと揆を一にした社会史、文化史の興隆である。共産党の正統性の喪失も連動していたかもしれない。もう一つは、やはり二〇世紀後半に進行した文書館と歴史学専門誌の急増、そして電子複写の普及による、歴史学および文書研究の全体的な底上げである。
このような動向があってこそ、一九七〇年代後半から八〇年代のアカデミズムで、「還元論」や概念的な分析による「構造史」を批判する修正派(revisionists)が勢いをもつようになった。イギリス政治史で史料研究をしていた者はほとんど、カーの『歴史とは何か』の問題意識に反対したか、無視した。政治的に右か左かということより、文字史料、その写真版へのアクセスが容易になり、ほとんど無限の小宇宙が広がり、あたかも一〇〇年前のアクトンとともに「究極の歴史」を夢見てしまいそうな情況である。ここでカーは、かつてのクローチェかコリンウッドのような役まわりかもしれない。だからといって、いわゆる「イングランド史の国史根性」(二五二頁)に全員が慢心していたわけではなく、ヨーロッパや大西洋圏に視野を広げた研究は、むしろ積極的に開拓された(ハスラムの伝記からもうかがえるように、カーはクェンティン・スキナやG・ステドマン=ジョーンズなどと文通していた)。
二〇世紀の終わりに繁昌した現代歴史学の少なくとも半分は、一九世紀の文書主義に倍する文書フェティシズムに淫した修正派──その旗標は「脱イデオロギー」──による。カーは第一講で「一九世紀の邪教」について、「この一〇〇年間、現代の歴史家にこれほどの荒廃をもたらしたのは、この邪教です」(一八頁)と述べて、今日の文書フェティシズムを早々と批判していたごとくである。ランケ、アクトン以来の実証史学も、二〇世紀の第4四半期に勢いを得た修正派も、カーの観点からすると、同じく怪物スキュラの岩礁に向かって猪突猛進する「あぶない歴史理論」(四二、三五八―九頁)に他ならない。
かつての社会構成体の概念的分析や「大きな輪郭」──要するに「イデオロギー」とされたもの──に反撥して、繊細にナイーヴに「実態」の復権をとなえる動きは、欧米だけでなく日本の学界でも見られた。柴田三千雄・松浦高嶺編『近代イギリス史の再検討』(一九七二)も、遅塚忠躬・近藤和彦編『過ぎ去ろうとしない近代』(一九九三)もそうしたことの記録である。マルクス主義の/それに伴走した「イデオロギー」に対置して素朴な「実態」論が、あるいはルソー=山岳派とは異なるモンテスキュー=ジロンド派的な近代観が呈示された。こうした再検討派に一定の理解を示しながらも、柴田は率直に「……短期的ななかでは新分野の提唱、あるいは歴史意識の一般的転換の必要の指摘がされながら、それに伴うべき問題の設定の仕方や研究方法が立ちおくれ、長期的にみれば、ただ崩壊過程しかないのである。歴史学は今や、保守的な学問となっている」と不快感を表明していた(「一九七六年の回顧と展望・総説」『史学雑誌』第八六編第五号、一九七七)。後年の松浦はいま少し慎重に、修正派の代表コンラド・ラッセル(哲学者バートランド・ラッセルの子、ロンドン大学教授、貴族院議員)などの研究を点検したあと、こうしたためる。「あたかも過去の細部の解明それ自体が歴史学の自己目的であると信じているかの印象を否めない」「歴史の全体像を提示するマクロの視座[意志]が欠落している」(『イギリス近代史を彩る人びと』、二〇〇二)。普遍性とまでいわずとも、せめて職業としての歴史学の責務/本分を、松浦は問うたのであろう。
英語圏でも日本でもこうした事態が広まり、とりわけ政治史における文書フェティシズムは、没方法的とされても仕方ないくらいナイーヴであった。二〇世紀の終わりにこれを批判する言語論的転回、ポストモダニズムが勢いをもつにいたったのは無意味ではない。『思想』誌上では言語論的転回の小特集が続いた。再検討派/修正派ではない遅塚は、これに昂然と切り返していた。「素朴レアリスムの否定から出発したわが歴史学は、歴史のreality(ありのまま)の復元などは毛頭意図していない」「素朴レアリスムの否定から出発したわが戦後歴史学は、ゆめ、言語論的転回などを恐れてはならない」(『思想』第八四二号、一九九四)。
ここで遅塚の「わが歴史学」と「わが戦後歴史学」とは同じものかどうか、独特のトリックが隠れていたようにも思われる。だが、歴史的エヴィデンスとは紙や金石に書き刻まれた文書・記録ばかりではない。遅塚もいう統計的なデータや考古学的な物、そして地理や景観も含めて考えるべきである。そうした観点から見なおすと「言語論的転回」なるものが呈示した論点は鋭角的であったが、チマチマしていた。すでにシュトレーゼマン文書についてのカーの議論を承知しているわたしたちは、冷静に他の史料を探索し、異なる証言を引き合わせて意味を考えることができる。さらには、文化人類学者/民族学者が特定社会の人びとの発言や日常行動、象徴儀礼をどれだけ深く記述しようとしたか、わたしたちは承知しているし、学んできた。
過去・現在・未来
「過去への関心と未来への関心は互いに結びついている」(一八〇頁)という導入に続けて、カーは第五講で中世史家パウイックの「過去を見わたす建設的な見通し」という含蓄のある表現を引用する。ここで歴史とは「進歩の学問である」というアクトンの命題(一九四、二二三頁)が生きてくるのだが、これは塩川伸明も『〈20世紀史〉を考える』(二〇〇四)で率直に述べるように、悩ましい論点である。カーの「進歩」、過去・現在・未来観は動態的で、歴史の目的/ゴールは最初は姿が見えない。調査探究が進むにつれて、しだい(progressive)に姿が現れるのである。第一講で呈示された「過去と現在のあいだの対話」は、第五講では「過去の事象とようやく姿を現しつつある未来の目的のあいだの対話」(二〇九頁)と言い直される。研究の進行によってはじめて変貌する現代世界と対話できるのだ、とカーは自分にも言い聞かせていたのだろうか。
カーは第一講の始めに、「[歴史とは何かという]わたしのテーマは、よく吟味してみたら取るに足りぬ詰まらん問題だったという懸念は、ございません」と言い切って聴衆の笑いを誘い、「むしろ、こんなにも大きく、こんなにも重要な問題の口火を切ってしまって、僭越かなという心配はいたしております」(六頁)と自信のほどを見せていた。歴史とは何か。学問(サイエンス)とは何か。そうした知的営みに取り組む職業人/歴史家の稼業とは何か。
多方面で活躍し、知己にも恵まれ、前半は華麗ともいえるカーの人生であったが、六九歳で『歴史とは何か』を著したころには体調も家族関係も順調ではなかった。ライフワークとして取り組み中の『ソヴィエト=ロシアの歴史』では、彼の信じる二〇世紀国家の普遍的な問題を呈示していた。その大著を中断してまで準備した『歴史とは何か』は、彼の生涯と主著の正当性を明らかにするための弁論でもあったが、同時に、二〇世紀を生きた自由主義者──社会主義的かもしれないが「一皮むけば七五%はリベラル」の知識人──の告白でもあった。「第二版への序文」の最後にはこう刻まれている。「楽天的とまでは行かなくとも、せいぜい正気でバランスのとれた未来への展望を打ち出したい」(XV頁)。
(1) 以下、『歴史とは何か新版』から引用する場合は、頁だけを示す。ただし他と錯綜しそうな場合は、区別し明記する。引用文中の[ ]は、すべてわたしによる補い。