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思想の言葉:もう一人のベネディクト・アンダーソンを捜して 加藤 剛【『思想』2023年9月号】

◇目次◇

思想の言葉 加藤 剛

無知学アグノトロジー)
──無知の文化的生産(とその研究)を表す新しい概念
ロバート・N・プロクター/鶴田想人 訳

朝鮮儒教研究の問題点と再照明
井上厚史/趙景達 解題

Self-as-Anything
──道元における自己・世界・他者(下)
出口康夫

フィヒテの意識事実論(二)
──1813年の現象論
山口祐弘

頹落とはなにか,それはどのように記述されるべきなのか
──『存在と時間』の「影」描法(下)
須藤訓任

翻訳のスタイル
近藤和彦

 

◇思想の言葉◇
 
もう一人のベネディクト・アンダーソンを捜して
加藤 剛
 

 彼にとって『想像の共同体』という作品はどのような存在だったのか──この数年間絶版状態にあった『ヤシガラ椀の外へ』(NTT出版、二〇〇九)を、『越境を生きる ベネディクト・アンダーソン回想録(以下『回想録』)と改題し、岩波現代文庫の一冊として刊行するべく準備を進める中で、ふとそんなことを思った。

 もちろんアンダーソンにとって、『想像の共同体』が知的にも心情的にも大切な著作であったことは間違いない。それは一九八三年の初版刊行後、九一年に改定増補版を、二〇〇六年にはこれに新たな稿を足して出版していることからも窺える。そもそも「越境を生きた」アンダーソンにとって、「想像の共同体コミュニティ)」としてのネーションは、学問的対象以上の個人的な意味を持っていたといえるだろう。

 著書が評判となり多くの言語に翻訳されるに連れて、彼は世界各地の大学や研究組織、新聞社などに招かれて講演するようになった。旅行とくに新しい土地を旅するのが好きだったことから、講演依頼を受けたほとんどの国・地域を訪れたに違いない。依頼された講演の内容はナショナリズムが中心テーマだったと想像される。

 アンダーソン(一九三六―二〇一五)の急逝を受け、いろいろな国の新聞、雑誌、学術誌が訃報を伝える追悼文を掲載した。それらはまず例外なく、アンダーソンを『想像の共同体』の著者として紹介している。多くの追悼文のうち、スペインの代表的日刊紙『エル・ムンド(世界)』に載った文章の冒頭部分を引用する──「ベネディクト・アンダーソン、東南アジアの専門家であり、この五〇年間にナショナリズムについて書かれたもののうちおそらく最も影響力のある書、『想像の共同体』(一九八三)の著者は、インドネシアのジャワ島で先週金曜日の夜に七九歳で死去した。歴史学者、人類学者、社会学者、政治学者、言葉の習得に秀でた言語学者──アンダーソンはこれら全てを同時に体現した学者であり、それもそれぞれの分野に多大な影響を与えた」1

 追悼文全体はこの文章の一〇倍以上で、内容には幾つかの事実誤認がある。にもかかわらずこれを引用したのは、アンダーソンが『想像の共同体』や特定のディシプリンに回収できない幅の広さと奥行きの深さを併せ持つ知識人だったと伝えているからだ。そう、人間としてのアンダーソンと彼の知的足跡を何らかのレッテルで代表させるのは難しい。本エッセイでは、「『想像の共同体』の著者」に収まらない「もう一人のアンダーソン」を、彼の著作目録を手掛かりに捜し求めることにしたい。

 著作目録は年二回発行の雑誌Indonesiaの第一〇二号に掲載された2。この雑誌の創刊にはアンダーソンが深く関わっており、このこと自体に、著書や学術論文などでは知ることのできない彼の姿を読み取ることができる。少し詳しくみてみよう3。アンダーソンが博士論文調査のためのインドネシア滞在を終えてアメリカに戻ったのは、一九六四年八月のことだった。帰学後、彼が強く感じたのは、アメリカで一般的なディシプリン別の学会が刊行するいわば「)めた」学会誌とは異なるもの、むしろインドネシアの植民地時代にみられたDjawaのような雑誌の必要性だった。これはジャワ人とオランダ人がジャワ文化再興のために立ち上げたジャワ研究所(Java-Instituut, 1919-48)が発行した雑誌である。寄稿者には多様な職業人や民族が含まれ、取り上げるテーマも様々で、それも純学術誌ではない「ごちゃ混ぜの雑誌」(halfbreed journal)だった。アンダーソンがオランダ語のliefhebbers(愛好家)と表現するDjawaの寄稿者や読者を結び付けていたのは、政治的立ち位置により「オランダ領東インド」や「インドネシア」と用いた名称は異なったとしても、特定の土地に対する愛着と思い入れだった。新しい雑誌がDjawaと違うのは、オリエンタリズムとは異なる次元の、新生国家インドネシアに対する思い入れだった。民族やディシプリン、個別の関心を超えて、「インドネシア愛好家」が集う共同体コミュニティ)の創出、といってよいかもしれない。

 コーネル大学に戻り大学院の先輩二人と相談し、恩師ジョージ・ケーヒンの支援を受け、Indonesia第一号が刊行されたのは六六年四月である。創刊の前年に、じつは「九月三〇日事件」が起きている。公式見解でインドネシア共産党が関与したクーデター未遂と喧伝されたこの「事件」を契機として、その後半年ほどの間にスカルノの失脚、スハルトへの権力移譲、共産党員や党シンパとみなされた人々の大量虐殺が続いた。公式見解に対して、国軍内の内部闘争の可能性を示唆したのが、アンダーソンを中心に六六年一月に纏められ、のちに「コーネル・ペーパー」として知られる「事件」の予備的分析である。その後、スハルト新政権の圧力にもかかわらず「予備的分析」を撤回しなかったことから、七二年に始まりスハルト失脚後の九八年まで、アンダーソンはインドネシアから追放されることになる。コーネル大学「関係者」の中で追放期間は最も長かった。

 Indonesiaが誕生したのは、「九月三〇日事件」の解釈をめぐるコーネル大学研究者とインドネシア政府との確執が進行するさなかのことだった。当然雑誌の存続は危ぶまれた。これが可能になったのはアンダーソンの尽力が大きい。大学院生や教員の助けを借りながら編集や論文投稿の依頼をこなし、自身も精力的に論文などを執筆して雑誌を支えた。一九六七年にコーネル「政府学部」の助教授に採用されたことは、彼がCMIP(Cornell Modern Indonesia Project)出版のIndonesiaの存続に関わる上で決定的に重要だった。だが助教授就任後には担当講義の準備の必要があり、さらに終身在職権テニュア)を得るために博士論文を書籍化し、多くの論文を学会誌に投稿・掲載される必要があったはずで、いくら自分の発案で創刊した雑誌のためとはいえ途方もない献身的な行為だった。雑誌存続のために自分の信ずるところを曲げるようなことがなかった点も特筆される。

 献身的行為を可能にしたのは、研究者が滅多に使うことのない言葉、愛情だろう。政治的信条とともに愛情という言葉ほど、アンダーソンを理解する上で重要なものはない。そもそもIndonesiaの創刊も、彼のインドネシアに対する深い愛情が根底にあった。「愛情(love, attachment)」「恋に落ちる(fall in love)」という表現は『回想録』にもよく出てくる。「ラテン語に恋してしまった」「ジャワに恋して」「二つの国〔タイとフィリピン〕それぞれに魅了されて、私はこれらの国を愛するようにもなった。しかし、インドネシアが、私にとっての真の初恋だった」「私は長いこと、ヴァルター・ベンヤミンの……「歴史哲学テーゼ」に恋していた」など。

 以下では部分的とはいえ著作目録を足早にみることにする。目録はアンダーソンの著作を次のように分類している。まず大きく「英語による出版物」という括りがあり、その下にモノグラフ(一三[一四])、編書・共編書・共著(五[五])、編書への寄稿(五五[五一])、論文・エッセイ・講演・新聞特集(一〇六[一一四])、書評(五二[五二])、英語への翻訳(二五[二三])がある。続いては、英語以外の言語による出版物(三六[三五])、インタビュー(一四[一二])、その他(一[一])である4。目録は、アンダーソン弱冠二五歳、一九六一年に記した日本軍政期インドネシアの政治に関するCMIPモノグラフ(元はゼミレポートのようだが二つの学術誌に書評が掲載された!)から始まり、没後の二〇一六年出版の単著までを含む計三〇七点を網羅する。いかにもアンダーソンらしいのは、研究業績としてあまり評価されない書評や英語への翻訳、英語以外の言語による出版物の多いことだ。五二点の書評対象は、二八がインドネシア関連の本、一四が東南アジア関連、五がナショナリズム関連である。英語への翻訳は、ほぼ全てインドネシア語からの翻訳で、大部分がIndonesiaに掲載された。英語以外の言語による出版物も、圧倒的多数はインドネシア語である5

 研究者の業績を評価する際によく参照されるモノグラフと論文についてみてみよう。一三のモノグラフのうちひとつは非公刊の博士論文である。残りのうち三冊は研究キャリア初期にCMIPから出した簡易製本の刊行物、もう四冊は論文集である。『言葉と権力──インドネシアの政治文化探求』(原著一九九〇)、『比較の亡霊──ナショナリズム・東南アジア・世界』(原著一九九八)、そして二〇〇八年にはフィリピンについての論文集を、二〇一四年にはタイについての論文集を刊行した6。オリジナルの英語単著は五冊で、博士論文を元にした『革命期のジャワ──占領と抵抗、一九四四―一九四六』(一九七二)、『想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』(原著初版一九八三)、『三つの旗のもとに──アナーキズムと反植民地主義的想像力』(原著初版二〇〇五)、『村落部の地獄の運命──仏教国タイにおける禁欲と欲望』(二〇一二)、A Life Beyond Boundaries(二〇一六、『回想録』の英語版)である。論文集が多いこと、それもアンダーソンが愛した三つの国とナショナリズムに関する論文集がそれぞれ編まれていること、タイとフィリピンについての論文集と単著の三冊、計五冊が、二〇〇一年、六五歳で教授職を完全に退き、時間の余裕を得たのちに出版されているのが目を引く。

 次いで「論文・エッセイ・講演・新聞特集」である。論文とエッセイを区別するのは難しい。ここでは著作のタイトル、掲載媒体、ページ数を参考に「論文」と思しきものを取り出した。結果は一〇六点中、五七である。特徴的なのは掲載媒体で、Indonesiaが一六点、New Left Review(NLR)が一七点、論文の五八パーセントがこれらに集中している。学会誌はないに等しく、アメリカのアジア研究学会機関誌とアメリカ歴史学会機関誌に載った論文がひとつずつある。驚いたことに、政治学関係の学会誌はひとつもない。

 論文掲載媒体と似た傾向はモノグラフにもみられる。出版元は、大きくはコーネル大学関連の組織(大学出版会、CMIP、東南アジアプログラム)と、二冊の単著ならびに一冊の論文集を出したヴァーソ(Verso、ラテン語で「本の左ページ」の意)の二つに限定される。例外はフィリピン論文集を刊行したアテネオ・デ・マニラ出版会、タイ農村部の仏教寺院併設の地獄公園に関する単著を刊行したインドの出版社だけである。

 アンダーソンとコーネル関連組織との特別な繫がりは分かる。だが、なぜモノグラフはヴァーソであり論文はNLRなのか。急進的な出版社を標榜するヴァーソは、じつはNLRが立ち上げた出版社である。それも両方ともに、アンダーソンの実弟で西欧マルクス主義を代表する思想家、ペリー・アンダーソンがその運営・編集に深く関わっていた。B・アンダーソンは一九六三年に論文を、翌年に書評をNLRに掲載している。しかし彼がNLRの各号を表から裏まで目を通すようになったのは、弟が七四年に出版した二冊のヨーロッパ史の著作を読み、深く畏敬の念を覚えてからのことだという。その後、弟やNLR関係者との頻繁な交際が始まり、『想像の共同体』はこの交友関係の中から生まれた(『回想録』第四章「比較の枠組み」)。ヴァーソによる『想像の共同体』の出版は一九八三年、NLRに論文を繁く寄稿するようになるのは八六年からである。

 編書への寄稿や書評は、依頼を受けて取組むのが一般的である。それに比べてモノグラフや論文の出版先の選択は、執筆者の意思に基づくことが多い。通常研究者は自分の論文や本を、なるべく「業界」で高い位置づけにある学会誌や出版社から出すことを望む。数とは別に論文がどの学術誌に載ったかも重要だからだ。これはとくに、流動性が高く上昇志向が強いアメリカの「研究者市場」についていえる。ところがアンダーソンは、そうしたことにまったく無頓着なのだ。大切にしたのは、自分が創刊に関わったIndonesiaの発行元でありアメリカの地域研究の中心でもあるコーネル大学の出版組織、そして思想的に共感する仲間が集い、尊敬する実弟が関わっているNLRとヴァーソである。それ以外には、多くの著作、中でもインドネシア、そしてタイ、フィリピンに関する著作をこれらの国で発表している。その中には二〇〇一年の退職後に出版した幾つかの英語ないし地元の言葉で出版した本が含まれる。例えば、愛国者を自負した華人系インドネシア人の、多様な外来語が混在する「植民地期インドネシア語」による回想録(二〇一〇)を編纂し、大量の注(主に外来語の訳注)を付けての刊行や、フィリピン・ナショナリスト、イザベロ・デ・ロス・レイエスが一九世紀末にスペイン語で記したカトリック修道士を揶揄する「ホラーコメディ」を英訳し、タガログ語との対訳での出版(二〇一四)だ。これら最晩年に手掛けた著作は、国際的なオーディエンスに向けられてはいない。むしろ当該国の人々の間で長く忘れられていた人物や現在では読解困難な出版物を現代に蘇らせる営みである。

 アンダーソンの人となりその知的足跡を、『想像の共同体』やひとつのディシプリンに回収することは確かに難しい。では彼は一体どのような研究者だったのか……。何よりもインドネシアを愛し、タイ、フィリピンを愛した地域研究の学徒だったというのが、比較的に的を射た表現ではなかろうか。一九九八年、アメリカのアジア研究学会が彼に生涯学術功労賞を授与した。贈呈式の記念講演では、地域研究とディシプリンを分かつものは何かについて語った。それは感情的な結び付きエモーショナル・アタッチメント)、アジア研究者が自分の学ぶ場所や人々に対して抱く結び付きだと語っている。

 二〇一五年一二月一二日(土)から翌日にかけての深夜、公式には一二月一三日の早朝に、アンダーソンは東ジャワのバトゥで息を引き取った。睡眠時無呼吸症候群による急逝だった。睡眠中の穏やかな最期は、彼が愛した東ジャワの地であり、それも最も気に入っていたヒンドゥー寺院遺跡を、あたかも最後の挨拶をするかの如く訪れた夜のことだった。彼のことを深く愛し、彼と一緒に旅し、彼が死の床にあった最後まで細やかに見守った華人、バタック人、ジャワ人の三人のインドネシアの友人に囲まれての旅立ちだった。遺体はスラバヤで荼毘に付され、遺灰はジャワ海に散骨された。遠くシャム湾やマニラ湾にも流れ着いたことだろう。「越境を生きた」アンダーソンは、この世におけるとは違う形で今も東南アジアの越境を生きているのかもしれない。

 

(1)追悼文の英語訳はhttps://www.versobooks.com/en-gb/blogs/news/2480-el-mundo-obituary-benedict-andersonで閲覧可能。筆者はバンコクを拠点に活動するスペイン人ジャーナリストである。アンダーソンの死去は実際には土曜日の深夜だった。

(2)著作目録(bibliography)は、https://ecommons.cornell.edu/handle/1813/54775からアクセス可能。

(3)Indonesia創刊の背景は、五〇号と一〇〇号に掲載されたアンダーソンのエッセイにみられる。

(4)著作目録の分類振り分けには不正確なものがあり、判断がつく範囲で修正を加えた。修正後のカテゴリー別著作数は丸括弧内に記した。丸括弧内の角括弧の数字は目録通りの数字である。同一論文が異なる雑誌に掲載されたり編書に採録された事例がある。計算が煩雑になることを避け、これらも別々の著作として数えた。

(5)編書への寄稿論文の内訳は、五五点中、二七がインドネシア関連、一一が東南アジア関連、一二がナショナリズム関連である。

(6)『比較の亡霊』の原題はThe Spectre of Comparisonsである。共産党宣言の有名な出だしは、英語訳で“A spectre is haunting Europe ― the spectre of communism”であり、同じ“c”で始まる言葉を含む原題は、この文章を踏まえている可能性が高い。原題の趣旨に沿う適切な訳は、おそらく『比較という妖怪』である。

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