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思想の言葉:野家啓一【『思想』2023年10月号 小特集|トマス・クーン──『科学革命の構造』再読】

◇目次◇

【小特集】トマス・クーン──『科学革命の構造』再読

思想の言葉 野家啓一

〈インタビュー〉科学史・科学哲学にクーンがもたらしたもの
村上陽一郎/塚原東吾(聞き手)

巨大なものとしての科学
──1960年代科学論におけるポスト・ヒューマニズム
瀬戸口明久

範例と二人の哲学者
──推論する動物たちの生態史のために
岡澤康浩

ポスト・クーン主義と『科学革命の構造』
──現代的な読み直しのために
塚原東吾

 

マルシリオ・フィチーノの「魂の乗り物」理論における想像力と記憶
A.コリアス/彌永信美 訳

形象と表現
──リズムの精神分析(2)
十川幸司

ウェーバーとジンメル
──「ハイデルベルクの招聘問題」をめぐって
岡澤憲一郎+山本淑雄

 
◇思想の言葉◇

「失楽園(Paradise Lost)」その後

野家啓一

1 楽園喪失

 すでに「二〇世紀の名著」との声価が定着した感のあるトマス・S・クーンの主著『科学革命の構造』(以下『構造』と略)の新訳(青木薫訳、みすず書房、二〇二三)がこのたび上梓された。慶賀に堪えない。もちろん、科学史学の泰斗中山茂の手になる初訳は一九七一年に同じ書肆から刊行されている。その先駆的意義は十分に評価されてよいものの、中山訳には初訳につきものの誤読や杜撰さが目立っていた。その意味では、旧訳の登場から半世紀を経て、新訳の出現が待ち望まれていたのである。

 今回の翻訳は「五〇周年記念版」と銘打たれた第四版(2012)が底本であり、巻頭にはクーンら新科学哲学の主張を一貫して支持してきた科学哲学者イアン・ハッキングの手になる行き届いた「序説(Introductory Essay)」が加えられている。その序説の末尾をハッキングは「本書は本当に、「現在のわれわれの頭にこびりついている科学像」を変えたということだ。永遠に」という言葉で結んでいる。

 その科学像とは、「科学は検証と反証を繰り返しながら知識を確実に積み重ねつつ、「真理の王国」を目指して進歩していく」という論理実証主義に代表されるような肯定的イメージにほかならない。ところがクーンの『構造』は、皮肉なことに論理実証主義(ウィーン学団)の一大プロジェクトである「統一科学国際百科全書」の一冊として呱々の声を挙げた。皮肉というのは、クーンは「パラダイム」や「通約不可能性」という新たな概念を駆使することにより、科学の歴史を旧来の「連続的進歩」から「断続的転換」へと大きく書き換えてみせたからである。論理実証主義的科学像の息の根を止めたと言ってもよい。

 その結果、科学と科学者とは「真理の王国」という天上の楽園の居住権を失い、エデンの外へと放り出されたのである。怨嗟の声が上がるのも無理はない。ところでクーンの第二の主著とも言うべきモノグラフ『黒体理論と量子的不連続性 1894-1912』(1978)には「パラダイム」という概念は一度も使われていない。それを捉えて書評子の一人は「パラダイム・ロスト(Paradigm Lost)」と揶揄したことがある。むろん「パラダイム」概念が失われたわけではなく、失われたのは科学の「パラダイス」の方であった。ただ、パラダイム概念が原義を離れて独り歩きし、クーン自身には「制御不可能」になったため、その使用を控えたにすぎない。そのきっかけとなった論争を一瞥しておこう。

2 パラダイム論争とサイエンス・ウォーズ

 ことの起こりは一九六五年七月にロンドンで開催された国際科学哲学コロキウムの席上であった。クーンが招待されたのは、カール・ポパーを盟主とし、高弟のイムレ・ラカトシュが企画運営に携わった「批判と知識の成長」と題されたシンポジウムである。その場はさながらクーンのパラダイム論とポパー派の批判的合理主義との全面対決の様相を呈した。論戦が始まると、クーンの主張はパネリストたちから相対主義、非合理主義、主観主義といった十字砲火を浴びたのである。四面楚歌といった状況のなかで、唯一クーン擁護の論陣を張ったのは、コンピュータ科学者のマーガレット・マスターマンのみであった。ところが彼女は、一方で「通常科学」の存在を現場の科学者の視点から肯定しながらも、他方で「パラダイム」という鍵概念の用例を調べ上げ、それが都合二一種類もの異なった意味で使用されていることを指摘した。クーンにとって最もこたえたのは、ポパー派の厳しい論難よりは、むしろこのマスターマンによるパラダイムの多義性・曖昧性の指摘であった。

 そのためクーンは、『構造』第二版を刊行するに当たり、「追記―一九六九年Postscript―1969」を起草してマスターマンの批判に答えた。彼はまず、『構造』において「パラダイム」という用語が「ふたつの異なる意味」で用いられていることを認める(以下、引用文は新訳による)。一つは「検討対象となっているコミュニティーのメンバーが共有する、信念、価値、テクニック、等々の集合体の全体」を表す社会学的パラダイムであり、それは後に「専門性のマトリックス(disciplinary matrix)」と呼び換えられる。もう一つは「模範となる過去の成果としてのパラダイム」であり、これは「模範例(exemplars)」と名づけられた。

 こうしてクーンは「パラダイム」という人口に膾炙した用語をみずから取り下げ、その内容を「専門性のマトリックス」と「模範例」という二つの概念で置き換えることを試みた。ところがクーンの論敵たちは、これを「パラダイム論の撤回」と断じ、鬼の首をとったかのように喧伝して回った。それが誤解にすぎないことは、クーン自身が「「パラダイム」という用語はなしですますことができよう。しかし、この用語の導入をもたらした概念自体はなしですますことはできないのである」(クーン「パラダイム再考」、『本質的緊張』第一二章)と述べていることからも明らかである。

 「追記」の後半部は、クーンの立場を「相対主義」と決めつける批判への論駁に当てられている。この相対主義をめぐる議論は、一九九〇年代半ばに出来した「サイエンス・ウォーズ」においても繰り返された。サイエンス・ウォーズとは、物理学者のアラン・ソーカルがポスト・モダニズム系の雑誌『ソーシャル・テクスト』に「偽論文」を投稿し、それが査読を通過したことに始まる、科学者と科学論者の間で戦わされた一連の騒動のことである。アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『「知」の欺瞞(岩波書店、二〇〇〇)のなかでクーンは、ポスト・モダン科学論の源流と見なされ、第四章「第一の間奏──科学哲学における認識的相対主義」において批判の標的となっている。ただし、クーンに対する論評は、比較的公正になされていると言ってよい。

 著者たちは「根本的な問題は、二人のクーン──穏健なクーンとその穏健ならざる弟──が『科学革命の構造』のすべてのページで肘つきあっていることだ」と指摘する。そして、穏健ならざるクーンは「パラダイム転換は主として非経験的な諸要因によって起きる」と考えることによって、「今日の相対主義の元祖の一人となった」というのである。これはクーン自身の立場を「穏健なクーン」、クーンの影響を受けた「科学知識の社会学(SSK)」の立場を「穏健ならざる弟」と類比するならば、ある程度は当たっている。クーンはエディンバラ学派の「ストロング・プログラム」に代表されるSSKの過激な潮流に対しては懐疑的であり、経験的側面を重視するようやんわりとたしなめているからである。

 相対主義に対するクーン自身の立場については、「追記」のなかの「もしもこの立場が相対主義なら、相対主義者であることによって、科学の性質と科学の発展の仕方を説明するために必要なものが、ひとつでも失われるとは思えないのである」という一節を引いておけば十分であろう。いずれにせよ、クーンはソーカルが偽論文を発表した一九九六年には幽明境を異にしており、馬鹿げた論争に巻き込まれずに済んだのは不幸中の幸いであった。

3 科学史・科学哲学(HPS)から科学技術社会論(STS)へ

 クーンの没後、科学論の領域では盛んに「ポスト・クーン」段階ないしは「アフター・クーン」状況が議論されるようになった。つまり『構造』の刊行を分水嶺としてクーン以前・以後の科学論が明確に区別されるようになったのである。具体的には科学史・科学哲学(HPS)から科学技術社会論(STS)への潮流転換を挙げることができる。

 もともとクーンはパラダイム・シフトを引き起こす要因の中に社会的条件を不可欠のものとして含めていた。その意味では、HPSからSTSへの転換は織り込み済みの展開であったと言ってもよい。実際、STSの先達ジェローム・ラベッツが提唱する「解決には科学は必要だが、科学だけでは十分ではない、新しい政策の時代」、すなわち「ポスト・ノーマルサイエンス(PNS)」は、クーンの「通常科学」の問題提起なしには成り立たない概念である。

 そのように考えれば、クーンの『構造』自体がSTSの方法論を先取りした成果と見ることもできる。周知のように、クーンはハーヴァード大学の物理学科を優秀な成績で卒業し、科学史に転じるまではそこで科学研究に従事してPh. Dを取得している。つまり「通常科学」の現場を身をもって体験したのである。それが「パラダイム」の具体的内実の記述に反映されていることは言うまでもない。いわばクーンは物理学研究室で、数年間を科学人類学でいう「参与観察」を行なっていたに等しい。『構造』におけるクーンの叙述が説得力をもち、リアリティに満ちているのはまさにそのためであり、哲学者たちの観念的な概念操作とは迫力が異なるゆえんである。

 最後にもう一度ハッキングの「序説」に戻るならば、彼はこの文章を次のように始めている。「古典的名著といえる本は、そうそうあるものではない。本書はそんな名著の一つだ。読めばそれとわかるだろう」。その機会を新訳者と書肆が与えてくれたことを共に喜びたい。

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