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【追悼 大江健三郎さん】山登義明 ラスト・ピースまで[『図書』2023年11月号より]

ラスト・ピースまで

 

 被爆地長崎で勤務していた私にとって、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』はバイブルだった。いずれ東京の本部に転勤したら、大江さんと広島を結ぶ一人称ドキュメンタリーを作ってみたいと考えていた。その頃、私が発案・企画した「シリーズ 授業」というニュースタイルの番組で大江さんに出演していただく機会があった。この機会をぜひ活かしたいと、金沢大学の大先輩でジャーナリストの安江良介氏に仲介をお願いした。安江氏は『ヒロシマ・ノート』の編集者であり、このルポルタージュの産みの親である。安江さんの応援もあって、大江さんに番組の趣旨説明する場をもつことができた。以来十年、大江番組を作り続けた──「サハロフの遺言・大江健三郎との対話」(一九八九年)、「世界はヒロシマを覚えているか~大江健三郎・対話と思索の旅」(一九九〇年)、「21世紀への思索 大江健三郎&立花隆」(一九九二年)、「ヒロシマの心 忘るまじ──森滝市郎の日記から」「響きあう父と子──大江健三郎と息子光の30年」「“大いなる日”へ──ノーベル賞作家 大江健三郎に聞く」(一九九四年)、「大江健三郎 ノーベル賞の旅── ⑴ 日本人の祈り/⑵ 新しい方へ」(一九九五年)、「大江健三郎 託す言葉~民主主義をめぐる対話」「オリエンタリズムを超えて──マサオ・ミヨシ 在米知識人との対話」(一九九六年)、「オウム事件を超えて──世界の知性・宗教と想像力を語る~プリンストン大学シンポジウムより」(一九九七年)

 一九八八年。私にとっての最初の大江ドキュメンタリー「世界はヒロシマを覚えているか」に取り組んだ。核世論に大きな影響を与えるリーダーたちと、「世界はヒロシマの体験や声を覚えているだろうか」というテーマで話し合うため大江さんと旅に出た。アメリカ・テキサス州の核兵器組立工場の前で撮影中、守衛に足止めされて取り調べられた。ソウルの空港では即時送還されそうになったこともあったが大江さんはまったく動じなかった。苦労も多かったが、旅の宿で、大江さんの考えや小説の構想を聞くのはこよなく仕合わせであった。ただ、核兵器を思索する番組で、チェルノブイリ原発事故の専門家ウラジーミル・グーバレフを選んだ大江さんの真意というか意図は、そのときは分からなかった。

 一九九二年、私は広島局に転勤した。被爆五十年が近づいていた。『ヒロシマ・ノート』の大江さんをフィーチャーするテーマを模索した。

 『燃え上がる緑の木 第一部』が出た一九九三年の夏頃、さかんに「締めくくりの作品」という言葉を作家は口にしていた。小説家は六十歳までが勝負というが、同級生たちの定年退職が始まっていたことも少し影響があるのかなと思いながら、「最後の小説」執筆を映像で記録しておきたいと思った。これが「響きあう父と子」に繋がっていく。

 当初、作家の執筆を軸にして撮影が始まったのだが、取材が進むうちに長男光さんの存在がどんどん大きくなっていった。光さんは音楽家として二枚目のCDを出すことになり録音が始まっていた。

 一九九四年は、この十年の間でもっとも多忙な年になった。九月に「響きあう父と子」を放送した一ヶ月後に、大江さんがノーベル賞に選ばれ、十一月にスウェーデンまで同行取材して、ディレクターとして「ノーベル賞の旅」を二本制作した。年が明けて、六月に東京本部に異動した。十日後、過労がたたったのか脳出血のため、倒れた。

 入院と療養を経て職場復帰したのは秋。ニューヨーク出張が待っていた。「響きあう父と子」が国際エミー賞にノミネートされていたのだ。リジョイス!

 一九九六年、大江さんは渡米して、プリンストン大学で一年間日本近代文学を教えることになった。その頃から間遠になった。素晴らしい作品が次々に生まれている大江さんの後期。絶頂に向かっていた。その人から貴重な時間を奪うわけにいかない。大江さんへの出演依頼を控えた。お会いしてから十年経っていた。

 この十年は私にとっては「黄金の十年」と感じられたが、大江さんにとっては違う。武満徹、伊丹十三、安江良介と大切な人を次々に失っていき、魂の暗夜を歩いていた。

 二〇一〇年の晩秋、元ディレクターで大学教授の友人から電話が入った。かつて、彼は第五福竜丸の乗組員の人生を描いた名作を制作している。用件は、その乗組員と大江さんの対談を実現できないかという相談だった。焼津の元船員、大石又七さんはビキニ事件で被爆して治療を受けた後、転職もして長く沈黙していたが、次々に倒れていく仲間を見て核廃絶の声を上げるようになった。これまでの苦難と怒りを綴った書も出した。そういう姿に感銘した友人は、大江さんと話し合う機会を大石さんに提供したいと考えた。病気がちな大石さんは、一年前に肺に異常が見つかっていた。

 事情を聞いて、大江さんに連絡をとった。すぐファックスが返って来た。「大切な仕事です、しっかりやります」とあった。後日、大江さんから聞いた話だが、二人は一つ違いの同世代で、共に早くに父を亡くしていた。大石さんは経済的な理由で十三歳で船員になり、二十歳のときビキニ環礁で被爆した。大石さんが被爆した次の日、大江さんは入学したばかりの東大駒場キャンパスで、自分と同世代の年少の船員が被爆したという立て看板を見た。《ビキニ事件は自分の深いところに届いていた》と大江さんは述懐している。

 二〇一一年二月二十八日、対談の内容をかためるため、制作チームは大江さんと成城のお宅でミーティングをもった。大江さんのプランは、広島型原爆の千倍の威力の水爆実験に被爆した大石又七氏を主題にし、氏の原子力発電所への警告に耳を傾けて──と大筋を語った。撮影場所は夢の島公園の第五福竜丸船上とし、本番の日取りは三月二十二日。十日後に起きる悲劇は予想もしなかった。

 三月十一日、東北大震災が発生した。十四日、福島第一原発三号機で水素爆発が起きた。制作メンバーに動員がかかり、当方の番組は一時延期となった。対談番組のメインディレクターはただちに福島のゾーンに入り、「不眠不休」の取材を続けることになる。撮影再開の目処はたたないものの、留守部隊は大江さんと情報交換を絶やさぬようにと、ビキニ事件やチェルノブイリ事故の資料を大江家にせっせと送った。この頃、大江さんはフランスのル・モンド紙のインタビューを受けている。そこで、三月十五日の朝日新聞に掲載する予定であった「大石又七さんとの対談」に関する文章について述べている。

 《暗い予感のようにして私にそれを書かせたのは、この元漁師大石又七氏が、原子力発電所の危険をもまた批判してきた人であったからだと思います。私は、なお)))))日本であり続けているこの国の現代史を、広島・長崎の原爆で死んだ人たち、ビキニ環礁で被爆した二十三名の人たち(大石氏は生き残っていられますが、すでにその半数以上が肝癌・肝硬変で亡くなられました)、そして将来の核爆発による死者たちを想定して、その三者を標識にしてたどるというひそかな計画を持っていました。》(『世界』二〇一一年五月号)

 大江さんの中では、広島、長崎で被爆した人たち、ビキニで被爆した人たちと、原発事故によって傷ついた人たちは何も変わらない、核被害者であると考えていた。チェルノブイリの専門家グーバレフ氏と対話したときからその認識は変わらない、むしろ深化していたと思う。

 話を急ぐと、対談番組の制作メンバーたちは超多忙をこなして職場復帰した。五月九日に対談を収録して、七月三日に「大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話」と題して放送した。私の大江番組のラスト・ピースとなった。 

(やまと よしあき・テレビプロデューサー)


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