〈座談会〉ひらかれた古代史へ──シリーズ『古代史をひらくⅡ』発刊に際して【後編】
〈座談会〉吉村武彦・川尻秋生・松木武彦・清水克行
本物の歴史を知る楽しみを、歴史ファンに「やさしく、深く、面白く」伝えたい。そして他分野・時代の専門家や海外・地域の研究者とも豊かな協力関係を築きたい――。そんな「ひらかれた」古代史はいかに可能か? 古代史、中世史、そして考古学の研究者が集まって語り合う。後編では、王権というテーマや、デジタル時代の資料について、また歴史教育の問題を取りあげる。
王はどうして生まれたか?
川尻 現地調査と言えば、松木さんはマヤ文明の調査に行かれたんですよね。
松木 はい。今、共同研究をしていて、メキシコのテオティワカンなどに行っているのですが、今回企画されている『古代王権』とつながってくる部分がありますね。マヤの古代の王と日本古代の天皇は全然違うんですよ。これを「王」という一つの枠組みで捉えていいのかどうか、王や王権をどう捉えるべきなのか。
吉村 マヤの王はどういう存在なんですか。
松木 マヤの王は、すぐに隣の王様に捕まって捕虜にされたりするんですよね。かと思えば、いくつかの都市を征服して強大な権力を持つときもある。日本の古墳時代に前方後円墳があるように、マヤにも一側面に階段のついたピラミッドがあちこちにあるので、前方後円墳を社会統合の象徴のように考える日本の古墳時代研究者が見たら「マヤも政治統合されていたんだ」となるかもしれませんが、実際には全然統合なんてされていなくて、マヤではずっとドンパチやっている。そういうところからも、先ほど申し上げた、「日本の前方後円墳は王権なんか反映していないんじゃないか」ということにつながるんです。今回の『古代王権』の巻で、サブタイトルにある「王はどうして生まれたか」という問いは、日本列島の王と、他の地域で王と呼ばれているような人との比較をするときにすごく重要だと思います。
川尻 マヤは女王がいましたよね。
松木 ときどきいますね。女王がいて、戦争でもけっこう女性が活躍するんです。
吉村 最近は、前方後円墳の秩序に入るということを、ヤマト王権の秩序に入るということとイコールに考える人がわりと多いんですよね。
松木 はい。だから、どこかで新しく古墳が発見された時なども、それが前方後円墳だと、「ここでこの地域の豪族はヤマト王権傘下に入った」と、新聞などでは報道されてしまうんですね。
吉村 文化人類学の事典などでも、王と王権ということについてはあまり細かく書いてないんですよ。王とは何か、というと「王たりうる人」なんだけれども、説明しようとすると難しい。
清水 古代史ではいつごろから研究概念として使われ始めたんですか。
吉村 古代では、「王」は実際にいますからね。それはいいとして、「王権」というのは、比較的新しいんじゃないでしょうか。
清水 中世でいえば、「王権」を使ったのは、佐藤進一さんがどうも最初らしいです。天皇を「王権」と言った途端に、非常にニュートラルな、抽象度の高い概念になりますよね。天皇の権限を室町幕府が収奪する、そういう話のときに「王権」という言い方が使われる。
川尻 元々は文化人類学じゃないかな。
吉村 最近は便宜的に使う人が多いんですよね。あんまり意味を考えずに。英語だとkingshipなのかchiefdomなのか、その辺も人によって違って、よくわからないんですよ、正直に言うと。ともあれ、統一された王権があるのか、そうじゃないと見るのか。それは古代史と考古学で共通した悩みじゃないかと思います。
松木武彦氏
史料・資料との向き合い方
吉村 『列島の東西・南北』でも、考古学の成果が活かされていますね。
川尻 これまでは地域ごとの研究が多かったと思いますが、今回はその繋がりを重視したんです。
松木 ああ、なるほどね。面白そうですね。
川尻 中央と地域という二項対立ではなくて、地域どうしの繋がりを見ていくと、交通の問題も出てきますし、東北地方の蝦夷で言えば、どういうふうに各地の土器などの物が彼らの文化へと入っていったのか、あるいは外へ出て行ったのか、といった交流を考えることができる。
吉村 三上喜孝さんや蓑島栄紀さんなど、考古に詳しい歴史研究者が参加してくれています。
川尻 あとは『摂関政治』、これはまさに古代と中世の接点になるところで、どうなるか。
清水 面白いですよね。最近はどちらが優勢でしょうか、摂関政治期は古代か中世か。歴史民俗博物館の展示では、中世は王朝文化から始まりますよね。あれは理由があるんですか。
川尻 というか、歴博では古代の終わりがあまり扱われていないんですよ。
清水 文学の方では、摂関政治期を「中古」といって、古代とは切り離しますよね。あるいはそういう伝統もあるのでしょうか。古代から少し新しいものが生まれてきたのがこの時期で、もはや古代そのものではない、という。文学のほうでは、どこからが古代の終わりか、といった議論はあまりないんでしょうか。
川尻 やはり人物や、源氏物語のような作品が中心ですからね。
吉村 物語と歌集では、専門にやる人が違いますしね。分業なんです。
川尻 分業といえば、たとえば中世前期と中世後期では研究者の数も違うし、両方やる人はあまりいないんじゃないですか。
清水 いないと思います。私も後期が専門ですから、前期にはなかなか、怖くて口出しできないです。
吉村 それがおかしいんですよ(笑)。
清水 中世史研究者って、そもそも史料の絶対量が古代よりも多いので、どうしても個々の史料の読み方が古代よりは雑になるんです。1960年代に石母田正さんが、「中世史研究者の『吾妻鏡』の読み方は津田左右吉以前の読み方だ、文献批判ができてない」と批判したところから守護地頭論争が始まった、という経緯は有名ですが。そういう中世史でもようやく、『吾妻鏡』なら『吾妻鏡』の書誌分析とか、写本の異同とかの研究が始まってきています。『信長公記』などもそうですね。いくつもの写本を基にして、完全版の底本を作ろうという動きが出ている。そうなると、中世でも不可避的に議論が細分化していきますよね。
ただ問題もあって、一つには、そういう仕事って「労多くして益少なし」で、なおかつ一般の人への発信力もあまりない。もう一つ、良質な写本に触れられる人が、研究者として優位に立ってしまうことが生じる。史料にアクセスできる立場の人とアクセスできない立場の人との間の非対称性が進んじゃうんですね。そういう問題って、先輩である古代史からはどうですか。写本研究みたいなテクスト論に特化していくと、研究ってその先行き詰まっちゃうんじゃないかっていう危惧が、中世史ではあるんですけれど。
吉村 そういう校注作業は時間がかかるんですよね。古代は本当に史料が少ないから、『日本書紀』でも『続日本紀』でも一字一句詳細に読むこともできるけれども、中世はとてもそんなことはできないでしょう。
清水 『吾妻鏡』や『信長公記』のような論争の焦点になっているものに関しては、そうなってきていますよ。
吉村 『万葉集』の研究者でも、最初は墨書土器に書かれた歌に対して、あまり関心がなかったんですよ。日本文学の領域では写本研究はすごく進んでいるけれど、そこに同時代的な実物が出てきた。7、8世紀のものはまだごく一部ですけれどね。驚いたんじゃないでしょうか、実物が出てくることは想定外だったから。第Ⅰ期で川尻さんが責任編集された『文字とことば』の巻で、犬飼隆さんという日本語学・日本語史の方が、同時代史料としての木簡・墨書土器を検討されていますが、文学の人はあまり関心がないのが実情じゃないでしょうか。やはり写本の方が重要といえば重要だから。中世史研究者でも、木簡に関心がある人はあまりいませんよね。
清水 その前に処理しなきゃいけない紙の史料がいっぱいあるので(笑)。
川尻 文字を切り口にすると、今までの歴史研究、文学研究とはまた違うものがまた見えてくるだろうなと思っているのですが。
デジタルではできない仕事
清水 資料へのアクセスはどうですか。古代史だと木簡とか。
川尻 木簡は、先述のように「木簡庫」というデータベースを奈良文化財研究所が作っていて、文字が読めるものだけでいうと約5万6000件ですね。これは公開されていますが、写真はないものが多いので、自分で読み直しもできないし、物として見ることができない。
清水 それはそれで、こぼれ落ちる情報もあるわけですね。
吉村 考古学では、実測図を書くというのが資料批判なんでしょう。結局、資料をどう読み取るかという問題に繋がってくる。
松木 そうなんですよ。最近は、遺構も全部3Dで記録する時代になってきていますが、それはある物理的事実の記録ではあっても、認識せずに記録できてしまう。調査者の手描きの実測図は「認識の記録」なんです。それが絶対に大事なんです。でもそれをなしにして、最近は全部デジタルで実測するんですよね。
川尻 最近は土器もデジタル実測できるでしょう。
松木 大問題だと思います。こんなことをしていたら、資料を認識しなくなる。
清水 でもそれって逆に言うと、実測図を描いた人が書き漏らしちゃったものを、拾ってくれる可能性はあるんじゃないですか。
松木 書き漏らしていることは、そもそもたくさんあるんですよ。でも手描きの実測図は、調査者の「これとこれは入れる」という選択が頭の中にある上で描かれているので、よほどダメな人が描いたのでなければ、まあ大丈夫なんです。だから両方あるのがベストかと思いますけれど、どちらかだとすれば、私はもう未だに手描きの、認識の記録がないと絶対だめだと思う。古いんでしょうけどね。
吉村 でも発掘調査もそうみたいですよ。やっぱり一定の目的を持ってやらないと。まったくの想定外のときは、掘っても見つけられないんですよね、おそらく。それは史料の読み方もある意味同じじゃないですか。
清水 そうですよね。史料を読む際に、くずし字を活字にするんですけれど、そこにある種の主観が入る。それだけはニュートラルな作業なようでいて、起こした人の主観がかなり入ってきます。くずし字としては明らかにこう書いてあるんだけれど、書いた本人はこうじゃなくてこの字が書きたかったんだ、というのが長年の経験でわかるので、直すんです、そこを。
川尻 それだけは多分できないですね、AIには。
清水 まだこれだけはAIに負けませんね、我々は。職を奪われずにすむ(笑)。
吉村 これだけ古い時期からずっと文字史料が残っているというのは、日本は稀有なんですよ。中国はもちろんありますけれどね。そういう意味では歴史学は、考古学はもちろんのこと、文学や日本語史の研究者と一緒にやらないと、もはや歴史の実態を明らかにできない状況になっている。少なくとも古代史はそうですね。
松木 考古学でも、埋蔵文化財行政の充実のもとで、1970年代以来各地で発掘がすすみ、土器の編年を中心にして、ものすごく濃密な資料操作が行われている。世界で一番目盛の細かい物差しが、考古資料に対しては作られています。
吉村 平城京なんて20年くらいの単位でわかってきていますよね。
松木 これはもう、世界でも類がないですね。
清水克行氏
歴史教育の担い手
吉村 さて、色々と新しい研究が出てきているわけですが、中学や高校の歴史教育の現場ではどのように反映されているでしょうか。飢饉もかなり地域性があるとさっき言われましたが、日本の教科書は全国一律なので、地域のことはほとんど出てこない。だから政治史や制度史が中心になるし、とくに一つの問題群=テーマで時代横断的に話をするというのが難しい。実際の歴史の面白さは、やはり具体的な事実を知ることから始まるはずなのですが、そういう話は受験に向けた授業にはあわないんでしょうね。
川尻 中高の先生たちも、時間的な余裕がないんですよね。
清水 地域の歴史の担い手は、かつては地元の小中高の先生方が中心で、そこで知識が蓄積されていた。今は教育現場が忙しすぎてそういう先生がいなくなってしまって、代わりに担っているのがその地域の博物館・資料館の学芸員なのではないですか。家の蔵から古文書が出てきたというときにも、地元の学校ではなく資料館に持っていくでしょう。
松木 考古学も歴史学も、昔はいわゆる郷土史家がいたんですよね。学問的な知識とはちょっと違っても、どこにどういう遺跡があるとか、関連の史料などをなんでも知っていて案内してくれる。元教師とか、神主さんとか、お寺の住職とかね。私の祖父も神主で郷土史家でした。今はそういう方が減ってきて、一番詳しいのはウェブサイトやSNSで情報発信している人かもしれません。
吉村 「歴女」「刀剣女子」などの言葉が流行りましたが、刀剣の展覧会には多くの来場者があっても、あわせて近くの博物館の常設展も見ていくのはそのうち1割と聞いたことがあります。特定のことに関心が集まっても、歴史全体への関心にはなかなかつながらない。清水さんは商学部のご所属で、将来歴史を専攻する学生がいないところで教えておられますよね。しかも、卒論も書ける学部です。
清水 はい。卒論を書くにしても、古文書を読みこなして…というわけにはいかないので、民俗学の調査のような足で稼ぐ論文を書かせています。ただ歴史学のトレーニングって、ビジネスパーソンとして社会に出てから意外に役に立つんじゃないかと思うんです。今ほど情報があふれている時代はないので、その中で情報を取捨選択したり、批判的に検討したりというのは、直接研究に関わらない場合も役に立つと思って教えています。
吉村 現状のカリキュラムでは、自分で史料を読めるようになるのはなかなか難しい。せめて釈読文付きのものがたくさんあればいいと思いますけれど、歴史史料で現代語訳付きというところまでは難しいですね。ようやく『小右記』や『吾妻鏡』の訳が出たところで。そういう意味では、『古代人の一生』で若狭さんがとりあげられている人物埴輪などは、ビジュアルに訴えることができて面白いかもしれない。男女の性差についてなど、考古学から言うことはなかなか難しいようなのですが、女性の埴輪はある程度出土するようですし。
清水 埴輪は確かに、子供たちにも説得力がありますよね。発掘体験なんかも今盛んでしょう。
松木 盛んですね。日本でもそうだし、ヨーロッパでもね。この夏にイギリスのそういう現場に行ってみたんですけれども、考古学者と市民が一緒になって、楽しそうにやっていますよ。
川尻 古くは岡山県の月の輪古墳なども、市民参加の発掘でしたよね。岩波映画にもなっています。
吉村 野尻湖もそうですね。ただ「読む」だけではなくて、参加するところから理解を深めるのは重要だと思います。
「通時代的」な歴史は可能か
吉村 最後に今後の課題として、考古・古代・中世を通時代的に考えていく、そういう構想が何か持てるでしょうか。
川尻 時代の継ぎ目の扱い方が難しいんですよね。古代から中世、中世から近世と、外国からの留学生に言わせると、そこがわからないと言うんです。どちらの立場から見るかによって変わりますからね。海外の研究者には我々の気づかない見方があって面白いですよ。
吉村 第Ⅱ期ではテーマからいって、海外からの執筆者は日本文学研究のジェイソン・ウェッブさん1人だけになったのですが、先ほどのファリスさんの人口史的な発想なども日本では誰もやっていなかったことですからね。清水さんはどうですか、通時代的な歴史というのは。
清水 求められているのは間違いなくそこですよね。さっき出た『銃・病原菌・鉄』や『サピエンス全史』(河出書房新社)が売れていることからもわかる。研究ってどうしても細分化していくものですが、読者からすると、1人の視点で全体を見渡したものを提示してほしいというニーズは絶対あると思います。
吉村 松木さんはいかがですか。
松木 私は最近、生物学や霊長類学の研究者と「人はなぜ文化を作ったのか」みたいな話をしているんです。色々聞いていますと、チンパンジーはヒトに一番近い種なんだけれども、ヒトの祖先と分かれた700万年前と今とで、ほとんど変わらないらしいんです。つまり彼ら彼女らには「歴史」がない。歴史という現象を作り出すのがホモ・サピエンスの本質なのではないか。なぜ人間は歴史を作るのか。歴史というのは変化していく過程なんだけれども、そのなかには変化しない過程もじつは含んでいて、その両方を見ていくことが、これからは大切なんだと思います。あるものは残して、あるものは変え、という、そこに何か、ヒトという生物の本質が表れるんじゃないでしょうか。そういうことに関心を持つ人はまだ少数かもしれないし、そんなことが議論されるのは、もう私たちが生きている時代ではないかもしれないけれども、私としては残された研究人生でそんなことも意識しながらやってみたいなと。最後に大風呂敷を広げておきますが(笑)。
川尻 すごい、面白いな。
吉村 未来につながる締めくくりの言葉として、非常に良かったと思います。
(2023年9月9日、岩波書店会議室にて)
(よしむら たけひこ・日本古代史)
(かわじり あきお・日本古代史)
(まつぎ たけひこ・考古学)
(しみず かつゆき・日本中世史)