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『科学』2024年1月号 特集「数学と物理学:近くて遠いもの」|巻頭エッセイ「令和の研究者と博士課程」早水桃子

◇目次◇ 
【特集】数学と物理学:近くて遠いもの
遠くて近き物理・数学……時枝 正
純粋数学と理論物理の狭間で……立川裕二
発想は自由に,しかし足許は慎重に──ブロッキング現象の思い出……一松 信
流体力学──様々な研究者の行き交うところ……岡本 久
数学と物理学は「役に立つ」のか……時弘哲治
理論物理の醍醐味……押川正毅
物理学と数学の「あわい」……米谷民明
流体力学と数学……山田道夫
美しい世界をめぐる美しくない物理の話……泰地真弘人
ある実験物理屋からみた数学 ……下浦 享
量子力学の公理化をめぐって……小澤正直

[巻頭エッセイ]
令和の研究者と博士課程……早水桃子

グラフはテキストより読み書きが簡単で批判的思考力を高める……橋田浩一
寛容と協力によって保たれるボノボのメス優位社会……徳山奈帆子
ついにナノヘルツ背景重力波が見えてきた……高橋慶太郎
物理定数の背後に潜む第五の力……北原鉄平

[連載]
人間の言語能力とは何か──生成文法からの問い3 ダーウィンの問題……ノバート・ホーンスティン/折田奈甫,藤井友比呂,小野 創〈編訳〉
〈指定討論〉霊長類学の視点から人間の「言語」を考える……林 美里
数学者の思案20 大学院重点化前の数学科大学院……河東泰之
3.11以後の科学リテラシー132……牧野淳一郎

[科学通信]
ツキノワグマに起こっていること……永幡嘉之・鵜野─小野寺レイナ
〈リレーエッセイ〉生成AI,どうですか?2
生成AIの活用をより良い教育につなげるには……栗田佳代子

2023年総索引
次号予告/お知らせ
 

◇巻頭エッセイ◇
令和の研究者と博士課程
早水桃子(はやみず ももこ 早稲田大学理工学術院) 
 

 英文学者でもあった夏目漱石は博士号が嫌いで,文部省から文学博士を一方的に授けられたことに激怒して学位の受け取りを拒絶した史実は有名である。この出来事は人々を驚かせたが,漱石によれば当時の世間は博士号の価値を過大評価しているのであった。例えば明治44年8月の「道楽と職業」と題する朝日新聞社主催の講演会では,漱石は「博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るような仕事をするのです。深いことは深い。掘抜きだから深いことは深いが,いかんせん面積が非常に狭い。それを世間ではすべての方面に深い研究を積んだもの,全体の知識が万遍なく行き渡っていると誤解して信用をおきすぎるのです。現に博士論文と云うのを見ると存外細かな題目を捕えて,自分以外には興味もなければ知識もないような事項を穿鑿しているのが大分あるらしく思われます」と語っている。

 博士研究の性質は明治時代から今日までそれほど変わっていないようだが,博士を取り巻く状況は様変わりした。今や「末は博士か大臣か」という言葉はすっかり過去のものになり,博士号を取っても就職できないとか役に立たないとかいう理由で博士を目指す日本人は減り続けている。称号だけが独り歩きして中身の伴わない博士がちやほやされなくなった点では健全かもしれないが,漱石の頃とはまた別の歪みが現代にはある。

 博士になれば学者を名乗れた時代とは異なり,近年では博士号取得に必要な技能と学者に必要な技能の間に大きな乖離があるように見える。国境や専門分野の垣根を越えた組織的な共同研究が続々と行われ,研究費の獲得競争も激化している昨今,針の断面のような狭い領域に特化した人材が自由にのびのびと活躍できる場は学術界にも産業界にも多くない。つまり,博士論文を書いて学位記を受け取るだけでは学者になれないどころか他の何かになることも厳しい。博士の就職状況が芳しくないとしたら博士号のせいではなく,明治時代と同じ気分で博士課程を過ごすと現代の就職に不利になるという話だと思う。

 博士課程は博士号を取るための研究に捧げる期間だと誤解している人は多い。このような誤解は学士課程には見られない。学者になるにせよ他の職業に就くにせよ,博士課程もその後の人生を順調に歩む力を養う訓練の期間なのだから,自分が目指す方面で長期的に必要とされる能力を注意深く分析し,それらを満遍なく鍛えるような過ごし方をするのが最善である。例えば,研究者になるために博士課程に入ったのであれば,針先で井戸を穿るばかりでなく,色々な学問の最先端に触れて様々な知識や視点を貪欲に吸収し,研究室の内外で良い人脈を作り,幅広い分野の専門家と対話し,新しい研究の構想を練るというのが模範的な時間の使い方だろう。

 検索すれば大抵の知識が即座に得られ,大学教員や専門家とSNSで気軽に交流できる時代になった。私も自分の講義をYouTubeで公開している。YouTubeは世間に情報を伝えるための恰好のプラットフォームであり,世の学者たちはこれを活用してもっと広範囲に知識を授けた方が良いと思う一方で,知識と違って知恵は椅子に座ったまま手に入るようなものではないから,学生たちには知識を授かるだけで満足しないで欲しいとも感じる。博士課程に進む学生にもそうでない学生にも,良質な経験や知性を磨く対話を求めて自分の足であちこちを歩き回ることを強く勧めたい。

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