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【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉 この10冊】依田高典 「ナッジ」と「医療・健康」[『図書』2024年1月号より]

「ナッジ」と「医療・健康」

──大竹文雄『行動経済学の使い方』

 著者の言葉を借りれば、「本書は、コンパクトな新書という形態で、行動経済学の考え方とナッジについて解説し、その応用例を仕事、健康、公共政策の分野に分けて紹介したものだ。行動を改善したいと思った時に、どのように考えてナッジを設計すればよいのか、という疑問に答えようと考えた」という。

 本書の重要なメッセージが、上の言葉によく表れている。二〇〇二年にノーベル経済学賞が、経済学と心理学の融合分野である行動経済学者ダニエル・カーネマンに授与されたことはよく知られているが、著者は行動経済学の論点の中でも「ナッジ」と「医療・健康」の二つに焦点を当てた点で、類書から際立っている。

 「ナッジ」とは、そもそも「軽くひじでつつく」という意味の英語である。二〇一七年にノーベル経済学賞を授与されたリチャード・セイラーは、ナッジを「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」と定義している。例えば、カフェテリアで果物を目の高さに置いて、果物の摂取を促進することはナッジであるが、健康促進のためにジャンクフードをカフェテリアに置くことを禁止するのはナッジではない。ナッジは、行動経済学的知見を使うことで人々の行動をよりよいものにするように誘導するものである。

 ナッジの設計において一番重要なのは、本人自身が自分の行動変容を強く願っているのか、それとも、本人があまり気にしていなかったことを気づかせて行動変容を起こさせるのか、どちらのパターンなのかを見極めることであるという。

 また、行動変容を意識的に行わせるのか、無意識に行わせるのかによってもナッジの作成方針は変わってくる。本人自身が行動変容を起こしたいと思っても、コミットメント手段を新たに取ること自体も現状維持バイアスのために難しいというのであれば、デフォルト設定を変更することが有効になる。

 代表的な例に、臓器提供の意思表示がある。日本人の多くの人たちは、「脳死と判定されれば、(どちらかと言うと)臓器を提供したい」と考えている。それにもかかわらず、実際に提供意思を記入している人の割合は、「提供しない」がデフォルトで、提供したい場合に意思表示をする必要がある日本のような国々では非常に低くなっている。

 臓器提供の意思表示については、デフォルト設定に大きく影響されるが、日本のように本当は脳死で臓器提供派が多い国でも、デフォルトを臓器提供の意思ありというオプト・アウトにいきなり変更することは倫理的にも大きな問題がある。意思表示をしている人を増やすようなナッジは考えられるだろうか。

 イギリスの行動洞察チームは、ウェブでの運転免許の書き換えの際に、臓器提供のドナー登録を勧誘するためのナッジについてランダム化比較試験を行った。この試験では、一〇八万人を八つのグループにランダムに分けて、運転免許の書き換えが終わった段階で、八つの異なるナッジのもとで、臓器提供のドナー登録をするように呼びかけた。結果、最も臓器提供のドナー登録数が多くなったのは、「臓器移植が必要になったとき、あなたは臓器を提供してもらいますか。もしそうなら人を助けよう」という互恵性に訴えるメッセージだった。

 日本でも負けてはいられない。日本の行動変容ナッジの成功事例を取り上げよう。がん検診には、その有効性が疑問視されているものもあるが、大腸がん検診については、有効だとしている研究が多い。しかし、それでも検診の受診率は高くない。大腸がん検診受診率を引き上げるために損失回避を利用したナッジの実験が、八王子市で行われた。未受診者をランダムに二つのグループに分けて、同じ内容だが、メッセージの表現が異なるダイレクトメールを送ったのだ。

 一方のグループには、「今年度、大腸がん検診を受診された方には、来年度、「大腸がん検査キット」をご自宅へお送りします」という利得メッセージが記されている。もう一方のグループには、「今年度、大腸がん検診を受診されないと、来年度、ご自宅へ「大腸がん検査キット」をお送りすることができません」と損失メッセージが記されている。論理的には、二つのメッセージは同じ内容であり、情報の中身に反応するのであれば、ダイレクトメールを受け取った人で実際に大腸がん検診を受けた人の割合は、両グループで同じはずである。しかし、利得メッセージを受け取ったグループで、実際に受診した割合は約二割であり、損失メッセージを受け取ったグループでは約三割であった。つまり、損失メッセージの方が、受診率が高かったのだ。

 このように、本書は、主に「ナッジ」と「医療・健康」の二つの観点から、行動経済学の魅力をあますところなく伝えている。使える行動経済学に関心のある読者、必携の一冊である。

(いだ たかのり・経済学)


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