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【岩波新書〈新赤版二〇〇〇点突破記念〉 この10冊】恩田侑布子 不良とボサツ[『図書』2024年1月号より]

不良とボサツ

──鶴見俊輔『思い出袋』

 あばら家にも特等席がある。わたしはそこに不良少年をでんと居座らせている。日に何度も会って、いてくれることに安心する。気ままに声を聞かせてもらう。ときにはそのまま話に身を乗り出し、前に聞いたことにも夢中になっている。気づくと便座の上。トイレットペーパーを追い払った棚に、鶴見俊輔のゆたかな著作が並んで久しい。

 勝手な親愛をこめて鶴さんと呼ぶ。本書は、ワルとして出発した鶴さんが、傘寿から七年間『図書』に随筆を連載したいわば総集編。八十歳でも「自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている」。足を洗ってケロッとするそこらの悪童ではない。「卒業しない」。それが後年の「転向研究」につながってゆく。小学校で万引きや自殺未遂を繰り返し、悪所の女に深入りし、放校処分に何度もなった。わたしも不良と思ってきたが、自殺願望から勉強をうっちゃらかし、未明に及ぶ乱読で遅刻常習犯になったくらいでは話にならない。

 「少年院はアメリカ流し」だったと回想する。十五歳で渡った「米国へは行きたくて行ったのではない。小学校・中学校ともに不良少年として失敗し、中学二年で退校、あとは学校に行かなくなった。国会議員である父は私を米国におくる道を考えた」。十九歳の飛び級でハーヴァード大を卒業した。その時いたのは下宿ではない。「一九四二年五月、米国メリーランド州ボルティモアに近いミード要塞内の日本人戦時捕虜収容所」だった。日米交換船が出る知らせが入る。

 「のるか、のらないか」「のる」と答えた。「この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負けるときには負ける側にいたいという気がした」。幼いころから人を殺したくない感情が強かったが、「もし勝つ側にいて、収容所の中で食うに困ることもなく生き残り、日米戦争の終わりを迎えるとしたら、そのあと自分が生きてゆく途は、ひらけて行かないように思えた」。エリートの側で生き残りたくない。愚かな戦争を始めた「くに」の必敗の側にいたい。その選択は胸を打つ。

 「実刑は日本に帰ってからの軍隊」だった。ジャワの海軍武官府の軍属にされた。大本営発表は虚報だらけで海軍の前線は方針をたてられない。「敵側の読んでいる新聞と同じものをつくれ」。敵の短波放送を徹夜で聞き、毎朝四、五枚の新聞をつくった。胸部カリエスの病と闘う十九歳が、日本海軍の作戦を決める情報を担っていたとは唖然、慄然である。

 戦後は「転向」を研究した。「先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯」となる。明晰な論理はあんがい借り物、ニセ物なのだ。「一番病」や「教授病」の大学の学問は半死半生。よって戦中戦後「転向」者が続出した。みずからの経験を吟味し、そこからあふれ出すものが生きた学問である。狭い机の枠をとっぱらって素手素足で思索し行動しよう。

 敗戦翌年から『思想の科学』を五十年も発行した。「ベ平連」でヴェトナム戦争に反対し続けた。思想の土台はハーヴァード大学製ではない。三歳から十五歳まで、不良をやりながら万巻の書を読んだ歳月が造った。

 本書は弾力に富む読書案内でもある。八〇年の歳月に濾過された文体は冬日を透かす障子のよう。万象がにじむ。

 本の虫だったわたしは十五歳で出会った初恋の人が荘子だったが、鶴さんは同い年でとっくに老子、荘子、司馬遷を読了し、次のステージへ旅立っていた。アメリカ哲学のプラグマティズムである。

 「明治に入って、プラグマティズムは、ジェイムズを通して三人の知識人に深い影響をあたえた」とし、夏目漱石、西田幾多郎、柳宗悦を挙げる。百態は実践哲学ならでは。プラグマティズムは西欧の論理に、発想や行動をとり込んで普通人コモン・マンの哲学に鍛えた。「少年院」に流され、否応なく猛勉強した鶴さんと相性が良かった。不良が底力を発揮する。知情意を袋にぶち込んで、生きて動く日常の哲学とした。正義を言わず、長いスパンの視力で真理への方向性を探し続けよう。

 土壌である老荘も禅も固定した真理のゴールをもたない。生きる途上こそ油断ならない。仏教教理のつみかさねから禅が身体を取り戻したように、「いろはかるた」や漫画や落語を愛した鶴さんは、さりげないことばで、身体化された哲学の深みへ誘う。だから俳句の道連れでもある。詩は、詩はである。鶴さんの根底には詩人が棲む。

 八十代は「昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。その向こうに、「ある」という感覚が、待っている」。あいまいの妙味が浮かぶ。ぼんやりや、もうろくは言葉をもつ以前の人と人をつなぐ。草の根にとどく。

 不良の不服従をつらぬいた達人は、根の「ある」ほうへ、ひとなつっこい笑いにほどける。

(おんだゆうこ・俳人)


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