【鼎談】現代に生きる仏教と仏教学――『岩波 仏教辞典 第三版』21年ぶりの改訂(前編)
2023年11月、『岩波 仏教辞典 第三版』を刊行。扱う内容は、仏教の成立から、インド哲学・宗教との関係、中国・チベット・東南アジアへの伝播、経典の漢訳、そして日本における仏教思想の展開や文化との関わりまで、コンパクトな判型ながら総合的。第三版では、とくに近現代の分野を重点的に増補したが、その改訂の中で感じられた仏教と仏教学の現在を語り合う。(この鼎談の抄録は、『図書』2024年3月号に掲載) 後編はこちら 大谷栄一/菊地大樹/末木文美士 |
はじめに
末木 2023年11月『岩波 仏教辞典 第三版』 を刊行しました。初版が1989年だったのでそれから34年、多くの方が活用し、関心をもってくれることは心強いことです。きょうは第三版の編集協力者の菊地大樹さん、大谷栄一さんのお二人と、現在の仏教のあり方や研究状況などを話しあいたいと思います。
最初に、初版からの経緯をお話ししますと、初版の編者は、中村元先生、福永光司先生、田村芳朗先生、今野達先生の4人の先生でした。中村先生、福永先生、田村先生は私の恩師ですが、この辞典にたいする熱情はすごいもので、会議でも熱弁をふるわれました。それが必ずしも同じ方向ではなく、どうなるのか心配になるくらい多様な意見が出され、執筆者の原稿ができあがると詳しく見て膨大な量の加筆をする、しかも自分が言いたいことを加筆するので、執筆者が書いたものとうまく接合しない場合もありました。初版は、そういう目でみると面白い辞典で、初心者向けというよりはむしろ、わかっている人がみると新たな発見があるユニークな辞典でした。第二版のときには、私が編集を担当して、ある程度標準的な、初心者が読んでも役にたつ方向に増補しました。
その方針は第三版でも継続し、第二版以上に思いきって直しました。第二版までは、過去の仏教文献を読む手がかりとなることを目的としていたのを、第三版では、いまの仏教がどうなのか、これから仏教がどうなっていくのか、どういう社会的な役割を果たすのかの手がかりとなる、近代の項目を増補し、他の項目にも手を入れたのが、特徴かと思います。
菊地 30年前というと私は学生から研究者の道に入りかけたころで、折にふれてこの辞典を頼りにしてきました。30年間の研究の進展は大きく、近代の項目の追加や書き換えは必要でした。一方、私は日本中世史を研究していますが、その研究自体が30年でぜんぶ変わるわけではなく、最初に先生方が熱い議論をして組み立てたものは、骨子がきちっと押さえられており、終わってみると部分的な修正がほとんどでした。
大谷 私は日本近代仏教史が専門なのですが、いままでこの分野の辞典はなかったので、いろいろな研究書を引っ張りだして見ていました。近代仏教の人名や事項が入ったことで、より多くの人に参照していただけるのではないかなと思います。
大谷栄一氏
古い史料を読み直す
末木 菊地さんには幅広く前近代を担当していただきましたが、最近の動向としてどんな問題があるのでしょうか、史料編纂所のお仕事であちこちの寺院で調査されていますが。
菊地 古い時代、特に古代に関しては、新しい文献が出てくることはほぼありません。30年前までに精緻な検討をされたものが、正しく記述されているかを確認する作業が中心でした。そうした中で、古くから知られている文献を読み直す重要性を実感したのは、『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』という史料です。元興寺(飛鳥寺とも)創建の由来を説いた古い記録ですが、今までこれが「元興寺」という項目の子項目だったのを今回独立させました。というのも、『資財帳』は元興寺のものではなく、もとは尼寺の豊浦寺(建興寺とも)創建の記録に、後代の史料を加えて現在の形になったという研究があり、おおむね妥当な説ではないかと思ったからです。同時に、日本最初の尼寺である「豊浦寺」も項目を立てました。古代の史料であっても精緻に読み直していくと新しい展開があることを知りました。『東大寺諷誦文稿』も新しく項目に立てました。これは『日本霊異記』とともに、当時の仏教の実態を示す書物である、あるいはそう単純に読むべきではないなど、さまざまな説はありますが、いま古代仏教を考える上では『東大寺諷誦文稿』も見ることが常識となっています。また『延暦僧録』という史料も、逸文の集成が進み復元された成果として加えられました。
中世史に関しては、史料編纂所の仕事でいうと、大寺院の所蔵史料は古文書に限らず、宗教関係の史料も古い時代から調査しています。一例をあげれば、史料編纂所では醍醐寺とのおつきあいが100年を超えていて、戦前は主要な史料を選び出して、手で写していました。戦後1960年前後からマイクロフィルムで撮影し、所蔵者の許可を得ておもに紙焼写真の形で公開してきましたが、近年はデジタル化が進んでいます。こうやって集めたものも、研究の進展がないと史料編纂所の中で眠ったままなので、コンパクトな辞典の項目の、その史料はどこにあるという情報から、何十年も前に先輩たちが苦労して集めた史料がよみがえっていくと感じました。
菊地大樹氏
末木 私も、菊地さんたちと一緒に調査した真福寺大須文庫で――真福寺は真言宗のお寺ですが――、従来の常識を破るような禅に関する文献がたくさん出てきて、中世の禅が密教と深く関係していたとわかり、大きな反響がありました。
昔の史料編纂所の史料は、お経の場合、表紙の題簽と最後の奥書の写真だけあって、真ん中のいちばん見たいところが抜けていたんですが、最近の菊地さんのご研究など、密教の問題とか山岳信仰の問題とか内容に立ち入って進めていますね。
古文書と発掘史料
菊地 昔の歴史学では古文書・聖教と言って、寺院の財産管理、僧侶の階級や補任などに関わる古文書と、それ以外の思想・教理に関わる文献に分けていました。聖教は仏教学者・教理学者の方に任せ、おっしゃる通り史料編纂所では外題や奥書だけを撮影していた時代もありました。醍醐寺の調査では、早い時期から内容も含めてすべての史料を撮影しています。近年はそちらが主流となり、密教における「修法」の中身や、何のためにいつ行われたかなどから、政治史の裏側が見えてくる場合もあります。山林修行は、私も興味のある分野の一つですが、一昔前の、縁起類の伝説のみに基づいた修験道の研究からは脱し、縁起類が史実ではなくともどういう事実を反映しているのかなどから、修験道の実態を明らかにしていこうとしています。院政期に由緒をもつ熊野三山も、修験道は実際にはもう少し遅い時期に成立していたとわかってきました。こういった実態は文献だけでは明らかにしにくく、古代から中世の山林寺院に関しては考古学との協働が盛んになっています。
国分寺に関しても、一つ下のレベルの「郡郷寺院」、在地の豪族層が作った寺院が国分寺よりも先に仏教を地方に誘導し、郡郷寺院の大規模なものが国分寺に指定される事例もあります。発掘の成果によって国分寺や郡郷寺院がどんな形だったかがわかると、説法の中で説話のように語られていたことが実態に一致することもある。発掘成果が文献研究の内容を豊かにしています。
山林寺院については、山岳宗教・山岳寺院など、「山岳」ということばを使うべきではないと言う研究者がいるんですね。山林寺院はもっと人間の生活に近い里山のようなところに多くあり、山林修行者も人を嫌うのではなく世俗の人と交渉しながら修行をしていたのに、「山岳」には深山幽谷のイメージがつきまとう。「山林」「山岳」のイメージを転換していくことを、関係する項目では気をつけました。
末木 仏教学でも、密教の修法は単なる儀礼であり、思想はないと見られがちでしたが、近年は修法などの儀礼も含めて、密教を大きな視野で見ていく必要があります。今後また、第三版の記述が古くなる時代も遠からず来るかと思います。
末木文美士氏
近代仏教研究の潮流
末木 近代仏教に話を移すと、今回の辞典の改訂では、古典中心だった前版に思いきって近代の事項を取り入れたことで、辞典の性格そのものも大きく変わったといえます。そのあたりを中心になって担当した大谷さんに、最近の近代仏教研究についてお聞きします。
大谷 2002年の第二版刊行後の20年は、近代仏教研究発展の歴史に重なっています。2002年の『思想』11月号で「仏教/近代/アジア」という特集が組まれました。そこに末木先生が書かれていますが、『思想』で仏教を特集したのは戦後初めてだったそうです。私の立場からすると、近代仏教とアジアの関係が『思想』の特集になるのは驚きでした。末木先生の『明治思想家論』や『近代日本と仏教』(いずれもトランスビュー)が2004年に出て、2000年代の前半に「近代仏教」という分野があると知られるようになり、それから若手の近代仏教研究者が少しずつ成果を重ねていきました。その後、専門書の刊行が続いて、2016年に『近代仏教スタディーズ』(大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編、法藏館)という入門書を作り、仏教辞典の第三版ではその執筆メンバーに力を借りました。
史料の話でいうと、お寺の史料は古ければ古いほど価値があるとされ(笑)、近代以降の記録・文書はあまり大事にされません。近代仏教研究者たちは、幕末・明治維新以降の史料があれば、庫裏や蔵の建て替えなどで捨てられてしまう前に見せてほしいとは言うんですが、前近代に比べると、史料に関しても研究に関してもこれからという感じが強いです。
近代仏教の特徴として、日本やアジアだけではなく、欧米にも仏教が広まったので、グローバルな地域間比較ができる。研究者の交流もグローバルで、日本の近代仏教研究者が英語圏に多数いて、日頃から交流をしています。その成果も今回踏まえることができました。
末木 グローバル化していく近代仏教について、もうちょっとお話しいただけませんか。
大谷 実は、第二次世界大戦後よりも、戦前のほうが日本仏教の海外布教は活発でした。移民宗教という形で日本から海外に渡った移民を対象とした活動もあれば、近代日本の負の側面ですが、帝国主義や植民地主義に追随する形でアジアに進出した側面もありました。
なかでも世界的に注目されているのが、近代仏教のグローバル化に貢献した「神智学」の役割です。神智学は、19世紀半ば、欧米のスピリチュアリズムから派生して、東洋思想を組み入れた近代西洋オカルト思想ですが、これが仏教のグローバル化に際してハブの役割を果たし、世界各国の神智学協会が仏教を広めていった。近代日本の仏教雑誌などを見ていると、「神智学」ということばがしばしば出てくるのにほとんどの研究者が注意を向けてこなかったのですが、2022年に亡くなった吉永進一先生が、仏教がグローバルに展開していく上で大事な役割を果たしたと明らかにされました。
末木 1893年のシカゴ万国宗教会議もありますね。
大谷 シカゴ万国宗教会議は、17日間でのべ15万人が参加し、世界各国からさまざまな宗教者が集まって交流した大規模なイベントでした。日本からも僧侶が何人も参加しました。臨済宗の釈宗演が講演をしましたが、その発表原稿を英訳したのが鈴木大拙。大拙一人が飛び抜けた存在だったというよりも、仏教のグローバル化の流れの中で渡米して、活躍した。明治期になって、浄土真宗が若手僧侶を西欧に留学させて最先端の仏教学を学ばせたり、大谷光瑞が組織した大谷探検隊が中央アジアを探検したり、各宗派が植民地主義や戦争との関わりでアジアに進出したりするなど、さまざまな形で海外展開していく。
末木 鈴木大拙の妻はベアトリスというアメリカ人ですが、この人が神智学に傾倒したために、日本の神智学協会の支部(ロッジ)が長らく大拙の家に置かれていましたね。仏教のグローバル化が神智学などをベースとしてネットワークを形成していたことは、まさにいま研究が進行中で、これからの面白いテーマだと思います。
近世仏教の見直し
大谷 日本の仏教史研究は、古代や中世は蓄積が厚い一方、近世仏教の構造的・歴史的な特徴については、「近世仏教堕落論」の見直しや克服も含めて研究の途上だと思います。日本仏教史における近世の位置づけをどう考えますか。
末木 近世仏教堕落論はオリオン・クラウタウさんの研究などで批判されましたが、近世仏教が歴史や思想の中で十分に位置づけられているかというと、まだ不十分だと思います。歴史学はどうでしょうか。
菊地 近世の仏教の堕落は権力への従属が原因だと言われてきました。戦国末期、織田信長などに弾圧されて宗教勢力が敗北し、一向一揆も殲滅され、権力に従順な宗派に再編されます。ただ最近の研究によると、江戸の幕藩体制下では、公儀に反する思想や行動、公儀の恩を否定する行為などをしなければ、または宗派内の揉め事が社会秩序の紊乱につながらなければ、宗派の内部に干渉しない原則だったようです。これは近代の政教分離の話につながり、中世は王法・仏法相依論で政教分離は不可能に近く、近代化するにしたがって政教分離が成立していくという単純な図式になってしまいますが、中世でも政治は宗教とある程度距離を取っていたという新しい見方ができたり、近世の仏教の枠組みもさらに見直せるんじゃないかと思います。歴史は、宗教や思想に枠組みを与える仕事をします。人物や思想が枠組みからはみ出ていく姿を描くためにも、まずは枠組みを作る必要があるので、もう少し近世仏教史の議論が精密化したり、事例が出てきたりしたらいいなと思います。
末木 思想のほうでは、白隠慧鶴という、近世の有名な臨済宗の僧侶がいます。第二版では、社会倫理を説いたけれども当時の体制に従順だったという否定的な書き方でした。ところが最近の研究では、白隠は当時の幕藩体制に対して批判的な意見を持っていたとされています。禁書にもなった『辺鄙以知吾』という著作は、岡山藩主に宛てて書かれた政道論ですが、体制を批判し、一般の民衆に目を向ける必要性を論じた政治論です。これまで仏教が体制に従順であったという目で見られていたというのは大きな問題です。鳳潭という、文献の徹底的な調査に基づいて、思想として従来の見方を変えていくという、近代の仏教学にもつながる大きな仕事をした学僧もいます。のちの荻生徂徠や本居宣長の研究に影響を与えたとも言われていますが、そういう人でも、項目はあってもほとんど名前も知られていないような状態でした。
近世の仏教者の著作は読むのが困難で、仏教学が専門の私でも十分に読みきれないややこしい議論もある。決して簡単にわかるものではないけれど、専門家がきちんと解読して、近世思想史の中に組み込んでいく作業が必要だと思います。
各地の民俗行事と仏教
末木 大谷さんは佛教大学で学生さんたちと一緒に調査をしているそうですが、若い人たちの仏教に関する反応はどうなんでしょうか。
大谷 私は所属が社会学部で、学生と一緒に京都の民俗行事のフィールドワークを行っています。五山の送り火や地蔵盆など、お盆の行事のフィールドワークをしたこともあります。五山の送り火は仏教と関連がつよく、8月16日の送り火は多くの山でお経をあげて火を付けます。特に仏教との関わりがつよいのが、妙法の送り火です。これは(公財)松ヶ崎立正会が管理・運営していて、会員は京都市左京区松ヶ崎にある涌泉寺という日蓮宗のお寺の檀家さんなんですね。もともと村全体が皆法華の地域でした。8月15日と16日の夜に、題目踊りとさし踊りが行われ、題目踊は日本でいちばん古い盆踊りと言われています。題目踊りは「南無妙法蓮華経」のお題目に節をつけて繰り返し唱え、『法華経』の功徳を讃歎しながら、太鼓の音に合わせて踊ります。題目踊りは保存会の人しか参加できず、さし踊りは誰でも参加できます。これらの踊りの現場を調査させていただくと、仏教に対する認識が改まる点がある。学説や教理レベルではなく、生活レベルの仏教のあり方を考えるのも大事なんだろうと思います。
今回「六道珍皇寺」が立項されました。京都の東山区にあるお寺で、お盆にお精霊さんをお迎えにいくお寺なんですね。お盆という観点から京都のお寺を見ると、観光寺院と違った見方もできます。
末木 たしかに地域によって、仏教に対する感覚がかなり違いますね。私も京都にも住んだことがありますが、地域差は大きい問題として考える必要があると思います。
菊地 民俗行事の調査の話が出ましたが、仏教民俗学は、30年前に比べて専門としている人が減っているんですよね。伝統的な民俗行事についての研究が過去の学問になったとも思えないんですが、正統教理との距離が仏教民俗にはありますし、そういう私たちが古くさく捨てたいと思っている伝統的な民俗を、若い人たちがかえって新鮮なものとして柔軟に受け入れる面もあります。今後のことを考えると、仏教民俗学の項目は、古い学問分野をもう一度新しい形でよみがえらせることを考えるきっかけにもなったかなと思います。
葬式仏教
末木 おっしゃる通り、仏教民俗学は現在、難しいところにありますね。民俗行事も変質し、昔ながらの行事もそのままにいかず、なかには新しく作られた行事もありますし、それをどう考えるのか。古いものを読むだけでなく、歴史的な問題を踏まえつつ、いまの問題を捉えようとするとき、「葬式仏教」という問題もあります。その「葬式仏教」さえも、葬式が簡略化され寺離れしていく中でどうなるのか、この項目を執筆された菊地さんにお話しいただけますか。
菊地 「葬式仏教」は、ある部分は仏教民俗からも考え直すべき問題ですが、歴史的には、鎌倉新仏教を頂点としてその後は堕落の一途という史観の問題でもあります。そこから、現代の葬式が意味もなく惰性で行われているという批判が出たわけです。最初に「葬式仏教」という言葉を使ったのは圭室諦成だと思いますが、この人は曹洞宗の僧侶であり、歴史学者でもあり、そう単純ではありません。一方で仏教が歴史的に堕落していくという史観に立ちながら、他方で現代の仏教に生き返ってほしいという気持ちもある。葬式という儀式は、おそらく21世紀に入ってから、単に批判のやり玉にあげられるだけではなく、これまでとは違った新しい意味を獲得している。
それから、仏教における遺体の取り扱い方の歴史。13世紀後半くらいまでは、ごく一部の上級権力者をのぞいて、遺体を驚くほどぞんざいに扱っていたんですね。そういう歴史を明らかにしていくと、単なる堕落の歴史ではなくて、遺体を大事にするようになる長い時間の経過もあり、日本独自の「舎利信仰(仏舎利・仏塔への信仰)」も出てきたりと、新しい発見がある。それで、「葬式仏教」の項目を仏教辞典に入れませんかと提案しました。
末木 今日のお寺離れにも長い歴史があって、「葬式仏教」ということばは、いまのお寺の役割、葬式の役割を考えるベースになります。
(2023年12月4日、岩波書店)
(おおたに えいいち・近代仏教)
(きくち ひろき・日本中世史・宗教史)
(すえき ふみひこ・仏教学)
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