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前田恭二 谷崎潤一郎の書簡と〝幻の人魚図〟[『図書』2024年2月号より]

谷崎潤一郎の書簡と〝幻の人魚図〟

 

 本年は近代日本に異彩を放った画家・文筆家、水島爾保布みずしまにおう(一八八四─一九五八年)の生誕百四十年にあたる。――と言われても、大方は戸惑うだろう。

水島爾保布(1925年、「婦人グラフ」2巻10号より)
水島爾保布(1925年、「婦人グラフ」2巻10号より)

 いやいや待て、そりゃ誰なんだ?

 誰だったかとなれば、画文両道、何でもござれの才人にして、異端癖と偏屈さから、文化史の裏街道に忘れ去られたね者、とでも言っておこうか。さほどの画業は残せず、むしろ挿絵や漫文漫画で渡世した。文筆の方でも、時事コラムに紀行、童話等を軽くこなしたが、大半はいわゆる雑文に類する。文豪、巨匠ならいざ知らず、生誕何年など話題にものぼらぬことは、この十年ほど軌跡をたどってきた筆者も、わかってはいる。

 その紹介に及ぶのは、実のところ、一九二三年の関東大震災から百年の節目だった昨年、水島の〝幻の震災体験記〟に着目した岩波ブックレット『関東大震災と流言』を刊行した縁による。

 幻の、というのは「愚漫大人見聞録ぐまんたいじんけんぶんろく」なるもので、本来は震災翌年の著書『新東京繁昌記しんとうきょうはんじょうき』の一篇だった。水島は自身の家郷たる東京・根岸がいかなる混乱に陥ったか、朝鮮人暴動の流言や暴力的な状況をもあけすけに詳述した。よって著書は即刻発禁、「見聞録」は改訂版で全文削除を余儀なくされた。「キジも鳴かずば」といったところだが、水島は生涯を通じ、書かでものことを平然と書いてしまう過剰さの持ち主だった。

 ともあれ先のブックレットでは、問題の一文を復刻・解説し、画家なのに、こんな文章も残していたんだね、といった感想を頂戴した。版元としても、何だかおもしろそうだとなったようで、改めてお座敷にあがり、この奇妙な才人を語ることになったのである。

 

 そのご厚意にむくいるべく、連載(全四回)の口開けに、ひとつ資料を公開させていただく。一九二一年と推定される、谷崎潤一郎の水島宛書簡である。

谷崎潤一郎の水島宛書簡(部分、1921年と推定)
谷崎潤一郎の水島宛書簡(部分、1921年と推定)

 ふたりはほぼ同世代、ともに生粋の東京人で、ことに異端的な耽美たんび趣味で相和あいわするところがあったのか、谷崎は装幀・挿画で水島と組んでいる。

 一九一九年刊、谷崎の奇譚二篇と妖艶な水島の絵からなる『人魚の嘆き・魔術師』は、近代日本屈指の挿絵本と言ってよく、ワイルド、ビアズリーの名作『サロメ』にすらなぞらえられた。以降もしばらく関係は続き、二一年、谷崎著『AとBの話』もまた水島の装幀である。

  

 谷崎研究の第一人者、千葉俊二氏にうかがうと、大正期の谷崎書簡は少ないのだという。内容からしても、当時は隔てのない間柄だったことをよく伝え、なおかつ『人魚の嘆き・魔術師』の後日譚にあたる記述が含まれているのだが、まずは書簡の全文を掲げてみる。

 御ハガキ拝見、僕は性来の筆不精でイツモイツモ御不沙汰ばかりして居ます、何卒不悪あしからず御免おゆるし下さい。しかし「我等」に毎月載つてゐる君の記事は毎度面白く読んで居ます。舊作きゅうさく「人魚の嘆き」の一場面御揮毫ごきごうの由お役に立てば結構に存じますが、アレは支那へ行く以前に書いたもので、近頃聊斉(ママ)異を読んで見ると、支那式空想の怪奇にして豊富なること驚くの外なく、今ならば何とかも少し書きやうがあつたやうに思ひます。御製作発表の日を楽しみにして御待ち申します。

 横浜へ御ついでがあつたらどうぞ御立ち寄り下さい。南京町の支那料理は前の日に注文して置くと旨いのがたべられます。小生先日犬に噛まれて十八日間注射の為めに目黒の伝研へ通つてゐます。東京が近くなつたので此れからはチヨイチヨイ出かけやうと思ひますからいづれそのうちお目に懸りませう。何かの会でもあつたらば御知らせ願ひます。

 先づは御返事旁〻かたがた御不沙汰の御詫びまで

 九月廿五日夕

 谷崎潤一郎  

 水島尓保布様

 本書簡は、水島の縁者宅に伝えられてきた。原稿用紙三枚に書かれ、封筒も現存する。消印は判読しにくいが、水島の住所「下谷区中根岸二九」、谷崎の「横浜本牧ほんもく宮原八八三」を踏まえ、これらの住所にそれぞれが居住した時期をクロスさせると、谷崎が本牧へ転居した直後、一九二一年九月二十五日の書簡と特定できる。これは翌十月、谷崎著『AとBの話』の刊行と重なる時期でもある。

谷崎潤一郎の水島宛書簡(部分と封筒、1921年と推定)

 言い添えておくと、筆者は年来準備してきた評伝『文画双絶 畸人水島爾保布の生涯』を白水社から上梓する。そのリサーチの過程で本書簡も拝見したのだったが、評伝の構成上、全文は掲載しにくく、こちらに掲載する次第である。

 以下、書簡に注記する形で、谷崎も愛読したコラムに触れ、その上で『人魚の嘆き・魔術師』の後日譚、すなわち〝幻の人魚図〟へ話を進めるとしよう。

 

 書簡の序盤、谷崎は「我等」に毎月載る水島の記事を、「毎度面白く読んで居ます」と伝えている。「我等」は大正デモクラシーを唱道した長谷川如是閑はせがわにょぜかん、大山郁夫の言論誌のこと。水島は如是閑に頼まれ、一九二〇年から「根岸より」と題し、時事コラムを連載していた。

 そこに至る前半生を略述すると、早熟かつ不遜な青年だった水島は、東京美術学校日本画撰科を出たあと、明治の末から大正初期は、画文ともに陰惨怪奇な世界に惑溺わくできしていた。絵については、美術学校時代の仲間と前衛的なグループ「行樹社こうじゅしゃ」を興し、文芸では同人誌「モザイク」を拠点とした。もっとも、絵が売れるでもなく、貧苦の末に一九一五年、やむなく大阪朝日新聞に入社する。

 この時、大阪朝日に在籍していて、上司となったのが如是閑だった。その知性には水島も敬服し、精勤した。一九一八年、如是閑は大阪朝日の筆禍をきっかけに辞職し、「我等」を創刊する。やや遅れて退社し、東京日日新聞社へ移った水島には連載コラムを任せた。画才だけでなく、文才を買っていたのである。

 硬派な誌面にあって、水島は内政外交から世相まで江戸前の冗舌体で迎え、いかがわしさを嘲弄し、痛快な啖呵たんかを連発した。頭も回れば、筆も立ち、コラムはたちまち評判となる。

 谷崎も読んだだろう一九二一年分からちょっと拾うと、三月号では、憲法学者の上杉慎吉をおちょくっている。「当代のノンセンス、リテラテユルの大家として我が尊敬する上杉博士」。かねて「国体精華の発揚」を呼号していた上杉をつかまえて、〝ナンセンス文学の大家〟呼ばわりである。はたまた七月号では、国産品の劣悪さをこき下ろす。その現状を顧みない輸入抑制策を念頭に、「日常物質にまで排外思想を土台にしてみだりに守銭奴的精神を鼓吹こすいするやうでは、人間の生活一国の文化なりの上に決していゝ結果は見られない」と断じている。

 

 書簡は続いて、「人魚の嘆き」のくだりとなる。水島の側から改めて一場面を描く構想を伝えたようで、谷崎は快諾している。ただ、目をひくのは自作を語る谷崎の口ぶりである。すでにこの頃、不満を覚えていたことがわかる。

『人魚の嘆き・魔術師』より
『人魚の嘆き・魔術師』より

 「人魚の嘆き」は、万事に飽いた南京の貴公子が美しき人魚に魅了される中国もので、初出は一九一七年にさかのぼる。ただし、書簡に「支那へ行く以前に書いた」とあるように、翌一八年、谷崎は中国を旅行し、京劇などを体験する。一九年には水島との挿絵本を世に送ったが、この書簡には、旧作に飽きたりなくなった決定的な一事が明かされている。

 近頃、『聊斎志異りょうさいしい』を読み、「支那式空想の怪奇にして豊富なること驚くの外なく」と谷崎は記す。これには意外の感を禁じ得ない。奇怪な物語を書き継ぎ、中国趣味を有しながら、この頃まで『聊斎志異』は読んでいなかったのである。先に繙読はんどくしていたのはむしろ水島の方で、大阪朝日に入社する一九一五年、うち二篇を絵物語にして載せている。

 なお、書簡にある「誌異」は誤記ではない。一九年に部分訳を上梓した柴田天馬しばたてんまも、序文で「誌」を用いている。

 

 ともあれ一九二一年、谷崎の側からすれば、もはや過去の一短篇でしかなかった「人魚の嘆き」を、なぜ水島はあえて画題に選んだのか。先回りして言えば、十月に開幕する第三回帝国美術院美術展覧会(帝展)に出品するためだったのだが、〝人魚の画家〟としての軌跡を知る身としては、そこに水島の不遇と意地とを見る思いがする。

 初めて人魚を描いたのは、一九一二年に旗揚げした日本画系のグループ、行樹社の第一回展の時のこと。軟体動物の触手めいたものに人魚が絡め取られ、深みへ引き込まれる耽美の図で、モノクロームの細密画だったことが知られる。

 行樹社は同時期、高村光太郎や岸田劉生たちが結集したフュウザン会と並称されもしたが、彼ら若い画家たちは権威的な文部省美術展覧会(文展)うとんじていた。ただ、水島の場合、それなりに文展にも出品していた。まかりまちがって入選でもすれば、生活の面では助かると思っていたのだろう。もっとも、落選続きだったことに変わりはない。

 食い詰めた揚げ句、大阪朝日に飛び込んだことは既述の通りで、その紙上でも何度か人魚図を描いている。その間に行樹社は自然消滅してしまう。

 展覧会には期待できず、水島はむしろ本の仕事に活路を求めた。東京日日に移った一九一九年の『人魚の嘆き・魔術師』は、人魚図の集大成にして、展覧会の絵ならぬ〝紙上の絵〟に賭ける覚悟に貫かれた仕事だったのである。

 ところが一九二〇年秋、思いがけないことが起きる。第二回帝展で、もはや縁なきものと思いかけていた官展初入選の報が届いたのである。その入選作「阿修羅のをどり」は当時の絵はがきが残るのみだが、六臂を旋回させて阿修羅が躍り上がる怪作である。文展から帝展へ移行し、審査体制が刷新されたことから、かろうじて拾われたようである。

「阿修羅のをどり」

 当時、水島が勤めていた東京日日は社内画家の入選をほまれと思ったか、日本画部門の批評を書かせた。十月二十六日付の初回、水島は「まぐれ当りに等しい怪しげな光栄を担つてゐる」身としては遠慮すべきだが、やらなければならなくなった、「これが所謂ジヤアナリズムといふものなのであらう」とこぼしている。

 それでも連載は五回に及び、妙に生硬な作品評を書き連ねているのだが、仔細に読んでみると、第二回帝展の話題作だったのに、水島が一言もしなかった絵がある。それというのは、鏑木清方かぶらききよかたの「妖魚」にほかならない。ご存じの方もあろう、いまに名高い人魚の絵である。

鏑木清方「妖魚」

 

 鏑木清方は元来、浮世絵の水野年方みずのとしかた門下として小説の挿絵・口絵、つまり紙上の絵から出発し、展覧会へ進出した人である。水島のように展覧会ではパッとせず、本の世界に甘んじる画家たちをよそに、文展で実績を積み、帝展審査委員となっていた。「妖魚」は、清方としては異色の作で、緑色鮮やかな岩に、人魚が乳房もあらわに身を横たえる。

 水島は、どんな思いで見ただろう。繰り返すまでもなく、自身得意の人魚図である。唐突ながら森鷗外『ヰタ・セクスアリス』の語彙を借りれば、「技癢ぎよう」を覚えたのではなかったか。夏目漱石の小説を読み、鷗外の分身たる金井君は技癢を感じる。要は腕のうずきである。

 果たして一年後、水島は挿絵本で好評を得た「人魚の嘆き」を題材に選び、第三回帝展に出品した。一九二一年九月の谷崎書簡は、制作に際し、水島が了解を求めたことへの返信である。谷崎はいまさら「人魚の嘆き」かと思いつつ、「御製作発表の日を楽しみにして御待ち申します」と書き送ったのだった。

 

 その結果はどうだったか。あえなく落選した。〝幻の人魚図〟に終わり、谷崎も見ることはなかっただろう。連続入選を狙った水島は「我等」十一月号のコラムで、帝展に当たり散らした。

 

 谷崎君の「人魚の(ママ)」からヒントを得てかいた人魚の画を帝展に出した。去年のより今年の方が余程いゝつもりだつたのだが、無条件で落選した。で、今年の展覧会は去年のよりも余程勝れたものが陳列されるに違ひない。誠におめでたい次第である。とはいふものの内心すこぶる不平だ。審査員なんて沢山さうにいつて一体どこへ目をつけてるんだらうとも思つた。俺の絵を落選させるやうな展覧会なんか、そんな展覧会を所有してゐる日本なんか、アメリカの飛行機から爆弾でもクラツてペシヤンコになつてしまへばいゝと思つた。

 

 水島らしい放言だが、ここで強調しておくと、第二回帝展で入選した際、多少舞い上がったふしはあるにせよ、コラムでは自慢のひとつも書いてはいない。

 それが落選したとなると、皮肉と啖呵をないまぜに笑わせる。野暮にのさばることなく、むしろ八方破れの自嘲を選ぶ人となりを、筆者は愛してやまない。

(まえだ きょうじ・日本近現代美術史)


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