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思想の言葉:竹中千春【『思想』2024年4月号 特集|危機の世紀】

◇目次◇

【特集】危機の世紀

思想の言葉 竹中千春

特集にあたって
──空白,辺境,そして地下から
諫早庸一

「14世紀の危機」の語り方
──ヨーロッパ到来以前の黒死病
諫早庸一

15世紀の危機と17世紀の危機
──東アジアを中心に
中島楽章

長い20世紀の終焉
長縄宣博

 

思考中華民国・序論
──原点から出発する思考(上)
楊儒賓/丸川哲史訳

『思想』総目次 第1101-1200号(2016年1月2024年4月)

執筆者索引

 
◇思想の言葉◇

複合危機の二一世紀──誰が人間を救うか

竹中千春

 E・J・ホブズボームは「長い一九世紀」を『革命の時代一七八九―一八四八』『資本の時代一八四八―一八七五』『帝国の時代一八七五―一九一四』に区分し、一九一四年から一九九一年の「短い二〇世紀」を『二〇世紀の歴史両極端の時代』と題して、産業革命とフランス革命以後の激動の数世紀を叙述した。重なる時代をヨーロッパの植民地主義がアジアやアフリカを政治・経済的にのみならず文化的にも従属させた世紀として『オリエンタリズム』を著したE・W・サイードは、ホブズボームの仕事を評価しつつ、そのヨーロッパ中心主義を突いた。二人の巨匠はいずれも現代世界を冷厳に捉え、ホブズボームは国家社会主義、資本主義、ナショナリズムの失敗の軌跡を辿り、後年のサイードはアメリカの覇権の下でのイスラエルと故郷パレスチナの悲劇を綴った。

 ホブズボームは次の世紀に期待したいと『両極端の時代』の序章を括ったが、現実は厳しい。冷戦期からの古い問題が解決しないまま、グローバリゼーション時代の問題が噴出する四半世紀であった。米国同時テロとアフガニスタンとイラクにおける対テロ戦争、世界金融危機と世界経済の低迷、「アラブの春」や香港の雨傘運動などの民主化の挫折、シリア内戦の激化と「イスラーム国(IS)」の登場、越境テロと移民・難民の波、EUの動揺とブレグジット、アメリカ・ファーストを掲げるトランプ政権、BRICSを成すロシア・中国・インドの権威主義化と軍事大国化など、深刻な危機が続く。地球環境の変化とともに大規模災害も頻発する。

 二〇二〇年代には新型コロナウィルスのパンデミックが起こり、世界で七〇〇万人以上、アメリカでは一〇〇万人以上が亡くなり、サプライチェーンの寸断と国際支援の不足が世界各地の貧困を加速させ、女性や子どもの生命と人権が脅かされた。二〇二二年二月ロシアのウクライナ侵攻後、膨大な数の兵士や民間人の命が奪われ、エネルギーと食糧供給の危機が生じた。二〇二三年一〇月イスラーム組織ハマスのイスラエル人拉致事件から紛争が再燃し、ガザ地区へのイスラエルの攻撃で死傷者は増加の一途を辿っている。G7もNATOも国際連合も抑止できず、複数の危機が連鎖して多次元的に襲いかかる様子は「グローバルな津波」とも呼ばれる。世界経済フォーラムの『グローバルリスク報告書二〇二三年版』が「複合危機(polycrisis)」という新語を掲げてたちまち流行し、その前年にはグテーレス国連事務総長がウクライナ戦争で複合危機が加速し、世界の貧しい人々が苦境に陥ったと訴え、ユニセフや国際NGOは複合危機から子どもたちを守る方針を打ち出した。

 それでは、「危機(crisis)」とは何か。「判決を下す」という意のギリシア語を語源とし、『メリアム・ウェブスターズ英英辞典』は「病状の急変するとき」という医学用語に次いで、金融危機やエネルギー危機のように「決定的変化の迫る不安定で深刻なときや状況」と説明する。『ケンブリッジ英英辞典』は「論争と混乱と苦難の時代」とし、多くの問題が同時に起こって大規模な影響をもたらすものを「複合危機」と示す。今や「危機管理(crisis management)」のための政策研究や経営戦略が大学や社会人講座で人気を博している。もっとも、政府や企業にとって短時間に安価で解決可能な「危機」ならよいが、多くの国や企業の長期的な協力が必要で膨大なコストのかかる「危機」は敬遠されやすい。気候変動と地球環境問題はそうした危機の典型であり、科学者の一致した予測にもかかわらず対策は進まず、国際協力は先細りの様相だ。人類は生き残れるのか。

 だが、不安の根源はもっと内在的なものかもしれない。人々が知恵を出し合い協力して事態を改善できると信じられるならば、辛い試練も乗り越えられそうだ。しかし、そのような人間への信頼を抱きにくい時代となっている。みんな自分勝手だ、金持ちや権力者だけが得をしそうだ、と。インターネットやSNSでの人権侵害や犯罪が起こり、チャットGPTやロボットなどのAIが脅威となり、科学技術の進化も安心につながらない。人間としての自信の喪失とヒューマニズムへの失望が、危機感の深層にある。未来が見通せない。

 今日の状況は一九三〇年代の「危機の時代」に似ていると言われる。イタリアでムッソリーニの独裁が強まり、ドイツでナチスの第三帝国が樹立され、大日本帝国が軍国主義への道を走り、第二次世界大戦へと向かう時代だ。なぜ国際平和と民主主義の打倒を叫ぶ独裁や権威主義が人気を集めたか。なぜ国民の多くが侵略戦争とジェノサイドを担ったか。異を唱える知識人は国外に避難するか、収容所や戦場に送られたが、生き延びた人々がこの問いと格闘した。大学生のころ、E・フロム『自由からの逃走』(一九四一年)、H・アーレント『全体主義の起源』(一九五一年)、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(一九四六年)などを友人と読んだ。世の変転に不安を抱える人々が昔は良かったと憤り、反対派や外国人やマイノリティや女性や障害を持つ人々などを排除し、大国の栄光を唱える指導者の下で戦争へと突き進む―このような仮説が、さまざまな方法で分析され、鋭く現実を捉える概念が提起され、新しい学問領域が開拓された。私たちが学ぶべき先達の「知」だ。

 さて、どうすれば凶暴な不安を抑制し、人間への信頼と優しさを取り戻せるか。地域研究に携わってきた著者にとって、鍵はインドと南アジアへの旅にあった。国際協力の夢が吹き飛びそうな紛争地域、貧しい農村、大都市のスラム。弱者が弱者を搾取し女性や子どもを虐める暴力的な社会。政府が人々を蹂躙し、メディアやNGOも入れず、住民が武装集団や暴力団を頼みにせざるをえない孤立した社会。自殺が頻発する社会。しかし、人々は諦めない。暴力や貧困から家族を守り、子育てに尽力する。NGOにつながり、一票を投じて民主主義を使い、専門家の支援を得てメディアや法廷で争う。必要なら逃げ出す。非暴力的な戦いの現場である。

 二〇〇六年、盗賊も出没する北インドの農村地帯に女性NGOを訪れた。女性に対する暴力の「被害者(victim)」への対策について尋ねたとき、ボランティアの女性が「私たちは犠牲者ではありません、サバイバー(survivor)です」と笑顔で諭し、苦難を乗り越えてきたサバイバーの誇りを持っています、と語ってくれた。紛争研究やジェンダー研究で「被害者」や「サバイバー」という概念を知っていたはずなのに、私はまるでわかっていなかった。優秀なソーシャルワーカーの設立したNGOに集い、世界女性会議や女性差別撤廃条約、人権と性暴力とアドヴォカシー、マイクロクレジット、公衆衛生や生産技術の知識を学ぶ女性たち。識字教育や学校教育にも加わる。国際社会や市民社会からの新鮮な思想と言葉が人々の思いとつながり、その生き方を変え、社会を改革する。「知」は力なり!

 インドの誇る世界的知性アマルティア・センは、教育・土地改革・女性参加を促し、医療を含む公共サーヴィスに投資したインド・ケーララ州の開発モデルを提唱し、人間的な成長と豊かさを醸成する政治的決定とコミュニティの重要性を指摘した。彼の潜在能力アプローチは冷戦後の国連開発計画(UNDP)の人間開発政策に生かされ、一九九八年にノーベル経済学賞に輝き、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を率いた緒方貞子氏とともに国連の人間の安全保障委員会の共同議長を務めた。二〇一一年の講演で、問題を解くのは「知」の創造と人々の共同作業だとし、排他的なアイデンティティで対立を煽るテロリズムと大国の武力行使を批判し、人々が互いを尊敬し理解し合う土台の上で自由な対話と討議を実践する民主主義を通してこそ、市民的な平和が築かれると説いた。現在もセンは、コルカタのアマルティア・セン研究センターで温室効果ガスの削減に役立つマイクロソーラー・ソリューションズの企画を進め、農村で実用可能な技術の開発に尽力している。

 地上のどんな生き物も生命の危機に晒されてきたが、人間だけが思想の言葉を「知」の道具に変えて共同体を構築し、無数の危機を打開して繁栄を実現した。耐えがたい苦悩の中から画期的な思想と言葉が生み出されてきた。「はじめに言があった」の一文から始まるヨハネによる福音書は、ローマ帝国の弾圧と離散の時代に書かれたという。ヨーロッパの中世末期から近代初期の混乱と戦争の数世紀に、イスラーム文明や古代文明に触発されながら、人間中心のルネサンス思想と芸術が誕生した。一九世紀後半から二〇世紀、列強の植民地支配に苦しむアジアやアフリカの人々は西欧の力に抗し、自由をめざすナショナリズムの思想と言葉を編み出した。ガンディーのサッティヤーグラハも一例である。ホロコーストから生還して強制収容所の心理学を『夜と霧』(一九四七年)に著したV・フランクルは、人間は苦悩する能力を備える存在であり、「人生の意味」を示す言葉に出会い、自身の責任ある生き方を悟ったとき、絶望的状況でさえ人間的に生き抜くことができると論じた。

 複合危機の時代だからこそ、問題解決を導く新しい「知」を共同で模索する作業が急務である。センは、国境や文明を超えた自由な交流によって危機を克服するための豊かな「知」を生み出してきたのが人類の歴史だと説く。人間とその社会を自ら救う、二一世紀の思想の言葉が求められている。

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