熊野純彦 語学との付き合い、思い出すまま[『図書』2024年6月号より]
語学との付き合い、思い出すまま
気がつくと、けっこうな数の翻訳書を出して頂いてきた。どれも西洋哲学史上の古典を訳しなおしたものであるが、それでも翻訳は翻訳である。べつに本邦初訳というわけではないから、はたから見ると「なんでまた」という疑問をぶつけたくなるものらしい。
先日も、とある若い同業者と話をしていて、やや皮肉な口調で「翻訳お好きですね」と言われた。「う~ん」と唸っていると、さらに重ねて「語学お得意なんですよね」とも言われたものである。揶揄する調子がすこしばかり混じっていたような気がしたのは、考えすぎかもしれない。
前者の問いについては、すぐには答えにくいところもある。欧語の思考のすじみちを邦語の文脈に置き換えてゆくことには楽しいところもあり、ひどく苦しいこともある。後者の感想にかんしてなら、ただちに答えることができる。そんなことはありません。
語学が得意であることのうちには、今日ではふつう、会話に堪能であることも含まれているように思われる。そうであるとすれば、ことはきわめて簡単で、わたしはまったく語学ができない。英語であれ、フランス語、ドイツ語のいずれであっても、挨拶ひとつ満足に交わせないし、まして母語の話者を相手に議論など戦わせたこともない。
連れ合いと暮らしはじめて間もなく、海外赴任中の縁者を訪ねて、ふたりでニューヨークに物見遊山の旅に出たことがある。たぶん三十になる年であったろう、飛行機に乗ることすら、恥ずかしながらはじめての体験だった。JFK空港に到着したとき、にこやかにgood byと言ってくれた、中国系と思われる客室乗務員に対して、I appreciate your serviceと答えたのが、旅行中ただ一回くちにした、片言の現地語である(ところでこの英語は正しいのだろうか?)。一件をめぐって、いまでもときどき連れ合いに揶揄われ、ときにまた絡まれる。
東京大学に籍を置いていたとき、図書館の責任者となったことがある。その任についたばかりの最初の仕事が、ロックフェラー家の一員を案内して、総合図書館を見学してもらうことだった。二〇一八年の、たしか四月二日のことである。一部ではよく知られているように、かつての東京帝国大学の附属図書館は関東大震災で壊滅した。その後ロックフェラー財団の援助によって再建されたのが、現在の附属総合図書館である。その縁で、該財団の何代目かの後継者が、来日した機会に寄附先を訪問したわけである。わたしにとっては迷惑というほかなかったが、東大にとっては賓客といわなければならない。正直あたまを抱える思いであったけれども、結局わたしが当日くちにした英語は、nice to meet youただひとことだった。そのあとは有能な文学部同僚一名(当時、理事・副学長だった白波瀬佐和子氏)と、おなじく有能な図書館職員一名に、先方のお相手を務めて頂いたおかげである。昭和初年以来の建物の内部や、ようやく竣工間近であった地下書庫なども案内したが、わたしの英語力で最新の機械設備など説明できる道理もなく、同僚ならびに職員の方々にはふかく感謝している。
といったことはべつとして、以下、外国語にまつわる思い出を書きとめておきたい。いまさらそんなむかし話を、とも思うけれど、そうした記憶をいくらか虫干ししておきたくなる歳になってしまったらしい。右にふれたしだいであるので、以下しるすことがらは、ひとえに外国語を読む側面にかぎられる。あらかじめお断りしておきたい。
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英語が不得意科目というわけではなかった。受験勉強の一環として、ペーパーバックの何冊かを手にしたこともある。通読したのは(こんな遠い記憶を、文字にするのも口にするのもはじめてだが)、E・H・カーの歴史学入門書であり、エーリッヒ・フロムの英文著作の何冊かであり、あるいはT・S・エリオットの評論であった。最後のものについてひとことだけ付けくわえておくと、そのころ田村隆一や鮎川信夫に親しんでいて、『荒地』という雑誌名からエリオットの代表作に辿りつき、そのはずみでThe Sacred WoodやらChristianity and Cultureやらに出会ったということである。
大学に入り、やはり英語の授業もあって、考えてみれば幸運なことに、英文学者の高橋康也先生にジョン・ダンの詩をお習いし、経済学者の早坂忠先生にホワイトヘッドの科学史的な論文集を読んで頂いた。高橋先生は学生のとんでもない間違いにも怒ることなく、淡々と訳読を進められていた。あまり授業に出なかったのはいまから思うに残念であるが、たまさか出席したさい、「マンドラゴラ」ということばが出てきて、「興味のあるひとは澁澤龍彥さんのご本でも読んでください」と言われたのが記憶に残っている。早坂先生はとつぜん休講されることがあり、学生のあいだでいろいろな噂が流れた。あとで知ったことだが、先生は駒場三酒豪のおひとりだったそうである。
研究者を目ざすようになってから、渡米後のアルフレッド・シュッツの論文、おなじくエルンスト・カッシーラーの著作などをべつとして、英語文献にはあまり接してこなかったので、もしかして十七、八の時代が英語力のピークだったかもしれない。カッシーラーについては『国家と神話』を岩波文庫から出して頂いたが(上下巻、二〇二一年)、シュッツにしろ、カッシーラーにしても、典型的な亡命ドイツ(語)人の英語であって、きっすいの英語そのものに親しんだとは言えないような気がする。
そのころは第二外国語といったろうか、ともあれ、大学に入ってはじめて接した外国語はドイツ語で、小野寺和夫先生に初等文法を教わった。ご自身が著わした、たしか『小ドイツ語文法』(三修社)というのが教科書で、いまから思うに、半年の授業で終わるように配慮された、数十頁のコンパクトな本であったわりに、接続法第二式まで網羅する優れた入門書だったような気がする。そんな書名をここで挙げられるのは、おそらく小野寺先生には不本意なことで、先生の主著は、思うに『ドイツ語不変化詞辞典』(白水社)ということになるのだろう。大学院入試に備えて、すこしばかり受験勉強めいたものをはじめたときには、当時としてはありふれた選択であったと思うが、「基礎入門編」「訳読編」「文法詳説編」からなる関口存男『新ドイツ語大講座』一巻本(三修社)を入手して、それなりに精読した。同書はまだ手もとにあって、ごくたまに開いてみることがある。
フランス語は第三外国語の授業に一回だけ顔を出してみたものの、教室からは足が遠のいてしまった。担当のX先生は、当時たしかNHK教育テレビの講座も担当しておられたが、わたしには先生の「フランス語愛」が苦手で、早々に退散した。これはいまでも悔やまれるところで、そのせいでフランス語(だけではないが)の発音が身につかなかった。その後いくどか独学で、読解のため(だけ)のフランス語の習得に挑戦して、何度目かでいちおうテクストだけは読めるようになった(と思う)けれど、フランス哲学の専門家やフランス文学出身者に対していまでも気後れするところがあるのは、フランス語からの逃亡兵めいた過去があるからかもしれない。ちなみに独学の過程で手にとった何冊かの教科書のなかで、身についたと思われるのは松井三郎・原田武著『仏文解釈の初歩』(白水社)で、いちばん忘れがたいのは川本茂雄『高等佛文和訳演習』(大学書林)である。とりわけ後者の懇切丁寧な説明は、独学者にはありがたいかぎりであった。そうした経緯だから、仏文で書かれたレヴィナスが、最初の翻訳書となるとは思わなかった。『全体性と無限』(上下巻、岩波文庫、二〇〇五―六年)を訳したときには、文字どおり手さぐりの作業であったが、そのあと『物質と記憶』(岩波文庫、二〇一五年)の翻訳もこころみ、ベルクソンの名文に導かれて、仏文を訳する呼吸めいたものをじぶんなりに修得したような気がする。
第三外国語から早々に逃亡したといえば、もうひとつ慚愧の念に堪えないのが、古典ギリシア語についてである。二年になってから、第一回目の教室を覗いてみたのだけれども、担当のY先生となんとなく気が合わなそうな感じがして、二回目以降の授業に出るのをやめてしまった。悪戦苦闘を重ねていくどか独学に挑んだけれど、結局あまり身につかなかった。そのころだれでもそうしたとおり、田中美知太郎・松平千秋『ギリシア語入門』(岩波全書)をなんどか通読したが、原典一冊を読みとおすほどの語学力をつけるには至らなかった。ただ、何度目かの挑戦でべつに手にした高津春繁『基礎ギリシア語文法』(北星堂書店)はいまでも懐かしい。文法と読本とが一冊になった構成で、特徴あるギリシア語入門書として、現在でもなお復刻される価値があるのではないかと思っている。ただし、わたしなどがそう書いてみたところで、おそらくなんの説得力もないだろう。
ラテン語は、一年生のときに土岐健治先生の授業を取っている。教科書は、そのころたいていの大学で採用されていた入門書で、松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』(南江堂)であった。土岐先生は篤実な新約学者で、ギリシア語の講師も兼ねていた。晴れの日も雨の日もゴム長を履いて、教壇に立っておられたのが忘れがたい。もしかすると、大学一年目でいちばん真面目に出席した講義かもしれない。第一回目に先生が「ラテン語は修得するのに半生を費やし、覚えているためにあとの半生を要する言語と言われています」と説かれたのを記憶している。このことばを忘れがたいのは、それがただの事実だったからであり、記憶にまちがいがないのは、先日、たまたまおなじ授業を取っていた野崎歓氏の証言もえられたからである。──この一月にカント『人倫の形而上学 第一部 法論の形而上学的原理』を岩波文庫から出して頂いたが、同書の本文には多くのラテン語が埋め込まれている。翻訳の過程で思い知ったが、わたしのラテン語は錆びついていたどころか、鞘を払うのにも難儀するほどだった。トマス『神学大全』などには多少とも継続して親しんできたけれども、スコラのラテン語にかぎってほんのすこし馴染んでいるだけの者にとっては、古典ラテン語や、ルネサンス期のそれはもとより、初期カントのラテン語にしても、慣れないうちはまるで暗号のように感じられるものである。
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文法の修得と文献の読解とのあいだには、多くの場合かなりの距離がある。一所懸命に文法を覚えても、いざ古典文献を読もうとすると手も足もでないことが少なくはない。どうやってこの壁を乗り越えるかはひとそれぞれだろうが、わたしの場合、ひどく乱暴な方法に訴えることになった。半年でドイツ語の初等文法を終えてすぐ、カントの『純粋理性批判』を読みはじめたのである。
まずドイツ語テクストを一ページ読み(あるいは眺め)、すぐに翻訳文を熟読してから、もういちど原文に立ちもどってみる。「初版への序文」からはじめて、例の空間論に辿りついたところで(もっとも一般的な原文テクストで六〇ページくらいまで到達した地点である)、ようやく補助輪を外し、つまり翻訳から離れて原文テクストを理解しはじめたような記憶がある。それは、自転車の練習をしていて、あるとき突然「じぶんで漕いでる!」と実感したのに似た感覚で、いまも忘れがたい。これもあとで知ったのだけれど、わたしが選択した方策は小林秀雄の読書術にも近かったようである。
加藤周一が旧制高校の学生だったとき、一日一冊の読了を目ざして、そのため結果的に、日本語で書かれた(あるいは日本語に訳された)薄い本ばかりを選ぶことになったそうである。あるとき小林が一高の講演会に招かれ、外国語であれ、いちにち一冊くらい読みあげるのでなければ、そもそも語学として用をなさない、そうした伎倆を身につけるには、訳文を一ページ読み、そのあと対応する原文を読むことを、まいにち一冊ずつ一年くりかえせば十分だ、と弁じたそうである。加藤氏のエッセイ集『読書術』(岩波書店・同時代ライブラリー、一九九三年)で触れられている。じぶんなりの工夫とばかり思っていたが、存外むかしから受けつがれてきた(あるいは旧制高校的で、いささか野蛮な)智慧なのかもしれない。語学・文学研究者には怒られてしまうと思うし、大っぴらに語ってはいけない手だてかとも思われるけれど、職業上の秘密(というほどのものでもない)を、ひとつくらい書いておく。
丸山眞男は、新入生へのメッセージといった体裁を取った小文で、なるべく辞書を引かず、前後から意味を推測することを心がけながら、ともかく原書を一冊よみ上げてみる、という方法を勧めている。一文は『戦中と戦後の間』(一九七六年)に収められていて、同書がみすず書房から出版されてすぐ、高校三年のときに読んで印象に残った。丸山は、カントだのヘーゲルだのといった哲学書はやめておいたほうがいい、まず手に取るのは歴史書がいい、とも書いている。旧制高等学校的なものに対する、この思想史家の違和感が見てとられるところかもしれない。おっしゃるとおり、といまは思っている。
(くまの すみひこ・倫理学、哲学史)