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伏見操 星屑のひとりとして思うこと[『図書』2024年9月号より]

星屑のひとりとして思うこと

──『僕たちは星屑でできている』を読んで

 

 去年の九月から、アフリカ出身の難民男性Pさんが、私の両親といっしょに実家で暮らしている。ウィシュマさん名古屋入管死亡事件をきっかけに、私は入管施設に収容されている人々の状況、難民申請者や仮放免者が置かれている状況を知った。こんなことが日本で行われているなんて。それを知りもしなかったなんて。大きな衝撃を受け、何かできることはないだろうかと、ずっと考えていた。

 私の両親は心身に不自由がある。父は脳溢血で半身麻痺、母は交通事故で頭を強打。なんとか二人で暮らしてきたが、年齢を重ね、それが難しくなってきた。とはいえ、二人とも、どう控えめに言っても相当な変わり者。介護施設で暮らせるような性格ではないけれど、オープンではある。ならば実家の空き部屋に、仮放免者に来てもらったらどうか。仮放免者は働く権利を与えられていないうえに、医療保険にも入れない。病気になると一〇〇%から二〇〇%もの医療費を支払わなくてはならないという、極度に不安定な生活を強いられている。両親が住まいと食事を提供し、仮放免者に、必要な時に身の回りの手伝いをしてもらうのはどうだろう。弱い立場にいる者同士、できることで支え合えないものか。

 知り合いに難民支援団体を紹介してもらって、出会ったのが、Pさんだった。一〇年以上暮らしたシェアハウスから急に立ち退きを迫られ、行き場を失っていた。ぱっちりした目、ころんとした体つき、のんびりした口調。大きなクマのぬいぐるみのような雰囲気があり、彼がボランティアで小学校へ行くと、自閉症の子どももくっついてくるという。

 Pさんが三人の支援者に付き添われて、実家に顔合わせに来たのは、ひどく暑い日だった。みんなが来る前に実家をのぞくと、父はパンツ姿だった。「この格好でいいか」と聞かれ、「支援者さんの中には女性もいるよ」とたしなめたが、父は「オレは気にしねえ」。

 椅子が足りないので、初対面のPさんたちは、踏み台や半分壊れた椅子に座らされた。その前で、パンツ姿の父は延々と自分の話をして(ほとんどが自慢話)、Pさんの話はいっさい聞かなかった。

 Pさんたちを二階の部屋に案内してから、一階に戻ると、お茶の入っていた茶碗には、さっきいただいた花束の花が一輪ずつ挿してあった。花瓶代わりに母が挿したのだろう。

 そんな出会いなのに、どういうわけかPさんは両親を気に入った。そして「お父さん、お母さん」と呼んで心を許し、仲良く暮らし始めた。

 もちろん、生まれた場所も生きてきた環境もまったくちがうから、何度もすったもんだはあった。でも、最大のうれしい驚きは、互いを本気で好きになったことだ。三人ともマイペースで、性が合っていたこともあるだろう。けれど何より、どんなに心身が不自由でも、制限された立場でも、だれかの役に立ち、支えになっていることは、生きていくうえでとても大切だ。日々できないことが増えていく父母にとって、Pさんの存在は心強い。同情ではなく、Pさんを本当に必要としている。一方、父親を惨殺され、息子を失い、ずっと一人で暮らしてきたPさんも、愛をまっすぐ注げる相手ができたことは、大きな救いだったのかもしれない。

 しかもこの老夫婦と黒人のでこぼこトリオ、することが猛烈におもしろい。いっしょに多言語教室を開いたり(すぐ閉めた)、お弁当屋を開く計画を練ったり、音信不通の弟にPさんが連絡を取ろうとしたり。話を聞くたびに、何かが起こっていて、私はびっくりするやら、おかしいやら。

 また私は、Pさんを紹介してくれた支援者たちを通して、ほかのアフリカからの難民申請者たちにも出会った。それまでアフリカは、私にとって遠く、縁のない場所だった。しかし、コンゴ民主共和国の人たちと話すうちに、彼らが逃げてくる最大の原因はコンゴの豊富な地下資源──中でも私たちのスマホやパソコンに不可欠なタンタル、リチウムイオン電池の材料コバルトといったレアメタルにあることを知った。コンゴの天然資源は全世界の垂涎(すいぜん)の的。先進国と大手企業が群がり、独裁政権をさらに肥えさせ、民衆を苦しめる。「アフリカの世界大戦」と呼ばれるコンゴ紛争は、犠牲者数が推定六〇〇万人以上にのぼり、第二次世界大戦後の紛争では最多だ。日々使っているものがどんな原料で、どうやって作られているか、考えたこともなかった自分を恥じた。私にも、「知らなかった」ことを含め、紛争の責任の一端がある。

 そんな時に手に取ったのが、『僕たちは星屑でできている』(マンジート・マン作、長友恵子訳、岩波書店)だった。一七歳のエリトリア人の主人公サミーが、周囲にいる難民申請者に重なり、一気に読んだ。エリトリアは「世界最悪の独立国家」「アフリカの北朝鮮」とも呼ばれ、独立した報道機関はなく、国民は男女ともに無期限の兵役につかされる。職業も政府が決め、拒めば拷問。サミーの父は政府に抵抗し、殺された。サミーは兵役を逃れ、親友と二人でイギリスを目指す。

STAMP BOOKS 僕たちは星屑でできている 	マンジート・マン 作 , 長友恵子 訳

 本を読み終えた時、私はあまりの不条理さに、「なぜ、なぜ、なぜ……」という思いがとまらなかった。わずか一七歳の少年がなぜこんな思いをしなくてはならないのか。父をすぐそばで殺され、愛する母に会うことも、家に戻ることも、二度とできない。何度も死にかけ、拷問を受け、恐怖におののき、傷だらけになりながら、それでもひたすら前に進む。

 「とどまるより 死ぬほうがいい。/命の/危険を/おかして 生きるんだ」

 ほんの偶然──例えばボートのどこに座るか、どんな天候か、誰と出会うか──で生死が決まってしまう。人としての尊厳はいっさいない。「密航者の運び屋にとって/僕たちは1人あたりいくらでしかない。/死んでいようと生きていようとかまわない」のだ。

 どんなに胸に希望や愛情ややさしさがあふれていても、まるで虫けらのように、ここがどこかもわからない砂漠や海の真ん中で、ばたばたと命を落としていく。そしてそんな彼らは「記事になってだれかに読まれることもないし、/愛する人たちがその人たちの行方を知ることは決してない」。

 私は何度も息がつまり、ページをめくる手を止めた。サミーに起こったすべてが、Pさんや出会ったアフリカの人たちに重なった。ああ、彼らはこんな思いをして、遠い日本まで逃げてきたのか。母国でどんな経験をしたのか、両親も私も、Pさんから詳しく聞いたことはない。「死んだ人の話、したくない。眠れなくなっちゃうから」と、顔をこわばらせるからだ。

 やっとのことで日本にたどり着いたPさんたちを、入管のシステムがさらに苦しめる。Pさんの担当弁護士は、「Pさんは、日本以外のどんな国でも、難民認定されるケース。国際水準の難民認定のハードルが腰の高さぐらいなら、日本のそれは一〇階建てのビル以上。絶対に越えられない」と言う。

 サミーは悪夢のような旅を経て、フランスで難民申請をする。

 「(申請時に)質問をあびせてくるここの人たちによれば、/エリトリアという国は、/徴兵と/無期限の強制労働を/行なっているあの国は、/(略)裁判なしで/国民を刑務所に入れ/拷問にかけることができるあの国は、/(略)危険な/国では/ない/のだから」

 「幸運にも/レッテルを貼る側の人間であれば、/簡単に優位に立てる。/国外への移住は/基本的人権のひとつだというのに。/でもそれを手に入れるには/それにふさわしい人間じゃなきゃいけないんだ」

 なぜサミーやPさんがこんな経験をしなければならないのか。なぜ私はそれをせずに済んでいるのか。すべてはただの偶然にすぎない。生まれる国や時代、家族は選べない。ならば私がPさんだったかも、サミーだったかもしれないのだ。

 この本にはもうひとり、主人公がいる。一六歳のイギリス人の少女ナタリーだ。母を病気で失ったばかりで、家族は悲しみに打ちのめされている。そこに追い打ちをかけるように、家賃の高額な値上げがあり、一家は母との思い出が詰まったアパートを追い出される。いくら探しても仕事が見つからない兄ライアンは、あまりの不条理に怒り、その矛先を、イギリスにやってくる難民たちに向けるようになる。なぜ難民は支援を受けられるのに、自分たちはないがしろにされるのか。この国に生まれた人間が優先されるべきではないのか。そして極右集団に近づいていく。

 私も難民の話をする時、周囲で似たような言葉を耳にしたことがある。

 「日本人でも困っている人がいるのに、なぜ外国人を助けるの?」

 でも本来は、「どちらか」ではなく、すべての人が救われるべきだ。それができないのは、ライアンや難民といった個人のせいではなく、「システム」や「格差」のせいではないか。

 ナタリーたちの高校で、ヘイトクライムが増えている理由について、先生が話す場面がある。

 「理由はひとつではないけれど、声を上げられないとか/自分が『生まれ育った』国で二流市民であるように感じられた人たちが、/極右グループに加わることはよくあるの」

 「彼らは差別されているように感じ、/取り残されたと怒っている。/政治は持てる者と持たざる者とのあいだに/より大きな格差を生み、/そして/もともと持たざる者だった人は、/責任を負わせるだれかを/探しはじめる」

 時に私たちは、「難民」「日本人」のように、大きな主語で話してしまうことがある。すると「個」や「ニュアンス」が全部こぼれ落ち、結果として、二極化が起こり、分断が生まれる。自分か相手か、敗者か勝者か、善か悪か。ものを「こっち」と「あっち」に分けてしまえば、とてもわかりやすい。でも人間も世界も、それほど単純ではない。わからないものをわからないまま抱えつづけ、考えつづけていくことが大切なのではないだろうか。

 二〇二一年のウィシュマさんの死亡事件は日本中で物議をかもし、すでに数々の問題点が指摘されていた入管法改正法案は、廃案に追い込まれた。にもかかわらず、それから二年以上が過ぎた二〇二三年、再びその法案が通常国会に提出され、可決されてしまった。「改正入管法」には三回目以降の難民申請者を、申請中であっても、強制送還できると明記されている(六十一条の二の九第四項)。実家で暮らすPさんは、すでに難民申請を三度却下されている。まさに強制送還の対象だ。彼は帰国したら、命の危険がある。

 今年六月の入管法の施行直後から、入管に来た仮放免者に「送還に関するお知らせ」という紙が配られるようになった。一行目に、「あなたに退去強制令書が発布されました。この命令書により、あなたには日本からの退去強制の手続が取られることになります」と書かれている。その写真を見た時、わたしは胸がぎゅっとなった。ただでさえ制限だらけの長い生活の末に、これを渡され、どうやって人間の尊厳を保ち、心を保ち、生きていくのか。もしも相手を「仮放免者」ではなく、ひとりの人間として扱っていたら、とてもこんなことは書けないのではないか。

 愛する息子を送り出す時、サミーのお母さんは言う。

 「忘れないで。/愛することを、/自分の価値を、/自分がだれで、/どう感じるかを。/恐ろしい光景を見たとき──/きっと見ることになるから──/こうしたことはすぐに忘れられてしまうことだからね」

 私はここを読むと、泣きたくなる。そしてPさんが、取材に訪れた記者から「日本人に言いたいことはありますか?」と聞かれた時に、「大好きです」と笑っていたのを思い出す。

 私たちは、身にまとっているこの布ひとつ、自分で作ることはできない。他と関わり合わずに暮らすことは不可能なのだ。サミーはナタリーに言う。

 「僕たちみんな、つながってるんだ。/(略)僕たちは星から生まれた。/僕たちみんな、同じ星屑でできてるんだ」

 登場人物に心を重ね、その後ろにいる多くの人たちに思いを馳せることができるのが文学の力だ。事実を伝えるジャーナリズムとはちがった役割が、文学にはある。サミーの物語を読みながら、私たちはサミーの後ろにいる、彼と同じように命がけで国を逃れ、海を渡るたくさんの人たちの身に起こったことを追体験できる。

 サミーのお母さんは訴える。サミーの旅は、一〇〇万を超える人たちがたどった旅そのものだと。だから忘れないでほしいと。

 現代の日本に暮らすひとりとして、子どもの文学に関わる人間として、私は何ができるだろう。そのことをずっと考え続けていきたい。

(ふしみみさを・翻訳家)


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