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加賀美幸子 『源氏物語』から『更級日記』へ[『図書』2024年10月号より]

『源氏物語』から『更級日記』へ

 

 今何故か『源氏物語』についての声が耳に届きます。「思うだけで近寄れなかった『源氏物語』!」「改めて読んでみたい『源氏物語』!」「NHK「大河ドラマ」でも取り上げている『源氏物語』!」その他多くの言葉に出会います。

 実はNHKラジオ「古典講読」の時間でも「名場面でつづる『源氏物語』」として、島内景二先生のお話し(加賀美幸子の朗読)を今年度は放送中でもあります。

 シェークスピアより600年も前に書かれた日本の宝『源氏物語』への思いは、長い間続いてきましたが、今新たに、その思いが多く聞こえ伝わるのは何故でしょうか。

 理由がなんであれ嬉しくなります。

 時代を超えて、『源氏物語』が書かれた時代にさかのぼってみます。『源氏物語』を読みたい読みたい! 物語全てを読みたい! と、全身全霊をかけて、声を上げ、祈り続けたのは『更級日記』の作者菅原孝標女です。

 父の赴任先である上総(現在の千葉県市原市)で、『源氏物語』の魅力を少女孝標女に語った義理の母、姉、乳母。都で読まれているというその魅力溢れる物語と早く早く出会いたい! どうしてもどうしても読みたいと声を上げ祈り続けた少女、孝標女。

 『更級日記』という日記文学として、後世の私達にその思いを語り続けている当時の少女、孝標女の心が今も私達を動かします。

 『源氏物語』が書かれたとされるのは1008年、その年孝標女は生まれました。そして10才を過ぎた頃、父の赴任地、上総の国で、物語の存在を教えられ、読みたい読みたいと祈り続けました。

 上総で父の任期が終わり、京に向かったのは13才、3か月の長い旅の間も『源氏物語』との出会いを祈り続けます。

 放送でも私自身何回か取り上げた『更級日記』。当時、某週刊誌の「尋ね人」のコーナーから依頼をうけ、敢えて孝標女の名前をあげたところ、嬉しいことに、読者の方から何通か返信も頂き、感激したことが忘れられません。

 すぐそばにいる孝標女。人間としての賢さ、賢いだけでなく、賢さゆえのやさしさ、人の見つめ方、人生の見つめ方、表現のあり方、文章の力。親戚でもある『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱母)や、紫式部、清少納言の魅力とは違う共感を覚えます。

 『更級日記』の元は上総での強く深い、新鮮な環境にありました。人生のこの時期に、周りにどういう人がいたか『更級日記』を手にするたびいつも思います。

 孝標女の場合、その大事な少女期に、文学の力があり、思いの深い義理の母や姉、やさしい乳母、見守る父らの元で触発された物語への強い思い、幸せな時代でありました。教科書でも取り上げられました。「世の中に物語というものがあるということだが、どうかしてそれをみたいものだ。あるかぎり見たい、どうか見せて下さい」と身を投げだし、額をすりつけて、一心に祈り続ける少女でした。

 思いが叶い、物語『源氏物語』は手にできたけれど、憧れた物語のようにはいかなかった人生。しかし、『更級日記』には愚痴などは書かれていません。書かないことが作者の意図かもしれません。書かない賢さ、あなたならどうする? という言葉が聞こえてくるのです。

 上総から京都に向かう3か月にわたる旅。上総、下総、武蔵、相模、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、近江などを経て京に上る途中の大変さより、土地や自然描写もさることながら、人々への優しさが心を打ちます。

 足柄山ではどこからともなくやって来た遊女3人と遭遇。「五十ばかりの人、はたちばかりの人、そして十四、五才の人」姿も声も芸の見事な遊女たち。でもその後、恐ろしそうな山の中に立ち去る彼女たちを見て、みんな泣き、孝標女は幼心にもその時の様子が忘れられず日記のなかに綴ります。

 3か月の旅が終わったのが師走2日。仲の良い義理の母も共に戻りましたが父と上手くいかなくなり、よそに行くことになります。「あなたがやさしくしてくれた心は決して忘れることありませんよ」と孝標女に告げて、京に上った翌年(1021年)、5つくらいの自分の子供をつれて出て行きます。その年は疫病が流行り、乳母も亡くなります。どうしようもなく悲しみ嘆いている時、ふと外を見ると、桜の花が散り乱れていました。

 

ちる花もまた来む春はみもやせむ

やがてわかれし人ぞ恋しき

(このように散ってしまう花も、来年には見ることもできるでしょう。でも別れてしまった人とは又会うこともできず、悲しいばかりです)

 

 ……作者のやさしさと哀しさは、その後、宮仕えや家庭生活にも及び、なかなか果たせない人生への思いに、人間的な近しさを覚えます。

 そのような中、思いが叶い義理のおばにあたる人(蜻蛉日記の作者)から源氏五十余巻を譲られます。その時の気持ち……

 

はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。……

(胸をときめかせながら、ごく一部のみを読んで、続きも分からずもどかしく思っていた源氏を、一の巻から、誰にも邪魔されず、几帳の内に臥して次々と引き出しては見る気持ちといったら、后の位だって問題にならないわ)

 

 物語を読みふけり、熱中し、「后の位も何にかはせむ」というきっぱりとした言葉の中に作者の清々しい思いが見事に伝わります。

 

 自分は今、目立つようなところはないけれど、大人になったら髪も長く、美しくなり、光源氏や薫や匂宮のような素敵な人から愛されるだろうか……とありますが、その思いは果たせず、昔風の両親の下で外との接触もあまりなく、宮仕えの話がきても、家事に追われ、女房として活躍することはなく、日々は過ぎて行きます。

 「貴女なら上手くできたはず!」と『更級日記』を読み乍ら気持ちを重ねますが、背後には外での仕事を嫌う両親の考え方もあり、亡くなった姉の2人の子供の面倒もあり、簡単にはいきません。このようなことは、今も同じ問題があることと思います。

 

 宮仕えは1039年。30歳過ぎてからの仕事、時代は道長の力も弱り、すでに末法の世。仕えていた祐子内親王も幼く、清少納言と中宮定子、紫式部と中宮彰子のようにはいかず、張り合いがなかったと思われます。

 力があっても、上手くいかない人生は今も多く、その点、孝標女には共感するところが誠に多いと思います。でも、叫んだりせず、誠に自然に冷静に対している孝標女。それゆえに時代を超えて共感する人が今も多い『更級日記』です。

 32才に始まった仕事・宮仕えは、断続的に続きますが、結婚は33才ごろだったようです。夫・橘俊通のことはあまり日記には書いてありませんので、思いは深くなかったのでしょうか。でも私が好きなのは、ほとんどの人々が京都の御祭の日、大騒ぎしているのに京を出て初瀬にお参りに行くという孝標女を、周りはあきれ、物笑いになると止めるのに、夫だけは「どのようにでも、あなたの好きにするがよい」とやさしく言ってくれた……という日記の箇所です。

 光源氏や薫のようではないけれど、優しい男性であったのでは……とほっとするのです。しかし夫も、作者が50才の頃、待ち望んでいた京に近い任地ではなく、当時としては遠い信濃に赴任し、しかも間もなく亡くなります。

 その後一人になって、辿ってきた自らの人生に思いを馳せ、感性豊かな文章家である作者は、心に留めてきた事々を書き綴ります。日記の最後の歌は

 

しげりゆくよもぎが露にそぼちつつ

人にとはれぬ音をのみぞ泣く

(よもぎは茂りに茂っていますが、私を訪ねてくれる人もなく、そのよもぎの露に私はぬれそぼちながら、声をたてて泣いてばかりいます)

 

 恋もお勤めも家族関係も、彼女の思いに沿わず、逆に進むばかりの一生ではありましたが、その心を語る声が、あまりにも自然で直截なので、魅力があります。

 「なにもかも心にかなうことなく過ごしてしまった私です」と彼女は言いますが、時代を超えて人々を惹きつけるのは、その優しさと哀しさ、人間としての賢さに共感できるからでしょうか。

 『更級日記』千年紀は2020年でした。「更級日記千年紀文学賞」が始まり、選考委員として私もかかわっています。今年は第4回、寄せられる小説、エッセイには今の孝標女が見えます。次回が待ち遠しいです。

 「あなたならどうする!」どの時代に於いても呼びかけてくる『更級日記』です。

(かがみ さちこ・アナウンサー)


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