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吉岡更紗 よみがえる『源氏物語』の色[『図書』2024年10月号より]

よみがえる『源氏物語』の色

 

 紫式部によって『源氏物語』が描かれたのは平安中期、西暦1010年前後と考えられている。天皇の皇子として生まれた、美しく才能豊かな光源氏の一生を中心に、恋愛模様や貴族の栄華を描いている。「世界初の長編小説」とも表現されるほど、世界の名著と比べて成立年代が古く、70年余りの出来事が、「桐壺」にはじまり「夢浮橋」まで54帖にわたり描かれた、壮大な物語である。

 桓武天皇が奈良から京都へと都を遷し、百年の歳月が経った894年、菅原道真の進言により遣唐使が廃止された。それまで隋や唐の強い影響を受けた文化が育まれていた日本は、交流がなくなり、国風文化とも呼ばれる独自の文化が育まれていく。

 『源氏物語』が書きはじめられたのは、その国風文化が最も華やかな時を迎えている頃である。紫式部は、祖父も父も漢学者という頭脳明晰な女性であった。権力者であった藤原道長の娘で、一条天皇に嫁いだ中宮彰子の教育係として女房を務めた。下級貴族出身であった彼女だが、宮中での暮らしや風趣を観察しながら物語を執筆していったのであろう。

 光源氏や、その子らの生涯を追う恋愛小説でありながら、宮中の儀式、祭礼、調度や衣裳、襲の色目、四季それぞれに美しい彩りをみせる草木花を映したかのような描写は細部にわたり、その当時の様子を見事に描いている。登場人物も季節や草木花に喩えてその人となりを表し、「ときにあひたる」という表現が多く見られる。

 貴族達は、数枚重ねた衣装の色の組み合わせを、春夏秋冬の風景や草木花に、細やかになぞらえることがセンスの表れであり、教養が高いと考えられていたことから「ときにあひたる」は大変な誉め言葉として使われている。大らかにそして優雅に色を楽しんでいたのである。

提供:実践女子大学 撮影:タケミアートフォトス
提供:実践女子大学 撮影:タケミアートフォトス

 2018年、実践女子大学は、「源氏物語研究の学際的・国際的拠点形成」が、文部科学省の助成事業「私立大学研究ブランディング事業」に採択され、『源氏物語』「若菜 下」の六条院の女楽に登場する明石の君の衣装が制作されることとなった。同女子大学の設立者である下田歌子氏が、国文学者であり、特に『源氏物語』の研究に造詣が深く、様々な資料が残されている経緯もあり、教授陣や関係分野の専門家が集められ、物語や絵巻、有職故実書を頼りに研究が進められ、このプロジェクトには5年の歳月を要した。

 平安時代は、当然ながら化学染料は存在しないため、数々の衣装は植物染料で染められたということが分かっており、植物染めを生業とする私共染司よしおかが染色を担当した。

 染司よしおかは江戸時代文化年間に、京都で創業した染織工房である。創業当時は、植物染料で染色を行っていたと考えられるが、明治時代に入りヨーロッパから化学染料が伝わり、京都で染屋家業をしていた人々は最新の技術を得て化学染料に移行しており、吉岡家も同様であった。2代目の後半、3代目は化学染料で染色を行っていたのである。

 転機となったのは、私の祖父にあたる4代目吉岡常雄が第二次世界大戦後に、休業していた染屋を再開した頃である。当初は先代から受け継いだ化学染料を中心とした染料の研究に従事する傍ら、前衛的な作品を制作していたが、戦後に「正倉院展」がはじまり、奈良時代の宝物を間近に拝見したところ、1000年以上を経てもなお美しい輝きをもつ染織品に感動し、そこから古代染織と植物染料の研究に没頭する。祖父は、世界中を巡り研究を重ね、晩年1987年には植物染料を用い『源氏物語』の色の再現を試みている。

 その後、5代目を継いだ父吉岡幸雄は、化学染料を使うことを一切やめ、植物染料のみで日本の色を今に甦らせることを決断する。2008年に、『紫式部日記』に「若紫」や「源氏」などの言葉が登場した時期から丁度1000年となる節目として、京都を中心に「源氏物語千年紀」という記念行事が行われた。それに合わせて『源氏物語』54帖を読み解き、描かれたかさね色を全て植物染料で再現したのである。

 実践女子大学から、このプロジェクトにおいて染色依頼を頂いたのは、染司よしおかのこうした歴史があったからと思われるが、大変光栄なことながら、お受けしていいものか迷うところもあった。

 当時は修業を経て家業に戻ってから10年の歳月が経っており、植物染料における染織の技術はある程度身についてはいるものの、自身の責任における作品ではなく、大学の事業として様々な有識者の方々と意見を交わし、史料を読み込み、「これが平安時代の女房装束である」と言うにふさわしい色を、生み出すことが出来るのだろうかという不安があった。また、植物染料は紫外線などに対する堅牢度も弱く、褪色など経年による変化も非常に気になる点であった。

 日本には様々な染織品が遺されているが、衣装は消耗品であることや、大火や戦乱などの事情もあり、平安時代のもので衣装として完全な形で現存するものは皆無である。装束の形を呈しているものは、鎌倉時代や室町時代に作られたご神宝として遺されているもののみで、それも『源氏物語』の成立より100年以上も後のものである。

 紫式部の描いた衣装のさまや、透過する色合い、かさなり合う色の美しさを生み出すには、顔料彩色ではあるものの絵巻をはじめとする様々な史料を見ながら想像し、また平安時代の貴族と全く同じ風景ではないかもしれないが、風景や草木花の日々移ろう色を見て、自分の中で明確な色合いを構築していく作業が必要であった。

 また、平安時代に編纂された律令の施行細目である『延喜式』が遺されていて、染織に関する記述として第14巻「縫殿寮」の「雑染用度」条には30種類の色名とそれを染めるために必要な植物染料、灰や酢などの媒染剤などが列記されている。例えば「深紫綾一疋。紫草卅斤。酢二升。灰二石。薪三百六十斤。」という具合である。

 材料が記されているのみで具体的な手順は示されていないため、祖父や父がこの史料を基に、研鑽を積み、培ってきた技術を踏襲して染色を行うこととした。

 『源氏物語』「若菜 下」に主人公光源氏が47歳を迎えた正月に催された女楽の場面が描かれている。早春の麗しい日に、六条院に住まう女性4人を几帳で隔て、それぞれが得意とする楽器を演奏する。

 紫式部は、女三の宮を風になびく青柳に、明石の女御は藤の花に、紫の上は桜にも比べようのないほどの美しさとたとえ、明石の君を、香り高い花橘に見立てている。

 明石の君の衣装は、「柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて」と書かれている。明石の君は、同席している身分の高い女君に少し遠慮をしているのか、裳をひきかけて女房風の装いをしている。細長、小袿に関しては記述通りの色合いを目指し、重袿も、萌黄色のグラデーションで6枚とした。これらの緑系統の色は藍染に黄檗の黄色を染め重ね、そのかさね具合で柳のような、萌黄のような葉色の濃淡となるように、大変苦心した。

 記述のないその他の衣装の内、単は日本茜、表着は紫根、袴は紅花と梔子を染め重ね、『延喜式』などの史料により、平安時代に使用されていたと確定できる染料のみを用いて、染めることとなった。

 染色には糸を染めてから生地を織る「先染め」と、白糸で織られた生地を染める「後染め」があり、先染めの布の場合は、経糸と緯糸をそれぞれ染めた後、織られる組織や文様、密度、見る角度によって色合いがかなり変化するため、慎重に作業する必要があった。

 

 例えば「萌黄の小袿」は、裏地を後染めでやや濃い萌黄色に染めた。表地は濃い萌黄色の唐花丸文が入った先染めで、経糸は、細い生糸を藍で限りなく淡い水色に染めた後、黄檗の淡い黄色を染め重ねほんのり色づく程度の萌黄色に染めた。地緯糸は、藁灰汁で精練したのみの白糸が織り込まれた。

 そのため地色は白とも思えるほどの極めて淡い色に仕上がった。その後、やや濃い萌黄色の裏地を合わせて仕立てられたので、極めて細い経糸が染まっている様子は、もしかすると目視できないかもしれない。

 染め人は、染め上げる糸の色を見極めながら作業することはできるが、色糸が様々な文様を描きながら生地として織り出され、裏地と合わせて仕立てられた姿、そして、それぞれの衣装が全て完成し重ねて着用された姿がどのようになるのか、イメージすることは非常に難しいと実感した。

 糸や布を染め終えた後は、製織と仕立てを担ってくださった装束店へお渡しするのみで、どのように織り上がったのであろうか、この色合いでよかったのだろうか、と悩ましく思う日々であった。

 

 完成した衣装は、2023年12月丸紅ギャラリーにて「源氏物語 よみがえった女房装束の美」と題し披露された。

 熟考の末、まるで人が着装したかのような形で展示された。袴の赤、単の緋色、表着の淡い紫、重袿、小袿、細長の淡いグラデーションとなった柳や萌黄色、それぞれが重なり合い、調和し合う、匂い立つような色合いであった。

 ギャラリー内は、作品保護も考慮され、限りなく照明が落とされていたが、それが平安時代の本来の見え方なのかもしれない。部屋に差し込む日光と夜の月光、ほのかな灯明によって見える重ねられた衣装の色は、当時の人々にどのように映っていたのであろうか。色への興味は尽きることがないのである。

(よしおか さらさ・染色家)


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