小林一彦 藤原定家自筆原本『顕注密勘』の出現[『図書』2024年10月号より]
藤原定家自筆原本『顕注密勘』の出現
令和四年の早春、冷泉貴実子先生とお会いする機会があった。別の用事がすんだ時である。「実は御文庫の蔵に、まだ開けてない箱があるんです。見ていただけますか」。古今伝授の箱と伝えられてきたもので、代々のご当主しか披見することが許されない秘箱であるという。現ご当主の為人先生も、畏れ多くて開けられないまま、およそ百三十年の間、中は誰も目にしたことがないと伺った。
調査の初日、今出川のお屋敷に参上する。調査主任の藤本孝一先生は、もう見えていた。古今伝授の箱は、錠前が外されて開扉されていた。桐箱が一つ、白布の懸けられた机の上に置かれている。「顕注密勘」と定家風の文字で箱書きがあった。藤本先生から「開けてみて」と声をかけられた。
『顕注密勘』とは、歌僧の顕昭が施した『古今和歌集』の注釈(顕注)に、藤原定家がひそかに思い考えたこと(密勘)を書き加えた注釈書である。顕昭は、対立する流派の和歌宗匠家の傑物で、博識をもって知られていた。当時の『古今和歌集』の注釈集成といってもよい『顕注密勘』は、流布したらしく、転写本は多い。鎌倉時代の書写になる、春の部だけの零本(欠けている部分のほうが多い本)も残り、重要文化財に指定されていた。
桐箱は江戸時代のもので、新しそうである。箱を開けると、三帖の写本が出てきた。第一帖(一冊目)は南北朝頃の古写本だった。第二帖は第三帖と抱き合わされるように、互いの前表紙を内側にして、収まっていた。第二帖の後ろ姿(後表紙)は、第一帖とは少し趣が異なっている。裏返すと、前表紙が現れた。桐箱の上蓋で目にした文字列そのものが、やや掠れて読みとれる。あれ? 正座し直して慎重に中を開く。密勘の部分は、定家様と呼ばれる独特の文字で書かれていた。調査の初日なので、その場には貴実子先生もいらしていた。藤本先生は他の仕事をされている。よもや、こんなことがあるのか、でも他の家ではない、ここは冷泉家なのだ。
ずいぶん長い静寂があったように感じた。お二方とも、当然、事前にご覧になっているはずだ。それなのに、この静寂は何だろう。一瞬、鑑定眼を試されているのでは、と疑ったほどである。「定家卿自筆の原本、ですよね」。自分でも驚くような低い声だった。第三帖の末尾、奥書を確かめる。桐箱の底を虫が食い破って、かなりの虫損が認められる。けれども、名高い「承久三年三月廿八日雨中注付之 八座沈老」の文言、そして定家本人の花押が据えられていたのだ。間違いない、国宝級の書物が、古今伝授の秘箱の中から、出現したのだった。
記者発表を前にした四月一日、念を入れて、久保田淳先生(東京大学名誉教授)に見ていただいた。エイプリルフールかと思いましたよ、本物ですね、驚きました、とお墨付きを頂戴した。「国宝級の発見」と、NHKの七時のニュースや、全国紙が報じたのは、それからほどなくのことであった。
定家が『顕注密勘』を擱筆した一か月後、後鳥羽上皇の御所に千騎を超える武者たちが参集した。承久の乱のはじまりである。これより先、定家は院の歌壇を指導する立場にあったが、個性の強い者同士、次第に芸術観の違いから互いの溝は深まり、閉門蟄居をかこつ身となっていた。「八座(参議)」でありながら無為の老体を「沈老」と自嘲したのである。『新古今和歌集』の下命者と撰者と、手を携えて編纂に邁進していた蜜月時代は遠いものとなっていた。
その『新古今和歌集』は、題号から明らかなように、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』へのオマージュであった。満開の桜を雲に、散る桜を雪に、紅葉を錦と感じとる「見立て」や、梅に鶯、月に雁などの「取り合わせ」の美意識も、『古今和歌集』によって完成された。後代への影響も甚大で、『源氏物語』の行文にも、いたるところに『古今和歌集』の表現が見え隠れしている。
日本の古典文学において、著者自筆の原本が残っている事例は、きわめて稀である。『枕草子』も『源氏物語』も、清少納言や紫式部の自筆原本は伝わっていない。印刷技術などなかった昔、人の手で書き写すことでしか、本は流布しなかった。書き誤りは、当然のように起こり得た。誤りを排除し、オリジナルなテキストに近づきたいと思ったら、定家の時代も、なるべく多くの本を手に入れて比較校勘し、ひとつひとつ、本文を決めていかなくてはならなかった。すでに『古今和歌集』の成立からは、三百年が過ぎていた。言葉は時とともに変化する。当時は写真も図鑑もない。植物や動物には、実態がわからなくなっているものもあった。和歌に長じた家には、父から子へと、独自の解釈が伝えられていた。家説である。定家は博覧強記の顕昭の注と異なる場合に、家説をふんだんに書き込んでいた。
自筆原本『顕注密勘』の凄いところは、その圧倒的な存在感である。本はそれ自体が一つの生命体で、古書肆の店頭のワゴンに盛られた廉価な古本も、一冊一冊がそれぞれに出版者と読者の歴史を背負って生きている。自筆の『顕注密勘』は、まとっている空気が、それこそ半端ではなかった。定家の静かな執念のようなものを、その身に湛えているのである。記者発表の折には、報道機関のカメラマンの注文にできるだけ応じて、頁を開いた。web上にはカラー写真の画像が報道各社により、かなりの点数、公開されている。それを丹念に拾っていけば、この本がどのような姿をしているのか、誰でも確かめることができる。
まず目を引くのは、おびただしい数の押紙(貼紙)である。書き足りない部分は、紙を足してまで存分に私見が開陳されている。本文の訂正や書入れも少なくない。承久三年三月二十八日に、いったん完成したこの本を、定家は肌身離さず、手を入れ続けていたのだった。
かつて、現存する数多くの転写本を調査し、『顕注密勘』の原本、定家自筆本のテキストに迫ろうと試みた研究者がいた。海野圭介氏である。このたび、自筆原本が出現したことで、海野氏の一連の論考は水泡に帰したか、というとそうではない。海野論文は、伝本は鎌倉時代からすでに二系統存在していた、と指摘していた。この指摘は、正しかったことが実証されたのである。定家が手を入れるたびに、転写される写本のもとになる親本そのものが変化していたのだ。転写本は、その時点での定家の考え方を如実に反映していたことになる。あたかも原本テキストが複数、存在するように見えてこそ、自然であった。
歌道の宗匠家に生まれ育った定家は、次代に引き継ぐために、和歌の聖典である『古今和歌集』の拠るべき確かなテキストを、自らの責任で定めておかなければならないと思っていたのではないか。
定家は生涯に少なくとも十七回、『古今和歌集』を書写している。テキストを定めるには、解釈を決めなければならない。それによって、表記(仮名づかい)も変わるからである。「お」と「を」、「え」と「へ」と「ゑ」、「ひ」と「ゐ」と「い」の書き分けを、定家は重視して、和歌を表記するためのルールも決めていた。この準則は「定家仮名づかい」と呼ばれ、『下官集』として一書にまとめられて伝わっている(自筆本は失われて現存しない)。また特徴的な定家様も、線の太い細いのはっきりした、連綿をとらない一字一字の独立したフォントは、誤読されることを避けるために考案されたものだと考えられている。
承久の乱の前後から、定家は和歌を作らなくなる。かわりに、『古今和歌集』をはじめとする、歌をよむための拠りどころとなる証本の作成や、注釈書、詠法や歌席の作法書を整え、日本の和歌が存続する上で核となるべき歌の家を、未来へとつないでいくために、力を傾けていったように思われるのである。
記者発表に備えて、調査室で『顕注密勘』と向き合っていると、大広間から冷泉流の和歌披講の声が聞こえてきた。定家は歌会で和歌を読み上げる講師の役をつとめることも多かった。意味によってアクセントも変わる。録音の技術がなかった平安時代から、無形の文化財である発声が口伝によって時をこえ、現代に保存継承されているのである。冷泉家のお庭には、「ふぢばかま」「をみなへし」など和歌によまれた植物がほぼすべて、しかも貴重な在来種のまま揃っている。お蔵には「さくら貝」「からす貝」など和歌によまれた貝の標本が、その貝をよみ込んだ代表的な古歌を記した美麗な料紙につつまれて、保存されている。阿武隈川の「埋もれ木」などもお蔵にはあると伺った。このような唯一の和歌の宗匠家だからこそ、日本の古典文学では稀な自筆原本が、残されるべくして大切に秘蔵されてきたのである。
(こばやし かずひこ・日本古典文学)