スポーツをめぐる技術的進歩史観の転回……町田樹[『思想』2024年10月号より]
一 序論──転換期にあるアスリートの技術
より速く 、より高く、より強く──これは言わずと知れたオリンピック・モットーである。アスリートはこのモットーを体現すべく、日夜己の心身を鍛え、過酷な練習を何度も繰り返しながら、試行錯誤を重ねて、より巧みに運動するための「技術」を養っている。かくして一九世紀に近代スポーツが誕生してから今日に至るまで、世界中のアスリートが「人間の競技力は向上し続けるはずだ」との進歩史観のもとで努力を積み重ねてきた。そして実際、スポーツのあらゆる記録は右肩上がりに更新され続けており、アスリートの技術はいまなお進化を止めることがない。
ところが変化の激しい今この時代にあって、昨今のスポーツ界ではアスリートの技術をめぐって様々な問題が顕在化してきている。例えば、その問題の一つがデータ革命だ。近年、テクノロジーの発展によってアスリートの運動を多角的かつ精密にデータ化することが可能になり、各競技分野で良質なビッグデータが形成されるようになった。さらに、そのデータをスポーツのあらゆる場面に役立てるための高度な分析手法が編み出されたり、それを瞬時に自動で行う人工知能さえもが開発されるまでに至っている。こうしたデータ革命により、例えば、野球界ではフライを打ち上げることがより高い確率で得点につながりやすいとする統計情報に則ってバッターの打撃理論が変革されたり、サッカー界ではビッグデータの解析情報に基づいて戦術が策定されたりするなど、あらゆる競技種目においてデータやITがアスリートのプレイの仕方に大きな影響を与えているという1。こうしたプレイは、時にデータに追従しているだけだとして批判されることも少なくない。実際、イチローは自身の引退会見の際に「(MLBは)頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある」2と危機感を示し、中田英寿は「今のサッカーはテクニックよりもフィジカル重視でファンタジーのあるプレイではないから一切見ない」3と懸念を表明している。
また近年では、これまで蓄積されてきたスポーツの記録を分析し、アスリートの技術や能力の成長がピークを迎えつつあるのではないか、と指摘する研究や報道も散見されるようになってきた4。思えば、近代スポーツが誕生してから優に一五〇年を超えており、その間アスリートは絶えず、統一的なルールで一定の環境のもと、(なるべく手を加えない)「自然の身体」を保持して競い合ってきたのであるから、そのポテンシャルがいよいよ限界に近づいてきているとしても何ら不思議ではない。むしろ人間の身体にはまだまだ伸びしろがあって、努力し続ける限り、その技術や能力は果てしなく成長し続けると妄信することの方が無理なのではないだろうか。
かくいう筆者も、かつてはフィギュアスケート競技者として活動しており、オリンピックにも出場した経験があるが、最終的にはこれ以上努力しても成長は見込めないと自身の能力に限界を感じたことも含めて引退を決断し、その後はスポーツの人文社会学を専攻する研究者に転身した。勿論、筆者の競技者としてのポテンシャルはとうに尽きたわけだが、フィギュアスケートの技術は今も止まることを知らず進化を続けており、なんと現代のスケーターたちの実力は、数年前まで想像すらされていなかった四回転半ジャンプを成功させるほどの域にまで達している。しかしながら一方で、人間が五回転を行うことは物理的に極めて難しいとの見解を示す運動生理学者も現れており、フィギュアスケートの領域においても確実に技術的限界に近づきつつあることが窺える5。無論、ここに挙げたもの以外の競技とて例外ではない。その競技が歴史を重ねて成熟すればするほど、あるいはテクノロジーが発展してアスリートの運動がデータ化されればされるほど、いかなる競技分野でも同様の問題が必ずや生じてくるはずであろうし、実際すでにスポーツ界の様々な現場でこの種の論争が巻き起こっている。今後、果たして本当に、データやテクノロジーに主導権を握られて、アスリートのプレイが方向づけられる決定論的な未来が到来してしまうのだろうか。はたまた、スポーツという文化は人間の身体能力が限界を迎え、これ以上の技術的進歩が望めなくなるという運命を辿るのだろうか。
スポーツ社会学者の山本敦久によると、男女二元論のジェンダー観や、人体とテクノロジーの間に明確な境界を定めて「自然の身体」で勝負することを標榜する等、近代的価値観が色濃く反映されたスポーツ文化は今、変革を迫られているという。同氏は、そうした過渡期に対して「ポスト・スポーツ」という概念を与え、来るべき新たな時代におけるスポーツ文化のあり方を問うている6。先に例示したようなデータ革命や身体的限界に関する数々の問題に鑑みると、アスリートの技術やプレイの仕方もまた間違いなく転換期にあると言えるだろう。
さて、このポスト・スポーツの時代において、私たちはいかにして現代スポーツ文化が抱える技術的諸問題に向き合うべきなのだろうか──。本論はこの問いについて、人文社会学を広く横断する視座から思索を巡らせてみたいと思う。先に結論を提示しておくと、本論で取り上げるアスリートの技術的諸問題は、現在のスポーツ界に支配的な主客分離の物の見方が時代の流れに追い付かず破綻してきていることによって生じる問題であると考えられる。この結論を導くために、まずは第二章においてアスリートの技術とはいったい何で、それがどのようにスポーツ科学の領域において研究されてきたかを明らかにする。そこではアスリートの技術をめぐるスポーツ科学の研究が、主客分離によって対象を分析する近代科学思想の影響を色濃く受けていることが浮き彫りになるのだが、続く第三章においては、そうしたアカデミアの見方とは裏腹に、今日のスポーツ現場では、アスリートの主体と科学的知識などの客体は相互に分かち難く浸透していることを、ミシェル・フーコー(一九二六―一九八四)の「権力」概念や「オートポイエーシス」を基礎とする工学論を援用しながら精緻に描き出したい。こうして、今日のスポーツの実践現場においては急速に主客の相互関係が築かれていっているのにも拘らず、近代スポーツは頑なに主客分離の近代思想を手放さない。本論はこの構図に技術的諸問題の根本原因を見出すのである。第四章では、主客分離の思想を重んじる近代スポーツが、技術的諸問題に直面する理由を考察すると共に、その問題を超克する方法を具体的に検討することで、「近代」を乗り越えることのできる新たなスポーツ文化のあり方を提示したいと考えている。
なお、本論における「技術」という語はアスリートの「運動技法(=テクニック)」のことを意味しており、「科学技術(=テクノロジー)」や「情報技術(=IT)」とは明確に区別して用いることとする。
二 アスリートの技術とその科学
二 - 一 アスリートの技術とは何か?
スポーツの競技というのは、いわばアスリートの技術と技術のぶつかり合いである。アスリートはルールが求める勝利するための条件(「前提的目標」)7を達成するために、己が磨いてきた技術を駆使して相手と闘う。ただし、それがスポーツの勝負である限り、どんな手を使ってもいいというわけではない。なぜならば、ルールはやって良いことと悪いことを厳密に定めているからだ。ゆえに、アスリートはルールが認める手段(「ゲーム内部的手段」)8の範囲内で技術を構成し、修練していくことになる。
こうして生み出されるスポーツの技術は、実に多種多様である。おそらく技術といえば、例えば柔道でいうところの「足技」や野球の「ピッチング」のような、名称を与えられて概念化された所謂「動作の形式(型:フォーム)」が、何よりもまず連想されるのではないだろうか。また、柔道の足技には「大外刈」や「燕返」などの細かな種類があり、野球のピッチングにも「フォーク」や「スライダー」などの様々な球種が存在しているように、技術というのは競技種目ごとで独自の体系が築かれている傾向にある。勿論、こうした典型となっている動きの形式だけがスポーツの技術というわけではない。それら各種動作の用法やチームメンバー間の連携方法などの戦術もまた、技術の一種であると言えるだろう。実際、技と技を組み合わせた一連の動きの流れやまとまりに対して名前がつくこともあれば、チームメンバー間の動き方やフォーメーションに固有名詞が与えられることもある。
こうしたスポーツの技術は、たとえアスリートやその競技に精通した人物でなくても認識することが可能だ。現に、筆者は本論を二〇二四年パリオリンピック(第三三回夏季五輪)の開催期間中に執筆したのだが、傍のテレビからは実況者の「豪快な大外刈だ」などという声が聞こえてきていたし、インターネット上でも「○○選手の放ったシュートは鋭かった」などといった具合に、皆が思い思いに技術について語っていた。このように卓抜したアスリートの技術は、時に人々を熱狂させる。まさにスポーツ観戦の醍醐味だと言えよう。
だがその一方で、第三者の立場から技術の外形をどれほど注意深く観察したとしても、その技術を完全に理解することはできない。実際、アスリートでない人がいかにその技術を形作っている動きのフォームやタイミングを熟知していようとも、それを直ちに自らの身をもって体現することはできないだろう。それはなぜかといえば、アスリートは技術を第三者とは異なる別の側面から認識ならびに理解しているからだ。この点について、日本で最初にスポーツを美学の領域で論じた哲学者の中井正一(一九〇〇―一九五二)は、すでに七〇年以上も前に示唆に富む言葉を残している。ちなみに、中井本人も水泳やボート、テニス、スケートなどの様々な運動に興じるスポーツマンだったようだ。少し長いが、その中井の言葉を以下に引用してみよう。
例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、力を抜いたこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが、美しいこころもち、美感にほかならない。自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである。このめぐりあったただ一つの証拠は、それが楽しいということである。しかもそれが、事実、泳いで速いことにもなるのである。無駄な力みや見てくれや小理屈を捨て去って、水と人間が、生でぶっつかって、微妙な、ゆるがすことのできない、法則にまで探りあてた時に、肉体は、じかに、小理屈ぬきに、その法則のもつ隅々までの数学を、一瞬間で計算しつくして、その法則のもつ構成のすばらしさを、筋肉や血や呼吸でもってはかり、築きあげ、そのもつ調和、ハーモニー、響きあいを、肉体全体で味わうのである。音楽は耳を通して、肉体に伝えるのであるが、この場合は、指さきから足までの全体の動きで、全身が響きあっているのである。〔中略〕ところが、この法則は、自然の法則のように、宇宙の中にあった法則であろうか。これは人間と水との間に、人間の創りだした新たな法則であって、自然の法則ではない。人間がこの宇宙の中に、自然と適応しながら、自分で創造し、発見し、それを固め、そしてさらに発展させていく法則である。これを「技術」というのである。これは大きい意味の技術をさすのではあるが、どんなつまらない技術も、みな、この大宇宙に対決するにたりる、大創造物でないものはない9。
中井が語るように、アスリートの視点からするとスポーツの技術とは、自らがこの世界と関係する中で、「創造し、発見し、それを固め、そしてさらに発展させていく法則」のようなものだと考えられる。水泳を嗜んでいた中井は、どうやら幾度とない練習を経て、自身と水との間に、クロールを快い気持ちで楽に速く泳ぐための法則を発見したようである。
筆者も元アスリートであるから、中井の言っていることがよくわかる。かつてフィギュアスケートのジャンプやステップなどを練習する中で、例えば、氷と自分の間に、スピードと自分の間に、あるいはスケート靴と自分の間に、「こうすれば、絶対に(もしくは高い確率で)うまくいく」という法則を探っていた。ここに筆者がこの身でもって発見した法則の一端を言語化して例示すると、「ジャンプを跳ぶ時、氷面と腰のラインと肩のラインの三点が平行関係にあれば安定して成功させられる」だとか、「足の親指の付け根(母趾中足趾節関節)に体重をかけて踏み込めばより高く跳躍できる」などといった法則を挙げることができる。これは当然、中井や筆者に限った話ではない。世のアスリートたちは皆、それぞれ何らかの法則を求めて過酷な練習に励んでいるはずである。だからこそ、その身でもって法則を発見した時、人は決まってこう歓喜するのだ。「コツを摑んだ」と──。
このコツという名の法則は、自らの身体運動感覚を頼りに構築していく「私的な知」であると言えるだろう。中井が「クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこない」と語っているように、たとえいくら客観的な立場で技術を観察しても絶対にそのコツを摑むことはできない。例えば、先に例示した筆者の「ジャンプを跳ぶ時、氷面と腰のラインと肩のラインの三点が平行関係にあれば安定して成功させられる」というコツは、確かに客観的にも目視で氷、腰、肩の三点が平行になっているか否かは確認できる。だが、実際にジャンプを跳ぶ直前、時速二十数キロの助走スピードをつけて構える中で、いかに氷面に合わせて肩と腰の位置関係を平行にするのか、というその微妙な感覚はやはり「私」にしか知り得ないことだ。側から見ても一切わからないが、アスリートは誰もがこうした「私的な知」を名もなき技術として無数に体得しているものなのである。
そのため基本的に「私的な知」としての技術──すなわちコツは、それを摑んだ者自身が持つ固有の身体と感覚に根ざしている。ゆえに、「私」のコツが他者にとっても有効に働くとは限らない。さらに言うなれば、たとえ「私」が摑んだコツであったとしても、「私」の身体と感覚が移ろえば、そのコツはたちまち機能しなくなる。現に、筆者はフィギュアスケートのありとあらゆるコツを摑んできて、今もなおその「私的な知」の数々は、しかと我が身に刻まれているのだが、いかんせん競技を引退して一〇年以上が経過した「今この身体」──「アスリートであった頃の身体」と比べると筋肉量は減り、基礎体力も落ちて、おそらく動体視力なども相当鈍くなっている──では、それらのコツを実践することがまず極めて困難であるし、たとえ実践できたとしてもその技術を成功させられはしないだろう。つまり、「私的な知」はそれを行うに相応しい「私の身体・感覚」と結びついて初めて、技術として実を結ぶのである。
二 - 二 アスリートの技術を科学する二つの視座
このようにスポーツの技術は非常に繊細かつ複雑で奥深い。だからこそ、アスリートは弛むことなく修練を重ねて、今ある技術を磨き、そしてまだ見ぬ技術を追求し続けるのではないだろうか。しかし、こうしてスポーツの技術を探究しているのは、何もアスリートだけではない。昔から今に至るまで、アカデミアの領域でもアスリートが繰り出す技術というのは、研究者の関心の的となってきた。とりわけ一九六〇年代にスポーツ科学ないしスポーツ運動学という学問分野が確立されて以降、アスリートの技術を分析対象とする研究がより多角的かつ盛んに行われるようになる10。ところが、この技術をめぐる運動学については、方法論の違いによって分化した、ある二つの研究領域の間に対立構造が生じているという。運動学の第一人者である金子明友(一九二七―)は、こうした技術の運動学においてみられる対立構造を、名著『わざの伝承』(明和出版、二〇〇二年)の中で次のように解説している。
精密な科学的分析の対象になる運動は、自然科学的概念としての等質運動であり、客観的な時空系における〈もの〉の運動であるから、精密な計測に応えられるのは当然である。ところが、運動伝承の営みで、伝え手も承け手も共に運動発生に生身で関わっているところでは、今ここで流れつつある 運動が主題化されるのだから、運動完了後にしか得られない科学的データには、新しい動きかたを発生させるコツやカンが含まれるはずもない。「私が動ける」というコツの発生に関わるのは「運動感覚身体」であって、客観的な「生理学的身体」ではないのだから、精密科学的な運動分析とまったく異質な運動分析の方法論を求めざるをえない。こうして、運動伝承のための発生論的運動分析は、現象学的、形態学的な運動発生論を基底に据えることになる11。
実は、本章においてスポーツの技術を捉える二つの視点──すなわち第三者的な客観的視点(パリ五輪を眺める筆者の視点)と、アスリート自身の主観的視点(フィギュアスケーターであった頃の筆者の視点)をあえて対比させたのには訳がある。というのも、この対象を認識する立場の違いこそが、技術をめぐる運動学の対立構造をつくり出している原因なのだ。金子はそれを、客観的に「生理学的身体」を分析する精密科学/自然科学と、運動する主体が自らの「運動感覚身体」を内省する現象学/形態学の対立として説明してみせる。
こうして二つの運動学が折り合わないのも無理はない。先に技術を、「みる」視点と「する」視点を設定してわかりやすく対比させたように、バイオメカニクスや運動生理学などの「客観的な」研究手法を用いて、運動する身体の筋活動量や関節トルク等を計測し、それらデータに基づいて技術に関する因果法則を明らかにしても、その科学的法則は頭では理解できるが、身体で直ちに再現することはできない。一方で、現象学的に考察する「私的な知」としてのコツ(感覚的法則)は、あくまでも「私」という主体に宿る知であって、それを客観的ないし科学的に観測することはできないし、いつでも普遍的な知として一般化できるとは限らない。
このようにアスリートの技術をめぐる科学的運動論と感覚的運動論は、従来互いに相容れないものとして認識される傾向にあった。デカルトの登場以降、主客分離の考え方が確立された訳だが、こうした近代の科学観がスポーツ科学や運動学の領域にも色濃く反映されていたのである。
三 アスリートの技術をめぐる主客の相互浸透
おそらく近代スポーツが重んじる「自然の身体」や「公平性」という観念は部分的に、主客を二分して考える近代思想に端を発しているのではないだろうか。スポーツは人間本来の運動感覚を競い合うべきものであり、ゆえに(可能な限り)外的要因から切り離された「自然の身体」を維持しなければならない。そして、外的要因は経済力や身分によって差が生じてしまうが、ルールを統一してそうした要因を極力除外する限り、人の運動感覚は皆等しく努力によって培うことができるのだから公平な競走環境をつくり出せる、といった具合に──。
しかし果たして、かくも截然と主客を分離することができるのだろうか。やはりこうした考え方は、現代におけるスポーツ現場の実態にはそぐわないと言わざるを得ない。確かに金子のいう通り、技術を自然科学的に分析することで得られる客観的知識と、運動する主体が自らの身体感覚を通じて会得する主観的知識は、全く異質なものである12。ゆえに、両者をどちらか一方に還元したり、優劣を決めたりすることはできない。だが、スポーツの現場において両知識はそれぞれ独立して存在しているわけではなく、互いに接続している。
近年、アスリートの運動を計測する機械は益々高性能になり、それによって得られるデータの質と量は飛躍的に向上した。こうして得られた客観的データや科学的知識は、アスリートの技術習得や戦術策定などの様々な場面で役立てられている。本論冒頭に例示したフライボール革命が象徴するように、アスリートはデータや科学的な知識に基づいて身体を鍛え、技術を磨き、戦術を練る。すると、そのアスリートの運動は再び計測され新たなデータが生成される。そしてまた、そのデータを参考にしてアスリートはトレーニングを重ねる──。このような循環が日常になりつつある今日のスポーツ現場に鑑みると、いかにアスリートの主体と客観的知識が相互に影響を及ぼし合っているかがわかるだろう。
この現代におけるアスリートの主体と客観的知識の間にみられる主客の関係性については、例えばミシェル・フーコーの「権力」概念や、「オートポイエーシス」あるいは「ポスト現象学」を基盤とする工学論を援用することで、実はその主客が分かち難く相互に浸透していることが明確になる。紙幅の都合上、それぞれのキー概念について深く立ち入ることはできないが、以下それぞれ簡潔に説明しよう。
三- 一 技術の客観的知識を源泉とするアスリートの規格化と主体化
フーコーの「権力」は、一言では到底説明しきれないような複雑な概念である。この概念に関する詳細な解説については、関良徳による『フーコーの権力論と自由論──その政治哲学的構成』(勁草書房、二〇〇一年)などの良書にゆずることとするが、フーコーの「権力」概念とは、一般的な意味合いである支配者が被支配者を隷属させたり、あるいは法律を執行したりするような抑圧的で強制的なパワーのことではない。また特定の誰かが所有するものとも限らない13。そうではなく、敢えて一言で表すとするならば「権力」とは「社会と文化を構造化しているもの」14であるとされる。個人の思考や行為などはこの構造によって形作られるのだが、一方で権力は個人の主体を新たに創造する生産システムであるとも考えられる。どういうことか──。
フーコーの権力形態の一つに、「規律=訓練」というものがある。この規律=訓練とは、「人々の身体(あるいは内面)を管理の対象として、その行為のプロセスに綿密な働き掛けをおこない、従順な身体をつくりあげる」15タイプの権力であり、主に「階層秩序的な監視」、「規格化」、「試験」という三つの手段を用いることによって形成されるという16。まずは、このフーコーの規律=訓練的な権力概念を手がかりにして、アスリートと客観的知識の相互関係に迫ってみたい。
[a]アスリートを自己統制へと導く透明な監視網
では、第一にアスリートにとって「監視」とは何かを考えてみよう。アスリートの監視を担っているものとしては、何よりもまず彼らを指導したり、評価したりするコーチやジャッジの存在を挙げることができる。彼らはアスリートを分かりやすい形で監視する。怠惰な練習を行っている者には厳しい指導を、プレイ中にルール違反を犯した者にはレッドカードを与えることで、アスリートは統制されることになる17。
だが、スポーツ界にはさらに経済的かつ効果的な監視機構が存在している。アスリートがなぜ来る日も来る日も過酷な練習を続けるのかといえば、やはり競技会において勝利を獲得し、敗北を避けたいと思うからだ。競技会はアスリートをその技量に応じて徹底的なまでに階層秩序化する。能力がある者は上位に立つことができ、ないものは下位に位置付けられることになる。従ってその階層の最上位者か最下位者にならない限り、アスリートは皆例外なく上にも下にもライバルがいるという状況に身を置くことになる。つまり、アスリートは常に「追う者」であると同時に「追われる者」であり続けることを強制されるということだ。そして、このライバルたちに上下板挟みにされている状況こそが、アスリートにとっての効果的な監視機構になるのである。
というのも、アスリートはこのような状況に置かれると歩みを止められなくなるからだ。仮にアスリートが練習を怠ったとしよう。すると、格上のライバルと自分の立ち位置は開き、格下のライバルと自分の立ち位置は縮まることになる。要するに勝利が遠のき、敗北が忍び寄るということだ。ちなみにこの場合、目の見えるところにライバルがいるか否かは大した問題にはならない。自分が歩みを止めている今この瞬間にも、ライバルたちは努力を継続させて自分の地位を脅かしているのではないか、というその可能性自体がアスリートにとって監視の眼差しになり得るからだ。かくしてアスリートは誰に監視されるでもなく、自らを自分自身で監視し、統制するようになる。これはスポーツという文化がアスリートにもたらす究極的な監視機構であると言えるだろう。
[b]技術をめぐる合理的方法のアルゴリズム化とその規格化
またこうした「階層秩序的な監視」に加えて、近年では技術をめぐる客観的データや科学的知識がアスリートの「規格化」を急速に推し進めている。というのも、アスリートの巧みな技術を計測して得られた客観的データを蓄積していくと、やがてその技術を最も合理的に形作ったり、高い確率で成功させるためのフォームやタイミング、コンディションなどの諸条件が明らかになってくる。例えばフィギュアスケートでいうと、体重、助走のスピード、跳躍前の構えの姿勢、踏み込み時の膝の角度、構えから着氷までの一連の動作のタイミング、スケート靴の種類等々が、かくかくしかじかであれば理想のトリプルアクセルを成功させることができる、といった具合に──。さらにはそれら体重を管理する方法や構えの姿勢を矯正する方法、はたまた動作のタイミングを身体に覚え込ませる方法など、トリプルアクセルを成功へと導く各種方法についても最適解が編み出されるようになるはずだ。また、とりわけ野球やサッカーなどのデータ分析が盛んな対戦競技にみられるように、ゲーム展開に関する情報を大量に取り込んだビッグデータは、それぞれのシチュエーションに応じて目的合理性を徹底的に突き詰めた戦術を弾き出す。かくしてスポーツの技術自体はもとより、その技術の習得方法や戦術なども次第にアルゴリズムへと化していくのである。
このアルゴリズムはスポーツの歴史を常に帰納し続ける。データ化とその科学的分析によって、絶えずアスリートの身体やパフォーマンスは科学的法則に変換され、一試合一試合のプレイは統計的法則へと還元される。これらを蓄積するアーカイブやビッグデータの質と量は時が経つほどに増幅し、そしてそれに伴いアルゴリズムの精度も高まっていく。すると、やがてスポーツ界の人間もアルゴリズムの有効性を認め、信頼するようになる。こうしてアルゴリズムは誰もが参照すべき「規格」となって、当該競技分野に定着していくことになるのである。なお、この「規格」としてのアルゴリズムは、「標準」や「規範」とも言い換えることができるだろう。
[c]試験によるアスリートの徹底的な可視化
ここまで「監視」と「規格」について確認してきたが、この二つをもたらすためには「試験」という第三の手段が必要不可欠となる18。スポーツ界でいうところの試験とは、すなわち競技会や計測などのアスリートを評価したり、区分したりする諸機能のことを表す19。これらの試験によりアスリートの存在というのは様々な形で可視化されることになる。
例えば、競技会はアスリートの技量やライバルとの相対的な力関係を白日の下に晒し、階層秩序化された監視網へと彼らを引き入れる。また、データ化や科学的分析のための計測によって、アスリートの身体やパフォーマンスは数値となり、それが規格と照合されたり、他者の数値と比較されたりするようになる。そうしてアスリートはそれぞれ個別に、規格に合う/合わないと区別され、さらに合わないとすれば、どの点がどれほど規格から逸脱しているのかを明らかにされる。つまり競技会だけでなく、計測という行為によってもアスリートは規格に照らされて、否が応でも自分がどのようなアスリートであるかが可視化されることになるのだ。そうして規格は、「逸脱を測定したり、水準を規定したり、特性を定めたり」20、差異を明確にすることを通じて、特定の主体──例えば、正常な/異常な、できる/できない、上手な/下手な、合理的な/非合理的な、主体(「私」)を生み出すのである。
そして規格に合うアスリートは成績が上がって評価されたり、選抜メンバーに選ばれるなどの優遇措置を受け、合わないアスリートは日々の練習の中で規格に合うようにコーチによって矯正されたり、代表権の剝奪や一軍からの降格など、大小様々な制裁を課されてしまう恐れがある。また、規格は勝利を獲得し、敗北を防ぐ最も合理的な方法でもあるのだから、階層秩序化された監視網の中にいるアスリートからすると自らを規格に合わせない手はないのである。従って、たとえ直接的な制裁が課されなくとも、アスリートは誰に強制されるでもなく、自然と自らを規格に合わせて統制するようになるだろう。このように監視と制裁を繰り返し受けることによって、アスリートは次第に規格化されていく──。
以上に示したような形で、「監視」「規格化」「試験」がスポーツの規律=訓練的な権力を構成し、アスリートの身体を従順にしていくのである。ここでは今日のスポーツ界に働く規律=訓練的な権力のメカニズムを一例として繙いてきたわけだが、その中でアスリートの技術をめぐる客観的知識──すなわちアルゴリズムが、いかに中心的な構成要素となっているかが見て取れたのではないだろうか。
一見すると、この規律=訓練はアスリートを支配して自由を奪う抑圧的な権力であるかのように見えるかもしれない。しかし、フーコーの権力概念は、あくまでも個人の主体を新たに創造する生産システムとして捉えられる。この点について、哲学者のピーター= ポール・フェルベークは、次のように語る。
〔フーコー的な〕自由の概念は、主体は外的影響との相互作用のなかで形成されることを認める。主体とは、すべての権力や媒介が取り去られた後に残るものではなく、それらの権力や媒介の影響を能動的に設計し調整した結果として生ずるものである21。
確かに、規律=訓練的な権力はアスリートの意思や行動にかなりの影響を及ぼしている。だが、一方でアスリートには規律に従うか否かを選択したり、あるいは規律と自分との関係をどのように築くかを決定する自由が依然として確保されているはずだ。また、アスリートは規律=訓練をはじめとする様々な権力との相互関係の中で自らの主体を発見することにもなるだろう。例えば規格としてのアルゴリズムがあることによって、アスリートは初めて自分の実力がどのような水準に達しているかを知ることができたり、自分の技術のどこが良いのか/悪いのかを判断したり、あるいは自分が次にとるべき行動を考えたりすることができるようになる。従って、権力はアスリートを抑圧するのではなく、むしろ自己の主体を形成するための文脈を提供している──。このように考えると、技術をめぐる客観的知識はアスリートの主体形成に深く介入していると捉えることができるのである。
三- 二 主客を媒介するテクノロジー
現代のスポーツ現場にみられる主客の相互浸透性について、もう一つ別の側面から迫ってみよう。ここではオートポイエーシス論を基礎とする道具開発を一例として取り上げる。
「オートポイエーシス」とは、チリの生物学者であるウンベルト・マトゥラーナとフラシスコ・バレーラによって提唱された概念である22。この概念もまた極めて複雑であり、詳細な解説はもはや本稿の範疇を超えているため、河本英夫が著した『オートポイエーシス──第三世代システム』(青土社、一九九五年)などの良書を参照されたい。なおその河本は、オートポイエーシスの一端を次のような言葉で説明する。
オートポイエーシスはシステムの作動を中心にして組み立てたシステム論である。システムは作動することによってみずからの境界を区切り、作動することによってみずから存在する。〔中略〕
神経システムで説明してみる。一般に神経システムの作動の仕方を、外的刺激と関連づける経験的研究はほとんど失敗する。これは認知生理学上の事実である。かりに外的刺激と神経システムの作動の仕方に対応がつく場合であっても、それが外的刺激によってもたらされたものであるのか、それとも神経システムの作動によってたまたま生じたものであるかを判別することはできない。というのも神経システムはそれ独自で視覚像を構成しうるからである。神経システムと外的刺激を空間内に区分けすることは意味がないのである。神経システムを眼球表面の内側に設定し、外的刺激をその外に設定するのは、明らかに観察者による区分である。だが、観察者による区分は、まったく意味がないのである。神経システムの作動を捉えない観察者からみたとき、本来システムには「外部も内部もない」。神経システムはみずからの作動によって内部と外部をはじめて区分するのであり、作動にさきだって内部も外部も存在しない。〔中略〕
オートポイエーシスにおいては、経験の行為をつうじて自己がそれとして産出されるのであって、主体が行為を取り行っているのではない23。
この河本によるオートポイエーシス論は、なぜ科学的運動論(客観的知識)と感覚的運動論(主観的知識)が折り合わないのかを考える上で、一つの解を提示してくれている。というのも科学的運動論は、観察者がアスリート(行為者)の神経システム(内部)と、それを取り巻く外的刺激(外部)を客観的に区別し、後者に関してのみを観測することで導き出す知識だ。しかし、そもそもアスリートという行為者からすると、何が内部で何が外部なのか──すなわち何を刺激として知覚して、何を知覚しないかは、自らの神経システムを作動させてみないとわからない。つまりアスリート自身でさえも行為しない限り、神経システムの内と外を区別することはできないくらいなのだから、やはり客観的立場に立つ観察者がアスリートの感覚や行為を説明し尽くすことはできないのである。現に、河本も「観察者となって知識として知っていることと、行為をつうじてそれを実行することの間には、埋めようのない溝がある」24と述べている。またオートポイエーシスは、こうして観察者が行為のあり方を語ることの限界を露呈させる一方で、「経験の行為をつうじて自己がそれとして産出される」と捉えるのであるから、主体を外的影響から切り離された自律的で純粋な存在と考えることも不可能にするのである。
工学者の上杉繁は、このような河本のオートポイエーシス論を援用し、主体との新たな関係を結ぶ道具の研究開発に取り組んでいる25。上杉は、「私が道具を使う」と捉えるのではなく、「道具の使用を通じて私が新たに産出する」という視座に立ち、デザインの対象を「道具」そのものから道具使用を通じた「主体の生成過程」へと移すのだという26。
その一例として、上杉は熟練のサイクリストのコツや感覚などを共有する装置を開発している。通常の自転車を漕ぐ場合、一般的に人はペダルを踏み込む動作でもって自転車に勢いをつける。だが、自転車競技などで使用するロードバイクの場合、サイクリストはペダルを踏み込む動作よりも、ペダルを引き上げる動作を通じて自転車に力を伝える。しかも、レースは長距離であるため、長い時間安定的に漕ぎ続けなければならない。そのためサイクリストには、滑らかでエネルギー効率の良いペダリング技術が求められることになる。
上杉は共同研究者らと共に、装置の使用者がこうしたペダリング技術を体感できるように、「可変ペダル軌道装置」と「局所制動装置」という二つの装置を開発した27。まず「可変ペダル軌道装置」は、シューズをペダルに固定して脚の引き上げ動作を可能とすることに加え、ペダルの円運動の一部を敢えて直線に近い軌道に調整し、使用者のペダリングに関与する筋活動に働きかける。さらにその使用者は、ペダル運動の一部にブレーキが加えられた「局所制動装置」を漕ぐことで、ペダリングを行う際、どこでどのように力を入れたり緩めたりするのかを自らの体感で探ることができるようになる。勿論これらの装置は、使用者の状況に合わせて、ペダルの軌道や制動力を調節することが可能だ。従って装置の使用者は、自分の現在の動作と熟達者の動作との差異などを実感しながら、常に装置との関係の中で、自己の感覚や技術を発見し、創造していくことになるのである。この上杉の研究は、サイクリストのコツである「私的な知」を計測によって可能な限り精緻に客観的知識へと変換し、それを装置を媒介にして運動実践者に伝える試みであると言えよう。
その他にも、先に言及した哲学者のフェルベークは、人間という主体とテクノロジーという客体をそれぞれ分離した存在者とするのではなく、「人間──テクノロジー連合体」という見方で捉える「ポスト現象学」の立場から新たな技術倫理を説いており、それを含み込む彼の技術哲学(『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』鈴木俊洋訳、法政大学出版局、二〇一五年)は現代におけるアスリートと道具の関係を再考する上でも、非常に示唆に富むものとなっている。
さて、これまでフーコーの「権力」概念や、オートポイエーシスを基盤とする工学論を参照しながら、現代スポーツにみられる主客の関係性に迫ってみた。その結果、技術をめぐる客観的知識は、ある時には権力の源泉となってアスリートの主体形成に深く関与したり、またある時には、テクノロジーを媒介にしてアスリートの感覚に直接的に伝えられたりするようになってきていることが明らかとなった。これらのケーススタディーが意味することは、アスリートの主体と技術に関する客観的知識は、いまや相互に分かち難く浸透しているということである。
確かに、一昔前においても客観的知識はアスリートの主体に様々な形で影響を及ぼしていた。実際、平成の時代をアスリートとして過ごした筆者も、例えば国立スポーツ科学センターなどで事あるごとにデータ化されたし、時にはそのデータを参考にしながら自己の身体や技術を省みることもあった。しかし、その時代における主客の関係は相互浸透とは程遠い状況であったように思う。勿論、昔からバイオメカニクスや運動生理学の領域ではアスリートの技術が研究の俎上に載せられていたわけだが、平成初期の頃(一九九〇年代)まではその知が必ずしもスポーツの実践現場に還元されていたわけではないし、還元されたとしてもあまり頼りにされていなかったのではないだろうか。ところが、研究が飛躍的に進歩し、なおかつスマートフォンや人工知能といったテクノロジーが一般にも流通して、誰もがいとも簡単にパフォーマンスの精緻なデータ化と高度な分析ができるようになった今、その状況は一変した。とりわけエリートスポーツの最前線では、かつてとは比べ物にならないほどの勢いでアスリートの主体と客観的知識の相互浸透が進んでおり、両者の関係はいまや新たな局面を迎えつつあると言えるだろう。
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(続きは『思想』2024年10月号本誌でご覧いただけます)
(1)山本敦久『ポスト・スポーツの時代』岩波書店、二〇二〇年、一―一〇三頁。
(2)国際情勢研究会編『イチロー引退会見全文』ゴマブックス、二〇一九年、三九頁。
(3)スポーツ専門ビデオ・オンデマンド・サービスDAZNの配信番組「22YEARS 中田英寿×トッティ」における、中田本人の発言。
(4)e.g. Geoffroy Berthelot et. al., “Has Athletic Performance Reached Its Peak ?” Sport Medicine, Vol. 45, 2015, pp. 1263-1271.
(5)Robbie Gonzalez, “Figure Skating's Quintuple Jump :Maybe Impossible, Definitely Bonkers,” WIRED (Web Magazine),February 9, 2018 available from https://www.wired. com/story/can-figure-skaters-master-the-head-spinning-physics-of-a-quintuple-jump/(二〇二四年八月一日確認)
(6)山本、前掲書、一―一〇三頁。
(7)Bernard Suits, The Grasshopper : Games, Life and Utopia,University of Toronto Press : Toronto, 1978, p. 41.
(8)Ibid.
(9)中井正一『美学入門』中央公論新社、二〇一〇年、一三―一五頁(初出:河出書房、一九五一年、一二―一四頁)。〔 〕内は引用者による。以下、同様。
(10)岸野雄三「スポーツ科学とスポーツ史」(『体育学研究』第一九巻第四―五号、一九七四年)一六七―一七四頁。
(11)金子明友『わざの伝承』明和出版、二〇〇二年、四五七頁。
(12)金子、前掲書、三〇頁。
(13)関良徳『フーコーの権力論と自由論──その政治哲学的構成』勁草書房、二〇〇一年、二三―三九頁。
(14)ピーター= ポール・フェルベーク『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』鈴木俊洋訳、法政大学出版局、二〇一五年、一一八―一一九頁。
(15)関、前掲書、四九頁。
(16)ミシェル・フーコー『〔改訂・新装版〕監獄の誕生──監視と処罰』田村俶訳、新潮社、二〇二〇年、一九八―二二五頁。
(17)ピルッコ・マルクラ/リチャード・プリングル『スポーツとフーコー──権力、知、自己の変革』千葉直樹訳、晃洋書房、二〇二一年、六三頁。
(18)フーコー、前掲書、二一三―二二二頁。
(19)マルクラ/プリングル、前掲書、六四頁。
(20)フーコー、前掲書、二一三頁。
(21)フェルベーク、前掲書、一四八頁。
(22)ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ『オートポイエーシス──生命システムとはなにか』河本英夫訳、国文社、一九九一年。
(23)河本英夫『オートポイエーシス──第三世代のシステム』 青土社、一九九五年、一七〇―一七二頁/二六七頁。
(24)河本英夫『オートポイエーシス二〇〇一──日々新たに目覚めるために』新曜社、二〇〇〇年、一九頁。
(25)上杉繁「道具の身体化・身体の道具化──経験の可能性を拡げる道具のデザイン」(『バイオフィードバック研究』第五〇巻第一号、二〇二三年)四八―六〇頁。
(26)上杉、前掲論文、五〇―五一頁。
(27)上杉、前掲論文、五二―五三頁。