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小沼純一 踊る、を書く[『図書』2025年1月号より]

踊る、を書く

──恩田陸『spring』へ

 

 写真がある。たとえば、踊っているダンサーの。横向きのすこし膝をまげているニジンスキー。大きく開脚し跳躍するジョルジュ・ドン。片腕をあげ、宙に浮かんでいるシルヴィ・ギエム。

 写真はのこっている。もはやその姿は目のまえにない。このときにしかなかった。ダンサーは踊った。証拠としての写真。姿をみることができたとしても、一刹那、消え去ってしまう。消え去ってしまった。だが同時に、一瞬だったかもしれないが、ひとつながりのうごきのなかにあった。あったことを知っている。写真の前も後も、ダンサーはいた。ひとつのうごきのながれから切りとったものが残る。

 こうなる前のかたちと後のかたちも、ここに(は)ある。そんなおもいもある。写真は一枚。いきなり宙に浮くことはできない。跳びあがるためには筋肉に収縮が必要だし、地を蹴らなくてはならない。脚を閉じた状態から開く。ひとつひとつは、ひとのからだをもとにしてなされる。何ができたら、どこまで達したら、が得点ではない。ただの驚き、消費されてゆく驚きでなく、瞬間のつらなり、つながりが、何らかの美意識にはたらきかける。美意識、いや、ハーモニーともエロスとも言い換えられるかもしれないが。だから、一枚の写真、一瞬の映像、としてのこされていながら、たぶん、そうではなくて、写真・映像は、瞬間でありながら、そのダンサーの全体を、全体との言いかたが適切かどうかはわからないが、全体なるものの影、まさに映像、となるものなのかもしれない。大袈裟にいえば、ダンサーが生まれてから撮影されるまでのすべて、撮影された直後から近未来まで含みこんで。

 こんなことにこだわっているのは、写真を介しながら、ことばでダンサーを、ダンスをとらえることがどんなふうにできるのか、を考えていたからだ。いや、ダンスにかぎらない。音楽でも映画でもいい。うごくもの、と言い換えてもいいのかもしれない。ことばは鈍重だ。うごくものがつぎへ、つぎのつぎへと行ってしまっているのに、ことばはまだはじまりのあたりでうろうろしている。とてもじゃないが、追いついていけない。ことばは、では、うごくものについて無力なんだろうか。

 写真は視覚にかかわる。目にみえる全体が、写真にはある。ぱっととらえることが視覚にはできる。まずは全体として、だ。細部をたどるのはあとでもできる。あとでも、ということは、写真もまた時間のなかでみられるということを証している。

 ことばとして、おもいうかぶのは、散文は歩行であり、詩は舞踏と言ったポール・ヴァレリー。ヴァレリーはダンスをまさにそのプロセスを対話のなかで描きだす。ずっとひとりが描写し、語るのではない。何人かが「口」にだし、そばにいる対話者とことばを交わし、交差させながら、立体的に、描きあげてゆく。プラトンを模す、よく知られた対話篇「魂と舞踏」から引く。

 

 エリュクシマコス と、こうするうちにアティクテは最後の姿態(フィギュア)を提示しています。彼女の全身が、あの太く力強い親指に支えられて移動してゆきます。

 パイドロス 手の親指が太鼓の上をこすってゆくように、彼女の全身を支える足の親指は地面をこすってゆく。あの指にどれほどの注意力がこめられていることか。どれほどの意志の力が彼女をこわばらせ、あの尖端の上に保持していることか!… だが、 見たまえ、今度は彼女は旋回しはじめた……

 ソクラテス 彼女は旋回する、──永遠に結びついていたものが分離しはじめる。彼女は廻る、廻る……

 エリュクシマコス まさしくあれこそは異次元へと進入することだ……

 ソクラテス 至高の試みだ…… 彼女が廻る、すると眼に見えるすべてが、魂から離脱してゆく。彼女の魂に付いた泥のすべてが、ついに、この上なく純粋なものから分離してゆく。人間たちと事物とは、やがて彼女のまわりで、漠とした円形の滓をなしてゆくだろう……

 見たまえ…… 彼女は廻る…… ひとつの身体が、その力だけで、そしてその行為によって、じつに力強く、事物の本然の姿を深く深く変容させることができるのだ、──精神が、かつて一度なりと、その思弁と夢想において到達しえなかったほどの深みにまで!

(p.178-9、清水徹訳『エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話』、岩波文庫)

 

 もしかすると、ことばは、ことばとして、目にみえないもの、過ぎ去ったものを重層化することができるのではないか。エリュクシマコスが、パイドロスが、ソクラテスが、ことばを分け、たがいに読みてにはみえないものを、浮かびあがらせ、支え、うごきをたどる。

 ヴァレリーの師たるステファヌ・マラルメもまた、踊るからだ、かたちに感じ、「〈バレエ〉は、言うならば、象形文字である」(p.177、渡辺守章訳「芝居鉛筆書き」『マラルメ全集Ⅱ』)ということばをのこした。

 シャンポリオンが古代エジプトのロゼッタストーンに彫られた文字を解読してから六―七〇年ほど、マラルメはバレエの身ぶりを象形文字にみたてる。しかも、これはこれと一義的に決めることのできないものとして、いまだ解読しえないものとして。この象形文字はしかも刻々と変化する。一秒のうちにいくつもの象形文字があらわれ、消え、あらわれ、消え、あらわれる。象形文字をかたちづくるからだは何を意味しようと考える間などなく、つぎのかたちつぎのかたちと織りなし、ここからあそこ、あそこからここへ、移行・移動してゆく。

 ときに、そのかたちが、何かにみえることがある。何かを指し示しているのではない。暗示しているのではない。何々のようにみえる、ではない。「ように」を介していない。あれは何々だ、とみえる、みえてしまう。ダイレクトに感じる。あれは何々だ。そんな瞬間が、舞台では、ときに、おこる。いや、日常でも、かもしれないが。

 からだをうごかす。うごかしているひとが何を感じ、何を考えているかはわからない。わからないけれども、そのうごきのありよう、かたちを、みているひとは感じとる。うごきは速かったり遅かったり緩やかだったり、ときに、停止していたり。緩急のなか、みぶりの前後のなかで、象形文字を解いてゆく。解くというより、みているもののなかにはいってゆく。刻印されてゆく。何なのかはわからない。わからないけれども、何かがのこされてゆく。のこされたものがふつふつとこちらのからだのなかに泡だち、揺れている。

恩田陸『spring』

 恩田陸がバレエを描いた長篇『spring』(筑摩書房)。はじめのほう、まだ主人公が中学生くらいのころか。ワークショップ最終日で、各人がテーマを決めて踊る。そこで小説の主役たる少年・春は「冬の木」がテーマだと告げる。「跳ねる」と題されたこの章の語りてであるダンサー志望の少年・深津は、手伝って、と春に声をかけられる。

 

 ヤツの腕が、脚が、美しく、大きくしなる。

 その指先に、爪先に、皆の目が引き寄せられるのが分かった。

 ヤツの動きが、時に直線、時に曲線を宙に描き出してゆく。

 なるほど、俺は木の幹なのだ、と気付いた。

 俺を木の幹に見立て、ヤツは木の枝と、木をめぐる気象を表現している。

 葉を落とし、裸になった冬の木。寒風にさらされ、みぞれや雪が降りかかり、ひたすらじっと耐える冬の木。

(p.57)

 

 これより一○数ページ前には、各々がクラシックバレエとコンテンポラリーダンスとを対比して語る場面がある。そこで春が語るイメージには花束や木ということばがあった。つぎの章「芽吹く」では、梅の木がでてくる。この章の語りては叔父で、甥の春と散歩をしている。梅の花が咲いているのに気づく。そのあと。

 

 私はゾッとした。

 梅の木。

 そこに、梅の木が立っている。

 そう思ったからだ。

 窓の外から漂ってくる梅の香りが、そこに立つ春が放っているもののように錯覚した。

(p.155)

 

 「彼」=春と梅の木が二重写しに、いや、一体化する。それもちがうかもしれない。春が梅の木、だ。ここにあるのは、比喩なるものがどう生まれてきたのか、メタファーが、ひとのなかでどう生成されるのか、にみえる。はじめは見間違い、かもしれない。見間違いと同一視。ふたつのものがひとつにみえる。幻視。メタファーはそれだけでも、ことばとして成りたつかもしれないが、前後があり、文脈があるなかでこそ、よりたしかなものとなる。さらに、ここでは、名詞だけで一行だったり、シンプルな何がどうしているという短文だったりがならび、改行される。読みては、それぞれを個別のイメージを描きつつ、つなげ、かさねてゆく。この梅の木はまた、そのあと観音様へ(p.219)とかさねられもする。

 章によって語りてを変える『spring』、最後におかれた「春になる」の章で、これまで外から語られてきた春が「俺」として語る。小学校高学年用の机を選び、それを配して《春の祭典》を踊る。語りてみずからがそのうごきを描写したりはしない。動作ひとつひとつに寄り添ってゆくみずからの思考と感覚、演目のみずからつくったストーリーが、音楽とモノ、空間とともに、また、ストーリーに支えられながら、みずからの心身が、多くの行分けとともに、描かれてゆく。行分けは接続詞を必要としない。そして、も、しかし、もなく、並置される。それはからだのうごきとシンクロする。ストラヴィンスキーの音楽をおもいおこしながら、スコアと小説をならべながら、読んでいくとどうだろう。そうしたことも可能かもしれない。それでも、小説に描かれた「春の祭典」はまた、スコアとも音源とも、つながりながらべつのもの。読みながら、もうひとつ、読みての「春の祭典」とともに春のうごきを幻視する。「たとえば私が、花! と言う。すると[中略]〔現実の〕あらゆる花束の中には存在しない花、気持ちのよい、観念そのものである花が、音楽的に立ち昇るのである」(p.242、松室三郎訳『マラルメ全集Ⅱ』)。ことばによってこそ、現実にないものが、たちあがる。読みてひとりひとりのなかで、姿が。

(こぬまじゅんいち・音楽文化論)


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