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児玉聡 防災の倫理についての講義録[『図書』2025年1月号より]

防災の倫理についての講義録

1 災害の備えはどれだけ必要か

 みなさんは、地震や洪水の備えをどのぐらいしていますか。毎日を生きるのが精一杯で、とくに対策をしていない人がほとんどでしょうか。

 ご存じのように、今日、防災は重要な社会的課題として認識されています。行政の取り組みだけでなく、個人にも防災の適切な取り組みが求められています。しかし、行為の「適切さ」が問われるところには、常に倫理的問題が潜んでいます。

 例えば、地震や台風の多いこの国で、全く備えをしていないのは、道徳的に悪いとまでは言わないまでも、愚かなことかもしれません。すると、防災に適切な取り組みをしていない人が被災したら、その人は責任を問われるべきでしょうか。仮に個人の責任は問わないとしても、行政や学校などが適切な取り組みをしていなかった場合はどうでしょうか。こうした問題を考えるのが、防災の倫理です。

 それでは、どのくらい準備をしていれば適切と言えるのでしょうか。

 防災の倫理にかかわる重要な問いの一つは、「はたして我々は災害に備えてどれだけの準備をしておくべきだろうか」です。この問いについて考えるために、逸話を一つ紹介しましょう。

 防災の専門家に河田惠昭という方がいます。現在は兵庫にある「人と防災未来センター」の所長などを務められています。その河田さんが2005年に京都大学防災研究所の所長になったときのインタビュー記事によると、河田さんは所長職にある間は海外出張には行かないことにした、とあります。防災研の所長たる者、つねに災害に備えておく必要があるから、というのです。彼は同じ理由から、国内旅行をする場合でも、日帰りできるところにしか行かないことにしました。

 さらに、日本国内を旅行する際には、カバンの中に、コンパス、懐中電灯、ラジオ、パソコン、予備の電池を常備するようにし、加えて、災害に遭遇して食べ物が入手できなくなった場合に備えて、つねに駅弁は二つ買って、一つは非常用に持っておくことにしていると述べています(「京⼤防災研所⻑は、すでに⼤地震臨戦態勢 海外出張をやめ、磁⽯やライトを携帯」『週刊朝日』2005年9月16日)。

 河田さんによると、私たち一人ひとりも、災害への備えはこのぐらいして当然とのことです。ですが、いかに地震や台風の多い国とはいえ、非常用に毎回駅弁を一つ多く買うというのは、防災研の所長にとっては当然かもしれませんが、一般市民にとってはやりすぎではないかと考える人もいるでしょう。ちょうど老後の備えのためにリソースを割きすぎると、現在のリソースが不足するのと同様、災害への備えにリソースを割きすぎるなら、他の用途のリソースが足りなくなるかもしれません。ここには資源のトレードオフの問題があります。

 だとすると、災害への備えは、「やらなさすぎ」と「やりすぎ」の両極端があり、アリストテレスが言うような中庸の状態もあるのかもしれません。では、その中庸と言えるような災害への備えとはどのようなものでしょうか。みなさん、少し考えてみてください。私自身は、日々の生活に忙しく、明らかに「やらなさすぎ」の部類に入ると思います。

2 防災と減災

 ところで、現在の防災の発想には、防災と減災の二種類があります。防災というのは完全防災とも言われますが、大雑把に言えば、津波なら防潮堤、洪水ならダムや堤防、地震なら耐震建築というような、主にハード面の対策によって被害をゼロにしてしまおうという発想です。台風や地震のような災害因、つまりハザードが人々の住むところまで届くと被害が生じるわけですが、そこまで届かないようにしようということです。

 少し前に『進撃の巨人』というマンガが流行しました。人を喰らう巨人が存在する世界の話です。人々は高い壁を築いて巨人が中に入ってこられないようにして暮らしていましたが、これが防災の発想ですね。

 しかし、ストーリーを知っている人はご存じの通り、想定以上の背の高さの巨人が登場して、壁を壊してしまうわけです。すると、兵士たちは被害を最小化するために、中に入ってきた巨人たちを命がけで退治しないといけなくなります。

 減災というのはこの「被害を拡大させないために、壁の中に入ってきた巨人を倒す」という試みに似ています。つまり、「川は溢れる」という前提で事前に計画を立て、実際に川が溢れたら被害が最小限に収まるような行動を取れるようにするということです。ここでは、人々が避難所に逃げるなどの行動を取らないといけないという意味で、ソフト対策が重要になります。

 おそらく気候変動の影響もあり、現在は、ハード対策だけでは被害を防げないためソフト対策も必要だという考えが広まっています。つまり、完全防災から減災へ、という流れになりつつあります。ものすごく高い壁があれば、巨人は入ってこられないかもしれません。しかし、それには莫大な費用もかかるし、また高い壁があるからと安心していたら、さらに想定外の大きさの巨人が現れて壁を壊すかもしれない。だから、やはり想定外のことも考えて緊急時の計画を立てておかないといけない、ということです。

3 リスク管理と危機管理

 今の話と関連して、リスク管理と危機管理の区別もあります。リスク管理とは、危機的状況が起こる可能性を減らすための試みのことです。これは防災だけに限りません。たとえば航空機が事故を起こさないように機体整備を徹底する、医療事故が起こらないようによく似た名前の薬を減らす、などが考えられます。防災でも同様に、堤防を高くして洪水が起こらないようにする、耐震基準を満たした建築物しか認めないようにする、などがあるでしょう。

 それに対して、危機管理は、実際に危機的状況になったときに被害を減らす試みのことです。これは危機が起こってから考えるのではなく、万一の事態が起こったときに備えて事前に計画を立てておくものです。英語では「プリペアドネス(preparedness)」という少し変わった言葉がよく使われますが、「事前計画」などと訳されます。

 万一、震度7の大地震が都心で起こったらどうするか。万一、荒川と江戸川で洪水が発生して江東五区で大規模水害が発生したらどうするか。こうした最悪の事態を想定して被害を最小限にする計画を事前に立てるのが危機管理です。

 法哲学者の井上達夫は、コロナパンデミックが発生したさい、日本政府は感染症のリスク管理さえしっかりしていれば大丈夫だと高を括って、危機管理対応が甘かったと手厳しく批判しました(井上達夫「コロナ・ラプソディー」『法と哲学』信山社、第6号、2020年、28-30頁)。ここでも、「災害に備えて、どれだけの備えをしておくことが望ましいのか」という防災の倫理が問題になっているように思います。つまり、国として、どれだけのリスク管理と危機管理をしておけば十分と言えるのか、という問題です。

 個人に比べて、国の方が対策を取る責任は重いと考えられますが、社会保障や安全保障などさまざまな責務があるなかで、どれだけのリソースを災害や感染症のリスク管理および危機管理に割くべきかというのは、もっと議論が必要なところです。近く防災庁ができるとのことですが、ぜひこうした論点も広く考えてもらいたいと思います。

4 「有事」を考えることの倫理性

 さて、「災害に備えて、どれだけの備えをしておくことが望ましいのか」は防災の倫理の重要な論点の一つですが、もう一つ重要な論点があります。それは、「大規模災害のような有事について議論することは倫理的か」という問題です。

 「有事」というと、みなさん戦争の話かと身構えるかもしれません。ですが、現在は戦争に限らず、大規模なテロ、大規模な災害なども有事と呼ばれる傾向にあります。

 こうした有事をめぐる議論では、しばしば次のような意見の対立を見かけます。

 

A 有事が起こってからでは遅いから、事前に準備しておくべきだ。

B 有事に何をするかを論じるよりも、有事にならないようにする対策を立てる方が重要だ。

 

 これは、上述のリスク管理と危機管理の区別と対応しています。Aが危機管理をちゃんとしないといけないと言うのに対して、Bは危機管理よりもリスク管理を徹底すべきだと言うのです。みなさんはこういう議論を聞いたらどう思いますか?

 私はリスク管理も危機管理も並行して考える必要があると思いますが、Bが心配しているのは、危機管理について論じることは我々の倫理観に悪影響をもたらす、ということかもしれません。例えばパンデミックのような有事が起こって病院が患者で溢れたときに若者と高齢者のどちらを優先的に治療するかについて議論をし始めると、平時でも高齢者への治療が適切に行われなくなる虞れがある、ということです。

 こういう心配は頷けるところもあり、有事の議論が実際に有事を生み出すきっかけになったり、あるいは有事という例外状況における対応が通常の対応にならないようにする対策も重要だろうと思います。

 とはいえ、やはり自然災害を中心に、有事と呼ばれる状況は起こりうると想定して、どうすれば一人でも多くの命を助けることができるかについて考えておくことが個人においても政府においても求められるところでしょう。

 蛇足になりますが、どうしても避けられない究極の有事として、自分の死があります。これも多くの人にとっては考えたくない事柄であり、極力それが起こらないのが望ましいことではありますが、やはりいつかは起こることとして、事前に対応を計画しておくべきことだといえます。

 先ほどのリスク管理と危機管理の区別を用いて考えると、自分が事故や病気で死ぬリスクをなるべく低くする試みはリスク管理と言えるのに対し、自分が死んだときの不利益を最小限にするべく備えておくことは危機管理と呼べそうです。例えば、葬式をどうするか、残された財産や家をどうするか、メールや文書などのデジタルデータやオンラインのアカウントはすべて削除してよいのかといった事柄について予め決めておかないと、残された人々の間で混乱が起きたり面倒な作業が発生したりするかもしれません。

 みなさんの準備状況はいかがでしょうか。先の防災の備えが徹底している河田さんのように、自分が死ぬことに備えて計画しすぎているという人はあまりいないと思いますが、まだ若いからといって何もしなさすぎるのも恐らく問題だろうと思います。私と同様、みなさんも日々の生活に忙しいかとは思いますが、折しも阪神・淡路大震災30年を迎えたところですので、さまざまな備えをすることの重要性について改めて考えをめぐらせてもらえたらと思います。

 防災の倫理について、まだまだ議論は尽きませんが、時間が来ましたので今日の講義は以上です。

(こだま さとし・倫理学)


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