『思想』7月号 ヴァルター・ベンヤミン
◇目次◇
思想の言葉………道簱泰三
抑圧された者たちの伝統とは何か――ベンヤミンの歴史哲学における歴史の構成と伝統………柿木伸之
ショーレムとベンヤミン――「修復」のシオニズム,「忘却」への「注意深さ」………小林哲也
ベンヤミンと「秘められたドイツ」をめぐって――『死のミメーシス』補遺………平野嘉彦
終末論に向けて――1920年代初頭におけるヴァルター・ベンヤミンの神学的政治の展開………マイケル・ジェニングス
名前,この名づけえぬもの――ベンヤミンの初期言語論………藤井俊之
非-伝達可能性の象徴としての言語 ――ベンヤミンの言語哲学における記号への問い………森田 團
〈名著再考〉ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』を読む………道籏泰三
サンチョ・パンサの歩き方――ベンヤミンの叙事演劇論における自己反省的モティーフ………竹峰義和
救出 対 弁明――ベンヤミン「夢のキッチュ」について………アーヴィング・ウォールファース
機械の身体というユートピア――技術メディアとしての映画とアヴァンギャルドの思考………山口裕之
技術的複製可能性の時代における芸術作品――第一稿………ヴァルター・ベンヤミン
◇思想の言葉◇
不気味なものを見つめる――ベンヤミン特集によせて
道簱泰三
生きて活動する世界に背を向け、襤褸ぼろをまとって浮浪する異形の者には、どこかしら不気味さがつきまとう。
石川淳の戦後すぐの短篇『焼跡のイエス』には、闇市に出没する浮浪児のそうした不気味さ―醜悪さと獣じみた獰猛さ―が強烈に描き出されている。ごった返す人ごみの真っ直中、「道ばたに捨てられたボロの土まみれに腐ったのが、ふっと何かの精に魅入られて」起き上がった気配があり、垢と虱と出来物と膿にまみれたこの世のものとも思えぬ浮浪児がぬっと姿を現わす。眼も当てられない汚さと鼻をつく悪臭に周囲がうろたえ、戦慄の波を打って後ずさるなか、このどす黒い獣は、ものも言わず、真っ黒に蠅のたかったムスビを一つ鷲みにすると「蠅もろともにわぐりとみつく」。そしてすかさず、シュミーズ一枚の若い屋台女に飛びかかり、「肉の盛りあがったそのはだかの足のうえに、ムスビにみつくようにぎゅうっと抱きつく」。女の悲鳴と怒号を尻目に、不気味な少年は市場の兄あんちゃんの突き出す棒の先に追われるようにしてどこかへ姿を消してしまう。
むろん作者は、浮浪児のこうした不気味さを描くだけにとどまってはいない。表題にもあるように、やがてこの醜い少年は聖なるイエスに重ねられる。「わたし」は、闇市を抜け人気ひとけのない山道にさしかかったとき、乏しい糧食と財布を狙う獰猛な狼と化したこの少年に襲われ、もつれあう最中さなか、その汚れ歪んだ顔をもろに見てしまう。と、そこにはまぎれもなく、十字架を背負い刑場へ引かれてゆくイエスの苦しげな顔が映り出ている。
「そのとき、わたしは一瞬にして恍惚となるまでに戦慄した。わたしがまのあたりに見たもの……それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患くげんにみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」。今まさにこの汚濁の世を去り新しい世界に踏み入ろうとするイエス、この敷居のイエスに浮浪児は重ねられている。
「わたし」は、この獣めいた少年に、苦界の掟に逃れがたく縛られながら、沈黙のうちにその地獄の車輪の回転を断ち切り、そこに何か新しい生を望み見ようとするかのごとき意志を感知する。そして「これはわたしのために救いのメッセージをもたらして来たものにちがいない」と確信するのだ。物語は、不気味なもののもたらすこの「救いのメッセージ」に郷愁の思いを募らせるようにして閉じられている。
フロイト(『不気味なもの(Das Unheimliche)』)によれば、不気味さとは、「生の欲動エロス」による文明化を妨害し中断する「死の欲動タナトス」の現われであり、かつて人間が非文明の時期に馴染んでいたもの―文明化の過程で繰り返し抑圧され、無意識の淵に沈澱していたもの―が、何かの契機にふいに姿を現わしてきたときに生じる、世界に突然亀裂が走るような不安の感情である。生と文明化を中断せんとする死と退行の表徴しるし、それがフロイトのいう不気味なものである。
襤褸と垢と膿にまみれ、言葉を拒み、野蛮をき出しにしたあの浮浪児もまた、文明の死、かつての獣への回帰を告げる人間界の異物であり、その不気味さは、ひとまずはこのフロイトの線上に位置づけることができる。しかし、心の病に対抗する精神科医として文明の使徒たらざるをえなかったフロイトが、怯えのうちにこの呪わしい異物を振り払い、排除しようとしたのに対して、イエスに喩えられたこの浮浪児には、それとは反対の眼差しが向けられている。そこでは不気味さは、「生の欲動」のがむしゃらな進行による文明化が、殺伐たる闇市の野蛮と狂乱―それは形を変えてわれわれの現在にも続いていると言わねばならない―へと転落してしまっているとき、この転落そのものを中断しようとする信号シグナルともなっているということだ。
不気味なものは、フロイトの言うように「生の欲動」の真っ当な進展を妨害するゆゆしきものであるだけではない。その盲目的な暴走、生きんがための盲進を中断し、沈黙のうちに新しい生のありようへと人を差し向けようとする「救いのメッセージ」の担い手でもあるのだ。
思想とは何だろうか。妨げとなる異物に目をふさぎ、見通しのきく鮮明さと快適さのなかで、いわば理解可能なものだけを理解することではない。そうではなく、思想とはむしろ、不気味なものの発するこの沈黙の「メッセージ」に静かに耳を澄まし、それに向き合って、あくまで辛抱強く思考を重ねることではないだろうか。
フロイトはこの沈黙の異物に傾ける耳をもっていなかったが、彼が不気味なものに注目しはじめた第一次大戦直後、不気味という言葉こそ用いないものの彼とは逆の志向をもってこれに眼を向け、その未知の「メッセージ」に思考をめぐらせた真っ当な思想家たちも、むろんいた。
その代表的とも言える一人がベンヤミンである。「すべての地上的なものは幸福のなかに己れの没落を追い求める」(『神学的-政治的断章』)と言い切る憂鬱の徒ベンヤミンにとって、人間の歴史はいわば楽園追放に続く滅びの過程であって、自らの現代も含めて文明は進歩のうちに没落を運命づけられている。いかにしてこの運命を断ち切ることができるのか、それが彼の思考の核をなすものであった。彼は、世のいたるところに、いわばあの不気味な浮浪児の姿(没落と死)を嗅ぎつけ、そこに立ち昇る「救いのメッセージ」に思考をめぐらせる。それは、言うまでもなく、答えの確約されない行為ではある。
彼は、そうした絶望に深く根差した、着地先の不確かな思考のありようをアレゴリーと呼んだ。髑髏をじっと見つめていると、それはアレゴリーと化して何やらにたにた笑いはじめる。彼はそうした髑髏への凝視を通して、死滅したものの瓦礫のなかから新たな知と生を散乱させようとしたのである。
ベンヤミンのアレゴリー的志向はラディカルに突き進む。彼は、いっけん生き生きとした生が伸展しているように見えるところにも髑髏を見出す。
「アレゴリー的志向によってとらえられたものは、生の連関から切り離される。それは粉砕されると同時に保存される。アレゴリーは瓦礫に固執する。……アレゴリー的志向の威厳。有機的なもの、生あるものの破壊―仮象の消去」(『セントラルパーク』)。これはいわば、すべての生あるものを射殺いころす邪視であり、生きた世界をも一瞬にして死滅した石と化さしめるメドゥーサの眼差しである。そこでは、あの浮浪児はイエスならぬ邪神メドゥーサの残虐な眼を世界に向け、一面の瓦礫のなかに立ち尽くしている。
ベンヤミンは、いわば自らその浮浪児になり代わって、「死滅した事物世界の力をわが身に取り込もう」とするのだ(『夢のキッチュ』)。この「死滅した事物世界の力」を取り込んだ新しい人間は、「家具つき人間」と呼ばれる。自らの住まい(世界)を心地よい飾り(仮象としての事物)で埋め尽くし、主観による世界支配を膨れ上がらせてしたり顔の観念的人間を抹殺し、仮象をぎりぎりまで排して、生きんがため必需道具と奇妙なかたちで合体した人間のことである。アレゴリーは、仮象をそぎ落とされ、内面の空からになった「唯物的」人間をめざすのだ。
ならば、あの「救いのメッセージ」はどうなるのか。救いなるものはどこに見出せるのか。そんなものは目下存在しないというのがベンヤミンの答えだろう。仮象を撤廃した「唯物的」人間の内面にあるのは、内実を欠いた「空っぽ」の空間にすぎない。メシアはただ待たれるだけで、呼び込むことはできない。ユダヤ的図像禁止とでも言うべきか、明示的な答え自体が禁欲されているのだ。 しかし、真っ当な思考というものは、答えの空間を隙間なく埋め尽くす行為ではなくて、まさに「空っぽの空間」そのものを準備する行為のことをいうのではないだろうか。答えはその準備行為そのものにこそあるのだ。
「破壊的性格は、ただひとつのスローガンしか知らない―〈場所をつくり出せ〉。……この空っぽの空間を占領することなく使用する者が、きっと見つかるだろう」(『破壊的性格』)。これは、ベンヤミンの思考の根幹にかかわる言葉でもある。
最後に、いささか唐突ながら、石川淳と思想的共感もあった無頼の作家太宰治の言葉を挙げておきたい。妻子を顧みず、文筆で得た収入を浪費しながら、「義のために遊んでいる」と嘯うそぶく「父」の苦渋の言い分である。
「私の胸の奥の白絹に、何やら細かい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻ありが、墨汁の海から這はい上がって、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな文字……」(『父』)。
重要なのは、この蟻の足跡が残した謎の文字、あの不気味な浮浪児の発する謎の「メッセージ」へと肉薄してゆく、あるいは人をそこへと駆り立ててゆく思考の力だろう。太宰はともあれ、ベンヤミンには誰にも増してその力があった、充分すぎるほどあった。
『思想』は1921年(大正10)年の創刊以来,哲学・歴史学・社会諸科学の最新の成果 を読者に広く提供し、揺るぎない評価を得て来ました。
和辻哲郎・林達夫らによって、学問的であると同時にアクチュアルであることという本誌のバックボーンは形成されましたが、それは今日に至るまで脈々と生き続けています。
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