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『図書』7月号 【試し読み】樋田毅/齋藤亜矢

◇目次◇

〈対談〉書くは楽し,笑いがあれば,なお楽し……山藤章二×土屋賢二
「アフリカ」が私たちに問いかけるもの……松村圭一郎
ディストピア小説の現在……佐久間文子
「秘密のかけら」が写るとき……六田知弘
編集する三木清(下)……大澤 聡
シチリア人の魂は山にあり……佐伯泰英
手塚・ちば・赤塚……さだまさし
「象は忘れない」……柳広司
寺田透先生……加藤典洋
女にも命を賭けさせろ……ブレイディみかこ
黒い光……若松英輔
風土記の天皇たち……三浦佑之
一九六八年,戒厳令の夜,マリはプラハを去った……冨原眞弓
七月の新刊案内
(表紙=司修) (カット=高橋好文) 


◇読む人・書く人・作る人◇

小尻記者の墓前に本を届ける
樋田 毅
 自分の記者人生をかけた仕事を記録として残したい。ずっと考え続けてきた,重い課題だった。『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』。この本は,誰よりも故小尻知博記者と,亡くなられたご両親に届けたいと思った。

 四月二〇日,私は広島県呉市川尻町にある小尻家の墓を訪ねた。墓は小高い山の中腹にあり,眼下に瀬戸内海が広がる。この日は青空が広がり,春の風が心地よかった。阪神支局での惨劇以来,墓参は数十回を数えるが,いつも感慨を新たにする。
 私は,墓前に手を合わせ,心の中でこう話した。
 「小尻君。あの日から三一年経とうとしているのに,犯人にたどり着けていないことを許してほしい。言い訳になってしまうけれど,これまでどんな取材をしたのか,本にまとめることができたので,君は納得できないと思うけど,読んでほしい」
 「信克さん,みよ子さん。生前のお二人に,息子さんを殺した犯人を必ず見つけます,と話していたのに,その約束が果たせず,申し訳ありません。私も六六歳になってしまいましたが,まだ頑張れます。もうしばらくの間,朗報を待ってください」

 この日は,JR呉線の安芸川尻駅で待機していたタクシーに乗った。行き先を告げると運転手さんが,「私は三一年前の五月三日夜,ご両親,奥さん,幼い娘さんを乗せて西宮市の病院まで運んだ」と話し始めた。「車内で女の子が泣きじゃくっていた。時間がかかり,小尻さんの絶命後に到着したことを今も悔やんでいます」。そう話す運転手さんの髪には白いものが目立っていた。
(ひだ つよし・ジャーナリスト)
 

◇試し読み◇

木を見る、森を見る
齋藤亜矢
 新聞の上に羽アリが一匹。左右の脚のバランスが悪いのか、あっちに進んだかと思うと、くるくる回って、またこっちに戻る。
 ちょうど体調不良が続いて悶々としていた時期だったので、右往左往するアリに自分を重ねてしまった。
 運の悪いことに、そこは株式欄。数字の海ですっかり迷ってしまったアリだ。えんえんと続く数字の列に、白や黒の三角印が時折あらわれる。△を道しるべに前に進むと、▼があって戻らなければならない。
 アリの目線で変な空想をしていたら、じわじわと可笑しくなってきた。人間の迷いも、大きな視点から見たら、所詮こんなものなのだろうと思えた。
 悩んだとき、いきづまったとき、自分の視点から少し離れるだけで、気持ちが楽になることがある。いま自分に見えているのは、世界のほんの一部にすぎない。ちっぽけな視界の外側に大きな世界の存在を感じると、やはりほっとするのだ。
 
 視点を変えると、世界はまるで違って見える。そのおもしろさに気づいたのが、高校生のときの数学の問題だ。
 種類の異なる一二個のケーキをA、B、C、Dの四人で分けたい。一人で全部食べてしまう人がいても、まったく食べない人がいてもよい。その分け方は何通りあるか。
 あまりに不平等だし、ケーキ一二個はさすがにきついなと思いながらも、まずは素直に考えた。
 たとえばA、B、Cの三人がともに0個なら、Dが全部食べるしかないので、一通り。A、Bが0個、Cが一個の場合、Cが一二個のうちどの一個を食べるかで決まるので、一二通り(Dは残りもの)。A、Bが0個、Cが二個の場合、Cが一二個のうちどの二個を食べるかで決まるので……。
 こうして一つひとつ場合分けすればいいけれど、ほんのさわりを書き出しただけでもこの調子。かなり面倒で時間もかかる。ほかの解法はないか。考えてはみるが思いつかない。宿題であてられていたので、しかたなく場合分けをしてみたものの、長ったらしい解答をまた黒板に書かなきゃいけないと思うと気が重かった。いつになく遅くまで粘り、そろそろ眠気もピーク。しかたがない、あきらめて寝よう。目をつむってしばらくしたとき、ふいにひらめいた。
 ケーキの立場に立ったらどうだろう。
 人間ではなく、ケーキの立場に立って考える。そうすると、自分(=ケーキ)は、A、B、C、Dのだれに食べられるかの四通りしかない。一二個のケーキそれぞれについて四通りだから、四を一二回かければよい。つまり四の一二乗通り。
 どきどきして眠気も吹き飛んだ。問題が解けたこともうれしかったが、視点を変えるだけで、面倒な問題がこんなにすっきり見えるのか。それこそ頭のなかに「!」が一二個ぐらい並んだ気分だった。
 
 視点を変えることは、想像力を磨くコツでもある(本連載第三回)。認知的な枠組み(スキーマ)を解体するきっかけになるからだ。ドラマチックに視点が変わるのは自分以外の何ものかの視点に立つことだが、アリやケーキにならなくても視点を変える方法はある。
 一つは見る角度を変えること。正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、別の側面が見えてくる。目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。対象が大きければ大きいほど、見え方の違いも大きい。他のモノとの関係性も、見る角度によってまったく変わってくる。
 もう一つが、倍率を変えることだ。カメラのように、寄りの視点で細かい部分を見るのと、引きの視点で全体をとらえるのとでは、まるで違う。実際に近づいたり遠ざかったりするのが一番効果的だが、目のつかい方次第でも見え方は変わってくる。
 引きの視点でとらえると、ばらばらな部分が、まとまりとして見えてくる。この「まとまり」をゲシュタルトという。人間はとくにゲシュタルト的な見方をしようとする傾向が強い。たとえば複数の図形のなかから仲間はずれを探すとき、部分的な違いがある図形よりも、全体的な違いがある図形の方が見つけやすい。
 このことは、目に入るものをつねに「何か」としてラベルづけして見ようとする、人間の認知的な癖とも関係してくる(本連載第一二回)。
 たとえば、虫食いの葉っぱに顔を見つけるとき。一つひとつの虫食いの穴を、ここは目、ここは口、と顔のスキーマの要素にあてはめて、ひとまとまりとしてとらえる。人間がモノを「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしているのだ。
 実際、「何か」を認知する脳の腹側経路にはLO野という領域があり、ゲシュタルト的な見方に関わっていると考えられている。そしてこの領域に損傷があると、視覚失認と呼ばれる症状をひきおこす。色や質感などの部分を見ることはできても、対象が「何か」を認知することができなくなるのだ(メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー『もうひとつの視覚』新曜社)。
 
 わたしたちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。逆に、細かい部分にとらわれていると、全体が見えなくなる。
 視点の倍率の切り替えは、かなり意識的におこなう必要がある。そして年をとると、その切り替えがむずかしくなるようだ。たとえば、積み木を組み合わせて模様をつくるのがむずかしくなる。
 医学研究科の修士課程では、松林公蔵先生のフィールド医学の研究チームに参加した。おもに高齢者の認知機能や運動機能の検査を担当していて、そのなかにあったのが、積み木で模様を構成するテストだ。積み木は、赤、白、黄、青の面と、赤白が対角に塗られた面、黄青が対角に塗られた面の六面からなる立方体だ。その積み木を二×二、三×三、四×四の正方形に並べて、紙に描かれた見本の模様をつくってもらう。
 このテストに苦戦するお年寄りが多かった。見本には、積み木一つひとつの区切りが示されていないので、隣りあう積木の色が同じだと区切りに気づきにくい。逆に、斜めに色分けされた部分に惑わされてしまう人が多かった。
 全体のなかの部分をとらえる。視点の倍率を切り替えるところに問題があるのだろう。制限時間内にできなかった人の多くが、見本に積み木の区切りを示す補助線をくわえるとできるようになった。
 この積み木構成課題ができない人に、ひきこもりがちの人や、うつ傾向の人が多い、というのがわたしの修士論文の内容だった。あらためて考えると、視点の切り替えがむずかしければ、一つの見方にとらわれがちになる。それはとても息苦しいことだろう。
 いっぽうで、認知症のスクリーニングテストの得点が低いのに、この積み木のテストは得意という人もいた。現役のときの職業や趣味を聞いてみると、西陣織の職人、洋服の仕立屋、設計士、パッチワークが趣味の女性……。何かしら物づくりをしていた人が多い印象があった。憶測だが、制作の過程に視点の切り替えが必要なことが関係しているのかもしれない。
 
 前回書いたように、デッサンでは、何かとして「認知」する前の一次的な視覚情報、「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも、部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出てくる。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。デッサンのなかでは、部分的な見方と全体的な見方を行き来する。それも両極ではなく、さまざまな倍率で形を階層的にとらえる必要があるように思う。
 学部生のときに、植物学の実習でシダのスケッチをした。形が規則的なので描きやすそうに見えたが、描きはじめたらすぐに頭が混乱してきた。シダの形は、自己相似のフラクタル構造になっていて、部分が、より小さな部分の相似形になっている。だからどの倍率で見ても似たような構造で、自分が今どの階層を描いているのか、わからなくなってしまったのだ。シダの迷宮に迷い込んだような不思議な感覚。これがフラクタルなのだと理解した。
 
 作品を鑑賞するときにも視点を変えてみるとおもしろい。ぱっと見だと、全体的な視点からテーマが「何か」を認識するだけで終わってしまう。でも一つの作品を、遠くから、近くから、斜めから、動きながら、人の邪魔にならない程度に視点を変えてみると、「!」が見つかることが多い。筆跡などの部分に注目したり、全体を眺めたりを繰り返すと、作者の視点を追体験する気分も味わえる。
 たとえばセザンヌのリンゴなら、手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間がたちあがってどきっとしたりする。
 いっぽうモネの睡蓮は、画面よりも遠くにピントを合わせて、ぼんやり眺めるのが好きだ。うつろな目で見ていると、睡蓮が水面に反射する境界のあたりから空気感のある空間がたちあがって、むしろ写実絵画以上にリアルに感じることもある。近寄ると、絵の具が荒くのっているだけなのに不思議だ。
 
 これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴のなかで実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。一つの視点を追求することは、ときにはルーペや顕微鏡までつかって見るようなもの。詳細が見えてくるほど、それが絶対的な視点だと錯覚してしまう危うさもある。
 ときには木を見たり、森を見たり、自在に視点を変えられる目を持っていたい。同時に複数の視点を持つことはできないから、見えない視点を補う想像力も必要だ。そしてアートこそ、柔軟な目を養う一番の方法かもしれない。
 森のなかで見上げると、葉っぱの一枚いちまいが青空に透けて心地よく揺れている。その木漏れ日は林床まで届き、瞬間ごとに移りゆく模様を描く。光と影のゆらめきに目をこらすと、二ミリほどの実生がつんと立ち、その周りをアリが忙しそうに歩いている。
 実際のところ、アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。
(さいとう あや・芸術認知科学) 
 

◇こぼればなし◇

 「読者と岩波書店を結ぶホットライン」というコピーが示すように、小誌は小社のPR誌という位置づけをもっています。その一方で、担当編集者たちは、バラエティに富んだおもしろいエッセイをみなさんにお届けできるよう、日々あれこれアタマを悩ませてもいます。

 小さな雑誌ですから、なかなか反響を呼ぶということはありませんが、たまさか取り上げられることもあります。そういうときには、こういう雑誌でも注目してくださる読者の方はいらっしゃるのだと心を強くいたします。

 一例を紹介いたしましょう。昨年、小誌に掲載されたエッセイのなかの三本が、日本文藝家協会編『ベスト・エッセイ2018』(光村図書)に収められました。

 六月号に掲載された松井玲奈さん「心の毛玉の解き方」、七月号掲載の桑原裕子さん「ハエちゃんのこと」、そして一二月号に掲載された連載「ルビンのツボ」第六回、齋藤亜矢さんの「からだとこころ」が、それです。

 幼いころの読書経験から、物語をとおして教わった大切なことを綴った松井さん。ご自身の幼少期をふりかえり、教育と学びについて考察した桑原さん。背骨を折ったご自身の体験から、身体と心に起こる変化、人間にとって夢のもつ意味について、認知科学の立場から思考をめぐらす齋藤さん。

 それぞれが異なる主題を、違った角度から、独自のスタイルで書かれたエッセイはどれも魅力的ですが、選ばれた三本に共通しているのは、いずれも女性の書き手によるもの、ということです。かつてとくらべれば最近の『図書』は女性の執筆者が増えた、という反応をよくいただきますが、そのような編集方針がとくにあるわけではありません。きっと編集者のアンテナにふれる、刺激的な活動を展開している書き手が図らずも女性、ということなのだと思います。

 男性陣も負けてはいません。昨年の二月号に掲載された、篠田謙一さんの「宣教師のDNA」。江戸時代の「切支丹屋敷」跡から発見された三体の人骨の謎に迫ったものですが、『江戸の骨は語る――甦った宣教師シドッチのDNA』としてまとまり、四月に刊行されました。

 また、二〇一二年四月号から一七年九月号まで、六六回という長期にわたった連載、池澤夏樹さんの「詩のなぐさめ」。前半の三三回分はすでに『詩のなぐさめ』として一五年一一月に刊行されていますが、後半の三三回分が『詩のきらめき』と題して五月に刊行されています。そして、連載中から話題を集め、三月号で終了した高橋三千綱さんの連載が『作家がガンになって試みたこと』として先月に刊行されました。
 
 
 
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