【文庫解説】『モンテーニュ 旅日記』(上・下)宮下志朗訳
1580年、モンテーニュは故郷ボルドーから、スイス、ドイツ、オーストリアを経由して、ヴェネツィア、フィレンツェ、そしてローマへと向かう17カ月もの長い旅に出ます。本書は、各地の名所や風俗、温泉での湯治、旅宿や食事の様子など、持ち前の観察眼で綴られた旅行記です。以下、訳者の宮下志朗先生による「解説」(下巻に収録)の一部を抜粋して掲載します。
ミシェル・ド・モンテーニュMichel de Montaigne(1533-1592)は16世紀フランスの人。いわゆる「ユマニスト(人文主義者)」であり、『エセー』(『随想録』とも呼ばれる)において、「わたし」を主たる対象とした人間観察を中核にすえつつ、さまざまな風俗・習慣・思考のうちにひそむ人間の本性の諸相をひたむきに描きだした。パスカルやラ・ロシュフーコーなどに連なる「モラリスト」の元祖ともされている。
モンテーニュが生きた時代、それはヨーロッパが争乱に明け暮れた世紀。「神聖ローマ皇帝」という面妖な存在も含む各国の王公権力とローマ教皇とが入り乱れて抗争し、歩み寄るかと思えば、組み合わせを変えて戦って、また妥協する。そこには、カトリシズム、福音主義、プロテスタンティズムという宗教上の闘争もからみ合っていたから、まことに複雑な様相を呈することとなった。
このような乱世を生きた彼の生涯については、巻末の略年表「モンテーニュとその時代」に譲るとして、ここではアウトラインだけを描いておく。南西フランスはボルドーの豪商から新興貴族に成り上がった一族の嫡子として、領地(現在はサン=ミシェル=ド= モンテーニュ村)に生まれたミシェルは、のちにボルドー市長となる父親ピエールの敷いた路線にしたがってボルドー高等法院の判事(評定官)となり、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530―1563)と深い交わりをむすぶも、『自発的隷従論』の著者は早世してしまう。高等法院での栄達への道も容易には開けなかった。父の死により家督を継いだミシェルは、やがて判事職を年少の知人に譲渡すると、城館の書斎の壁に「ミューズの胸元」への引退の辞をきざむ。引退の日付が誕生日に設定されているから、いわば第二の人生の始まりという決意であったのか。こうして『エセー』を書き始めるのだが、彼は必ずしも世間から隠遁したのではない。事実、『エセー』初版(第1巻・第2巻を収める)を地元で刊行したのちに決行した長い旅――本書『旅日記』はその記録である――のさなかには、ボルドー市長に選出されてしまう。市長在職中には、アンリ・ド・ナヴァール(のちの国王アンリ4世)が彼の屋敷を訪れて泊まってもいる。要するに、モンテーニュという人間は、(地方の)政治家ともいえる存在なのであった。
2期4年におよぶ市長職を終えると、満を持して『エセー』第3巻に取りかかり、1588年にパリで生前の決定版(第1巻・第2巻・第3巻を収める)を刊行する。以後は、国王アンリ4世による政界復帰の要請も固辞して、『エセー』への加筆の日々を送ると、1592年9月13日に死去、享年59であった。
ひとことだけ付け加えておきたい。モンテーニュは、「ひとりでいることが、むしろわたしを外に向かって大きく拡げてくれる」(『エセー』3・3「三つの交際について」)という名言を残しているが、その「外」なるものが「旅」とつながるのみならず、「新世界」をも意味していたことだ。われわれは「もうひとつの別の世界を発見した」(『エセー』3・6「馬車について」)として、彼は新大陸関係の書物や旅行記をかなり読んでいるし、新大陸からやって来たインディオとも会っている(1562年)。「南極フランス」(ブラジルのことだろう)に長期間いた男を自邸で雇ってもいる。つまり、「大航海時代」を身をもって生きた人物ともいえるのだ。「わたし」のうちに深く測鉛をおろす『エセー』の著者にあっては、「新世界」の出現は、「わたし」という一個の西欧人の自己認識を強く揺さぶるものにほかならず、「人食い人種について」(『エセー』1・30/31)などで、多文化共生の先駆をなす思索を展開している。
さて、このモンテーニュという「ユマニスト」「モラリスト」だが、著書と呼びうるのは『エセー』一点にとどまる(翻訳としては、レーモン・スボン『自然神学』の仏訳がある)。それ以外には、いわばプライベートなテクストが残るにすぎない。まずは数十通の書簡がある。そして『旅日記』と『家事日録』という、ここに訳出した二つの「日記」類が存在する。
(全文は、本書『モンテーニュ 旅日記』(下)をお読みください)




