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武蔵野から宮本常一を考える――W刊行記念 赤坂憲雄 ✕ 木村哲也

武蔵野から宮本常一を考える――W刊行記念 赤坂憲雄 ✕ 木村哲也(後編)

 

赤坂憲雄著『いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語』、木村哲也著『宮本常一――民俗学を超えて』のW刊行を記念して、著者のお二人にご対談いただきました。前編はこちら

 

 

後編:それぞれの武蔵野へ

散歩と立ち話でできた本

赤坂 『私の日本地図』(未來社)という宮本常一のシリーズがあって、その10巻が「武蔵野・青梅」編です。宮本さんは1961年に府中市新町3丁目に引っ越していて、僕は新町1丁目に住んでいました。だから、きっとどこかですれ違っていたに違いないと思っています。当時の僕は小学生低学年でしたが、この本に出てくる写真の風景は自分が見ていたものばかりなんです。

宮本さんは、この本の中でこう書いています。

 

府中市に住むようになってからは、自分の家を軸にして歩いた。歩いているといろいろなことを考える。

 

宮本常一は、日本の自然は作られたものだと書いています。人間が自然との関わりをデザインしているんだ、と。宮本さんがそれを実感したのが、たぶん武蔵野だったんじゃないか。

というのも、僕が生まれたのは四ツ谷ですが、2歳からは武蔵野の府中なんですね。僕が住んでいた都営住宅から学校に行くまでの途中に四つ辻があったんです。宮本さんは、明治15年(1882年)に測量した5万分の1の地図を見て、その四つ辻が「新宿山谷」と呼ばれていたと書いているんです。もともとは「散野(さんや)」だったのが、「山谷」になったのではないか、そして、これは入会地のことだと。もともと府中のこの辺りは極めて寂しいところでした。

この本(『いくつもの武蔵野へ』)にも書きましたが、僕が原風景のように記憶している武蔵野は、雑木林と原っぱと畑なんですね。学習院での教え子が、いわゆる「武蔵野インディアン」、武蔵野の旧家の娘で、彼女の卒論に書かれていた武蔵野の景観は、屋敷林の中に屋敷があり、その向こうに短冊型の長い畑があって、その先に雑木林があるというものでした。雑木林を、ぼくは子どもの頃、「ハヤシ」と呼んでいたんですが、民俗語彙としては「ヤマ」(里山)なんです。あるとき気がついたんです。僕はそういう民俗的な景観を、裏側から見ていたんだ、と。僕にとっての雑木林は薪や炭を得るための場所でも山菜を採ったりするような場所でもなく、虫捕りに行ったり、ひたすら遊ぶ場だったんですよ。

宮本さんが住んだあたりは原野でした。昭和20年代に満州からの引き揚げ者の住宅がまずできて、それから少年院ができて、僕の住んだ都営住宅ができた。もともと何もなかった原野だから開発ができた。僕はその都営住宅の側から、あの雑木林を見ていた。それを教えてくれたのは、宮本さんでした。だから、僕はこの本のなかで宮本さんの武蔵野論をいろいろなところに沈めて書いているんです。さらに、散歩と立ち話ということで書いておくべきかもしれませんね。

赤坂憲雄『いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語』
『いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語』赤坂憲雄(岩波書店)

人が作った風景があちこちにある

木村 『いくつもの武蔵野へ』を読んで、私も赤坂さんが宮本常一を読んで感じたのと同じように感じたところがありました。武蔵野には人が作った景観があちこちにあるんですね。

赤坂 木村さんは、生まれ育ちはどこでしたっけ。

木村 生まれは四国の高知ですが、育ちは東京の東久留米で、そちらのほうがずっと長いんです。

赤坂 武蔵野が残っているところですね。

木村 赤坂さんはこの本の「あとがき」で、(ハンセン病療養施設の)多磨全生園について武蔵野の雑木林を患者たちが開拓して作ったと書かれていますが、じつはそれは違っていて。あの場所は、もともと原野だったんですよ。明治42年(1909年)にできた当時の写真を見ると、ただの野原です。木が1本も植わっていない。

清瀬駅から全生園に向かう途中は、現在は病院街になっていて、もともとは結核患者や傷痍軍人の療養所だった病院です。そのどん詰まりにあるのが、最初にできたハンセン病の療養所です。全生園の後から、ほかの施設ができていったんです。

何にもないところに全生園を作って、後から木を植えていったんですね。もう110年以上経って、妨げるものがないから、木ってこんなに高く伸びるんだというぐらい背の高い木がたくさんある鬱蒼とした森になっていますけど、最初からそうだったわけではなく、人が作ったんです。

赤坂 全生園は雑木林を切って開発したと書いてあるものを読んで、それを踏襲して「あとがき」に書いていました。「あとがき」には、全生園の雑木林の木を、戦時中の燃料がない時代の患者さんたちが、罰せられるから夜の闇に紛れて切って、押し入れに隠しながら焚いて暖をとって生き延びたという話も書きました。だから、戦争が終わった頃には雑木林はなくなっていた。それ以前の時期に書かれた北條民雄の本を読んでいると、夜の散歩を雑木林でしているんだよね。

木村 首を吊る枝を探すんですよね。

赤坂 国木田独歩の雑木林は、思索にふけるとか、ロマンティックなんです。でも、北條民雄の思索は全然違う。そういう雑木林があったことを書いておきたかった。

つまり、患者さんたちが戦後にまたそこに植林して今の森ができあがったけれど、もともとは入会地の原野だったということですね。武蔵野の地は放置しておくと照葉樹林の森になるから、野原だったということは野焼きをしていた。古代から中世にかけての文学のなかでは、武蔵野の野焼きや草の武蔵野がひたすらに語られています。武蔵野の入会原野が、例えば所沢だったら新田開発で開拓され、人の手による雑木林が生まれてくる。そうした武蔵野の手掛かりを、宮本さんの本からいただいています。

読者それぞれの武蔵野へ

木村 今日、赤坂さんにぜひ聞きたいと思っていたことがあります。赤坂さんは、情がこもった、それでいて非常に理知的な文章を書かれる方ですけど、今回の本のなかで1か所、すごく破調になっているところがあります。そこが気になっていて、ちょっと長いんですけど読んでいいですか。

 

たしかに、その町はずれには、「社会というものの縮図」が凝縮して見いだされる。そこはしかも、ある種の生活と自然とが混ざりあい、大都会と田舎の生活の名残りが落ちあい、ゆるやかに渦を巻く特別な場所だ。きっとそこには、だれしもの関心を掻き立てるような「小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語」が、そこかしこの軒先に隠されていた。

わたしはありありと思いだすことができる。わたしの育った百戸足らずの都営住宅の軒下には、たしかに、たくさんの小さな物語が転がっていた。わが家をふくめて、子だくさんの貧乏に喘ぐ家は実に多かった。たった二軒のよろず屋の店先には、一本のソーセージ、一個のコッペパンを狙う幼い子どもがいて、子猫のように追い立てられていた。頑なに子どもを学校に行かせない家が、二軒あった。学校って、どんなとこじゃ、と羨ましそうに聞かれた記憶が妙に生々しく残っている。

豪華な自家用車を乗り回していたかと思うと、突然、貧乏のどん底に転落する、不思議な家があって、占い師だと噂されていた。その隣りの家は警官だった。痩せこけたチャボを飼っている家の子どもは、悲惨だった。よその家の庭先に紛れこんで餌を喰らうチャボのために、いつでも怒鳴られていた。肥溜めに落ちた女の子がいた。それを知らせに走った年端のゆかぬ男の子は、みなにほめられ、女の子は泣きながら、どこかの家の風呂場で水を何杯も、何杯もかけられた。

テレビがようやく普及しはじめた頃のことだ。プロレス中継で、ブラッシーに額を噛まれて力道山だかが血まみれになるのを見て、卒倒して死んだ老人がいた。新聞にも載った。大きな葬式饅頭が配られて、子どもたちは喜んだ。馬の糞を踏んだから巨体になったと噂される女性がいた。未亡人だった。その家の、たぶん夫の葬式に出た饅頭はとても小さかった........。

記憶があふれてくる。切りがないので、このくらいでやめておく。

(赤坂憲雄『いくつもの武蔵野へ』岩波書店)

 

見事な文章です。これは近所のゴシップですよね。こういうのを書き込む民俗誌はないと思います。だけどすごく大事なことが書かれていて、前後と脈絡もなく出てくるんです。

赤坂 脈絡のないことを、僕は結構書くんです。

木村 エピソード一つひとつが、とても生きているんですよね。

赤坂 書いているうちに、自分の原風景が蠢き始めたんです。独歩が『武蔵野』の最終章でそういう感じのことを書いていて、それを僕もついやってしまいました。この本の第一章でも、自分の体験した武蔵野を手探りで拾い集めていくことをやっています。雑木林とエロ本とかね。

木村 ありましたね。面白かった。

赤坂 雑木林というものが独歩の『武蔵野』で語られ、特権的な風景になってしまっているけれども、それを武蔵野に生きている人たちの目線で描いてみたいというのがありました。そこにいたのは、ふるさとに生きる場を持たずに日本中から流れてきた人たち。とくに戦後は、戦地から帰ってきた人たちがたくさんいて、都営住宅や引揚者住宅などが作られました。もう少し新しい時代になると、ニュータウンというかたちになる。

つまり、武蔵野に生きる人たちは「移民」だったんだ、と。僕の父親も連帯保証人のハンコを押していたために身ぐるみはがされて、母親は僕の上の兄たちの手を引いて一番列車で東京に逃げてきたんです。都営住宅の一軒一軒、どういう人が住んでいたかが目に浮かぶんですよ。みんな村を追われたのか捨てたのか、そういう人たちばかり。先ほど読んでくださったのは、そのことを思い出しながら書いた一節です。

木村 この文章にすごく力があったので、喚起されて、時代も場所も違いますが自分の少年時代を思い出しました。これを読んだ皆さんは、それぞれの時代のそれぞれの場所について触発されると思います。そこから何か新しい「いくつもの武蔵野へ」というものが出てくるんじゃないかと感じました。『いくつもの武蔵野へ』というのは、僕ら読み手それぞれの「いくつもの」なので。

赤坂 今日はハンセン病の話をあまりしませんでしたが、雑木林のなかにハンセン病の施設があったということは、武蔵野を考えるときの大きな手がかりだと思っています。木村さんとお話しするのを楽しみにしていたんです。2回目、3回目も、どこかでやるような気がします。どうもありがとうございました。

 

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