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対談 イギリス革命の通奏低音を聴く

イギリス革命の通奏低音を聴く(後編)|『イギリス革命と変容する〈宗教〉』

対談 イギリス革命の通奏低音を聴く について

3 ふたつのリベラリズムと近代

岩波 二冊の本の帯に目を移すと、共通点があるようにも思います。
 
 
 ひとつは、近代イギリス理解につながる道筋を強調していることです。大西先生の本の帯は、イギリス近世のリベラリズムと、啓蒙思想家ジョン・ロック(1632-1704)の植民地主義のあいだに連関があることを示しています。対して那須先生の本は、近世と近代の宗教的な連続性を強調しています。「セクト」からイギリス近世の宗教を問う二冊が、いずれも近代を遠くの問いとして見据えているのは、当たり前ですけれども、重要な共通点です。
 さらに、大西先生は「交易の自由」と「信教の自由」。那須先生は「理性」と「信仰」。ふたつの、べつもののような言葉を組み合わせていますね。
 
大西 今までは近代の啓蒙主義と宗教は水と油、別物として取り扱われてきたんです。啓蒙主義は近代のもの、宗教は前近代のもの、と。
 ですが、宗教を抜きに、啓蒙主義や理性を考えることはできないんですよ。セクトを研究すると、否応なくその問題につきあたる。さきほど、セクトのなかに自由の契機を読み取ると言ったとおり、宗教を否定したところに突然自由が出てきたわけではなくて、セクトの中に、チャーチに属さない個人というものが生まれ、彼らが自由を主張する。私の本では、その彼らが、大英帝国の拡充に結びついていくことを強調しています。
 
那須 大西先生のご本は、「交易の自由」と「信仰の自由」が、矛盾しないどころか、ほとんど同じような意味を持っている、むしろ一つのアイディアの二つの表現のようにさえ見えてくるのがすごく面白いです。私の本の帯に「理性」と「信仰」が並んでいるのも、少し似た構造があります。
 先生がおっしゃる通り、理性的になるということは、宗教を捨てて世俗的にものごとを考えることである、という一般的なイメージがありますけど、むしろ「理性的な信仰」への関心こそ、革命の産物なのだ、というのが私の本の主張のひとつです。
 
岩波 大西先生は自由の問題に深く関心を持っておられるとのことですが、同時に、経済史の手法を大きく取り入れておられます。なぜこうした着想に至ったんでしょうか。
 
大西 川北稔先生の『工業化の歴史的前提』(岩波書店、1983年)がきっかけですね。川北先生はこの本で、統計を駆使して、イギリスの貿易は単に毛織物貿易だけではなくて、西インド諸島を含めた大西洋全体での貿易を富の源泉にしていたのだと論じられたわけですね。
 では、その始まりはどこなのだろうか、と疑問に思って歴史的に遡っていくとピューリタン革命にぶつかって、これが単なる市民革命ではなくて、帝国形成の出発点だということがわかってきた。そして、それを推し進めていたのが新興商人たちなのですね。
 さらに、資料に分け入ってみているうちに、新興商人たちの中に私が研究しているようなセクトの人たちが含まれていることに気付いたのです。ここから、キリスト教研究だけではなくて、やはり経済史を巻き込んだ研究をしなければ、この時代はよく分からないと考えるに至った。
 ただ、研究はなかなか進まなかったんです。10年ほど管理職になってしまって(明治学院大学学長などを歴任)、この本の最初の6章ぐらいまでで、研究がいったん途絶してしまいました。その後夏休みのたびに、オックスフォード大学にあるリージェンツパーク・コレジというバプテスト派の神学校で研究をしたのですが、そこが出しているウィリアム・キッフィンというバプテスト商人の資料集にぶち当たった。読み込んでいくうちに、彼とロックとのつながりが見えてきて、「交易の自由」と「信教の自由」が一貫して同じものとして主張されている背景が見えてきた。ああ、近代ってこういう人たちによって担われたんだなということが次第に分かってきたんですね。
※ Larry J. Kreitzer, ed. Wiliam Kiffin and his world, Regent’s Park College, Oxford, 2010-2018.全8巻中6巻が刊行済。
 
ウィリアム・キッフィン
 
 そういう意味で、キッフィンの史料と出会って以後の数年間の成果は、非常に大きかったです。そもそも、セクトの資料というのは、基本的に迫害する側の資料が残っていて、セクト側の資料はそれほど残っていない。しかも商人ですから、逮捕されたとか、あるいは集会をやっていたとか、そういう記録しか残っていない。しかし、資料集では、どこのギルドに入っていたとか、どれだけ納税したかとか、家庭はどうだったとか、どういう土地を買ったとか、もう全部洗いざらい入っている。これを見ると、帝国の拡大とセクトとが重なってくるということに、気付かざるを得なかった。
 一番大きな発見は、イギリスの植民地政策、宗教政策にも関与していたジョン・ロックと、非国教徒として何度も逮捕歴のあるセクト商人キッフィンとが、実は昵懇(じっこん)の仲だったということです。驚きましたね。ロック研究からも、セクト研究からも見えてこない。
たとえば、ロックはフランス旅行中に、キッフィンにオレンジやワインを贈っているんですね。それは、2人が社員として参加したバハマ諸島会社(1672年設立)というカンパニーについての、将来こういった作物を扱えば利益が出るんじゃないかという提案のためだったようなのです。対して、キッフィンはロックのお財布になって彼の個人投資を支えていて、すごく近い関係ができていた。ロックの投資先の中には王立アフリカ会社のような奴隷貿易なども含まれており、キッフィンも東インド貿易に参加してロックとともにシルク貿易に乗り出す。2人はブリテン帝国の拡大と関わっていたわけです。
 
 ハーヴァード大学の思想史家、デヴィッド・アーミテージは、「労働による所有」という考え方を、ロックのブリテン帝国に対する最大の思想的貢献として挙げています。それまで、所有というのは、「魂による所有」、つまりカトリック・スペインのように、魂の状態によって――要するに信仰がカトリックでないと所有権が発生しないという考え方を採っていた。
 対して、プロテスタント・ブリテンの帝国は、労働による所有を認めたわけです。何を信仰していようが、労働によって、その対価として所有が認められるような、近代的な労働価値説や所有の個人主義を提唱した。そのイデオローグがロックなわけですが、実はロック自身も、キッフィンのような信教の自由を主張するセクトとの交流のなかで、こうした論理へと変化していったのではないだろうかというのが、本の後半の3つの章での重要な論点です。
 
那須 信仰の自由と交易の自由の密接な関係については、私も昨年初めてアムステルダムを訪れて、実感しました。17世紀のアムステルダムは、宗教的自由特区のような都市です。カトリックもユダヤ人も再洗礼派も拠点を持っている。正統派プロテスタントから見れば「異端の巣窟」です。だから、イングランドでセクトが増えると、「ロンドンがアムステルダム化する」、と騒がれました。でも同時に、アムステルダムが商業的に繁栄していることも、ロンドンの人たちはよく知ってます。
 
大西 アムステルダムは、キッフィンにとっても、貿易商人組合に独占されたイギリス市場から逃れて、商業的なキャリアをスタートさせた土地です。同時に、おそらく再洗礼に目覚めた場でもあると考えられます。
 
那須 当局が目をつぶっているから、異なる宗教的信仰を持った人々が相互にトレードできる体制が、16世紀からできていたんですよね。信仰の多様性を認めて、労働の、あるいは競争の結果だけを見るという文化が、オランダに形成されていた。
 宗教的な自由と商業の自由が一体化している感じは、商館に挟まれるように作られた外国人チャペルやシナゴーグを見ると、なんとなく分かります。これまでのイギリス近世史における非国教徒研究って、そういう視点が弱かったと思います。
 ロック研究も、抽象的な思想史のレベルにとどまりがちで、近代イギリスのルーツをテクストの中に探るという、内在的な問いから逃れられないできた。大西先生が論じておられるような、商業帝国の中でグローバルに見ていく視点が弱かったですよね。

4 「異端」と「オルガン」

岩波 次は、那須先生の本の話をうかがいましょう。テーブルの上にあるのが『ガングリーナ』ですね。
 
 
那須 ええ、これが、イギリス革命期に流行した「異端のカタログ」の代表作、『ガングリーナ』です。影写版で、パート3までの3部作をひとつに合冊してあります。
ぶ厚いでしょう。パート1だけで、180種類の異端が解説されています。今はオンライン・データベースからPDFを落とせますが、私が大学院生の時には、ファクシミリ版を取り寄せて、博論を書きました。
 
大西 僕はマイクロフィルムで見ました。懐かしいね。
 
那須 「ガングリーナ」はラテン語で、英語の「キャンサー(癌)」の語源です。要するに、このカタログを編纂したトマス・エドワーズという聖職者は、再洗礼派をはじめとする革命期のセクトを、イングランドの「癌」だと言いたいんですね。今の言葉で言うならば、マイノリティに対するハラスメント、ヘイトスピーチですけど、17世紀の文化的コンテクストで考えるなら、もう少し深い、当時の宗教理解そのものにかかわる分析もできる。本書では、「異端」を何かに喩えたり、分類したり、論じたりする際のさまざまなロジックと、その歴史的変化について論じました。
 
 「異端」に続いて、私の本のもう一つのキーワードは「オルガン」です。パイプ・オルガン。話が飛ぶようで申し訳ないのですが、つながっているんです。
 日本の教会は大きさもインテリアも様々ですが、中にある楽器もいろいろですよね。ある教会には、立派なパイプ・オルガンがある。他の教会には、電子オルガンがあったり、ピアノがあったり、あるいはギターアンプやドラムセットがあったり。礼拝にふさわしい楽器とそうでない楽器についての考えは、教会によって違います。たとえば、オルガンは良いけれども、ギターは良くない、みたいなことが、いまも言われるわけですよ。カジュアルすぎるとか、讃美歌の歌詞に合わないとか。
 オルガンは、いまでこそ教会音楽の王様みたいなポジションにあるわけですが、イギリス革命とは、まさにそのオルガンが不適切とみなされた時代だったんです。議会がオルガンの使用禁止を決めて、本当にイングランドじゅうのオルガンを壊してしまうんです。
なぜそんなことが起きたか。よくある説明は、議会を支持したピューリタンは敬虔で真面目な人たちだから、視聴覚に訴える娯楽や芸術は不信仰だと考えていた――要するにチャラチャラしたものが嫌いなのだと。それでオルガンは壊されたんでしょうって、大体そういうふうに説明するんです。でも、何か違うなという気がしていたんですね。
 研究しているうちに、身体や病のアナロジーに基づいて、異端は癌(ガングリーナ)だから取り除かなければいけないという発想と、教会の中で不適切な楽器が演奏されているから撤去しなければならない、教会内のサウンドスケープをコントロールしなければならない、という発想が、実は同じひとつの問題系の中にあるということに気付いたんです。
 異端を取り締まるということと、教会の音楽を管理するということ。この二つを連続したものとして論じてみたのが、今回の僕の本なんです。
 
法政 オルガンを破壊した代わりに、何が正統になったんですか。
 
那須 いい質問、ありがとうございます(笑)! それは、信徒の歌声です。教会に集まった会衆全員が讃美歌を歌うんですよ。厳密に言えば17世紀は「詩篇歌」がメインです。
※ 旧約聖書の「詩篇」を、単純なメロディに乗せて歌うために韻文に訳し直したもの。宗教改革時代のプロテスタント諸国で流行した。
 
 今は、教会のオルガンって、みんなが讃美歌を歌うための伴奏楽器だと考えられていますよね。でも、革命以前には、オルガンはソロで演奏されるか、聖歌隊の伴奏に使われるだけだったんです。つまり、信徒にとっては、黙って聴く対象でした。会衆が歌う讃美歌とオルガンの音が共存し得るという発想は、まだなかったんです。
 オルガニストや聖歌隊は、立場としては、礼拝を執り行う特権的な聖職者集団の一員なんですね。ですから、オルガンを壊すというのは、聖職者特権を壊すことを意味していました。同時に、会衆の自発的な礼拝参加をもとめる文化が出てくる。自発的な信仰を最も重視していたのは誰かと言えば、先ほど挙げた再洗礼派も含めた、セクトです。
 今日も親しまれている有名な讃美歌の多くは、アイザック・ウォッツ(1674-1748)やチャールズ・ウェスレー(1707-1788)のような、非国教会に関係の深い賛美歌作家たちの作品なんですね。イギリス人の讃美歌文化は、革命期のオルガン破壊の延長線上にあると言っても良いかも知れません。
 
大西 面白いよねえ。これは私の前の著作の挿絵なのですが、居酒屋で説教をしているんですよ。
 
 
 まるで講壇の中にいるかのように、居酒屋で説教をしているセクトを茶化した絵なんですね。ピューリタン文化においては、居酒屋に入ること自体忌避されるから、こうした戯画が生まれるわけですが、セクトにはセクトなりの論理があって。
 実は居酒屋というのは当時の庶民文化において非常に大きな公共空間だったわけです。要するにパブに行けばお酒も飲めるし食事もできますよね。同時に、職の斡旋や、商人たちの情報交換なども行なわれた、いわばあらゆる生活圏の中心になる場所でこそ説教すべきということなのですね。
 しかし、説教は全て聖職者に独占されています。でも、こうしたパブでやっているのは、たとえば靴の修繕屋だったサミュエル・ハウのような、非聖職者なんですよ。聖職者は無論これを否定するわけです。ラテン語・ギリシア語、それから哲学・修辞学、三段論法を用いなければ説教ができない。なのに、なぜ靴の修繕屋が説教ができるのだと。
 
 そのような反聖職者主義を押さえ込もうとする動きが、逆に宗教そのものの前提を掘り崩していくというのが、那須先生の本の後半部分の大きなモチーフですね。
 
那須 聖職者の特権を守り、教会の一体性を死守しようとする立場と、これを逆に解体しようとする立場は対立するわけですが、結局、討論では決着が付かないんですよ。厳しい迫害に遭って消えていくセクトもあったのですが、バプテストやクエーカーは生き残ります。会衆派や長老派も独立してゆく。つまり、流れとしては、国教会の独占状態は終わるわけです。大西先生の本で論じられている、貿易における特権的なカンパニーの独占状態がなくなっていく過程と軌を一にしていると思います。
 そうなると、宗教が唯一無二ではないということ、つまり、「宗教の複数性」を受け入れざるを得なくなってくるわけですね。
 
 さきほどの『ガングリーナ』は180の異端をリストしていると言いましたよね。皆さんだったらどうですか。たとえば、異端が10個リストされているものと、50個リストされているものと、180個リストされている本が3冊並んでいたら、どれを買いますか。……なるべく多くリストされているやつがいいですよね。
 より多くのものを網羅している方が信頼性が高い。となると出版する側も、多様な宗教を積極的にカバーしようという方向に向きます。セクトが増えるのは困るのに、その多様性を認めざるを得なくなるんです。
 つまり、もともと「異端」を懲らしめるための出版物だった『ガングリーナ』のような「異端のカタログ」が、むしろ宗教の分裂状態を追認するメディアになるという、皮肉な結果です。
ロックのように、宗教の複数性というものを理論的に考え、受け止めていった啓蒙思想家はこれまでも注目されてきたわけですが、『ガングリーナ』の著者のような、反セクトの立場の人々さえもがそれを受け入れてしまうところが、面白いんです。 

5 イギリス革命のオーケストレーション

 大西 イギリス革命の特色とは何か、いろいろな議論がありますよね。
 ピューリタン革命でチャールズ1世が処刑され、反動で王政復古が起こります。それでも革命は衰えず、最終的には名誉革命で、さっき言った交易や信教の自由が認められていく。革命と一言で言っても、長いプロセスがあった。
 その中で、私が一貫した通奏低音だと思っているのが、やはりコングリゲーション(教会会衆組織)です。彼らが信教の自由と交易の自由を言い続けたことが、やはりイギリス革命を、単なる政治的事件では終わらせなかった。継続的に人々が集って集会を開き、粘り強く戦い抜いていって、結果的に自由を獲得するという過程につながっていったというところに、革命のダイナミズムと言うか、本質的なものがあると思うんです。
 通奏低音としてのセクトが次第に拡大していくことで、自ずと絶対王政と言うか、言ってみればこれまで一つじゃないといけないと思っていた考え方が変わってくる。この組織の結び付きがなかったら、思想信条だけ振りかざしていたって、これは成就できない。
 だから、たとえばレヴェラーズという人たちがいて、思想的に平等主義的で立憲主義的で素晴らしいのですが、セクトを足場に置いていたから自分たちの組織力は非常に弱い。セクトは、聖者支配など、やはりキリスト教的な統治論に固執しますから、両者は重なりながらも、革命の究極的なターニングポイントで対立した。それで、彼らは足がかりがなくなってきて、運動から消え去っていく。そこが非常に重要な部分じゃないかというのが分かりますね。
 ※ Levellers.ジョン・リルバーンのもと、普通選挙にもとづく共和制を志向し小生産者を中心に広い支持を得るが、セクトの指導層が支持したクロムウェルの弾圧によって消滅した。
 
那須 信仰と交易の自由を言い続けることが通奏低音だとしたら、異端学は何かな……。上で鳴っているシンバルでしょうかね。
 
大西 なるほどね。通奏低音をかき消そうとしてシンバルを叩くけれども、ますますそれが通奏低音を目立たせるんだね。
 
那須 それが全体としてポリフォニー音楽、つまり、対話になっているんですよね。
どのような思想も、何か別の思想に対するカウンターだから、たとえば信仰の自由が主張されるということは、逆にそれを否定し続ける側もあるわけです。キッフィンだって、自由貿易に関する意見陳述を何度もして、3回でしたか、却下されているんですよね。だけど最後は手に入れる。それと同じで、信仰の自由を模索する運動も、一貫して反対を受けますが、最終的には、国教会の唯一性という前提が崩壊して、イングランドは宗教複数主義になる。
 
大西 そして、それが制度的に正当化されて、今に至っているわけですよね。
 
那須 そうなんです。ヘンリ8世がローマ・カトリックから分離してイングランド国教会を立ち上げてから17世紀末の名誉革命までの150年間にわたる長い宗教改革を通して、二つのメロディが対話し続けているということだと思うんです。
でもよく考えてみたら、セクトとチャーチ、どっちが通奏低音でどっちがシンバルか、分からないですよね。気がついたら入れ替わっているかもしれない。
 
大西 なるほど、叩いているうちに、世の中の構造が変わっていくわけね。つくづく、ロンドンが引っくり返っているカバーが効いているね。
 
岩波 たまたま表紙やテーマが重なっている2冊の本が出た、というだけの企画でお集まりいただいたわけですが、結果として、17世紀イギリス革命の構造を、対照に位置する二つの点から照射しあうような対談になったように思います。
 学術書は1冊読むのも大変なものですけど、2冊並べて読み比べると、また違った面白さが出てきます。書店さんもきっと並べて置いてくださっていると思うので、是非イギリス史の棚で、手にとって見比べてみてほしいですね。
 今日はお忙しいところ、ご参集いただき有難うございました。
 
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