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『図書』2 月号 【試し読み】渡辺京二/菱木晃子

◇目次◇

 
世界的な詩としての俳句   夏石番矢
「戦後知」の収蔵庫       成田龍一
ジェンダーという流行語?   前田健太郎
『太平洋食堂』のこと  柳 広司
何を今さら『方丈記』、されど今こそ『方丈記私記』(下)  鹿子裕文
漱石全集の読み方 (上)   赤木昭夫
あ、酒を飲んでしまった   高橋三千綱
引き裂かれつづける   藤原辰史
ハーポのブルース   片岡義男
赤の蕩尽   橋本麻里
着物の裾模様   片山杜秀
『こゝろ』の深層   長谷川 櫂
三エス時代と流線型   山室信一
 
二月の新刊案内
 
(表紙=司修) 
(カット=西沢貴子) 
 

◇読む人・書く人・作る人◇

ひと騒ぎ
渡辺京二
 
 幕末日本へやって来て通商条約を結んだエルギン卿と、大英博物館にエルギン・マーブルをもたらしたエルギン卿とは、同一人物なのか否か。人名辞典を引けば、そんなことはすぐわかるはずだ。不精者の私はその労もとらなかった。近日遂に人名辞典に当ったのは、疑問を抱えたまま死ぬ怖れに気づいたからだ。私は八九歳で、たとえ明日頓死しても不思議はない。

 まず岩波の『世界人名辞典』に当った。二巻ものの癖にない。念のためおなじ岩波の『西洋人名辞典』を引いた。あった。しかしブルースを見よとある。エルギンとは爵位についた家名で、本名はブルースだったのだ。そしてわかった。日本に来たジェイムズ・ブルースは第八代エルギン伯、その父第七代トマスがエルギン・マーブルの逸話の主なのだ。

 ところが、こんなひと騒ぎをやらかす必要はなかったのだ。オリファントの『エルギン卿遣日使節録』を確かめたら、解説にこの親子関係のことはちゃんと出ていた。これは『逝きし世の面影』を書いたとき、散々使った本なのにすっかり忘れていた。

 こんなこと、知的探求心といえば体裁がいいが、本当は死という一大事を迎えようとしている人間にとって、何の意義もない詮索にすぎぬ。だが、こういう何の意義もないいとなみが、結局は生命活動なのではあるまいか。無心に地を這う虫が、地を這うというだけで命を実現しているのだとすれば、こういう些事にこだわるのも、私の命の表われかも知れぬ。
(わたなべ きょうじ・日本近代史家)

 

◇試し読み◇

リンドグレーンを振り返る
菱木晃子

 おそらく児童文学ファンのなかには、リンドグレーンと聞けば胸が高鳴るという人が少なくないだろう。いや、児童文学ファンならずとも『長くつ下のピッピ』の作者といわれれば、ああ、あの! と、ぴんとくる人も多いかもしれない。アストリッド・リンドグレーン(一九〇七―二〇〇二)は、北欧の国スウェーデンが世界に誇る児童文学作家である。このところ、私の仕事は、そのリンドグレーンにまつわるものが続いている。
 
 きっかけは二〇一八年の日本・スウェーデン外交関係樹立一五〇周年記念イベントのひとつ、「長くつ下のピッピの世界展」の監修を引き受けたことだった。この展覧会は『長くつ下のピッピ』を中心に、その作品世界と作者の人となりを紹介する世界最大規模の回顧展で、本国スウェーデンはもとより、デンマーク、エストニア、日本からも貴重な原画や資料が提供された。監修の仕事としては、最初の展示会場となる七月の東京会場でのオープニングに向け、およそ半年あまり前から、図録のための翻訳や事実関係のチェック、会場で流すドキュメンタリー映像の字幕付けといった、細々とした作業が続いた。大変な仕事ではあったが、私にとってはリンドグレーンの業績を振り返る、とてもいい機会となった。
 
 それと並行して、同じく二〇一八年の一月に、岩波書店児童書編集部から「ピッピ」三作の新訳の依頼を受けた。新装丁シリーズ「リンドグレーン・コレクション」の第一弾に、『長くつ下のピッピ』『ピッピ 船にのる』『ピッピ 南の島へ』の三作を、作者のお気に入りだった原書と同じイングリッド・ヴァン・ニイマンの挿絵で、「長くつ下のピッピの世界展」の巡回中に出版したいというのが編集部の意向だった。スケジュール的にはかなり厳しかったが、一作目を東京会場のオープニングとほぼ同時期の八月初旬に、二作目と三作目を一二月の宮崎会場と二〇一九年二月の京都会場のオープニングに、それぞれ間に合わすことができた。
 
     *     *     *

 新訳の仕事というのは、それなりに気を遣うものだ。旧訳と比べられることは覚悟しなければならない。とくに「ピッピ」に関していえば、我が国では五〇年以上もの間、大塚勇三氏の訳と桜井誠氏の絵で親しまれてきた。長年のファンも多い。絶版になっているわけでもない。それなのに今、あえて新訳・新装版シリーズを出す意味は何なのか? 当然ながら、新訳の必要性に疑問を呈する意見もあるだろう。
 
 私個人としては、遅かれ早かれ、新訳・新装版は必要になると思っていた。実は、もう一五年以上前になるが、ある公共図書館でスウェーデンの児童書について話をしたとき、参加者のなかに、リンドグレーンを知らない、読んだことがない、という人がけっこういて、愕然としたことがあったのだ。実際、「ピッピ」はまだしも、図書館によっては「カッレ」シリーズや『さすらいの孤児ラスムス』の本はすでに閉架になっていて、読者の目に触れる機会が失われつつある。開架であっても、最近の子どもの目にはリンドグレーンの本はどうも古めかしく映るようで、進んで手に取ろうという気にならない。大人に声に出して読んでもらっても、聞いていてよくわからない単語や言い回しがある。司書の人も、なかなか子どもに薦めにくい――などの理由から、子どもたちのリンドグリーン離れは深刻化していて、このままでは、いずれリンドグレーン作品は忘れ去られてしまう、と危機感を募らせていた。
 
 そんなわけで、岩波書店からもたらされた新訳・新装版の企画は、リンドグレーン・ファンのひとりとしても、スウェーデン児童書の翻訳に携わる者としても非常にありがたく、まずは「ピッピ」三作を、今の日本の子どもたちが目で読んでも、耳で聞いても楽しんでもらえる訳文にしようと意気込みを新たにしたのだった。というのも、児童書の翻訳作品にはままあることなのだが、「ピッピ」の本が自分で読める年齢層(小学校中学年)と、「ピッピ」の物語を純粋に楽しめる年齢層(小学校低学年)には微妙な開きがある。それを埋めるためには学校や家庭で読み聞かせをしてもらいたいので、耳で聞いても子どもがひっかからずにイメージできるリズミカルな訳文というのが、新訳の肝になる。
 
 具体的には――とにかく地の文はリズムよく。登場人物の台詞は、それぞれのキャラクターが立つように。作者特有の言葉遊びをできるかぎり生かす。旧訳で使われていた、今の子どもたちがイメージしづらい日本語は見直し、たとえば「かまど」は「オーブン」に、「きもの」は「服」に、「コーヒー茶わん」「茶わん」は「コーヒーカップ」「カップ」に、「味つきパン」は「シナモンロール」に。一方で、三作の邦題とピッピの家の名前〈ごたごた荘〉は、旧訳のネーミングの素晴らしさに敬意を払い、そのまま引き継ぐことにした。訳語や表現に迷ったときの編集者との合言葉は、「五〇年先を見据えての私たちの新訳」だった。
 
 訳しながら、内容的に改めて気づいたこともあった。一見、荒唐無稽と思われがちな「ピッピ」の物語だが、そして、たしかに物語が生まれるきっかけはいくつかの偶然が重なってのことだったのだが、作品として世に出た物語には、作者の構成力の巧みさが随所に見られ、また、私自身、子ども時代に読んだときには素通りしていた作者からのメッセージをしっかりと受けとめることができた。 たとえば、「世界一強い女の子」という枕詞が付けられることの多いピッピだが、「世界一」なのは腕力ばかりではない。人並はずれた腕力をけっして悪用せず、一人暮らしのピッピが精神的にも「世界一強い女の子」であることは、大人になった今だからこそよくわかる。あるいは、後年、子どもへの体罰や動物虐待に反対し、社会のオピニオンリーダーの役割をはたした作者の主張が、すでに二作目『ピッピ 船にのる』の四章の場面で描かれていることにも、はっとさせられた。私自身がそうであったように、子どもの読者の目がまず行くのはピッピの破天荒な言動だろうが、大人になって読み返したさいに新しい発見が生まれるのは、優れた児童文学が持つ作品そのものの深みゆえだろう。
 
     *     *     *

 さて現在は、「ピッピ」とは作風の異なる「名探偵カッレ」シリーズの二作目『名探偵カッレ 地主館の罠』の新訳に取り組んでいる(一作目『名探偵カッレ 城跡の謎』は二〇一九年九月刊行)。これが実に楽しくて仕方がない。
 
 「ピッピ」のときにも感じたのだが、リンドグレーン作品はシリーズ二作目が一作目以上に面白いのである。何故か? 一作目では、どうしても物語の舞台や登場人物の説明が省けないが、二作目では一作目でお馴染みになった登場人物が――子どもたちも、周囲の大人たちも――最初から生き生きと動いて、物語全体に躍動感が増すからだ。一作目で助走をつけた物語は、二作目で大きくジャンプし、三作目でさらに飛躍したあと、ぐっと締まって見事に着地、完結する。
 
 考えてみれば、シリーズ化されているリンドグレーン作品は、絵本版をのぞけば、ほとんどが三部作だ。「ピッピ」然り、「カッレ」然り、「屋根の上のカールソン」然り。「エーミル」や「やかまし村」も、シリーズの中核をなすのは、やはり児童向け読み物の三部作なのである。三部作に込められた作者の緻密な意図――あえて四作目以降を書かなかった作家リンドグレーンのいい意味での頑固さに、私は清々しささえ感じてしまう。
 
 訳しながら驚かされるのは、作者の犯罪学についての知識の豊富さだ。犯人の心理描写や伏線の張り方も上手い。それもそのはず、作者は一九三〇年代末、犯罪学の権威とされる人物の元で秘書として働いた経験があり、そのときに得た知識が作品の中に生かされているのだ。同時に、児童小説としての王道もけっしてはずれない。主人公たちが北欧の短い夏を謳歌し、夢中になって遊ぶ姿は眩しいほどに輝いていて、「遊んで遊んで遊び死にしなかったのが不思議なくらい」という名台詞を残した作者の、まさに子ども時代を彷彿とさせる。
 
 「名探偵カッレ」シリーズの仕事は、二〇二〇年春に刊行を予定している二作目のあと、三作目『名探偵カッレ 危険な夏の島』へと続く。一作目に引き続き、中嶋香織氏のスタイリッシュな装丁と、平澤朋子氏のみずみずしい挿絵が、今から本当に楽しみでならない。
 
     *     *     *

 最後に、リンドグレーン関連の私の仕事を、もうひとつ紹介しておきたい。それは、二〇一九年一二月七日から岩波ホールを皮切りに、全国各地で公開される映画「リンドグレーン」の字幕監修をしたことだ。スウェーデンでは二〇一八年秋に公開され、話題となったこの映画は十代後半から二十代初めにかけての、アストリッド・エリクソン(のちのリンドグレーン)の苦悩の日々が描かれる。未婚の母となり、経済的にも精神的にも人生でいちばん苦しかったこの時代の経験が、のちの作家活動に与えた影響は疑うべくもないが、はたして日本の観客はスクリーンから何を感じるだろうか。
 
 二〇二〇年は、本国で「ピッピ」の初版が出てから七五周年を迎える。「長くつ下のピッピの世界展」も、規模を縮小して、二月から神戸で始まる。これを機に、リンドグレーン作品の数々が多くの人の心に届くことを願っている。
(ひしき あきらこ・児童文学翻訳家)
 

◇こぼればなし◇

◎ いま、この地球上にどれほどの数の「賞」と呼ばれるものがあるかわかりませんが、世界でもっとも有名な賞といえば、ノーベル賞でしょう。

◎ 一昨年は本庶佑さんが、がん免疫療法の発展に対する貢献により医学生理学賞を受賞しました。本庶さんの、偶然の発見から、これまでのがん治療の考え方に根本から変更を迫る画期的な治療法の開発へと至る挑戦の道のりは、その『がん免疫療法とは何か』(岩波新書)で知ることができます。

◎ 本庶さんによると、研究者として自立してゆくためには「六つのC」が必要とのこと――みずからの好奇心(Curiosity)を大切にして、その対象に対して挑戦(Challenge)する勇気(Courage)をもつこと。そのときもっと必要なものは自信(Confidence)であり、集中(Concentration)し継続(Continuation)してゆくことだと言います。

◎ いずれも研究者だけではなく、何事かを成そうとする者には必要とされるものだと思いますが、凡人が日々実践してゆくのは極めてむずかしい。ノーベル賞授賞式後の記念スピーチも収められた本書をみますと、その研究に対する姿勢、考え方が生半ではないことがよくわかります。

◎ その本庶さんにつづいて、昨年、リチウムイオン電池(LIB)の開発に対する貢献により化学賞を受賞されたのが、吉野彰さんでした。スマートフォンや電気自動車、家庭用蓄電システムをはじめ、繰り返し充電して使える電池として、いまや日常生活の一部ともなっているLIBですが、吉野さんを化学の道に導いたのは、小学生のころに出会った一冊の本でした。

◎ 当時の担任の先生から薦めてもらったのが、ロウソクが燃える仕組みを科学的に解説したファラデーの『ロウソクの科学』。会見でもふれられていたことですが、ここからノーベル賞への第一歩が踏み出されたということになります。

◎ 吉野さんが手にとられたものは、クルックス編、矢島祐利訳『ファラデー 蝋燭の科学』として一九三三年一二月に初版が刊行された岩波文庫だと思われます。戦前の訳ですし、内容からいっても、なかなか小学生が簡単に読みこなせるものではなかったでしょう。

◎ 現行の岩波文庫、竹内敬人訳の『ロウソクの科学』は二〇一〇年九月に改版された新訳になります。詳細な訳注をはじめ、製本工から科学者となったファラデーの生涯を追った解説や数多くの図版から、まだ幼かったころの吉野さんが好奇心をかきたてられた科学のおもしろさを感じていただけることでしょう。

◎ 二〇一六年にノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さんもご自身の原点として挙げていた『ロウソクの科学』。新旧あわせ累計七三万部を越えて読み継がれてきた本書は、きっと多くの科学を志した人たちに影響を与えたことでしょう。新版は文献や資料一覧など、付録も充実しています。この機会にぜひご一読ください。

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