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MOMENT JOON『日本移民日記』|書籍好評発売中

第2回 日本語上手ですね〈 MOMENT JOON 日本移民日記〉

「言語はツール」と「言語は縛り」

 言葉、코토바、Kotoba、Котоба、ことば……私はたまに、この「ことば」無しで生きていけないだろうかと妄想することがあります。完全に不可能ではないかも知れません。例えばアリなどの昆虫は人類が使っている形の言語ではなく、化学物質を相手に嗅がせることで情報を交換するらしいです。匂いで挨拶とかはさすがに無理でしょうが、一応我々人間も言葉なしのコミュニケーションを毎日使っています。言葉では表現できない感情を歌で伝えたり、相手の中指にこっちも中指で答えたり、裸になってお互いの愛を確認したり……言葉なしで自分の考えと感情を伝えること、不可能ではないかも知れません。ほら、今この画面の上で私もやってみます。準備、いいですか? では行きます。せーのー df;えㄷあфмlfㅠkだцㅐу;ふㅂぁfをйуцㄹㅁ;.ажいん;xkぁうewにぇ갉ㅂㅈ대feaцку;oijㅑㅈсцЦ 루ふぉ;fjdさm……

 どうですか? 私の心、伝わったでしょうか? いや、もちろん言葉なしで高度なコミュニケーションは出来ないでしょう。言葉を読む・書く・聴く・話すの中で最低一つの能力でも使わないと、我々は社会の中で正常に生きていけません。私が日本で飯が食えているのも、ことばを使っているからこそ可能なのです。ラップの歌詞を書いて歌ったり、誰かに言語を教えたり、みなさんが読んでいるこの原稿を書いたり……ならば何故、私は「ことばなしの生活」を夢見るのでしょうか。

 それは、私にとって言語は「縛り」であるからです。「言語はツール」は、もはや陳腐に聞こえるほどよく言われますが(特に英語に関して)、逆に「言語は縛り」という言葉はあまり聞かないですよね。その縛りの一つとして、「言語が人の思考と感覚の範囲を定義する」という考えがあります。科学的に証明されているかは分かりませんが、私の経験ではある程度本当だと思います。実際、英語と日本語を学ぶことで、韓国語によって構築されていた自分の思考と世界の限界が分かったからです。
 しかし、一つの言語によって限られる思考の可能性は、色んな言語を学ぶことでむしろ広くなりました。音楽や文章で一番よく使う日本語も、別に「日本語自体の制限」で私が言いたいことや考えることに邪魔になることはありません。私が「言語は縛り」と言う時、言語が縛っているのは私の「思考」ではなく、私の「舌」です。もっと具体的に言うと、私にとって言語は「足かせ」みたいなものです。

舌についている足かせ

 どこに行ってもついてくるし、カチャカチャうるさすぎて周りの人々の注目を集めてしまう「足かせ」みたいに、私の日本語の「なまり」は、口を開いた瞬間、私を「罪人」にしてしまいます。10年も日本に住んでいるのに、私のなまりは決してなくなりませんでした。ものすごく平坦なイントネーションのソウル弁で育った私の耳は、日本語のイントネーションの高低をキャッチすることにとても弱いと思います。それがキャッチできたとしても、私の舌が思い通りに動いてくれる保証もありません。もちろん、話すこと自体は流暢に話せますが、いわゆる「ネイティブの日本語」を駆使するには、イントネーションの壁は私にとっては高すぎます。
 別になまりが原因で困ったことがあった訳ではありません。なまりのせいで「すみません、もう一度言ってもらっていいですか?」と相手から聞かれたことも今まで一度もなかったですね。「じゃ、なにが足かせなんだ」と思われるでしょう。その答えは、「普通」という単語にあります。

 皆さんの中には、自分は日本人と韓国人を見た目だけで区別できるという自信を持っている方もいらっしゃるかも知れませんが、残念ながら多くの人々はそのような超能力は持っていないのです。1923年の関東大震災の時、デマによって煽られた朝鮮人住民への憎しみに満ちた自警団や暴徒たちが、被災地の住民に「十五円五十銭」という言葉を言わせて「正しい」発音が出来ない人は朝鮮人と判断して虐殺したという話を、聞いたことがあるでしょうか。もちろん、私の経験はそんな恐ろしい歴史とは比べ物にもなりませんが、言語能力が原因で「普通」の資格が奪われるという点では共通している部分があります。
 なまりが原因で「外人」であると認識される瞬間、相手の顔が微妙に変わることを何回も見てきました。相手に警戒されず、匿名の「ただ一人」としてその場に存在できる特権は奪われ、私はその瞬間から「違うもの」としてその空間に存在するのです。コンビニに行くために家を出る時「一言も言わずに帰れると良いな」と思っている自分に気づいて、結局コンビニに行かずに部屋に戻った日の記憶……自分にとってはごく普通の日常の空間で、自分は「普通」としては居られない時の感覚……言っておきますが、私のこの経験は「差別」ではありません。「差別」とは、相手が「違う」と認識してから意識的・無意識的に行う「行為」のことです。私はその「行為」以前に、貴方が私のなまりを聞いて「違う」と認識する、その瞬間の感覚について話しています。

 どうですか? 自分の日本語のなまりについてずいぶん長く話しましたが、ここまで読むと、私の日本語のレベルが実際どうか、聞いてみたくなるでしょうね。はい、では次に進む前にどうぞ聞いてください。私の日本語を。

「日本語上手ですね」

 どうでしたか? 「はい、下手」と言い切られることはさすがにないと思いますが、まぁ、完璧とは言えませんよね。「いやいや、日本語上手ですよ、モーメント君」と言いたい人もいるでしょう。実は、今まで「日本語上手ですね」を何回聞いたか正確に覚えていますが、2020年の11月2日の時点で合計125,628回でした。知っていましたか? 日本に住む「外人」なら、みんな自分が「日本語上手ですね」を何回聞いたかしっかり数えているんですよ。私の彼女は340,467回、日本語母語話者なのに見た目がいわゆるハーフの大学の知り合いは昨日聞いたら56,040回だそうです。「日本外人協会」からの命令があって、毎年報告しなきゃいけなくて……

 冗談です。本当に信じちゃ困ります! ただ、「日本語上手ですね」が多くの人にとってどうしても気になるフレーズであることには間違いありません。ある意味、この国で「外人」と見られている人なら、誰かに出会うたびに一度は聞かねばならない「儀式」みたいなものになっています。
 「日本語上手ですね」は、言うまでもなく善意の褒め言葉です。なので、日本に渡ってきた最初に日本語ネイティブから「日本語上手ですね」と言われたら、誰でも喜ぶと思います。少なくとも私はものすごく嬉しかったです。だって、必死で勉強した自分の日本語がうまいと認められたのに、盛り上がらないほうがおかしいでしょう。
 時間が経って、いろんな人々に会うたびに「日本語上手ですね」とまた言われましたが、喜びは前より少なくなっても、気持ちがいい言葉であることには変わりありませんでした。しかし、日本に住み始めて6、7年ぐらい経つと、「日本語上手ですね」と言われる時の自分の気持ちも、少しずつ変わりはじめました。  
 私はボランティアで大阪府内のいろんな学校によく行きますが、学校の待ち合わせ室で待機していると、こういうパターンの会話を担当の先生と何回も繰り返しています。

担当の先生:あ、キムさん、阪大なんですね。日本は長いですか?

モーメント:はい、今年で7年目です。

担当の先生:へえ、そうなんですね。日本語上手ですね。

 

 よく一緒にボランティアに行っていたフィリピン出身の人もほぼ毎回、同じパターンの会話を経験しています。ちなみに彼は27年以上日本に住んで、見た目も日本人に見えますし、実は日本国籍も取っています。そんな彼と学校の先生との間でよくある会話。

 

担当の先生:◯◯さん、今日は本当に宜しくお願いします。◯◯さんは日本はどれぐらいですか?

知り合い:えっと、もうそろそろ27年目ですね。

担当の先生:へ~、長いですね。めっちゃ日本語上手ですね。

 

 何かのパターンに気づきませんでしたか? 「どれぐらい日本に住んでいるか」を聞かれた後に、「日本語上手ですね」と言われています。「日本語上手ですね」から複雑な気持ちが生まれるポイントが、ここです。

 外国人なのに日本語がうまいのが興味深い → だから何年住んだかが聞きたい、の順番なら分かりますが、7年ぐらい住んでいると、いや、もう27年も住んでいると言ったのに、その人の日本語が上手なのがそんなに珍しいことなんだろうか、と思ってしまうのです。「日本語上手ですね」と言ってくれる人から悪意を感じるとか、気持ち悪いとか、傷つくとかの話ではありません。私が複雑な気持ちになってしまうのは、125,628回も「日本語上手ですね」と言われてきたなかで、「日本人が定義する日本語とは何か」が少しずつ見えてきたからです。

日本語のアンキャニー・バレー

 「日本人が定義する日本語」。その全体図を見るためには、もう「日本語上手ですね」と言われることもない人々の経験が必要となります。留学生たちの間には、「日本語上手と言われる段階でお前の日本語はダメ」という、冗談か警告かよく分からない言葉があります。私の大学の時の後輩や、バイトで出会った台湾人の知り合いなど、24時間日本語で仕事をして生活をしても一度も「上手」と言われない人々が私の周りにもいます。羨ましい。そこまで上手になれば、好き放題に日本語を使っても「普通」とパスされるでしょうね。いや、でも本人たちによると、「日本語がうますぎて」起こる現象もあるらしいのです。

 「アンキャニー・バレー(不気味な谷現象)」という概念を知っていますか? 我々人間は、人形やキャラクターなどの外見が人間と似てくれば似てくるほど好感を持つらしいです。しかし、ある一点を超えてあまりにも似てしまうと、その類似性が原因でむしろ違和感・嫌悪感・恐怖感を感じてしまう。その「類似性」と「感情的反応」の関係をグラフで表した時、人間に似すぎて好感が激しく落ちる部分を「谷」に比喩して「不気味な谷」と呼びます。例えば人間の肌の質感や細かい表情まで再現しようとするロボットを見て我々が気持ち悪くなるのが、不気味の谷現象ですよね。
 私の知り合いのネイティブ並の日本語駆使者たちは、自分たちが「日本語のアンキャニー・バレー」に入っていると感じている人が多いです。周りの日本語ネイティブの人々が、必死で粗探しをしているようにその人の日本語の細かい所までを「評価」し、珍しく間違いをすると「喜んで」それを指摘する。自分らと区別がつかないこの「日本語達者」を、日本語ネイティブたちは必死で「我らとは違うもの」だと確かめたいのですかね。
 ある一点を超えて日本語が「うますぎ」になってしまうと周りの日本人の態度がむしろ厳しくなるこの現象は、特に低いレベルから着実に勉強を重ねて今の位置に至った人々なら分からないはずがありません。今より日本語が下手だった昔は「日本語上手ですね」と言われて可愛がってもらったのに、日本語が上達して日本語ネイティブからの「認定」が要らなくなった今は、周りの日本人たちが自分を見て気まずく感じていることが分かるという…… まぁ、そもそも「可愛がる」こと自体が、日本語ネイティブとしてのその人の権威と優位を、相手に確認させることですけどね。

日本語がうまいと「日本人の心」?

 「日本人が定義する日本語」を理解するための最後のパズルがまだ残っています。「日本語のアンキャニー・バレー」に落ちている人々なら、「日本語上手ですね」の代わりに「◯◯さんは心が日本人だから」は少なくとも一回は聞いたことがあるはずです。中途半端に上手な私でさえ、大学の授業で「見猿聞か猿言わ猿」を引用しただけで教授から同じことを言われるぐらいです。常に周りの日本語ネイティブから「オーセンティックな日本語を使っているか」と必死にチェックされる日本語達者たちも、ちょっと違う雰囲気の場では「◯◯さんは心が日本人だもんね」とすぐ言われます。別に「魂」とか「ルーツ」とかのシリアスな話をする時に言われるとかではなく、飲み会で、職場で、日常的な空間で言われるのです。「必死の粗探し」が「内」と「外」の境が曖昧になることに対する恐怖心を表すならば、「◯◯さんは心が日本人」は異質的なものを「我々と同じもの」にしちゃって安心したい気持ちを表しているかも知れません。
 もう一度言いますが、「◯◯さんの心は日本人」と言う人が善意なのはもちろん知っていますし、「これは差別だから言うな」みたいな低いレベルの話がしたい訳じゃありません。日本語がうまい非母語話者に「心が日本人」という人の考えの中の「日本語」とは何を意味するのかを見てほしいのです。

 ある言語をマスターするためには、その言語が生まれた地域と社会の伝統・歴史・文化まで勉強して理解しなきゃいけないとか、もう当たり前すぎる概念ですよね。しかし日本語の場合、それが行きすぎて「日本人としての心・魂・精神」が日本語を使いこなせるための「必須条件」みたいに考えられてはいないでしょうか。まさに、外国語を学ぶ時に言われる「言語はツール」という考えが、「日本語」には適応されていないということです。日本語も言語である限り、個人の能力と努力によっていくらでもマスターできるツールに過ぎません。しかし、「日本語能力」と「日本人らしさ」を分けて考えられない人の前に、後天的な学習でほぼ完璧に近い日本語を使う人が現れると、目の前の「異現象」を説明するために「日本人の心を持っているから(それとも手に入れたから)そこまで日本語が出来るはず」が出てくるのではないでしょうか。英語が達者な人が「貴方の心はイギリス人ですね」とか言われたという話は、今まで聞いたことがありません。

「いや、そちらこそ上手ですね」

 「日本語能力」を「日本人らしさ」と分離して考えることは、もしかしたら不可能に近いかも知れません。いわゆるハーフ、在日、日本語学習者、そしてこの島に住んでいる移民の人々の「生々しい日本語」が、無視されたり歪曲されずに日本社会の感覚の一部になれる日は、永遠に来ないかも知れません。テレビに出る外国出身の芸能人やコメンテーターを見るかぎり、やはり無理だと思ってしまうだけです。完璧な日本語を使いこなしているけど、結局日本の大衆が聞きたい話を「白人の口」から聞かせる存在に過ぎない人とか、日本が望んでいる「外人役」を大げさに演じる人を画面で見るたび、ツールとしての「日本語」が独立する日は、私の人生では見れないだろうと落ち込んでしまいます。

 「モーメント君みたいな人々が堂々と自分らしい日本語を話していけばいい」と言われるかも知れません。まぁ、一つの答えにはなるかも知れませんね。分かります。確かに、私がアーティストのMoment Joonとしてやっていることは、日本社会が私に担わせる「外人役」を拒んで「俺こそが普通の人間だ」と宣言することです。実際に存在しているのに日本社会の大多数には知られていない(それとも意図的に無視されている)現実を、テレビで、ラジオで、歌で、オンラインで、文章で見せていくしかありません。厚切りジェイソンよりもモーメント・ジューンがテレビに頻繁に映り、なまっている日本語で話しても「ステレオタイプ」じゃなく一人の人間として日本社会に存在する時代。それで「普通」の範囲が広がる時代を、頑張って作っていかなきゃ……
 しかし、コンビニで店員さんに「袋要りますか」と聞かれるだけで緊張してしまう人間キム・ボムジュンは、そんなファイターなんかになりたくないのも事実です。ただ「普通」で存在したいだけなのにファイターにならなきゃいけないなんて…… 戦っていくとしても、それ自体が一つのキャラクターになって消費されて終わってしまう可能性もあります。皆さんもある意味、そのような感覚で私の変わった日本語の文章を読んではいませんか?

 まぁ、口を開いたら「普通」の資格を奪われる私の経験なんか、見た目から「違うもの」と認識される白人である私の彼女の前では贅沢な悩みに過ぎないかも知れません。街中で知らない人から「外人ですか?」といきなり聞かれたことがある私の彼女は、そこで「はい、外人です」と答えたらしいです。ちょっと待って。これはひょっとしたら手がかりになるかも知れません。大したファイターにならなくても出来る、「日本語」の独立運動の手がかり。

 

善意の日本語母語話者:へ~、モーメント君、日本10年目なんですね。いや、めっちゃ日本語上手ですね。

モーメント:いや、そちらこそ上手ですね。

善意の日本語母語話者:???

 

 いたずら、と思われるでしょうか。いや、相手の褒め言葉にこっちも褒め言葉で答えただけです。そして何より、善意の言葉ですからね。日本語上手の貴方に、栄光あれ。

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著者略歴

  1. MOMENT JOON

    ラッパー。1991年生まれ。韓国出身。2010年に留学生として来日し、大阪を拠点に活動。「移民」である自身に焦点をあてた楽曲「井口堂」「ImmiGang」などを発表し、反響を呼ぶ。2019年には『文藝』(河出書房新社)に自身の徴兵体験をもとにした小説「三代 兵役、逃亡、夢」が掲載された。2020年3月にファーストアルバム『Passport & Garcon』を発表。最新曲は「DISTANCE(feat. Gotch)」。

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