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コロナ禍の東京を駆ける

1 門外漢が見た貧困の実情と福祉事務所の実態(小林美穂子)〈コロナ禍の東京を駆ける〉

1 門外漢が見た貧困の実情と福祉事務所の実態
                               小林美穂子
 
 
 
 今でもふと、私はなにをしているのだろうと空を見上げるような瞬間がある。
 初めて会う人のこれまで歩んできた人生に聴き入ったり、泣いてる女性の背中をさすったり、その人に降りかかり続けた理不尽に言葉を失い、差別される彼らの盾になり、福祉事務所で攻防の果てにようやく部屋を手に入れた彼らとハイタッチして喜びあった帰り道などに、運命の不思議を思う。なんで、こうなったんだっけ?と。
  子ども時代を海外で過ごした私の興味は、いつだって外に向いていた。
 海外で学び、職を得て、ニュージーランド、マレーシアと働く場を変え、縁あって上海で暮らしもした。帰国後は四六時中勉強をして工業系の通訳者となり、海外や国内を飛び回っていたことを考えると、今の私はまるで異次元に紛れ込んでしまったかのようだ。
 私が今いるのは日本の貧困支援の現場。超ドメスティックでニッチ。「社会の底」と呼ばれる、そんな現場に私はいる。
 海に浮かんで遠くの空ばかり見上げていた私は、いま海中深くにもぐっている。最初は泳ぎ方も呼吸の仕方も分からないでやみくもにもがいていたのが、十年経ってようやく力も抜けて楽になりつつある。
 スーツとハイヒールを脱ぎ捨てて、膨大な時間と労力とそこそこのお金をかけて築いたキャリアも、経済的な憂いなどなにもなかった生活も、すべて置き去りにして私が得たものは、日々悩み、自分の心の奥底と対話する毎日。いつまで経っても分からないことばかりで、悩み続けることが仕事なのではないかと思うほどに、ゴールからも生産性からも程遠い日常。
 しかし…。
 海上の景色も美しかったが、海中の景色は、それはそれは多様な色彩にあふれていて、「生活困窮者」「ネットカフェ難民」「ホームレス」のように、一括りにされてしまう人たちの一人ひとりは、他の誰とも変わらないかけがえの無い存在だった。当たり前だが、その当たり前が忘れられている今の世の中で、共有したいことがたくさんある。
  活動家でも、研究者でも、福祉専門職でもない。そんなあいまいな立場の私が貧困支援の現場で見てきたものは…。
 
 異業種からホームレス支援の現場へ
 ホームレス状態の人に雑誌販売の仕事を提供する「ビッグイシュー」でインターンをしたのが、支援団体と関わるようになった最初の一歩だった。2009年のことである。その後、別の支援団体のスタッフ経験を経て、「一般社団法人つくろい東京ファンド」へ。2017年からは、つくろいシェルターを経て地域生活を始めた人たちの食とつながりを支え、また就労の場としての居場所「カフェ潮の路(しおのみち)」をオープンし、責任者となった。
 私が支援団体に首を突っ込んだ11年前の福祉事務所は、助けを求めてやってくる人をあの手この手で追い返す「水際作戦」が日常茶飯事で、申請者に同行する我々スタッフも、窓口では出してくれないから自作の申請書をあらかじめ用意して、作戦を練って鼻息荒く福祉事務所の門をくぐらなくてはならない、いわば生活保護申請の戦国時代末期の頃だった。
 その更に10年くらい前になると、自作の申請書を受け取る、受け取らないでモメにモメ、置いて帰ろうとすればその書類を丸めて投げ返されたりする、まるで申請書は爆弾で福祉事務所職員は兵士、支援者はゲリラ兵みたいなバトルフィールドだったと聞いている。
 生活保護の申請はすべての国民が有する権利である。法律家や支援団体が、法律を盾に長く熾烈な闘いを繰り広げた結果、私が参入した頃には同行者さえいれば「申請権の侵害」はできないという空気が少なくとも都内の福祉事務所では共有されていた。
 私は戦国時代末期での参戦だったので、投げ返された申請書を打ち返す瞬発力や、より遠くに飛ばすために肩を鍛える必要もなく、昭和のヤンキーみたいにデコとデコをくっつけてメンチ切り合いながら「やんのか? え、やんのか?」の練習もしなくて済んだのだが、それでも、申請同行は緊張を強いられる役目だったことに変わりはない。
 
 乳児を抱いた家族が冬の公園で野宿
 忘れもしない人生初の生活保護の申請同行は、ビッグイシューの活動の一環として、路上生活者に「路上脱出ガイド」という冊子をお配りしながら健康状態などの聴き取りをする「夜回り」で出会った家族だった。寒くなり始めた頃だったと記憶している。地方都市から出てきて所持金尽き、公園で夜を過ごそうとしていた若い夫婦は胸に乳児を抱いていた。そのような小さな赤ちゃんを抱いた人が、寒い夜にノウハウもないまま公園で野宿しようとしていることに衝撃を受けた。
 この時、私には生活保護の知識はほぼ皆無、緊急対応の仕方も分からなかった。上司にあたるスタッフが別団体の理事長を勤めていた稲葉剛(現つくろい東京ファンド代表理事)に電話をし、稲葉が知り合いのツテを辿って新宿のビジネスホテルを手配してくれた。
 その夜は夜回りボランティアに弁護士も一名参加していた。ビジネスホテルで一泊してもらった翌日、私と弁護士で新宿区役所に同行申請することに。
 緊張でほとんど眠れない夜が明けると、私は黒いワンピースにベージュのジャケットを羽織り、福祉事務所に向かった。同行弁護士の胸のバッヂが頼もしかった。
 対応してくれたケースワーカーはすぐに申請を受理、婦人相談員と一緒に当面赤ん坊に必要となるオムツや粉ミルクをお母さんに持たせ、家族が安心して過ごせるアパート型の寮に案内してくれた。この時のケースワーカーにはその後もずっとお世話になり、家族ぐるみとなったそのご縁は、彼が福祉事務所を退職した今も続いている。
 さて、緊張してガチガチになりながら申請同行をしたこの日、私は拍子抜けするほどに素晴らしい役所の対応に心から安心し、「日本の福祉、やるじゃーん!」とスキップしながら空に投げキッスでもしたい気持ちで帰宅したのだが、その後は苦戦の連続だった。
 
 福祉を食い物にしている連中
 生活に困窮して単独で福祉事務所を訪ねた人たちが、「住民票がないと無理」「昨晩いた場所が他区だから無理」「若い人は無理」「施設が空いてないから今日は無理」と、申請書にすらたどり着かずに門前払いをされる。そんな目に遭った人たちに同行して福祉事務所の窓口へ行く。
 さすがに同行者がいれば福祉事務所は申請書を受理するのだが、当時はとりあえず居所のない人たちに住んでもらう一時待機所を選べる状況にはなく、福祉事務所が提示する施設の中から一番マシなものを選んでもらうのがせいぜい。相部屋の更生施設や、無料低額宿泊所(無低)、または山谷地域にある「ドヤ」と呼ばれる超格安の簡易宿泊所くらいだっただろう。
*「無低(ムテイ)」は民間の宿泊施設で、貧困層をターゲットとした「貧困ビジネス」施設として知られるようになったが、良質なところもある。『コロナ禍の東京を駆ける』でも解説コラムで詳しく紹介したので、そちらも読んで下さい。
 
 当時、私が所属していた支援団体は申請時の同行が主だったため、アフターフォローができないでいた。しかし、時を経るごとに、生活保護につながったのに再路上化して相談に来る人たちに気づくようになる。彼らの多くが(ほとんどがと言っても過言ではない)、福祉事務所に紹介された劣悪な施設から逃げてきて再路上化を繰り返しているようだった。なんど福祉につながっても、路上に戻ってしまう。そんな人たちのことを、あるケースワーカーは「福祉を食い物にしている連中」と私に言ったことがある。
 本当にそうか?
 逃げ出した人たちから聞く一部の劣悪な施設の様相は、それはひどいものだった。中には20人部屋なんてところもあり、異なる背景のさまざまな人たちが同居を余儀なくされる。イジメもある、弱ければカツアゲもしょっちゅう、時には殺人も起きる人間トラブルの温床。門限があり、風呂も3日に一度、食事は粗末で、環境は不衛生、シラミや南京虫が大発生することもある。そんな住環境なのに生活保護費のほとんどを管理費や食費で吸い上げられ、本人の手元に残るのはたった2万円ほど。すごくないですか?
 短期間であれば我慢できる人もいるだろう。しかし、多くの保護利用者がその次の段階である「アパート」には進ませてもらえず、ひどい例になると10年以上を施設で過ごす人もおり、施設が老人ホーム化しているという現実は今でも変わらない。
 「屋根があるだけいいだろう」という意識でこういう所をあてがっているのだろうが、精神疾患を患っていたり、集団生活に馴染めない人にとっては、路上の方が却って安心だろう。だから逃げる。福祉事務所は既存のレールから脱落した「逃げる人」を更に雑に扱うようになる。施設と路上をヘビロテする人が増える。そして悲しいことに、福祉事務所にはマシな選択肢が他にない。
 だから、2014年に稲葉剛は中野区で「つくろい東京ファンド」を立ち上げ、空き家を活用した個室シェルターを開設した。シェルターに短期間滞在したあとはすぐに地域でアパート生活を送ってもらう、「ハウジングファースト」を提唱している。
 福祉事務所が「施設で何年か耐えたらアパートを許す」というステップアップ方式が、路上と福祉の地獄の永遠ループを作り出している中、「まずは自分の家を持ってもらい、必要なサポートを後付けする」というハウジングファースト型支援は、依存症や精神疾患を抱えていても、「福祉を食い物にしている」と言われた失踪の達人たちであっても、アパートでの地域生活が可能であることを証明している。
 
 現在、生活保護を利用しながら無料低額宿泊所に入所している人が全国で3万人以上いると言われている。全国の路上生活者は約4000人。そして、生活保護は利用せず、仕事をしながらネットカフェ生活をしている若い層の人たちが、都内だけで約4000人。
 住環境が脆弱な人たちがこれだけいる日本で、住まいの貧困を解決するような画期的な制度はいまだ出てこない。そんな中、新型コロナウィルスが日本に上陸した。
 緊急事態宣言からの自粛要請で、休業するネットカフェが続出。これまでネットカフェで何とか生活をしてきた4000人が路上に押し出されてしまう。大変なことになった!!
 ということで、この続きは、『コロナ禍の東京を駆ける』でぜひどうぞ。現場のリアルを知っていただけましたら本望です。
 
 
★小林美穂子(こばやし みほこ)
1968年生まれ。つくろい東京ファンドメンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。
 

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