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『図書』2021年5月号 [試し読み]大河原愛/毛利悠子/大島幹雄

◇目次◇

雲と空のはざまで 大河原 愛 
アキバ 毛利悠子 
流通・文化・倫理・詩性 西崎憲 
よそものと生きる 鵜戸聡 
希望のクラウン 大島幹雄 
これぞ、と言われたなら 片岡義男 
「黄金」の時 亀山郁夫 
はじめて本を開いた時 小林豊 
わざとらしさ 畑中章宏 
西田幾多郎と島木赤彦 藤田正勝 
ポーリーヌ・ヴィアルド 青柳いづみこ 
七つ道具 時枝正 
虚病姫を救え 中川裕 
『露西亜文学史』2 四方田犬彦 
詩人の死 長谷川 櫂 

こぼればなし 
五月の新刊案内
 (表紙=司修)

 

◇読む人・書く人・作る人◇

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◇試し読み⓵◇

アキバ
毛利悠子

 

 私のあだ名は〝アキバ〟だった。子供のころではない、二十代後半になってからのあだ名だ。

 そのころ私は、週の三日は朝から夕方に事務仕事、夜に飲み屋のアルバイトを掛け持ちし、残りの四日は自由時間で、目的ももたずにお金がかからない散歩などをして遊んでいた。よく通っていた街が秋葉原で、昼の職場の社長(この人は夜になると飲み屋のお客さんになる)が、そんな私につけたあだ名だった。

 ドレスを着て化粧をしても、彼が酔っ払って「アキバ~」と呼ぶので、本来は真由美だった夜の源氏名もそうなった。銀座のクラブでアキバと呼ばれるのは、自慢話やセクハラをしたいだけのおじさんからは奇異の目で見られ、それはそれで少し自尊心をくすぐられもした。

 秋葉原では、パトロールするコースがだいたい決まっていた。駅の電気街口を出てすぐにあるラジオセンター、その小さな区画で間仕切りされている店のあいだを抜けて、中央通りとぶつかるところにある九州電気のケーブルのサンプル表が好きだった。極細のものから切断面の直径が三センチもある極太ケーブルまで、八センチくらいの長さに切ってきれいに並べて貼ってある、縦八〇センチ横四〇センチくらいの厚紙の表。二〇一二年、仕事で訪れたフランスとイタリアの国境にあるバンティミリアのレストランにさまざまなパスタを使ったサンプル表が飾ってあって、その佇まいが九州電気のケーブルのサンプル表と似ていて、おかしかった。クリーム味のパスタはとてもおいしかった。

 中央通りの信号を渡ってオヤイデ電気を眺め(ここのケーブル表も見事だ)、ネジの西川、千石電商、秋月電子で必要な部品を買い、そのあとに向かうのがジャンク屋だ。だいたいいつも二軒のジャンク屋に通った。

 一軒目は、電気街口裏側の、看板のフォントがカクカクしてかっこいいニュー秋葉原センター内にある「国際ラジオ」。ここには、大小のモーター、スイッチ、真空管、バルブ、リレーなどの中古品(ジャンク)が数多く陳列してあった。店は奥まで続いていて、腰の高さにある小分けされた棚、ガラスに入った陳列棚、その上に無造作に置かれている巨大なモーター、古いモニターやスキャナー、足元にも重たいスピーカーなど埃をかぶった商品がどっさりあって興奮する。

 よく見ていくと掘り出し物もたくさんある。双方向のシンクロナスモーター、通常三千円以上するものが一千円と、節約していた身にも買いやすい。真空管も、安いものは数百円で買えた。真空管を差すためのピンも、ハートや花など造形の凝ったヴィンテージがあった。たまにアウトレットのアダルトビデオも紛れていたけれど、それも見ていて楽しい。

 私は特に使う用途を考えず、思いつくままに購入した。日暮里の繊維街をブラついて、安くてカラフルなボタンやリボンなんかがあると、つい手を出してしまうのと同じ感覚だ。

 雇われ店長(お昼時になると、結構しっかりした箱の日替わり弁当が運ばれてくるのを見ていたので、この人に昼ごはんを提供している人がいるのかなと想像し、勝手に判断)は広い店内の商品をくまなく記憶していて、「24Vのプッシュ型ソレノイドはありますか」と聞くと、頭をボリボリかきながら「たしか~」と言い、早足で商品がある場所を教えてくれる。格好はいつもシャリシャリのジャージだった。

 手に入れた魅力的なジャンクでテキトーな試作を数々しては失敗した。

 埃がかかったジャンクに電気を通すと、ちょっと焦げた匂いがして、そのあと懐かしい匂いがしてくる。祖父母の家に置いてある昔からの扇風機は油臭かったり埃臭かったりしたものだけれど、それに近い匂いだった。私は楽しくなって、電気が通りそうなところであればどこでも電気を流し、しょっちゅうショートさせては壊して遊んだ。

 今の景色からは想像しづらいが、敗戦直後、このあたりは上野の山から神田の須田町まで見渡せるほどの焼け野原で、闇市が盛んだった。御徒町から鶯谷までタクシーで抜ける際「上野の山を越えてください」と運転手に説明するのだが、山の上からふもとを見渡すという想像はしたこともなかった。ふもとには、繊維や雑貨などの露天商に紛れ、真空管を売る店が早くも建ったという。戦前から電気屋が集まっていたからかもしれない。

 近隣の電気工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生が真空管ラジオを組み立てたところ、出来合いのラジオよりも自作のほうがうんと安価ということで大ヒット、真空管を扱う店が瞬く間に増え、これが秋葉原電気街の基礎となる。この地が日本のDIYのメッカとなった背景には、冷戦構造、特に朝鮮半島で起こった戦争をきっかけにいち早く自らの役割を変えたこの国の、東アジアにおける地政学がからんでいた。

 二〇〇〇年、メイド喫茶がまだ存在しない秋葉原を初めて訪れた時、専門店の店員さんたちは、私の相談に聞く耳を持たなかった。彼らにしてみれば私は、突拍子もない的外れなことを聞いてくるめんどうな女だったのだろう。今はコスプレした女の子がアニメ声で客寄せをする光景が普通になったが、当時は女性自体をほとんど見かけない街で、女というだけで異物を見るような店員さんもいた。

 数年通ううちに、私はだんだんと電気のことを理解しだし、素材を組み合わせてアート作品をつくるようになる。特に発表場所がなくとも、街を歩きながら、なんかつくりたいな~と常に夢想していた。二十一世紀にもなって、私に降りてきたアキバは、メイドでもオタクでもない、ジャンクだった。アキバというあだ名を刻印されたのも、そのころの話だ。

 突如、週末だけ現れるジャンク屋もあった。末広町と秋葉原を結ぶ裏通りにコンピューターパーツのジャンクが並ぶ、その名も「秋葉原ジャンク通り」。普段はガレージだが、その時だけはフリーマーケットのように店が広がった。

 ここで、タクシーやバスなどでよく見かけた、文字放送のチューナーとディスプレイを発見したことがあった。当時はすでに液晶モニターが普及してきていて、需要がなくなりジャンク屋に現れたのだろう。普段タクシーの車内で眺めていたものよりも重厚感のある、大きな文字が左から右につらつら流れるこの装置に私は夢中になった。どうでもいい情報が文字になって流れていく心地よさ。急激に愛おしくなった。しかも、なんと一台二千円ぽっきり! ほとんど購入を決めたのだが、すでに戦利品で両手が塞がっていて、諦めるしかなかった。後日、何度か覗きにいったが、あの日以来、二度と目にすることはなかった。

 よく通ったもう一軒のジャンク屋は、万世橋近く、中央線高架下のラジオガァデンにあった「日米無線電機商会」。路面にも商品を広げる小さな店だった。

 ここでは、重い敷布団を丸めて、天井から吊ってぐるぐる回すことができるほどのパワフルで大きな双方向に回転するモーターを、たった一千五百円で販売していた(美大の同級生がこのモーターを使って、実際にそういう作品をつくっていた。バウムクーヘンを立てたような布団が何本もぐるぐる回る夢から構想したという。あのころはみんな変わっていた)。ギアボックスですでに回転速度を落としてあって、ジャンクのくせに痒いところに手が届く。私も五個は買ったと思う。

 椅子に座ったおじさんが店番をしている。ポマードでオールバックにした、秋葉原の店員には珍しく、いつもニコニコしている気持ちのいい人だった。私はこの人が好きだった。モーターのコンデンサの話だけでなく、時には作品の技術的な相談なんかにものってくれた。もっとよかったのは、アートのことなどまったく興味がなくて、おっさんだろうが女だろうが、誰ともフラットに話す人だったことだ。路面に陽が当たる時間帯は、陽気のもとで、知らない部品についてだらだらと質問を重ねた。  二〇〇九年、末広町の旧練成中学校(現在の3331アーツ千代田)で展覧会を開く際、普段はアート関係の知り合い以外にはめったに配ったりしないのだが、店にチラシをもっていった。すると、おじさんはあいかわらずニコニコして「あっそ、あんがと!」とチラシの内容には見向きもせず、そのまま机のカタログ棚に仕舞ってしまった。通うたび、チラシが気になって横目で確認するのだが、ジャンクの山にどんどん埋もれていって、店が畳まれるまで、埃をかぶりながらそこにありつづけた。

 「国際ラジオ」「日米無線電機商会」という名前は、進駐軍の倉庫の品を横流しして売りさばいていた闇市の名残だろうか。闇市には、当時の日本にまだ流通していない部品がゴロゴロあったという。「グローバル」が喧伝されはじめた二〇〇〇年代になっても、秋葉原のジャンク屋には、冷戦時代の「インターナショナル」を思わせる名前が多かった。

 同じころ、現代アートはグローバリズムの波に乗り急速な発展を遂げる。国際展やアートフェアはその象徴だ。やがて私もそのおこぼれをもらい、アジア、欧州、北南米など、さまざまな場所で展示する機会を得るようになった。

 私が制作する作品は、秋葉原で「なんかつくりたいな~」と夢想していたころと変わらず、アナログな電気工作がメインだ。戦後からジャンク屋によって連綿と受け継がれてきた知恵と技術の断片が、私の中にも少しだけ息づいている。奇妙なことに、【冷戦構造/インターナショナル】下にこの街で培われた技術によって、私はグローバルな現場へと導かれていったのだ。その意味で、私はたしかにアキバだった。

 三、四年前、久しぶりにジャンク屋めぐりをした際、棚差しされたアウトレットのアダルトビデオが妙に目立つと思ったら間もなく、みんな閉店してしまった。今や、若者や外国の友達と秋葉原の話をしても、二次元アイドルやゲームの文脈ばかりだ。アキバのジャンク屋は蒸発してしまった。だが、私はいまでもジャンクの匂いを探してしまう。

 今年、新型コロナの影響で、外国の仕事がことごとく延期になった。暇に飽かせてジャンク屋跡地を訪れると、自動販売機コーナーや、パキスタン人が営む安iPhone屋になっている。ラジオガァデンの奥で樹脂の端材を売る萩原電材はまだ営業していた。ヒスイ色のガラスエポキシや白いポリエチレン、茶色のベーク板の端材を一律百円に負けてもらって適当に買う。その破片を手に、自分のルーツを静かに感じていた。

 

 (もうり ゆうこ・アーティスト) 

 

毛利悠子《I/O》2011年–
Photo ©新津保建秀
Yuko Mohri Website

2021年4月現在、日本で見られる毛利悠子さんの作品は、いずれもインターネット上の展覧会で発表されています。
THEATRE for ALL」では詩人の大崎清夏氏、映像作家の玄宇民氏とのコラボレーション作品が、「距離をめぐる11の物語:日本の現代美術」では《For the Birds》という新作が、それぞれ配信されています。前者は2021年いっぱい、後者は2021年5月5日までの公開です。

 

◇試し読み②◇

希望のクラウン
大島幹雄

 二〇一九年公開され、ベネチア映画祭で金獅子賞、アカデミー賞で主演男優賞を受賞したアメリカ映画『ジョーカー』は、人気シリーズ「バットマン」の敵役ジョーカーがいかにして誕生したかを描きながら、世界的に顕在化している格差社会の病巣をえぐり出した秀作だが、ひとつ違和感をもったところがある。主人公アーサーはイベントに派遣される道化師の仕事をしているのだが、英語ではっきりとクラウンと言っているのに字幕で「ピエロ」と訳されていたことである。

 文化人類学者の石毛直道が、日本経済新聞のコラムで、「日本でサーカスの道化師をピエロとよぶが、ピエロとは喜劇やパントマイムなどの舞台芸における道化役のことだ。サーカスの道化師はクラウンというのがただしい」と書いているように、道化師はクラウンと呼ばれなければならない。ただ『広辞苑』の「ピエロ」に「道化役者。本来はイタリアのコメディア-デラルテの召使役ペドロリーノから生まれ、フランスの無言劇の道化役となったもの。白粉や紅を塗り、だぶだぶの衣服を着て襟飾りをつけ円い帽子をかぶる。今はサーカスの道化役のクラウンを指すことが多い」とあるように、日本では「ピエロ」が道化師を意味する言葉として定着してしまったのはまちがいない(この経緯については五月刊行、平凡社新書の拙著『日本の道化師――ピエロとクラウンの文化史』に詳しい)。

 日本であまりなじみのなかったクラウンという言葉が、本来の道化師を意味するものとして、新聞や雑誌の中で見られるようになるのは、一九八〇年代に入ってからだ(ちなみに『広辞苑』にクラウンという項目が登場するのは二〇〇八年初版の六版以降となる)。特に一九八九年クラウンカレッジ・ジャパンという道化師養成学校が開校してから、クラウンが道化師を意味する言葉であることが少しずつ知られるようになった。

 クラウンカレッジ・ジャパンは、カリキュラムや教師もアメリカのシステムをそのまま取り入れたかたちで、アメリカのリングリングサーカスのクラウン養成機関クラウンカレッジの日本分校として開設された。三つのリングで、同時にショーを見せるリングリングサーカスは、アメリカを代表するエンターテインメントであった(二〇一七年解散)が、ここでクラウンは、公演前に客席を回遊し、また集団として舞台に現れ、にぎやかしをし、さらに演技中にトラブルが起きたときにはその穴埋めをすることもあった。このために必要なことを教えるところが、クラウンカレッジだった。

 当時日本はパブル全盛期、各地で博覧会が開催され、テーマパークがオープンし、イベントの盛りたて役としてパフォーマーが注目されはじめていた。こうしたイベントの目新しいプロモーション役としてクラウンを、四カ月という短期間で養成しようというのが、クラウンカレッジ・ジャパンの狙いだった。日本初の道化師養成学校ということで、脚光を浴び、マスコミを賑わせ、卒業生も各種イベントにひっぱりだこになった。しかしまもなくバブルは崩壊、日本列島のイベント熱はあっという間に冷め、経営者は事業から手を引き、わずか三期生を出しただけで、クラウンカレッジ・ジャパンは解散する。高い授業料を払いクラウンとなり、イベントで生計をたてるはずだった若き日本のクラウンたちは、自分たちで仕事を探し、エンターテインメントの世界で生きなければならなくなった。先輩芸人たちは、クラウンでは飯は食えまいと冷やかに見ていた。

 しかし彼らはしぶとく生きのびていく。彼らの多くはクラウンとして、また大道芸人として生計を立ててきた。アメリカ人クラウンと結婚してリングリングサーカスで働いた女性クラウン、シルク・ドゥ・ソレイユの演出家に認められ、ヨーロッパのサーカスで働いている女性など海外を活動の場とした者もいた。サーカスではなく劇場クラウンの道に進んだ者もいる。クラウン劇団を結成し、同時にクラウン養成を生業とする者、人形劇や野外劇に客演しながらオブジェクト・シアターをつくっている者、音楽とクラウンを結びつけたミュージカルクラウンになった者もいる。モスクワのサーカス学校に留学、帰国してから和妻(日本古来の手品)や漫才を学んだ本業が坊さんという変わり種もいる。変わり種といえば、ジャグラーとして各種大会に出場した実績を持ちながら、話芸に方向転換し、主に時事ネタを中心にしたスタンダップコメディーの道に進み、区議会議員に立候補した者もいた。

 二〇一九年四月横浜でクラウンカレッジ・ジャパン創立三〇年を記念した大がかりなイベントが開催された。ここに約三〇人の卒業生が参加した。フィナーレショーで、彼らはひとりひとり「Hey!!」と声をあげ、ポーズをとった。これはクラウンカレッジで、すべてのエネルギーと自分のキャラクターをこめてやるように毎日やらされていたことだった。三〇年前と同じように「Hey!!」と叫んだとき、あのときずっとたたき込まれたことが、いま自分たちの中にしっかりと根づいていることを感じていた。

 日本で有数のお笑いタレントを抱える会社のプロデューサーと話していたとき、「日本にクラウンは必要ないのではないか」と言われたことがあった。笑いをつくる現場で長年働いてきただけでなく、海外のサーカスやクラウンのショーを数多く見てきている人なので、クラウンがどんな芸能か、十分に理解したうえでの発言である。彼はクラウンがつくろうとしている西洋的な笑いは、日本に馴染まないのではないか、日本には漫才があるし、落語もある。クラウンがつけ込む隙はないのではないかと言うのだ。

 年末に放映されているその年の漫才王者を決める「M-1グランプリ」という番組があるが、ここには何千組もの漫才コンビが参加し、その中でグランプリをとれば、スターの道が約束されることになる。テレビというメディアを最大限に生かしスターをつくっていくこのシステムから、クラウンの笑いははみ出している。ライブステージで観客との交流を大事にするクラウンの笑いは、テレビでは伝わりづらい。実際にクラウンカレッジの卒業生からスターは生まれていないし、クラウン文化がこの間根づき、メジャーになったとも言い難い。その意味でこのプロデューサーの見立ては正しいのかもしれない。ただ彼らはスターの道とは別の、もっと大事なものを探しながら、生きてきたように思える。

 大道芸人となったひとりは、「クラウンカレッジで学んだFor Youという気持ちを忘れないでやっている、クラウンは人の感情、喜怒哀楽すべてをもっている、だからこそ、人を感動させて、笑わせることができる。人間すべてがもっているクラウンハートを大事にしたい」と語っていたが、このFor Youという思いこそが、彼らの三〇年間を支えてきたものである。

 「All for You, it’s my pleasure」(すべてはあなたのため、それが私の喜びです)。これはクラウンカレッジの理念となっていたものだ。ウケるとか言う前に、「あなた」が問題なのだ、そのために自分のエネルギーを出すこと、それを徹底して教わってきたのである。どこか宗教じみ、最初は嘘くさいと思った者も少なくなかったが、卒業して、活動を続けるなかで、この言葉が支えとなり、彼らのパフォーマンスの根幹をなすようになった。そしてその「あなた」が目の前の観客だけでなく、さらに広がっていくとき、エンターテインメントという域を越え、クラウン文化は社会のなかに根をおろすことになる。

 ひとりのクラウンは、海外で本格的にクラウン修業をしようと思った矢先に起こった阪神・淡路大震災の甚大な被害状況を見て、被災地に向かう。そこで四年間救援活動を続けるなか、「そこで人はなぜ笑うのかを知り、舞台以上に劇的な日常生活のリアリティを実感し、道化師として携わるべき、社会的な使命」を感じた。このあと、クリニッククラウンとして、病院で長期入院している子供たちや老人などに笑いを届ける仕事をはじめ、そのための協会も設立することになった。

 さらに職業としてではなく生活の一部として、一般市民にクラウニング(クラウンになるための技術)を指導していたクラウンは、阪神・淡路大震災のあと心を病んだ人たちへのセラピーのためクラウン教室を開く。彼はさらにその後兵庫県にある障害者施設で、障害者だけによるクラウン劇団「土曜日の天使達」をたちあげた。この劇団は結成一五年後の現在も、日本各地で公演活動をしている。

 このようにクラウンたちは、For Youの精神のもと、ちいさな渦を、路上で、劇場で、社会の中でつくりだしてきた。

 『ジョーカー』の主人公はコメディアンをめざし、ネタをつくって、ライブにも出演していた。さほどウケているとは思えない彼に人気テレビ番組から声がかかる。進行役の人気スターが、彼のライブ映像を見て、こんな面白くないことをやっている奴がいると面白がってとりあげたのが人気を呼んだからだ。テレビでウケた、もっとウケるために面白くないコメディアン志望の若者をみんなの前であざ笑おうというのだ。主人公も人気スターも、彼らにとって笑いは、「あなた」のためではない、ウケたいという自分のためなのである。

 クラウンカレッジの卒業生たちは、それとは真逆のベクトルのもとで、人を楽しませたい、それを自分の喜びにしたいと問い続け、試行錯誤しながら生きてきた。

 こんな彼らの思いは、次の世代へ伝えられようとしている。

 クラウンカレッジの一期生からクラウニングを学んだYAMAというクラウンは、師と同じようにモスクワのサーカス学校に短期留学、ここで学んだことを生かし、帰国してからは、主に子どもたち向けにクラウンを演じ続けてきた。児童演劇で注目されはじめていたとき癌を発症、二〇二〇年一一月、四八歳という若さで亡くなる。彼は亡くなる二カ月前に創作クラウン劇「雪の日」を演じた。

 雪の降る寒い日、苗木が植えられている植木鉢とトランクを持ってステージに登場したYAMAは、雪に見立てまき散らした紙吹雪を床から拾い集め、丸めはじめる。するとそれが三つのボールになる。このボールでジャグリングをしたあと、トランクにいれようとすると、また紙吹雪に変わり、手から青とオレンジの花びら二片が出てくる。さらにもってきた植木鉢の苗木に赤い花が咲く。白黒の画面が、突然カラーに変わったようなこの瞬間、見ているものたちに暖かさが伝わってくる。「雪の日」に咲いた一輪の花は、見るものに微笑みを、そして喜びをもたらす。「あなた」に届けられた赤い花は、希望のともしびのように見えてくる。

 

 クラウンの使命は、ただ人を笑わせるためだけではない、笑いの向こうに喜びや希望を、みんなに届けることにある。コロナ感染が世界中に蔓延しているなか、人類が生き延びるためには、共生ということが何よりも必要とされる。そのために知恵を出し合うべきときなのに、世界は分断されたままである。自分だけがよければいい、共生ではなく、隔離へと向かっているような気にさえなってくる。そんな時代だからこそ、クラウンが必要なのではないだろうか。

 高校のころラグビーの試合で頸椎を損傷、そのあと車椅子生活を余儀なくされた画家岡部文明は、二〇二〇年五月に亡くなるまで、四五年以上にわたってクラウンを描き続けた。彼が願いをこめて描いた「CIRCUS BOKABE劇場」と題されたシリーズがある。どの絵でも、サーカスで生きる人たちや動物たちが、みんな和やかに、穏やかに、幸せそうに笑みを浮かべている。こうした絵の真ん中には大きくクラウンが描かれていた。クラウンがこの楽園のような、みんなが仲良く生きている世界を守る守護神のようにも見える。この絵について岡部はこんなことを書いている。

 「サーカスの中でひとつのテントの中で繰り広げられるパフォーマンスこそが、共存、共生という、人間の理想の形があるようにも思いますし、私が描く世界はここからイメージが自然に展開していったと思います」

 岡部が描いた共生の場、理想を分かちあえる場をつくるために、いま必要なのはFor Youと思いやる気持ち、そこから始まるような気がする。そのために今クラウンが必要とされるのではないだろうか。

 そんなことを思っていた時、ロシアから世界中のクラウンよ、集まろうという案内が届いた。この呼びかけに応じた九〇人のクラウンたちがパソコンの前に集まり、二〇二〇年七月三一日オンラインによる国際クラウン会議が開かれ、コロナ時代におけるクラウンの使命について語り合った。会議では七月三一日を国際クラウンデーとして、毎年この日同じように集まろうという呼びかけに参加者全員が賛同した。私もこの会議に出席したのだが、ぜひ今年開かれる会議では、日本のクラウンにも呼びかけ、彼らがつくってきた小さな渦をひとつにして、世界のクラウンと共にこのパンデミックの時代に、何ができるか問いかける場をつくっていきたいと思っている。

 (おおしま みきお・サーカス学) 

 

 ◇こぼればなし◇

 ◎ 山梨県の身延山久遠寺は日蓮宗の総本山で、枝垂桜の名所です。同山のほど近く、ぬる湯の低温泉で有名なのが下部(しもべ)温泉郷。ここは井伏鱒二が愛した温泉地の一つで、随筆「雨河内川」に「私の山女魚釣りの先生」としてご主人が登場する床屋さんも下部川沿いにあります(岩波文庫『川釣り』所収)。

◎ 肌に心地よいかの地の風や柔らかな陽光を思いだしたのは、『岩波少年文庫のあゆみ――1950-2020』(若菜晃子編著、岩波少年文庫 別冊2)の第四章「翻訳の妙味」に再録されたインタビュー「井伏鱒二氏との一時間」に接してです(聞き手・河盛好蔵)。『ドリトル先生』の魅力を一口に言うとしたら? と問われた文豪は、「それは先生が動物の言葉を解するということでしょうな」と即答。そしてたとえば鯉の言葉が話せたらどんなにいいか、すぐ水の底にかくれてしまう鯉に、こちらから呼びかけられるから、と返しています(初出は小誌一九六一年一一月号)。

◎ 若菜さんの粉骨砕身により、この春読者の皆様にお届けできた同書には、昨年一二月に創刊七〇年を迎えた少年文庫の豊かな歴史と現在がぎゅっと凝縮されています。昨年一一月号の当欄でも紹介した創刊時の奮闘と前史、装幀・造本の変遷に沿った七〇年の振り返り、代表作と作家の解説はもちろん、挿絵画家、翻訳者の先生方のお仕事にも注目。各界の著名人が時代ごとに寄せた文章や談話も多く再録し、総目録付き。コンパクトな一冊に興味深いエピソードが満載です。

◎ 創刊当時、小社の学生アルバイトとして『岩波理化学辞典』改訂版の編集を手伝っていた動物行動学者の日高敏隆さんと、一九五〇年九月に少年文庫編集部員として入社した乾富子(いぬいとみこ)さん、若人二人の親しい交流の様子。そのいぬいさんが回想する、一九五三年の児童書編集部、ある日の深夜の光景。連夜の残業に励む著者や石井桃子さんはじめ編集者が詰める小さな分室に、差し入れの大きなケーキの箱を抱え、「よう……」と照れくさそうに笑いながら入ってきたのは?

◎ さらに、よくぞここまで、と若菜さんの探索力に驚かされるのが、装幀の表紙模様やマーク等について綴られた七つのコラムです。とりわけ、創刊時の表紙に使われた刺し子模様である津軽こぎんの秘密を解き明かす「コラム1」は圧巻。石井桃子さんにとって牛という動物の存在の大きさが、創刊五冊のなかに『小さい牛追い』が含まれていることとあわせて見事に浮かび上がってきます。

◎ ちなみに上の井伏鱒二インタビューの頃、少年文庫は翌年から新刊活動を一旦休止することになる転換期にありましたが、同じ昭和三六年、右足を複雑骨折した石原裕次郎さんが、湯治のため六月から七月にかけ逗留し、復活を遂げたのが下部温泉でした。

◎ 亀山郁夫さんの「新・ドストエフスキーとの旅」は本号が最終回です。ご愛読ありがとうございました。ドストエフスキー生誕二〇〇年の本年秋、岩波現代文庫版の一部として収録刊行いたします。

 

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