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『図書』2021年6月号 [試し読み]森見登美彦/高嶋修一/大前粟生

◇目次◇

壮大な物語群との出会い………森見登美彦
『源氏物語』と地図………田村 隆
「痛勤」のゆくえ………高嶋修一
恐怖と不安が私を呼んだ………大前粟生
他所者の神戸………尾原宏之
魯迅の「不安」 (上)………三宝政美
ミッシング・リンクとしてのスイス法 (上)………大村敦志
『荒地』のインフルエンザ………赤木昭夫
まるで違った歌声だった………片岡義男
自分らしさ………畑中章宏
ガブリエル・フォーレとサロン………青柳いづみこ
変なりに辻褄は合う………時枝 正
カネサンタ姫の陰謀………中川 裕
老子の肖像 1………四方田犬彦
理想なき現代の喜劇………長谷川 櫂
こぼればなし
六月の新刊案内

 (表紙=司修) 

 

◇読む人・書く人・作る人◇

壮大な物語群との出会い

森見登美彦

 以前京都の古本市へ出かけたとき、父が全十三巻の『千一夜物語』を買った。挿絵入りの豪華な本で、マルドリュスによるフランス語訳を豊島与志雄らが日本語へ翻訳したものである。それを父から借りて読んでいるうちに、私は千一夜物語の天衣無縫な世界に魅了されてしまった。ちょうどその頃、『熱帯』という小説を構想中だったが、それは「物語とは何か?」という疑問をめぐる小説になりそうだった。だからこそ、この壮大な物語群との出会いがいっそう運命的に感じられたのだろう。

 千一夜物語について調べていくうちに、国立民族学博物館の西尾哲夫教授を知ったのだが、そのときにも運命的なものを感じた。なぜなら、民博は少年時代の思い出の場所であり、私の処女作のタイトルにもなった太陽の塔の近くにあり、西尾先生は私と同じ大学の出身で、そのうえマルドリュスの遺稿を整理中だったからである。西尾先生にお会いして、研究室でマルドリュス本人の書き込みがある写本を見せてもらったりしていると、『熱帯』の世界へ入りこんだような気がした。

 昨年、西尾先生は『ガラン版 千一夜物語』の翻訳を完成された。ガラン版はヨーロッパに初めて紹介された千一夜物語で、つまりもっとも古いわけだが、マルドリュス版よりもすっきりとして読みやすく、かえって現代の読者にはとっつきやすい。ちなみに、まだマルドリュス版を半分ぐらいしか読破していない私にとって、このガラン版は初めて「全巻読破」した『千一夜物語』なのである。

(もりみ とみひこ・作家)

 

◇試し読み①◇

 「痛勤」のゆくえ

高嶋修一

日本の大都市では通勤が「痛勤」と言われるほどの大混雑が日常化しています。一日二時間を通勤に費やすとして一二年勤めれば通勤時間はまる一年になり、一般的なサラリーマンは定年までに約三年を満員電車のなかで過ごす計算になります。これは一八世紀に大西洋を渡った奴隷船よりも人口密度が高い空間で、当時の奴隷よりもはるかに長い時間を生きていることになります。なぜこのようなことになったのでしょうか。

 これは昨年の夏に予定していた講演の宣伝文である。酒席でするような話を、多少の炎上を覚悟しつつ公にしたのだが、コロナ禍のために講演も酒席も流れてしまった。その少し前からテレワークのかけ声とともに通勤ラッシュも霧散してしまい、なんとなく空振りのような感を覚えたものである。

 だが、しばらくすると朝夕の電車は再び混雑するようになった。進んで乗っている人はそうあるまい。それぞれのやむにやまれぬ事情で、頑張って乗っているのである。以前ならば「奴隷船と通勤電車とでは衛生環境などが全く異なるのだから単純には比較できませんけどね」とフォローを入れていたのだが、冗談にもならなくなってしまった。世の中、簡単には変わらないと思わずにいられない。

 一方、JR東日本は二〇二〇(令和二)年九月三日に発表したプレスリリースで、二〇二一年春に終電時刻を繰り上げると予告した。そして、新型コロナウイルスの流行が終息しても人々の働き方や行動様式が元に戻ることはないとして、これを恒久的な措置と位置づけた。接続する民鉄各社もこれに倣い、その後、政府による二度目の緊急事態宣言を受けて、春をまたずに二〇二一年一月二〇日から首都圏の鉄道は早目に店じまいすることとなった。朝夕の混雑の復活とは対照的に、こちらは新しい社会への転換の始まりのようにも見える。

 しばしば「痛勤」と言われてきた大都市の通勤ラッシュは、はたして今後どうなるのだろうか。これは、究極的には今次のコロナ禍が歴史的な転換点たり得るかどうかという問題であって、凡庸な識見しか持たない筆者に即断は難しい。近現代の都市史や交通史をかじってきた身として想起するのは、むしろ過去の通勤のありようである。冒頭の問いかけの答えにもなるが、それは輸送需要に対して最小限の設備投資しかしてこなかった(できなかった)歴史であった。

 東京で初めて鉄道が走ったのは一八七二(明治五)年、新橋駅でこれに接続する馬車鉄道が開業したのは一〇年後の一八八二年、それを電化したり新線を敷設したりして民間企業三社が電車の営業を始めたのは一九〇三年だった。だが、これは最初から輸送力が足らないとみられていた。たとえば外務大臣だった青木周蔵は、電車運転開始に先立つ一九〇〇年時点ですでに、二両以上の連結が許可されない「市街電車」では到底「幾万ノ労働者」に対応することはできないと予言していたのである。

 ちょうどそのころ馬車鉄道の輸送力は限界に達し、三六人乗りの鉄道馬車が一分間に七〇回も発車するようになっていた。すでに京都や名古屋で走っていた電車のサイズは鉄道馬車と大して変わらず、しかも青木が言うように連結運転は許可されていなかった。東京でも同じような電車が導入されるはずであったから、それではますます増加する労働者を運びきれないのは明らかであった。

 この輸送力不足を補うべく奨励されたのが、乗客の頑張り、すなわち俊敏な行動であった。一九〇四年に刊行された『東京電車案内』という本は、乗客に「最も規律正しく静粛に乗降するの美風を養成する」ことを求め、整列乗車を励行し、車内では「最初乗りたる人より順次前へ前へと乗り込めば更に混雑することなし」として「成るべく前方へ詰め寄る習慣を作る」よう呼びかけている。切符を買う際にも「釣銭を出すは甚(はなは)だ甚だ手数の事」であるから「可成(なるべく)三銭渡し切りにて切符を買取り得る様小銭を用意すること」と口うるさい。

 電車は一九一一年に市営化されたが、混雑はひどくなる一方だった。一九一八(大正七)年に発表された俗謡(ぞくよう)「東京節」には、「東京の名物満員電車」「いつまで待っても乗りゃしねえ」という一節がある。当時の中等学校生徒が書いた作文にも、人びとが鈴なりになるほど混雑した車内でしばしば起こる乗客同士や乗客と車掌との争いを「実に見苦しいものではありませんか」(旧制中学四年)と諫めたり、「時折幼ない子供や老女の悲痛の声が耳に響きます……混雑にまぎれて婦女子に対してつまらぬ行為をなす狂人の様な者が居ります」(商業学校三年)と告発したりするものが見受けられた。

 満員札を掲示した電車が停留所に来ても本来は乗れないことになっていたが、職場や学校に遅刻するわけにゆかない乗客たちは、飛び乗り・飛び降りという強硬手段で自衛した。当時の電車にはステップがついており、加えて扉がなかったり、あっても開け放していたりしたため、このようなアクロバットが可能だったのである。男性たちはこれを格好いいとみなし、飛び乗り・飛び降りができてこそ一人前という感覚も広まったという。もちろんこんなことは危険きわまりなく、失敗して脚を切断したり命を落としたりする事故も少なくなかった。

 東京市は一九二〇年代のはじめに連結運転の試験を行ったものの、結果は芳しくなかった。前方車輛のブレーキだけで停車する構造だったため、おそらくその力が不十分だったのだろう。後部車輛にもブレーキを取りつけて前方から一括で操作できるように改造することも技術的には可能であったはずだが、市はそこまでの投資には踏みきらず、代わりにボギー車という大型の車輛によって、それまでの小型車を置き換えた。

 しかし、両大戦間期の東京の交通量はすでに市電でどうにかできる水準を超えていた。市電ではなく、専用の軌道敷を市電よりも高速で走り、車輛を複数連結し編成全体のモーターやブレーキを前方から一括して操作するタイプの電車が、次の主役と目された。

 こうした電車は当時「高速鉄道」と呼ばれた。その嚆矢(こうし)は、蒸気鉄道であった甲武鉄道(現、JR中央線)が一九〇三年に一部の列車を電車に置き換えたことであった。同鉄道は一九〇六年に国有化され、同じころに国有化された山手線でも間もなく電車が走りはじめた。一九一四年の東京駅開業にあわせて運転を始めた京浜線(現・京浜東北線)は、既存の東海道線に沿って新たに電車専用線を建設した、本格的な高速鉄道であった。

 国鉄は一九一〇年代から一九三〇年代にかけて電車運転区間を拡大するとともに、高性能の車輛とそれを安定的に走行させる地上設備や信号設備、旅客がスムーズに乗降できる駅構造などを次々に取り入れた。飛び乗り・飛び降りを防ぐため、自動ドアも導入した。やがてターミナル駅からは私鉄も延びていった。今日まで続く都市鉄道網の基本部分は、この時期に形成された。

 だが、拡充はここまでであった。当時の日本では、全国で鉄道のみならず道路・港湾・学校などのインフラに対する需要が高まっていた。そしてこのころ勢力を増した政党政治家たちは、票と引き換えにそうしたインフラの整備を各地方で進めようとしたから、東京という一地方の、しかも鉄道にだけ投資を集中することは難しかったのである。

 東京の鉄道網は慢性的に輸送力が不足し、それを補うために脆弱な設備を最大限利用する努力が払われた。三戸祐子『定刻発車』によれば、日本の都市鉄道が高頻度運転と高い定時性を両立するようになったのは、こうした事情によるのだという。それはまずもって、鉄道員たちの頑張りに支えられていた。列車のブレーキ操作や発車合図の出し方などといった細かい作業手順が見直され、たとえ数秒でも短縮することでダイヤを密にするための努力が払われたのである。

 だが頑張りは、鉄道員だけでなく旅客にも求められた。「交通地獄」や「ラッシュアワー」という言葉が使われるようになったのは両大戦間期から第二次大戦期にかけてのことである。混雑する列車や駅では、整列乗車や機敏な歩行といった「交通道徳」が説かれた。従えない者は不道徳というわけである。

 一九四〇年代になると、鉄道と警察と中等学校の協力によりセーラー服の女子生徒を動員して駅頭で旅客に対しメガホンで整列歩行を呼びかけたり、「駅内正常歩運動」と称して構内で行進曲のレコードをかけ旅客の歩調を調えようとしたりといったことが行われた。人によって脚の長さが違うのだからそう簡単にはいかないと思うのだが、当局はどう考えていたのだろうか。

 地下鉄は、終戦前には現在でいう銀座線が開業したのみであった。計画だけならば戦後に開業する路線の大部分が構想されており、内務省の都市計画官僚たちはそれらを都市計画に取り込んで整備しようとしたものの、財源不足で実現しなかったのである。日本が参考にした都市のひとつであるベルリンでは、市電と国鉄の電車線(Sバーン)と地下鉄(Uバーン)が結びついてネットワークを形成したが、東京では市電や国鉄に偏った負荷がかかり、混雑に拍車をかけた。

 都市計画家たちは、郊外をも計画の範囲に取り込んだ。彼らにとって都市計画とは単なる施設配置の問題ではなく、一定の理念に沿って社会を改造することを意味していたが、その過程で浮上したのが「交通調整」であった。都心部と郊外を含む「大東京」(首都圏という言葉はまだなかった)の中で市電、国鉄、私鉄、地下鉄、そしてバスやタクシーなどが過当競争に陥っていると考え、政府の手で路線の統廃合や事業者の合併などといった調整を図るべきと考えたのである。

 しかし、これもまた事業者の思惑がぶつかり合う中で中途半端におわった。やはり東京が参考にしていたロンドンの公共交通は、一九三三年から「ロンドン・トランスポート」として一元的なサービスを提供するようになったが、東京ではそこまでいかなかった。

 市電とバスは東京市が、地下鉄は特殊法人の帝都高速度交通営団がそれぞれ担当し、国鉄は独立したネットワークのまま残された。郊外では有力な電鉄会社が沿線のバス会社などを統合した。タクシーは、警察が一事業者あたりの最低台数を定めて統合させたが、それは交通調整の政策体系とは別に行われた。中途半端な調整の結果できた制度はよそ者から見れば極めて分かりにくく、ルートによっては初乗り料金が何重にも付加されるなど、利用者にとって合理的とは言いがたかった。

 このように都市計画を含むインフラ整備が抑制的で、それを現場の従業員や利用者の頑張りによって補うという仕組みは、戦後の高度成長期においてさえも基本的には同じであった。

 国鉄の設備投資は需要の拡大に対して後追い気味であったし、私鉄にはそもそも投資を最小限に抑えるインセンティブがあった。戦後に制定された首都圏整備法は当初、都市の無制限な拡大を抑えるために緑地帯を整備することを目指したが、税収が減るのを恐れる郊外の自治体に拒絶されたことで一九六〇年代半ばに方針が転換され、一九八〇年代のバブル期まで東京都市圏の市街地拡大は続いた。

 利用者の最大の頑張りは、すし詰めの電車に長時間耐えることであった。それを良くも悪くも支えたのは、通勤費用の雇用者負担(通勤手当の非課税制度)であったと考えている。市街地が連坦する都市圏では郊外へ行くほど住宅価格が下がる傾向にあり、不動産価格が賃金水準や一般物価よりも急激に上昇するなかで、通勤者たちは都心から離れた郊外に住むようになった。そういう場所に社宅が建つ場合もあったろう。

 交通費は会社もちだから、通勤者たちの懐は痛まなかったが、混雑に対する不満の声も表に出にくかった。むしろ、ラッシュの電車に適応するのが「社会人」の要件とされた。日本の都市鉄道におけるガラス細工のごとき緻密な運行体制は、このような状況と表裏一体であった。だから筆者は、手放しでそれを賛美する気にはなれない。

 安易な比較と承知で言えば、欧州の鉄道では日本と対照的な光景をしばしば見かける。ぎゅうぎゅう詰めの場面がないわけではないが、本邦大都市ほど激しくはない。大した需要もなさそうなところに何本も線路が敷かれていて、日本人には過剰投資にも思えるけれど、冗長性は高い。パンクチュアルではなく、運休も珍しくないが、一つの列車が線路をふさいでも後続列車がそれを追い抜くための設備があるので、破綻は免れているようだ。整列して機敏に乗降する人は稀だが、代わりに障害者や乳幼児連れ、老人などが気兼ねすることもない。以前ならばまわりが協力してベビーカーや車いすの乗降を手伝っていたが、近年は急速にバリアフリー車輛の導入が進んでいる。

 こうしてみると、悪疫の流行が収まらないうちから通勤ラッシュが復活するのも、鉄道会社が終電を早めて社会基盤としての機能を縮小させ、それを社会が甘受するのも、結局は色々なことが人々の頑張りに委ねられているという点で同じなのではないかと思えてくる。テレワークの環境を整備して通勤を減らすことと、それでも通勤せざるを得ない人々のために深夜まで列車を動かしておくこととは、どちらも感染の抑制に意味があるはずなのだが、どういうわけかそうはならない。こうなる前によく耳にした「働きかた改革」のスローガンもいつの間にか聞かなくなってしまったが、働き方すなわち生き方の真の変革が置き去りにされたまま、人々はきわめて限られた選択肢しか提示されないなかで頑張りを強いられている。

 実は、今回の災厄の初期に人々が「家(うち)にいよう」と言われた時もそうであった。通勤ラッシュこそ消えたが、検査体制や医療設備、補償制度などが不十分な状況下で、医療現場や一般の人びとの頑張りによってかろうじて社会がウィルスに食い尽くされるのを免れていた構図は、「痛勤」の歴史と相似をなしていた。ようするに、良くも悪くも日本らしさがよく出ていたように思われるのである。

 危機を好機に転じよ、という掛け声がかまびすしい。筆者も、こんな頑張りまかせの社会にはやはり無理があると感じるので、変わってほしいとも思う。しかし、果たして疫病の流行などという偶発的なできごとひとつで世の中なんて変わるものなのだろうか。同じように息巻いて最後は大きな痛手をこうむった経験が、かつて日本人にはなかっただろうか。そんなふうに戸惑いつつ、今日も(と言いたいところだが本当は週に一度くらい)、混雑する電車の入口で慄いている。

 (たかしま しゅういち・日本経済史) 

 〔追記〕 二〇二一年四月二五日、東京都は三度目の緊急事態宣言区域となった。報道によれば政府は鉄道会社にゴールデンウィーク中の減便を急遽要請し、各社は形だけでもこれに応じるため列車を回送扱いで運転することを検討しているらしい。事実ならばまことに戯画的である。

 

◇試し読み②◇

恐怖と不安が私を呼んだ

大前粟生

 子どもの頃の記憶は曖昧で、時系列も直線的というよりは重なり合うようで、重なった類似の印象が子ども時代を作っている。その中でも、怖かったという印象が鮮明にある。

 田舎で農業をしている実家には農作物や農機具を保管するための納屋があった。祖母の話によるとこの家は祖父が自力で建てた。祖父は無口というか、あまり自分のことを話さず、今思えば幼い私を楽しませようとしていたのだろう、テレビ番組やテレビゲームの台詞を真似して繰り返していた。

 元々は祖父母だけが暮らしていたところに増築を重ねていったのだろう。炊事場や風呂、居間がある棟を中心に、三つの棟が組み合わさって家になっていた。南の棟には仏壇の間があり、その上階にはいちばん上の兄の部屋が設えられていた。北の棟にある納屋には肥料や種などの箱がそこかしこに積まれていた。コンクリート張りで寒々とした空間を抜けると階段があり、上ったところに寝起きするスペースがあった。廊下の手前側に二番目の兄の部屋、真ん中に両親の部屋、奥には衣装類が積み重ねられた部屋があった。

 寝るときは両親の部屋にいたが、私の部屋と呼べるような空間はなかった。基本的にリビングにいた。二番目の兄もたぶんそうだった。彼の部屋には父の仕事上の書類や機材なんかも置かれていた。パソコンがあったから、そこが兄の部屋ではなくなると私たちは「パソコンのとこ」とか呼んでいた気がする。

 「パソコンのとこ」にはガラス張りの本棚があった。シリーズものの動植物の写真集と、日本の民話と世界の民話を集めた本があった。民話には子どもでも読めるようにルビが付いていた。

 小学三年生くらいの頃、真ん中の棟だけリフォームされる。それ以前の家の記憶と、それ以降の家の記憶をはっきりと分けることができない。

 家の外は違う。家の外はいつも怖かった。

 その町の家々と山を隔てるものは国道だけだった。犬の散歩をしていると、目に入るのは田んぼと畑と木々だった。なだらかな山の麓に道が通っていた。木には裏があるから怖かった。誰でも木の後ろに隠れることができる。

 山の中には神社が建っていた。そのためか平面に開けた土地がしばらく続き、子どもでも簡単に山に入ることができた。バラバラに並ぶ木々が視界に奥行きを作る。ただ目を開いているだけで何かを覗き込んでいる気がした。覗き込まれている気がした。私は山の中を探検してみたかったが、いつも決まって、神社の敷地を越えたあたりで先に進めなくなる。取り囲まれている気がした。背後も、頭の上も、目の前の木の後ろも怖くなって家へと走った。子どもの頃、私は生き生きしていた。

 夜は一層怖かった。外灯の数がとても少なく、数メートル先が黒々とした幕にしか見えない。暗やみは触れれば届くところにあるのか、彼方にあるのか。距離は失われた。暗やみは私の不安と同化して膨らんでいく。そこからはなにかがやって来る。

 その感覚は、家の中にも適応されていた。子どもの頃の私にとって、家は「住居」として外と区切られていたわけではなかった。

 家の中のすき間やデッドスペースは、そのまま暗やみとして私に私自身の無防備さと恐怖を作らせた。子どもの低い目線は、照明が当たらない部分を見つけていた。建物やモノが大人を対象に作られているから、本来の意図とはズレたものを見つけやすかった。でもそれだけではない。自分から率先して怖がりにいっていた。

 家の構造上、真ん中の棟にも上階があった。そこは屋根裏部屋になっていた。そう記憶している。私は一度もそこに入ったことがない。頭上に知らない空間があるのはつらかったが、知ってしまうことの方が嫌だった。いちばん上の兄の部屋に入ったときは、この真下に仏壇と、先祖の遺影があることを感じた。

 パリパリとうるさい扉を開けて納屋に入る。まっすぐ進むと、「パソコンのとこ」に続く階段があり、左へ進むと扉があった。より煩雑に農具などが積まれている部屋があった。モノがあればあるほど、なにかがやって来るための影もあった。想像できるスペース。うず高く積まれた衣装の中。布団のそばに押し入れがあった。いつ開くかわからない。恐怖と不安が私を呼んだ。その緊張感で子どもの私は成り立っていた。

 それは楽しかったし、息が詰まることでもあった。不安と恐怖から一時撤退させてくれるのがテレビゲームと本だった。

 はじめてゲームをしたのは四、五歳のとき。兄が持っていたスーパーファミコンで星のカービィをやった。本を自分から読みはじめたのもこの頃だった。兄の部屋兼「パソコンのとこ」に忍び込んで民話の分厚い本を開いた。

 家の中も外も、あたり一帯が静かだった。ゲームの音や本の中の音は私を集中させた。生活とは違う時間をもたらしてくれた。幼かった分だけ物語に慣れていなくて、型やパターンもわからない。物語のひとつひとつが世界として私にぶつかって来た。

 別の時間を意識した。それと照らし合うように、私が暮らしていた時間も一層現れた。すると別の時間もまた強くなっていく。私が生きているのはここだし、私が生きているのはここだけではないという感覚。

 複数の場所や時間で生きているような感覚は、本やゲームだけじゃなくて、恐怖が育ててくれた。というか、裏表だった。

 今は、人間以外に対して怖いと思うことはなくなった。人間は生活に必要なわけでもないのに生き物を殺すし、傷つけるし、差別する。こんなに恐ろしい存在は他にない。大人になって、世界だとか、未知のものに恐怖を感じることはめっきり減った。少し寂しい。そうだ。私は寂しいんだと思う。最近は、子どもの頃の恐怖を求めたり、子ども向けの本を読んだりしている。

 いつも散歩するコースに絵本を多く置いている古本屋がある。立ち読みして、好きなのがあれば買う。家にあるほとんどの絵本はここ一年ほどで読んだ。

 コロナ禍の初めのあたりは、いろいろな「意味」というものへの疲れが激しかった。あまり小説などが読めなかった。世の中には物語が溢れている。ゴシップや噂話などがいい例だ。自分に都合のいいように他人を捉える手段として物語は日々生み出されている。そうした物語は、知名度や人気といったものを演出することに効果的だ。金を生むことに向いている。世の中は物語で動いている。ネットニュースやSNSを見るだけで「物語」を浴びてしまう毎日に疲れていた。

 そんな日々で絵本なら読むことができた。

 ある世界で起こっている出来事を、出来事そのものとして描いているものを読めると心が安らいだ。我々の世界の「常識」が本の世界を越えてやって来る話が苦手だった。教訓はいらない。本の世界や登場人物のことをそっとしておいてほしい。

 登場人物や世界がそれぞれなりに輝いている絵本に出会うと自己肯定感が上がった。彼ら彼女らはそれぞれなりに生きているだけだ。同じように私も私なりに生きている。生きているということに私自身は特に心を動かされなくても、別の世界に生きている人から見ると輝いていたりするんだろうか、なんて思ったりする。

 小説を書いているうちに絵本や児童書などの依頼が来るようになった。

 今年の六月には、はじめての絵本が刊行になる。私がテキストを書き、絵は漫画家の宮崎夏次系さんに担当して頂いた。あまり他にない絵本になっていると思うので、ぜひ読んでほしいです。

 昨年の暮れに『岩とからあげをまちがえる』という本を出した。短い文章と絵が一〇〇個入っている。こちらは子ども向けと銘打っているわけではないが、知人友人のお子さんにウケたのがとてもうれしい。

 物と物を見間違えたり、接した動物や風景がそのまま世界となって、自分と結ばれる。

 『岩とからあげをまちがえる』はそんな本だし、私自身、小説を書いているうちに、物の見方がそんな風に変わってきた。俯瞰で物事を見ることは多々あるが、それと同時に、目の前にあるものを文字通りに見るようなことが増えた。見たままに見る、だとか、見間違えたものを見間違えたまま捉える、と言ってもいいかもしれない。それって子どもの世界の捉え方に近いんじゃないか、と思ったりもする。

 これからも子ども向けの本を作っていけるといい。作れば作るほど、その振れ幅で、大人に向けた本も作っていける気がしている。

 子ども向けの物語を書くにあたって、危惧していることがある。

 子どものことを意識すればするほど、自分が子どもではない分、どこかで彼ら彼女らのことを「子ども」と括ってしまうのではないか、と恐れている。

 他者を外部化してしまうということだ。それは、一方的な決めつけや疑心を生む。自分に都合のいいような解釈を作り出す。決めつけや疑心を繰り返すうちに、その対象が自分にとって他者であることすら忘れていってしまう。自分の思い込みが、まるで物の道理であるかのように思ってしまう。他者はそうなっているのだと、それがこの世界なのだと自然法則化してしまう。悪い意味での「物語」はそうやって出来るのだと思う。自分ではない存在を理解しようとすることは大事だ。だが、理解していると思ってしまうことは、ヤバいことなので気をつけていきたい。

 (おおまえ あお・小説家) 

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