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『ケルト人の夢』刊行記念対談 野谷文昭×ヤマザキマリ (全3回)

世界市民、ロジャー・ケイスメント  野谷文昭×ヤマザキマリ (第2回)|『ケルト人の夢』

タブー視された同性愛の問題

ヤマザキ(Y): ロジャー・ケイスメントは結局女性とは一緒にならなかった。異性への関心がなかったということですよね。

野谷(N): いとこのジーことガートルードはあきらかに彼に恋心を抱いていますし、二人はいずれ結婚するだろうと見られていました。しかしロジャー自身が抱いていたのは兄妹的な愛情で、恋愛ではありませんでした。

Y: ギリシア・ローマ的な世界観でいえば何もおかしいことではないのですが、しかし当時の多くの社会にとっては到底受け入れられないものです。要するにロジャーは同時代の人々が共有できないものを持ちすぎていた。だからジーがどんなにがんばろうとも、裁判でケイスメントの人権は敬われることはなかった。不条理をむしろ積極的に受け止めて生きていた人だったと言っていいのではないかと。自虐とは違う、もっと高貴な意識において。

N: ここには当時タブー視されていた問題があります。ロジャーはアフリカで同性愛に目覚めます。

Y: 美しい男性の体を前にしたロジャーの描写がありますね。

N: 親友だったハーバート・ウォードは彫刻家として、アフリカの自然や文化、そして人々に美を見出しますが、そこに性的なものが加わると、ロジャーの感覚になります。

Y: 古今東西、こういう突拍子もないことをしてしまう人は、そろって純粋であることが多いように思いますが、純粋さは時に狂気と紙一重として捉えられる場合もある。

 ロジャー・ケイスメントの正義感は、現代の我々の視点から捉えればヒーローに値しますが、たった百何十年前であっても、当時のヨーロッパではあってはいけない存在だったという気がします。完璧な異端ですからね。人間の特異性に寛容だった古代ローマでも難しかったでしょう。

N: ゲイの作家、たとえばオスカー・ワイルドは自分の美学を優先させたために、イギリス的な道徳とぶつかった。それがビクトリア朝の道徳観への反逆となったのでしょう。

 ワイルドが恩赦を受けられて、ロジャーは恩赦の請願が受け入れられなかったのは、ワイルドの場合は政治には関わっていなかったのが決定的でした。

Y: ロジャーとアマゾンの美青年の写真がありますが、これを観ているとローマ皇帝のハドリアヌスとアンティノウスの関係を彷彿とさせます。でも、ハドリアヌスも異端の皇帝として元老院からは煙たがられていました。生産性重視の社会においてロジャーやハドリアヌスのような異端が真っ向から受け入れてもらえることはないのでしょう。

N: 確かに。ロジャーの理想は、ギリシア・ローマに通じる古典的な美であるように感じます。ロジャーが現地の男性を写真に収める場面が登場しますが、そのときには円盤投げのポーズをとらせたりしています。明らかに古典的な美を意識していたように思います。

Y: レオナルド・ダ・ヴィンチもギリシャ・ローマの精神性の復興意識が高まっていく時代に生きた同性愛者のひとりですが、どんなに知識人や教養人が増え、古代の高度な文化や寛容性を崇め奉っても、結局同性愛は異端という扱いの枠を超えることはできませんでした。レオナルドも20代半ばで17歳の少年と性的関わりがあるとして役場に告発されています。言っても治らない異端は、ケイスメントの時と同じように過酷な制裁が下されることもあったようで、極刑は死刑でした。いまわれわれは当時に比べればまだいくらかアグレッシブな倫理的拘束から解放されているような錯覚を持ちますが、実はそれほど変わってはいないですよね、イスラム圏では同性愛者は未だに厳しい制裁を受けていますし、私だって、たとえばこの『ケルト人の夢』を誰かに読んでもらおうと思った時に、「異端で同性愛者で絞首刑にあった人」なんて言葉をつい選んでしまうでしょう。そう考えるとロジャー・ケイスメントが向き合わねばならなかった苦悩の感触がより生々しく伝わってきます。

我々の一人ひとりは、連続する多数の人間である

N: バルガス=リョサも、ケイスメントがホモセクシュアルであることに対して完全にオープンではないと思います。他の作品でのホモセクシュアルの描き方からもそう言えます。ただケイスメントは実際にホモセクシュアルであり、一方で英雄としてあがめられた人物でした。バルガス=リョサも、ケイスメントを追って、一人の人間にいろいろな側面があることに驚いたのだと思います。

 エピグラフで、バルガス=リョサはウルグアイの思想家、ホセ・エンリケ・ロドーの言葉を引いています。

我々の一人ひとりは、それぞれ一人ではなく、連続する多数の人間なのだ。そして次々と現れるこの連続する人格は、互いに最も奇妙で驚くべき対照を見せるのが常である(『プロテウスのモチーフ』)。

Y: リョサは実の人間を掘り起こしたいという探究心も含めて、おれが書くしかないなと思ったのかもしれませんね。実際、先ほども言いましたが、ここまでエネルギーの横溢した人を書くにはそれなりのエネルギーが必要で、誰でも彼でも手掛けられることではないでしょう。マルケスもある意味マグマな人ではあるとは思うのですが、大噴火を起こすような感じではないですからね、マルケスがロジャー・ケイスメントを描くと、リョサとは全く違う温度感のものになるでしょう。『百年の孤独』に出てくるロマンチックなイタリア人ピエトロ・クレスピみたいに、欧州人のドラマティックさをかなりシニカルに俯瞰しながら、比喩やアレゴリックとして捉えていくような表現をするのではないかな。でもリョサの場合となると、物書きとしての俯瞰の目線を保ちつつも、あきらかに主人公が憑依していますからね。

 星野さんの帯の言葉「リョサの魔術は、すさまじい差別の暴力と不正義に抗っているのが読者の私であるかのように錯覚させる。いや、錯覚ではないのかもしれない」とあるのはその通りだと思いました。読む者を、物語の中の一人になったかのように感じさせる性質が強い。もちろん読み手にその受け皿があれば、ですが。

N: アフリカでの出来事ですが、コンゴ川はその支流が毛細血管のように走っています、そのすこし水がきれいなところにロジャーは飛び込んで泳いでしまう。危ないにきまっているんですが、一人でいて、誰も見ていないときに飛び込む。

Y: わたしもアマゾン川で泳ぎましたよ(笑)。現地の人に泳いでいいですかと聞いたら、怪我をしていないんだったら大丈夫ですよと言われました。怪我をしているとピラニアが寄ってくるらしい。

 今まで無謀さが災いして何度も死にそうな目に遭っていますが、きっと私の周りの人たちは「いつ死ぬかな」と思って私を見ていたはずです。私が自分の解釈と価値観で決めて当たり前のこととして行動していることでも、端から見ると、特異に思われてしまう。だからロジャー・ケイスメントやリョサの存在を知ることは救いになります。

すっとこどっこいの人間に向き合う忍耐力と洞察力

Y: リョサの作品では『緑の家』なんかもそうですが、宗教的な倫理の拘束のない南米の混沌とした社会にはどこか古代ローマ世界に近いものを感じます。

 古代ローマと言えばまさに奴隷制ですが、奴隷といっても種類の幅は広く、知性や教養のある奴隷であれば秘書や教師として重宝するわけですが、肉体労働だけの奴隷であればそれこそ無用になれば売り飛ばされ、しくじれば始末されてしまう。こんな言い方はどうかとも思うのですが、現代の車や電化製品などの家財道具と似てるかもしれません。『ケルト人の夢』での奴隷もそんな扱われ方をしていますね。

N: 最初の頃、ヨーロッパがアフリカに向かう目的は、表向きはキリスト教と文明をもたらすことでした。宗教人もいろいろでしょうが、『ケルト人の夢』の中でも結局利用されてしまうことが描かれています。そこではカトリックをはじめとしてキリスト教も機能しませんでした。ただそのなかでおもしろいのは、気のいい修道士たちの存在です。

Y: 修道士と言えば16世紀のイエズス会のように何某かの策略を目論んでいる人たちを思いがちですが、そんな感じではなくて、なかなかいい味を出しています。

N: フランシスコ会の労働司祭たちですね。彼らに救われます。病気にかかって死んでしまう修道士もいますし、帰ろうとして先住民から提供された丸木舟に乗ったら、それがひっくり返ってしまって持ち物をすべて失ってしまう。

 潜水艦から出て、ボートに乗ったらそれがひっくり返って溺れそうになったケイスメントたちのエピソードと重なります。

Y: せつないけれど、おかしく悲しい。そしてやさしい。

N: この小説の一つの味わいです。ストーリーを語れば、とんでもない話ということで終わってしまう可能性もありますが、さすがバルガス=リョサの表現力です。

Y: マルケスは、ユーモアがない文学は成立しないと言っています。しかし、このユーモラス性こそ上手に駆使するのは文学にとって一番難しいことです。

 作品の世界に同じ目線で入りこみすぎると、のりしろがなくなってしまう。のりしろというのはゆとりという意味でもあるのですが、作者の妄想と陶酔でいっぱいいっぱいになっている文学――映画でも漫画でも同じですが――は、読んでいてつまらないし疲れます。いっぱいいっぱいになった作品は読んだり見たりしている人も息が詰まってくる。

 南米文学がおもしろいのは、どこをとってもそこで描かれている状況を俯瞰で捉えているシニカルなゆとりがあるからでしょう。人間至上主義の作家はやはり人間の生き方に驕った作品を書きますが、南米文学には全体的に人間の危険性、滑稽さ、情けなさといった特性を容赦無い視線で見据えている洞察性を感じます。

N: バルガス=リョサは現地に密着しながら俯瞰しているところがあります。つかず離れずで、つねに密着しているけれど、別の目でそれを眺めている。以前、加賀乙彦さんが『緑の家』の書評で、背後に作者の見えない存在を感じると書いていました。実際、初期には多少ありますが、バルガス=リョサにはあまりユーモラスな作品はないですね。ユーモラスなものを書こうとすると、はじめからこれはそういうものとして書き始めることになる。

Y: マルケスならば、たとえば『百年の孤独』のように、一大叙事詩と言ってもいいような設定の小説であっても、随所におかしなレトリックを使ったり冷笑的な洞察が入ってますよね。ツボな描写が何箇所もあります。

N: 『ケルト人の夢』では作家としての余裕ができたのか、たいへんなことが起こっていてどうなるんだろうと思わせる一方で、ケイスメントが変なことをやるもんだから、笑ってしまう。なんでここでやるんだろうと。バルガス=リョサはそれを多少おもしろがっているような気がします。以前には見られなかったテクニックです。

Y: 先生がおっしゃる密着型の俯瞰視ですね。あたかもそばで見ているように、その人のおもしろい行動をきちんと描く。リョサは人間が好きなんですね、などという安易な言葉は使いたくないけれど、ロジャー・ケイスメントのようなすっとこどっこいな人間に対して、よくここまでの忍耐力と洞察力を持って付き合っていけるなと、それだけでリョサはすごい作家だなと思います。

あるある感のない文学との出会い

Y: レヴィ=ストロースのように異文化を観察し、比較しながら眺めるような書き方もあったと思うのですが、リョサは主人公の中に自分自身を重ねていると思いますし、『ケルト人の夢』も実際にその中に入っていってしまう人の話ですよね。

N: 彼は現地感覚を必要とするのかもしれません。若い頃はもっぱらペルーのことを書いていましたが、都会としてのリマの姿だけでなく、階層社会の上から下まですべてをひとつの作品に取り込もうとします。そしてブラジルを舞台にした『世界終末戦争』をきっかけにペルーの外に出ます。実質的には亡命と言っていいと思いますが、フジモリが国籍を剥奪しようとしたらしいんです。1993年にスペインの国籍を得て、二重国籍です。いまはマドリードに住んでいます。

Y: 横溢する感受性と、政治そして社会への関心といえばいいのでしょうか。自分が体感し甘受してきたものを社会に訴えるためには大統領くらいにならなければという信念があったようにも思います。

N: 文学と政治について言えば、ノーベル賞をとった詩人オクタビオ・パスも、詩を成り立たせるのは社会である、だから自分は社会と政治に関心があるのだと言います。

Y: 表現を生業にしている人がなぜ政治に関心を持つのか。連載中の「プリニウス」では皇帝ネロを描いていますが、彼自身、母親や周囲の権力者に操られるかたちで若くして皇帝という役職を担います。一国の長であるという意識をもつようになり、彼はどういうかたちの言葉が人々の心に届く言葉なのか、思っていることを伝えるとき、どういう言葉が伝わりやすいかを考えました。そしてその答えは、芸術なのです。彼は歌を歌ったり、弁論であったり、ギリシア人が書いてきた詩を人の前で朗読することが大好きでしたが、威圧的な演説をするよりはよほど影響力があると解釈していたと思うんです。

 これと似ているというとおかしいかもしれませんが、バルガス=リョサの大統領選出馬のニュースを聞いたときには、リョサは自分が感じてきたことをどう伝えられるか、そのツールとしての政治の力を選んだのではないかと感じました。

N: 彼は世界をひとつの舞台と考えている、どうもそんな気がしますね。

Y: ラテンアメリカの作家は、もちろんラテンアメリカが出自で、ラテンアメリカという土地や人々の性質をよくわかっていると思うのですが、でも人間の生きるフィールドはそうした限定的な地域ではなく、地球そのものと捉えている人が多いように思います。マルケスもそうですが、彼らの小説の世界観は想像力を怠惰にしている人には向きません。時にはSF的ですらあるから、あるある感で読めるような作品は少ないですね。

 戦前や戦後、世界ではドストエフスキーやチェーホフのようなロシア文学が盛んに読まれていました。戦争という不条理を経て失望とダメージに鍛えられた人々は、想像力を旺盛に稼働させることに喜びを覚えていた。ところがいまは文学に限らず漫画の世界でも言えることですが、ある程度読者が感情移入できないと読めないとか、読者の知的水準に合わせて、あるある感の演出が前提になっている傾向があります。そんな中、バルガス=リョサのような作家がまだかろうじて存在している。ただ、こういう作家が今後どれくらい出てくるのか、今のパンデミックが果たしてドストエフスキーを読みたくさせるようなメンタルを人々に発芽させていたら、そんな未来もありかもしれませんけどね。どうでしょうね。

第3回に続く☆

 

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