世界市民、ロジャー・ケイスメント 野谷文昭×ヤマザキマリ (第3回)|『ケルト人の夢』
純粋さとどう付き合うか
野谷(N): ケイスメントのことをもう少しお話ししますが、彼は少年性を保っているように見えます。アフリカに行っても、結局自分の世界をそこに持ちこんでいる。だから現実とのギャップに驚くわけですが、少年性とは純粋さで、それが最後までずっと生き続けているから、読者としてはますます惹かれてしまう。
ヤマザキ(Y): 実は純粋さというものは、年とともに失われていくのではなくて、本人が意図的に捨てていくんだと思うんです。なにせ純粋さを維持したところでろくなことはない。どんどん傷つけられてボロボロになるだけですからね。結果的にドン・キホーテのようなことになる。
N: よくわかります。
Y: ドン・キホーテ的な人物は歴史上たくさんいると思うのですよ。傷ついても打ちひしがれても純粋さを無防備にむき出しにしたまま大人になってしまって、他の人がしなくていいような苦労をしてしまう。要領の良さを身につけられなかった人、というのでしょうかね。物語の主人公にはそういう人が多いですけど、自分を守りたいがために純粋さを捨ててきてしまった大人はやはりそういうヒーローを欲するようになりますから。でも、純粋まっしぐらで大人になった人は、先ほども言いましたがそれが狂気と紙一重だったりもする場合もあるわけで。
N: ドン・キホーテもそうですが、自分がいる世界のほうが正しいと思うわけです。まわりがおかしいと、逆転させることによって、こっちからみればフィクションですが、向こうからすれば逆のフィクションをつくります。その中で活動しているから、本人は周りのほうがおかしいと思うわけです。ロジャーもそうです。
Y: 革命家にはそういう人が多いですね。考えてみたら、フィデル・カストロにしてもチェ・ゲバラにしても、レーニンやトロツキーなど彼らもそうですが、おおむね裕福な出自であって、夢見る子ども時代を許されて育った大人たちばかりですよ。あ、スターリンや毛沢東は例外ですが(笑)。つまりそういう想像力の自由を許される環境に育った人たちが、自分たちの力で、人が人として生きることを謳歌する世界を実現できるのではないかというイデオロギーを抱くようになる。ロジャー・ケイスメントは革命は起こしているわけではないんですけど、そういう意味では革命家のようなところがあると思います。
N: 物語中でもそう言われていますね。ロジャーは夢見男です。
Y: 妥協点を見つけて、自分を痛めつけたり殺さないために要領の良さを学んで社会に吸収されていくのか、それとも破綻を覚悟で自らの純粋を貫くのか。それが『ケルト人の夢』という小説なのだという気がしています。
N: つまり、ケイスメントは妥協できない人間だから、社会に吸収されず、挫折する運命にあったということでしょうか。悲劇は約束されていたと。
アイルランドのロマンティシズム
N: 物語の後半はアイルランドが舞台となりますが、アイルランドにはどうもケイスメントのような人間が多い気がします。
Y: そうなんですよね。イタリアで画学生をしていたときに、アイルランド人の男性から突然告白されたことがあります。私にはすでに同棲している相手がいたにもかかわらず、心中の思いをどうしても吐き出さなければならなかった。ジョイスとベケットを愛するロマンチストでした。
イギリス在住のエッセイストであるブレイディみかこさんはアイルランドの方と結婚されていますが、対談をしたときにアイルランド人には気をつけた方がいいという話になりました(笑)。彼らは夢をそのまま持ち続けて、少年のような純粋な気持ちのままで突進してきますが、こちらもその無防備さと情熱に負けて、ああと手を広げて受け止めてしまう。
映画監督ジョン・フォードはウェスタンものをたくさん撮っていますが、彼もアイルランド移民の出自です。『静かなる男』のようにアイルランドが舞台になった作品では、彼のアイルランド人としてのアイデンティティがわかりやすく露呈しているように思いますが、その他の『駅馬車』や『アパッチ砦』のような西部劇にしても、スタインベック原作の『怒りの葡萄』にしても、やはりアイルランド的な倫理観や正義性が潜んでいる。正義感とは何かを問いかける作品を多く手がけたジョン・フォード氏がもしまだ生きていたら『ケルト人の夢』も彼なりの解釈で見事な映像にしたのではないだろうか。なんてことを思ってしまいました。
N: 『わが谷は緑なりき』とかね。
Y: あの作品もイギリスの炭鉱を舞台に人間の正義と誠実性とはなにかということを扱った作品でしたね。父親が亡くなる最後のシーンがカラバッジョの宗教画を彷彿とさせるような、英雄の死を意識したような構図で、印象深い作品のひとつです。
N: 『ケルト人の夢』でもアイルランド人のどこか現実離れした特徴が描かれています。ロジャーはクロッティ神父とロバート・モンティース大尉のことを、「どちらもアイルランド人の典型だ、聖人と戦士」と言って、「どちらにも生まれつきの清潔感、寛大さ、理想への献身ぶりが備わっている」と考えます。「二人とも歩んできた道は一本で、進路から逸れることや、障害物があっても恐れることはなく、最後には勝利が待っていることを確信している。神は悪に勝ち、アイルランドは迫害者を打ち負かすのだ」と言ってから、《彼らに学べ、ロジャー、彼らのようになるのだ》という独り言が出てきます。
Y: なるほど。清潔感と寛大さ、それに理想への献身、それこそが迫害者を打ち負かすアイルランド人か。それを独り言で呟いているところがもうドン・キホーテ的ですね。純粋さのもたらす滑稽さと物哀しさ。
N: いかにも純粋なアイルランド人のロジャー・ケイスメントとはこういう人です(写真を見せる)。しかもロジャーは自分でそのことに気がついていた。イギリス人だったら、Sirの称号があればそれで十分なはずです。周りからも、称号までもらったのに、なんで? と言われる。でもそれが目当てではないから、そこで終わらない。
Y: 周りから「お前はこういう人間だ」と象られた自分というものに満足も納得もできないわけですよね。でも、世には権威によってある種のペルソナが形成され、そこに自分を入れて悦に入る人もいる。ロジャーは違ったわけですけれど。
N: そうですね。われわれは周りから認められることを重視してしまうこともありますが。
Y: まあそこがこの人の魅力なんでしょうけどね、とにかくアイルランド人以前に一筋縄ではいかない問題児であることには違いない(ロジャーの肖像を見せる(笑))。
そういえば、バルガス=リョサは、イタリアで行われた文学者との対談の中で、自分が書いた登場人物においてこれほどまでの紳士は初めてだった、とロジャーを評していましたよ。
N: そうでしたか。訳していても、ロジャーの気持ちになり、彼の言葉がずっと丁寧なままでした(笑)。
彼は身なりも気にしていました。おしゃれと言ってもいい。それが純粋さから出ているのかどうかは分かりませんが、上から目線にはなることはない。だからイギリスに植民地として扱われるアイルランドのありかたが許せなかったんだと思います。コンゴ、アマゾン、そしてアイルランドと繫いでいくのは、ロジャー自身でした。根底にある差別に対して抵抗している。
Y: 写真だけ見ていると、そんなボーダーレスな行動を取るような人にはとても思えません。サロンで羽飾りのついた帽子を被った美しいご婦人を前にお茶を飲みながら『ユリシーズ』を語っているようにしか見えないですよ(笑)。バルガス=リョサは、どの作品でも人の多元性をテーマにしていますが、この世には定型に収まらないとんでもない人間たちがたくさんいるのだということを実直に学べるのが南米文学であり、『ケルト人の夢』も間違いなくそのうちの一冊だと思います。
ロジャー・ケイスメントの最期
Y: ロジャーの最期は、きわめて誇り高く死んでいったと書かれていますね。
N: スーツもちゃんとアイロンを掛けてもらったとあります。用意した看守はロジャーの誇りを察したのでしょう。直前にはロジャーなりの不安も描かれています。
Y: ノイローゼのように眠れなくなった。
N: そうですね。するといつも母親が夢に出てきて癒やされる。これはやはりカトリック、マリア信仰でしょうか。ガルシア=マルケスの『族長の秋』でも、独裁者の対話の相手は亡き母親です。族長は困ると「おっかさん」と亡き母親に呼びかける。いつまでも少年のままです。ただし、純粋というか単純素朴で教養もありませんが。
Y: あの族長は純粋を払拭しきれないまま、余計なものをたくさん身に纏ってしまったんじゃないでしょうかね、だからなんだか憎めないんですよ。
仮に、ロジャー・ケイスメントがカトリックの倫理に縛られない人だったらどうだったんでしょうね。所々に描写される彼の恐怖心はキリスト教の倫理性に紐付いているように思いますし、彼の孤高のヒロイズム的な振る舞いは、やはりキリストのイメージにも繋がっていたのではないかと。
N: 当時の新聞に彼をキリストに見立てたカリカチュアが載っています。殉教者ですね。
Y: 今回のコロナ禍における各国の対応を見ていて気がついたのは、明治時代以降政治も教育も西洋化の導入を積極的にやってきたはいいけれど、結局不適合だった部分もあるんじゃないかなという点でした。弁証に卓越し、戦うヒーローのような姿勢を見せつける各国の首脳たちの対応や政府の動きを見ていると、日本という先進国は西洋諸国とは違う性質を持っているんじゃないかと思ったわけです。西洋の宗教には、キリストにしろモハメットにしろ、正義のために自己犠牲を払う覚悟の孤高のヒーローがいます。彼らは人の生き方としてこうしなければならないというモデルになっているのですよね、知らず知らずのうちに。なにせ多くの人には殉教した聖職者の名前がつけられているわけですから、そういった側面からも西洋社会のメンタリティが見えてくると思います。ロジャー・ケイスメントも、最終的にはキリスト的な自己犠牲という見方で不条理な顚末を受け入れることにしたのではないでしょうか。
N: 独房で過ごす日々の中で重要なのは、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』と教誨師の存在です。ロジャーが孤独のうちに過ごすなかで対話が成り立っていたのは、教誨師との間です。そして彼は本を読み自分とも対話をしながら、納得し、癒やされていく。
監獄小説に、ドストエフスキー『死の家の記録』がありますが、ドストエフスキーは聖書一冊を懐中にしてオムスク要塞監獄で四年間を過ごします。聖書によって心の落ち着きを取り戻す。そこはやはり日本とは違うかなと思います。
Y: 日本とは死生観が明らかに違いますし、もしかすると西洋人には、死んでいくその瞬間には、自分のことをドラマのように眺め、一つのドラマに携わったんだというような魂の目線での認識があるのかもしれませんね。
世界市民とは
N: バルガス=リョサには一つの批評の目があると思うんですね。あるいはガルシア=マルケスがローマ教皇のことを小説で語る場合にしても、ナチに協力していれば、皮肉な描き方をする。ここにも批評があります。
ラテンアメリカの作家には、いわゆるヨーロッパの作家とは違う目があって、ヨーロッパを脱臼させ、転倒させる。これもまた魅力です。ガルシア=マルケスはしょっちゅうこれをやりました。バルガス=リョサにもそういうところがあります。今回フランスのアカデミーに入ったとしても、純粋なヨーロッパ人ではない。結局、彼独自の批評の目を持っていると思います。
Y: バルガス=リョサは、共同体の宿命を人間は意識しなければならないのだと別の対談で語っています。一人ひとりがマハトマ・ガンジーみたいな姿勢をもって群れとして生きるのであれば、理想的な民主主義ができあがりますが、そんなことはあり得ません。
南米には500年前から聖職者が入っていって、どうやって社会としてまとめ上げていったらいいのか模索し続け、今に至っても試行錯誤がなされています。国家のような共同体や宗教といったものに縋らなければ生きていけない人間という生態のあり方と、バルガス=リョサは常に向き合っているように思います。
N: 共同体を描くのはガルシア=マルケスの得意とするところですね。共同体によそ者を入れることによって秩序が破綻する。それを宿命として受け入れてしまうのかどうか。
Y: 共同体に対しての異端の存在は、現代においても、大きな国家では特に通底し続けている問題ですね。宿命として受け入れることを国民が強いられてますから。日本だって同じです。でも、この1冊の本が出ることによって、ロジャー・ケイスメントのような人間が存在し、こんな生き方があったんだということを、自分たちの辞書に収めることになって、もう少し応用の効いた考え方や行動ができるようになる人もいるかもしれませんね。
バルガス=リョサはそういう文学の効果を分かっている。だから、ロジャー・ケイスメント越しにキリストやキリスト教の気配をうっすらと感じさせるような描写をしたのにも、それなりの意味があったのでしょう。
そして、そこに近代社会の拝金的性質も加わってくる。これも『ケルト人の夢』のおもしろいところです。
N: 産業化に伴い資本主義がどんどん発達する時代です。資源を求めて植民地の奪い合いが起きる。
Y: 『ケルト人の夢』は、1800年代後半から1900年代初頭にかけての世界が舞台になっていますが、今もまったく何も変わっていません。人権派とか民主主義とか言ってはいるけれども、内部で動いている構造はそのまま変わっていません。テクノロジーは進化しても人間という生物のキャパはもう臨界点に達してるのかもしれない、なんてことをこの本を読んでいて改めて感じました。
N: ロジャーが世界市民だと、詩人のイエイツやハーバート・ウォードは言います。それはどう思いますか。
Y: 世界市民かどうかは、どれだけの国の人に認知されたかではなく、自分というアイデンティティの箍に囚われず、どれだけのヴァイタリティを出し惜しみなく放出させて、勤勉に生きることができたかどうかなのだと思います。基本的に利己性に縛られている人は世界市民にはなれないでしょう。それから人間至上主義の人も世界市民にはなれない。どこに生きている誰であろうと、人間という生態に過度な信仰や理念を積まず、等身大で見えている人のことを言うのではないでしょうかね。
N: 世界市民「コスモポリタン」はさかのぼれば、古代ギリシア、シノペのディオゲネスに行き着きます。樽の中で暮らした人物です。
Y: 樽の中は彼にとっては無限の空間だったはずです。そしてそんな樽の中から生まれた哲学が今も世界中の人々に響き、動かしているわけですから、それこそディオゲネスは世界市民だったと思いますよ。そういう捉え方でいいのであれば、リョサに一冊本を書かせてしまったロジャー・ケイスメントは立派な世界市民、地球市民と言っていいかと思います。
漫画という力で媒体すれば日本でももっと多くの人に知られることにもなりますね。でも先生が翻訳するのに10年掛かっていらっしゃいますから、もし漫画にするとなったら一体どのくらい時間がかかるのやら(笑)。でもそのうちアメリカかイギリスかスペインかで映像化されるような気がします。
N: 楽しみにしています。僕も、世界市民にしてナショナリストというロジャー・ケイスメントの複雑さ、二重性のことをさらに考えてみたいと思います。ありがとうございました。