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研究者、生活を語る on the web

せん妄になった父との一年<研究者、生活を語る on the web>

源城かほり

長崎大学大学院工学研究科

 建築の研究者です。室内環境の快適さ、健康とのかかわりや、環境性能の高い建物について研究しています。いまは子供と母と暮らし、大学教員として働く日々です。
 3年ほど前に、父をがんで亡くしました。まるでジェットコースターのようであった、当時の介護経験を振り返ってみます。

膵臓がん発覚、そして急展開

 2019年、平成最後の年明け早々に、当時、同居していた父に膵臓がんが発覚しました。膵臓がんは、10年生存率が最も低いがんの一つです。発覚したときにはもうすでに進行しており、抗がん剤でがんを小さくしてから、病巣を切除することになりました。
 しかし、抗がん剤の副作用は思いのほか強く、父はみるみる弱っていきました。抗がん剤で低下した体力を回復させるべく、点滴を打ちに、通勤前に病院へ送っていきました。当時、子供は保育園の年長でしたが、朝は自分が保育園へ送っていき、お迎えは、やはり同居する母にお願いしていました。おかげで18時半頃までは仕事ができていましたが、言うまでもなく、子育て中の研究者は毎日が時間との闘いです。毎日の育児に加え、父の発病もあり、この年に書こうと思っていた論文は、なかなかまとまった時間がとれずに先送りすることとなりました。
 その年の6月、抗がん剤で小さくなった病巣を切除する手術の数日前に、事態は急変しました。父が、間質性肺炎で救急搬送されてしまったのです。そして、思いもよらぬことに、その治療のために使ったステロイドがおそらく原因で、父は「せん妄」と言われる状態に陥ってしまいました。
 せん妄になると、今、自分がどこにいて、どんな状況なのかがわからなくなることがあるといいます。病院にいるのにもかかわらず、自宅にいるものと勘違いした父は、「自宅が改造された」という被害妄想に陥ってしまいました。そして困ったことに、酸素吸入器をつけることすら嫌がり、外してしまう始末でした。
 間質性肺炎のほうの治療のため、膵臓がんの治療を受けていた消化器外科でなく、呼吸器内科の病棟に入院することになりました。父が運び込まれた日の夜、母と私、叔父が呼び出されました。呼吸器内科の医師によると、「せん妄は治るかもしれないし、治らないかもしれない」とのこと。症状から判断するに、父は認知症を発症してしまったのではないか、と私たち家族は考えました。
 病院の勧めで入院中に介護認定をしてもらったところ、要介護4とのことでした。初めての判定で要介護4が下されることは珍しいそうで、いかに「せん妄」とよばれる症状が重いものだったかがわかります。がんになることも恐ろしいけれど、脳が正常に働かなくなることは、それよりももっと恐ろしいことだと感じました。
 父は、間質性肺炎になる前までは、脳の働きは正常であり、コミュニケーションも普通にとれていました。体が弱ったり、少し不自由で介助が必要であるくらいであれば、介護はまだどうにかなります。しかし、意思の疎通が難しくなり、自分で自分のことができなくなると、事態は一気に深刻化します。
 ひとまず、呼吸器内科で間質性肺炎の治療をし、体力を回復させてから、当初の目標であったがんの切除手術をしようということになりました。しばらくして肺の状態がよくなったため、消化器外科の病棟へ戻りましたが、せん妄状態は相変わらず治らないままです。自宅に戻れば回復するかもしれないと、車椅子を借りて一時帰宅することも試みてみましたが、せん妄状態にある父を自宅で、母と私だけで介護するのは土台無理な話だと、1日で観念しました。

転院、また転院の日々

 当時、父が入院していたのは大学病院でしたが、消化器外科の主治医からは、「大学病院には、長い間入院させておくことはできません」と告げられてしまいました。転院先の病院でリハビリをして、体力を回復しながらせん妄も治せばよい、と主治医はいいます。勧められるがままに、別の病院に転院しました。しかし、普通の病院でせん妄の治療をするのは難しいのです。転院先の病院で、ともすれば暴れそうになる父が縛りつけられているのを目にした母は、心労で倒れてしまいました。転院先の一般病院の主治医には、数日のうちに、「うちの病院では診られません」と断られてしまいました。
 お宅の病院で診れないのなら元の大学病院へ戻してくれ、と私は直談判に行きました。働きながらこのように病院との交渉をすることは、精神的にも時間的にも、けっこう応えました。もはや研究どころではなくなります。転院先候補の病院をいくつも見学したり、医師らと面談したりすることによって、平日の貴重な昼間の時間はどんどん奪われていきました。
 そうして、父は再び大学病院の消化器外科に戻って入院することになりました。まだせん妄状態にありましたが、手術を受けることができるくらいにまで体力は回復していました。そして7月下旬、当初の予定よりも2カ月遅れで、がんの切除手術が行われます。しかし、間質性肺炎の治療のために抗がん剤治療を止めたこともあってか、数カ月のうちにがんが再び大きくなっており、肺に転移はなかったものの、完全には切除できなかったとのことでした。
 その後は、体力の回復をみながら介護老人保健施設に入ることを勧められました。しかし、介護施設はどこもいっぱい、ましてやせん妄状態の父を引き受けることのできる施設など皆無でした。幸い、ある一般病院に転院することができましたが、ここでもせん妄状態が悪さをしてしまい、父の状況はよくなりませんでした。

ようやく落ち着いた矢先に

 一般病院では処方できる薬に限りがあるということで、晩秋、適切な薬を処方できる精神病院へ転院することになりました。ここで、父は認知症の一つであるレビー小体型認知症の可能性が高いという診断を受けます。長引くせん妄状態の診断結果を聞いて、私たち家族はようやく腑に落ちました。
 移った先は設備が整った病院で、対応する医師や看護師も、患者に対するマナーを心得ています。この病院に転院してから、ようやく父は適切な治療を受けることができ、精神状態が落ち着いていきました。そして束の間ではありましたが、普通に会話することができるようになりました。
 しかしその後、がんは肺に転移します。2020年2月、新型コロナウイルス感染症が出現し始めたころに、父は永眠しました。

突然訪れた介護

 今は子供も小学生になり、一人で通学し、ある程度身の回りのことができるようになってきたために、朝早く通勤することが可能となり、仕事に割ける時間が以前よりも増えました。育児も大変ではありますが、子供の発達に応じて、どの程度時間がかかるのか予想がつきます。しかし、突然訪れる親の介護は予想外に大変です。私の例のように、最初は介護状態でなくとも、病気の治療の過程で介護状態に陥ることがあります。自分はそのようなことがあるとは知らず、急に訪れた介護を、身をもって体験することになりました。
 間質性肺炎で搬送されて以降、ほぼ毎日欠かさず病院へ行っていたのは母で、私は母の具合がどうしても悪くなった時に、代わりに見舞いに行っていました。いま振り返ると、母が病院へ通ってくれたおかげで私は仕事を続けることができましたが、そうでなかったら、まともに仕事などできなかったでしょう。実際、転院先を探したり、病院と交渉したりしていたころは、最低限、授業に穴を開けないようにすることくらいしかできなくなっていました。
 1年あまりの介護と育児、仕事の両立は本当に大変でした。とくに高齢の親をもつ研究者の方は、介護はいつ降りかかるかわからないということを、覚悟しておいた方がよいかもしれません。家族のみならず、自分自身の急病などのリスクもあります。長い研究生活の間、研究に100%力を注ぐことができなくなる期間があるかもしれないことを念頭に置き、自分が不在でも遠隔で回せるような研究室運営など、徐々に研究環境を整備したり、心の準備をしておくことが、大事なのではないでしょうか。

 

源城かほり げんじょう・かほり
1974年生まれ。長崎大学大学院工学研究科教授。専門は建築環境工学。2003年に東北大学大学院で博士(工学)を取得し、いくつかの大学に在職後、2015年より長崎大学大学院工学研究科准教授に着任。2022年より現職。

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