丘沢静也 レッテルXの話[『図書』2023年5月号より]
レッテルXの話
〈エンデ現象について私は発言しない〉。「ドイツ文学の教皇」と呼ばれていた、批評界の重鎮マルセル・ライヒ=ラニツキ(一九二〇―二〇一三)は、人気者のエンデを読まずに無視していた。エンデのメールヘン『魔法のカクテル』(一九八九)に「本のあら探し屋」が出てくる。レギーナ・ケーンが描いた愉快なその挿絵(邦訳二五〇頁)は、ライヒ=ラニツキにそっくりだ。
無視されたエンデは、〈文学のサロンにはどんなドアからでも入ることが許されている。監獄のドアからでも、精神病院のドアからでも、売春宿のドアからでも。ただ、子ども部屋のドアからだけは入ることが許されていない〉と嘆いている。エンデは「メールヘンおじさん」とか「児童文学の作家」と呼ばれることに抵抗があった。
指揮者で作曲家のバーンスタインは、自分はクラシックの音楽家だと考えていた。ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』が彼の代名詞のようになっているが、ミュージカルはクラシックではないので、本人は『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲者と呼ばれるのを好まなかった。『三文オペラ』で有名な劇作家のブレヒトは、「自分は何者か」という退屈な問題には悩まなかったが、若い頃から「自分がどう見えるか」を気にしていた。
八歳から八〇歳までの「子ども」のために書いていたケストナーも、日本では児童文学の棚に押し込められている。舞台で笑顔をふりまくエンターテイナーは、舞台裏では、えてして気むずかしい。「子ども向け」に愛想よく書いているケストナーも、実際は、気むずかしくてうち解けない人間だった。ケストナーには、ふたつの顔があった。
『飛ぶ教室』など児童物やエッセイを書くケストナーと、詩や小説を書くケストナーだ。児童物やエッセイを書くケストナーは、理想主義者で、ユートピアを信じ、夢見がちな顔を見せた。けれども詩や小説では、露骨な性描写もあり、シニカルな醒めた顔を見せている。理性的な人間はごく少数で、人類の啓蒙など不可能だと考えていた。
去年、日本でも公開されたドイツ映画『さよなら、ベルリン』(二〇二一)の原作は、ケストナーが大人向けに書いた小説『ファビアン』だ。大江健三郎は、雑誌『ダ・ヴィンチWeb』(二〇一〇年一月号)のインタビューで、〈若い人が小説を読む時に、「武器」を持つ必要があると思います。「武器」とは、自分にとってこれが最良の小説だと思っている小説のことです。[……]若い僕の「武器」は、長らくエーリッヒ・ケストナーの『ファビアン』でした〉と語っている。
「児童文学」というレッテルが使われるようになるのは、ヨーロッパでは「子ども」を発見したルソー以後。それまで子どもは「小さな大人」にすぎなかった。〈私は子どものために書いているのではない〉と言うエンデは、九歳から九〇歳までの「子ども」(つまり、大人のなかにも住んでいるはずの「永遠の子ども」)のために書いている。
腕や顔の筋肉を見れば、その人の運動習慣の見当がつく。書棚を見れば、その人の脳内の見当がつく。分子生物学によれば、「私とは、私の食べた物のことである」。『M・エンデが読んだ本』は、エンデの成分を深く浮き彫りにする本なのに、あまり知られていない。
この本は、エンデの人生に決定的に影響をあたえたテキストや、エンデに問いを投げかけつづけているテキストを二五編、エンデ自身が編んだ濃密なアンソロジーだ。ニーチェやキルケゴールは紙数の都合で断念しているが、レッシング、ゲーテ、シュタイナー、ノヴァーリス、クライスト、ピカソ、ドストエフスキー、ボルヘスなどなど、ずしりと重い文章が並んでいる。倍速で読み流せるファスト教養の対極にある。しっかり考えてから造形する賢者エンデの、舞台裏をのぞくことができる。本格的なエンデ・ファンなら、エンデがどんな本を食べていたのか、興味をもつはずだ。
『M・エンデが読んだ本』には、カフカの遺稿も選ばれている。『鏡のなかの鏡』の迷宮を思い出させる幻想的な一三個の断片たちだ。もっとも、「ドイツ・ロマン派の末裔」を名乗っていたエンデの迷宮は、秩序ある宇宙(コスモス)を予感させるけれど、カフカはロマン主義を嘘だと考えていた。
結核で苦しみながら、四一歳になる一カ月前に死んだカフカは、売れないサラリーマン作家だった。親友で有名な物書きだったマックス・ブロートが、遺稿は焼いてくれというカフカの遺言を無視して、遺稿を編集し、カフカを「宗教思想家」として売り出した。おかげでカフカは世に広く知られるようになる。
だがブロート版は、未完の長編『失踪者』を『アメリカ』という題名にして、主人公が救われる結末にしたり、『日記』から性的な記述をカットしたり……。その手直しは、親友であり、優秀な「編集者」なら、許容範囲内の介入ともいえる。だが相手は、別格のカフカ。抜群のカフカ読みでもある小説家クンデラは、このブロートの裏切りをめぐって、『裏切られた遺言』という本を書いている。
親友でも裏切ることがある。親友にも見せない顔がある。親友の証言だからといって、その言葉を鵜呑みにはできない。当事者が絶対とはかぎらない。カフカは、恋人で人妻のミレナにあてた手紙に書いている。〈真実を言うことはむずかしい。たしかに真実はひとつだが、真実は生きているので、生き物のように顔を変えるからです〉。
カフカの最後の、未完の長編『城』の翻訳をはじめた。底本はブロート版ではなく、史的批判版(カフカの手稿のファクシミリとその翻字)。モーツァルトの楽譜のようにすらすら書いているカフカ。その筆跡をたどりながら翻訳していると、あらためて痛感することがある。カフカというと、「不条理」など深刻なカフカ眼鏡で読もうとする人が多い。日本では『訴訟』というタイトルさえ、深刻に『審判』と訳されてきた。ブロートがプロデュースした「宗教思想家」というレッテルの、悪影響だ。
『城』の主人公Kは、土地測量士。Kは一度も測量しないが、日常的な営みが、緻密な心理ゲーム、そして緻密な論理ゲームのように展開していく。幾何学(geometry)の語源は、土地を測ること。繊細な幾何学の精神(パスカル)で書かれている人間喜劇だなあ、と、カフカのエンターテイナーぶりに舌を巻きながら、『城』を翻訳している。ちょくちょく顔を出す二人の助手が、絶妙におもしろい。
編集者や批評家が用意したレッテルXを信じて、Xの目で読むと、X以外のものを見落としてしまう。せっかくのエンターテインメントに鈍感になってしまう。カフカはXを読み取ってもらいたいのではなく、細部をじっくり楽しんでもらいたいのだ。まともな作品はXに回収できるものではない。レッテルは、パソコンのファイル名みたいなもの。作業には必要だが、ファイルの中身を十分に反映するものではない。
まともな作品なら、『はてしない物語』で少年バスチアンが『はてしない物語』という本のなかに飛び込んで冒険や失敗を重ねたように、体験するしかない。人間らしい時間は、要約して時間貯蓄銀行に預けることはできない。下手な案内や解説なんかより、二、三ページでいいから作品のつまみ食いを! レッテルは便宜的なものだから、ときどき交換すればいい。「太宰治は女癖が悪く破滅型」という眼鏡で読むよりは、「太宰は落語だ」(三浦雅士)という眼鏡で読むほうが、はるかに太宰はおもしろくなる。
『M・エンデが読んだ本』は『グリム童話』から、残酷な「ねずの木の話」を選んでいる。『グリム童話』の正式名は、『グリム兄弟が集めた、子どもと家庭のメールヘン』(KHM)。エーレンベルク草稿から第七版の決定稿まで八種類のバージョンがある。弟ヴィルヘルムはKHM第二版の序文で、〈私たちは、この新しい版では、子どもの年齢にふさわしくない表現は、残らずていねいに消し取った〉と書いている。兄ヤーコプは、第二版以降はほとんど弟に任せてしまう。ほかにも理由はあるが、弟が出版者や友人や批評家や読者の要求にしたがって、KHMを「子ども向け」に手直ししたからだ。
数ある弟ヴィルヘルムの加筆のなかでも、とびきり上等の加筆といえば、「いばら姫」だ。エーレンベルク草稿(一八一〇)の〈城内のものは何もかも、壁のハエまでが眠りはじめました〉が、決定稿(一八五七)では一〇倍の長さにふくらまされている。モモが時間泥棒の灰色の紳士たちを追いかける場面では、その加筆を下敷きにしている。
メールヘン、とくに民 話 が長く語りつがれてきたのは、おもしろくてタメになるお説教だから。エンタメによる啓蒙は、お話の王道なのだ。「エンデ現象」を気にして、エンデは〈私は学校でもなければ教会でもない〉と言うけれど、今年で五〇歳の『モモ』は、ますます現代人のための学校になっている。「現実逃避」という批判を嫌ってイタリアに移住したエンデは、資本主義にひそむ困った現代の問題を、根っこのところでつかまえて、時間泥棒というみごとなイメージで描いた。いろんな「武器」Xをモモが体現している。たとえば、こわがることをやめ、王子様のキスを待たずに自分で、灰色の紳士たちと非暴力で戦う。「ドイツ文学の教皇」には無視されたが、ロマンチックな夢を見る「メールヘンおじさん」は、現実の寒さではなく、現実の暖かさを肌で感じさせてくれる。おもしろくてタメになるお説教は、みんな大好きなのだ、きっと。
(おかざわ しずや・ドイツ文学)