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安藤礼二 「時間の国」は何処にあるのか?[『図書』2023年7月号より]

「時間の国」は何処にあるのか?

 

 古代の円形劇場、その廃墟に住む「親のない浮浪児」であるモモは、カメのカシオペイアに導かれて、マイスター・ホラ、つまりは「偉大なる時間の導師」が住む「時間の国」、〈さかさま小路〉の〈どこにもない家〉にたどり着く。「時間の国」とは、現実の時間と空間の境界を超えた、あらゆる人間たちの「時間のみなもと」に通じる特別な場所であった。マイスター・ホラは、〈どこにもない家〉のなかで、モモに、「時間のみなもと」の真の姿、無限の時間が生まれてくる根源的な場所の在り方を垣間見させる。

 そこは、黄金に光り輝く、天空そのもののような広がりをもった巨大な丸天井に覆われていた。丸天井の頂点には穴があいており、光の柱がまっすぐ下におりてきていた。その光の柱の下には、これもまた「黒い鏡」のように広がる丸く静かな池があった。池の水面に近いところでは、そこに降り注ぐ光の柱のなかで、星のようなものがきらめきながらも動いていた。池の上を向こうへ行き、またこちらへと戻ってくる巨大な振子、「星の振子」である。振子が池の縁に近づいてくると、その暗く静かな水面から巨大な花のつぼみがのびてきて、いままで誰も見たこともないような美しい花を咲かせる。しかし、振子がまた中央へと戻るにつれ、その美しい花は枯れ果て、消滅してしまう。だが、それで終りではない。振子が池の向こう側の縁に向かうにつれ、そこからまた一つの巨大な花のつぼみがのび、先ほどとはまったく異なった美しい一つの花を咲かせる。

 「時間のみなもと」では、それぞれ唯一の美しさをもった「時間の花」が生まれては散ってゆく。「時間の花」を生み出す「光の柱」、「星の振子」は、また妙なる音楽そのものでもあった。数え切れないほどの種類の音がそこに重なり合い、響き合っている。「時間のみなもと」には、無数の「時間の花」を生み落とし、それぞれに唯一の美しさを与える「鳴りひびく光」があった。そうした世界のすべてが巨大な一つの顔となって、モモただ一人に向けて、時間の秘密にして生命の秘密を語りかけてくれていたのだ。マイスター・ホラは、モモに告げる。おまえが見たり聞いたりしてきたものは、すべておまえ自身の「心のなか」にあるものなのだ、と。

 「灰色の男」たち、時間泥棒たちは、人々の「心」のなかに存在し、人々に生命を与えている「時間の花」を盗んでいたのだ。モモは、盗まれ、凍りついていた「時間の花」のすべてを解放し、あらためて太陽の光のなかで開花させる。『モモ』という物語、さらにはその中心に据えられた「時間の国」の在り方は、当然のことながら、ミヒャエル・エンデという優れた作家による、これもまたきわめて独創的なフィクションである。しかし、そこに描き出された風景は、われわれ、極東の列島に住む者たちにとって、ある懐かしさとともに立ち現れてくるものではなかったか。たとえば伝統的な仏教思想のなかで育まれてきた「西方極楽浄土」の在り方として。エンデが日本に興味をもち続けてきたのは、なによりもその国では仏教が生き続けてきたからではなかったか。

 「西方極楽浄土」を治めるのは「無限」の光にして「無限」の時間を意味する、巨大な一つの顔、巨大な一つの身体をもった「阿弥陀仏」(無量寿にして無量光、アミターユスにしてアミターバ)であった。「阿弥陀」はサンスクリットで「はてしない」(「際限のない」)こと、つまりは「無限」を意味する形容詞であった。無限の時間にして無限の光である「阿弥陀仏」が君臨する「西方極楽浄土」に、人々は「死」を介して生まれ変わるのである。『モモ』のなかでも「時間」は「死」の同義語であった。「時間」こそが「死」をもう一つの「生」へと変えるのである。「西方極楽浄土」に生まれ変わった人々は、母親の胎内から生まれ出るのではない。極楽の池からその巨大なつぼみを出して花開く、蓮華のなかから生まれ直す、「化生」するのだ。まさに「時間の花」である。極楽浄土に化生した存在は黄金の身体をもち、肌の色や性別、年齢などあらゆる差別がそこでは撤廃されてしまう。そしてまた極楽浄土では、ありとあらゆる音楽が自然に奏でられ、ありとあらゆる花々が天上から降り注いでいる。極楽浄土もまた「時間の国」と同様、「鳴りひびく光」から無数の「時間の花」が生まれてくる世界であった。

 この類似は偶然のものだったのであろうか。おそらく、そうではあるまい。マイスター・ホラは、「時間の国」とは、なによりも「心のなか」に存在すると説いていた。大乗仏教の歴史のなかで、時間の彼方、空間の彼方に超越する「無限」の世界を、「心」のなかに内在化させる運動が生起してきた。いわゆる「密教」である。「密教」は、心の奥底にひらかれる「アーラヤ識」こそが「如来蔵」であると宣言した。宗教学的には正確な比喩ではないのだが、エンデの作品世界との比較を考慮してあえて用いるとするならば、「アーラヤ識」とは、個人的な無意識のさらなる奥底に広がる集合的な無意識の世界である。人間の「夢」を可能とする世界のさらなる奥底に広がる、あらゆる生命の「夢」を可能とする世界である。そうした意識の根源にして「夢」の根源に到達することこそが、「如来蔵」であるというのだ。「如来蔵」とは、無限の身体にして無限の精神をもった如来となる可能性、そうした可能性をあたかも胎児のようにはら)んでいることを意味する。「心」とは如来の母胎であり、さらには、如来が治める無限の世界を生み出す母胎となるものだったのだ。この母胎のことを密教ではまん)))と名づけ、その曼荼羅を構成する仏として西方の阿弥陀がその内部に組み込まれていた。「無限」は、ここで、「心」のなかに内在化されたのである。

 「密教」の発生は、インドの宗教全体の大きな変容とも結びついていた。自然の万物に神が宿る、あるいは自然の万物が神であるというインドの多神教的な世界のなかに「一」を希求する運動が生まれてきた。「多」のなかの「一」、「多」を生み落とす「一」である。そうした「一」を探究した人々は、ヨーガを通して人間的な「我」の汚れを落としきった後にあらわれる「真なる我」(アートマン=真我)こそが「宇宙の真理」(ブラフマン=梵)であることを確信した。いわゆるヒンドゥーの「梵我一如」にして「不二一元」(アドヴァイタ)の思想である。大乗仏教における「如来蔵」の思想とヒンドゥーにおける「不二一元」の思想は並行して共振するものであった。そしてまた、そのようなインドの思想が伝えられたのは、この極東の列島を含んだインドの「東」だけに限られない。シルクロードを通じて、あるいはユーラシアの遊牧民たちを介して、インドの「西」にもまた伝えられた。チベットの「密教」、あるいはモンゴルの「密教」である。

 近代化されたロシアの領内で唯一チベット密教を信奉していた遊牧民、カルムイクの人々のごく近くで生活していた一人の女性、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーの手によって大乗仏教の「如来蔵」の思想、そしてヒンドゥーの「不二一元」の思想は、まったく新たな相貌をまとってよみがえった。今日ではマレーヴィチやカンディンスキー、さらには彼らに先んじて「抽象」、「心」のなかに広がる色彩や形態、あらゆる諸感覚が一つに入り混じった世界を絵画の主題とした女性、ヒルマ・アフ・クリントなど意識的な芸術家たちに甚大な影響を与えた「神智学」である。「抽象」の探究は、絵画の問題だけに限られていたわけではない。音楽の発生、ひいては芸術の発生そのものとダイレクトにつながる運動であった。エンデが繰り返しそこから受けた大きな影響を言葉で語り、文章として残したルドルフ・シュタイナーの「人智学」もまた「神智学」から分れ出たものであった。こうした流れのなかに、先ほど触れた集合的な無意識の概念を提唱したカール・グスタフ・ユングもまた含まれる。ユングは中世の錬金術師たちが残した象徴的な図像、さらには夢にあらわれる風景を曼荼羅ときわめてよく似たものと捉え直した。

 エンデは、このような「東洋」の思想と「夢」の科学の融合を文学の問題として考え続けた。エンデが編んだ自身の愛読書のアンソロジー、『M・エンデが読んだ本(丘沢静也訳、岩波書店、一九九六年)は『荘子』による「胡蝶の夢」にはじまり、ボルヘスによるシェイクスピアの「夢」に終わる。そのなかにはシュタイナーや錬金術に関する文章(アンドレーエの『化学の結婚』)のみならず、ゲーテ、ノヴァーリス、クライストからドストエフスキー、ガルシア・マルケス、カフカに至るまで特異な文学者たちが残してくれた小説の断篇もまたちりばめられていた。その在り方は、浄土の家系に生まれ、生涯を通して、そこでは時間と空間が終わってしまう黄金の国、「世界の終り」を描き続けている日本の小説家、村上春樹の世界とも深く通底しているように思う。近代に生まれたわれわれは芸術と宗教、さらには哲学と科学を分断してしまう。もちろんそれらの安易な折衷はきわめて危険である。しかし、その創造的な結合にこそ表現の可能性がいまだに秘められていることも疑い得ない。『モモ』は、それが現代の課題であること、現代を超えて未来の課題でもあること、この極東の列島に生まれた人々が担い続けなければならない課題であることを教えてくれる。 

(あんどう れいじ・文芸批評)


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