【鼎談】新全集が示す関孝和像(前編) 上野健爾/佐藤賢一/橋本麻里|『関孝和全集』刊行記念
目次
編者4人の役割
橋本 このたび刊行される『関孝和全集』(上野健爾・小川束・小林龍彦・佐藤賢一編、岩波書店、2023年10月刊)をまとめる過程で、お二人はそれぞれどんな役割を担われたのですか。
上野 私はもともと数学史の専門家ではありません。和算に興味を持ち始めたのは京都大学にいたときで、隔週土曜日に高校生を集めて数学の話をしていたのですが、なにか面白い話題はないかなと和算の資料を読んでいるうちに、だんだん虜になったというのが一つ。もう一つは、日本数学会で関孝和賞を作ろうとしたときに、大阪教育図書から出ていた『関孝和全集』(平山諦、下平和夫、広瀬秀雄編著、1974年刊)が絶版状態だったので、お願いして再版してもらったのです。そういうことから関係を持ち始めたのですが、旧全集の編集方針にいろいろ疑問が出てきました。数学者として旧全集の解説を見ると疑問がたくさんあったので、これは何とかしなきゃいけないんじゃないかということを今回の編者のみなさんと話すことになって、そこから編集が始まりました。数学者として関を見るというのが私の立場です。
橋本 佐藤先生はどういう役割を?
佐藤 私は上野先生と対照的で、科学史が学生時代からの専門です。最初から和算の歴史に足を突っ込んでいました。2000年に定職を得て、何かしら専門の仕事をしようと考えていた2003年に上野先生に初めてお会いしました。
橋本 ちょうど20年前ですね。
佐藤 以前から知り合いだった小林龍彦先生とは、実現するかどうかわからない企画の雑談をしていて、最終的に今の編者4人が集まりました。上野先生と小川束先生には現代的な視点から関の数学を見ていただき、小林先生と私の役割は、現代の数学をいったん忘れて、歴史から何が見えてくるかを探った、そんな分担です。
旧全集への疑問
橋本 旧全集は1974年の出版でした。戦前に企画され、組版まで進んだものが頓挫し、1970年代にやっと刊行されています。あらためて全集を作り直さなければならないという判断が2000年頃に出てきたのは、どうしてでしょうか。
上野 本文の校合がきちんとできていないというのが一番大きな問題だと思いました。これは数学とは関係ないのですが、中学生のときに岩波の『日本古典文学大系』の『萬葉集』を読みました。大野晋先生が、あの冒頭の歌の「我こそは告らめ家をも名をも」について、「これは文法的におかしいから『我にこそ告らめ』って読まなきゃいけないんだ」と書いておられた。それで「古典はちゃんと読まなきゃいけないんだ」ということが染み付きました。関の旧全集を読んでいるときも気になるんですよ。「日本文学の古典では本文の校訂がきちんとできているのに、どうして和算ではやれない、やらないんだろうか」というのが疑問で、それを小林先生に話したら、「それだったら一緒にやりませんか」と言われたのが始まりですね。
橋本 佐藤先生は和算史を研究してこられた中で、関の旧全集を折に触れて読み、「納得いかない」「おかしい」など、思われることがあったのでしょうか。
佐藤 まさにそれですねぇ。この分野のちょっと特殊な事情というのがありまして。明治以来ずっと、和算の本を集めるというプロジェクトがいろんなところでありました。旧全集の編集をされた方々がよく使っていたのが、東北大学に集められた膨大な史料です。ほかにも日本学士院とか、全国あちこちにコレクションがありましてね。その膨大な史料の中からともかく「目の前にあるもの」を先学たちは使ったんでしょうね。学問分野をまとめ上げる最初期の試みとしては大きな役割を果たしたと思うのですが、手近にある史料を解読して、整理するだけで精一杯だったというのが1970年代までの状況だったと思います。
橋本 国文学研究における本文研究に比肩するようなレベルには、まだとても行きついていない。
佐藤 「目の前にあるものだけを使う」と、立論に都合の良い情報だけを拾ってしまう危険を免れない。もっと広く俯瞰しながら、新しい視点を取り入れて見ていきたいというのが、我々がやろうとしたことになるのでしょう。
本文を確定する作業
橋本 どのように編集方針を立て、作業を進めていかれたのでしょうか。
上野 20年近くかかったというのはまさにそこなんですよね(笑)。ずっとブレまくっていました。
橋本 佐藤先生が先日ツイッターで、「15年遅れて」と投稿されているのを見て、「編集者に怒られないんですか!?」と思いましたが(笑)。
佐藤 いやもう、これに関しては岩波書店さんの寛大さに感謝するしかないです。
橋本 困難も当然あったと思いますので、そのあたりをお話しください。
佐藤 当初は2008年の刊行予定でした。
橋本 何かの周年ですか?
佐藤 関の没後300年でした。ですが、情報を集めていくうちに、「これはちょっと一筋縄ではいかないなぁ」というのがわかってきて……まあ予想はしていましたが。
橋本 「情報を集める」とは?
佐藤 全国に散在する関に関わる写本の情報です。
上野 膨大な数なんですよ。
佐藤 例えば、新全集では関の著作ではないと判断して外したものですが、『解見題之法』という史料がありまして。これだけでも写本が約80本あります。それらを全部見直して校合して、「これが本文だ」と確定させるまでに10年ぐらいかかりました。
上野 数学の本ですから、写本で好きなように書き換えてしまう危険性が常にあるわけです。だから原本がどうであったかというのを探らなきゃいけない。そういう作業を佐藤先生に全部お願いして、すごく苦労されたと思います。
橋本 「本を読む」という作業に、読み手がテクストを能動的に書き加える行為が含まれてしまう場合があると。
佐藤 「数学的におかしいなぁ」と思ったときは上野先生と小川先生にお伺いを立てて、「ちょっとこれどうなんでしょうね」と。編者4人で検討して、「やっぱりこれ間違ってるよね」っていうこともありましたし、「これは多分誰かがどこかで手直しを入れたなぁ」という写本も出てきました。そんな作業の傍ら、中間発表として出したのが『関孝和論序説』(岩波書店)です。「2008年の段階でこれがわかっていた」ということを、ともかく周年事業として出しました。ここでだいたい方向性が固まりました。
橋本 「方向性が固まった」のが2008年だったのですね(笑)。
佐藤 本当は全集を出すはずの年でしたが。
上野 その後も新しい史料がずいぶん出てきましたよね。
佐藤 出てきましたね。例えば群馬の方は前橋工科大学の小林先生が精力的に地元の史料を探索され、四日市大学の小川先生には東海・中京方面の史料を見ていただきました。上野先生が京都にいらしたので、京都も何回か訪ねて史料を確認しましたね。他にも、ほぼ全国を巡りながらの史料探索となりました。
橋本 『関孝和論序説』後に追加された、あるいは変更しなければならなかった重大なポイントはありましたか。
佐藤 どの史料を底本として使うかの変更は結構ありましたね。
上野 それはずいぶんありましたね。そのつど読み下しや現代語訳を変えなきゃいけないので、それにまた時間がかかって。実際、山ほど写本があるので、どれが祖本に近いかを見つけるのは並大抵のことではない。
橋本 それでも、敢えてどこかで区切らなければ、編集作業は終わりません。「ここまでにしよう」という見切りはどうやってつけたのでしょう。
上野 佐藤先生が本文の校合を終えられたので、あとはそれに従おうということになりました。
橋本 それは何年に?
佐藤 2013年から14年にかけて原案がほぼできました。
上野 そこでほぼ終わりましたね。細かいことは、まだいろいろありましたが。
読み下しと現代語訳
橋本 さて、新しい全集の「売り」、旧全集から更新された部分をお話しいただけるでしょうか。
上野 まず、読み下しをきちんとつけて、そして現代語訳をつけたことです。原文だけ翻刻しても読めないところがありますし、読み下しにしても古い用語を使っていますので、どうしても今の読者には伝わらないところがあって。現代語訳をどうするかは随分苦労しました。古い用語を現代の用語に変えてしまうと、数学そのものが変わってしまうわけです。どうやって関のある種の「息吹」を伝えるか。最初は「超訳でいい」と言っていたんですが、「原文から外れてる!」と別の編者からクレームが出てきて(笑)。
橋本 では当初、現代数学の用語を使うつもりだったのですか。
上野 一般読者がパッと読んでわかるようにしようと、最初はそう考えていました。ところが「やっぱりまずいんじゃないか」という気にだんだんなってきて。
佐藤 でも初学者の方にもぜひ読んでいただきたいという思いはありました。
橋本 それで現代語訳を。では注も相当付くのでしょうか。
佐藤 数学的な注も含めて、現代語訳には注が相当付きます。旧全集にはほとんど注がなく、翻刻だけが記されていたんです。
関の著作は何か
上野 こんどの全集のもう一つの特色は、関孝和の著作を峻別したところです。「関孝和の著作は何か」というところから議論していくと、今まで著作だと言われてきたものに関して、いろんな疑問点が出てきました。
橋本 ぜひ詳しくお願いします!
佐藤 印刷された刊本ですら怪しいんです。『発微算法』に複数のバージョンがあったということを今回打ち出しました。初版にひとつ間違いがあり、それを訂正した版があったんです。そのことを原文も交えて書籍に書くのは今回が初めてになります。もう一つの刊本の『括要算法』も、実はいろいろなバージョンがあって、相当怪しい情報が「改刻」で付け加えられています。いかにも「関孝和の遺作・遺著だ」という見せ方をしていることに注意しながら編集しました。写本に至ってはもう本当にカオスです(笑)。「これが関の代表的な著作だ」と歴史的に言われていた「三部抄」(『解隠題之法』『解伏題之法』『解見題之法』)というものがあるんですが、これがどうも怪しい。そのうちの少なくとも一つ『解見題之法』は成立年代が確定しない、さらに数学的にも、文章として見てもおかしいので、関のものではない可能性が高いと判断しました。
上野 『解見題之法』を読んでみると、他の関の著作と比べて書き方が明らかに違うんです。他の著作は最初から論理的に首尾一貫した形で書いてあるのに、『解見題之法』だけはいろんなことをごちゃ混ぜにたくさん書いてある。関の業績は入っているんでしょうけれども、どう考えても関自身が書いたんじゃないだろうとしか数学者としては思えない。
佐藤 三部抄が和算家の間で尊重されてきたという歴史的な経緯はもちろん踏まえた上で、今の我々が評価するならば、『解見題之法』は関のものと確定できないと判断しました。同じようなことは天文暦学の本についても言えて、「ほとんど怪しいものだけだ」と考えて参考資料という形で『第3巻 資料』に収めました。とはいえ、我々はこのような判断を下しましたが、将来、新たな史料が出てきたら、これらの評価は簡単に覆ることでしょう。それは了解済みです。あとに続く人たちのために、そういった解釈変更の余地を残しておくというのも編集方針の一つでした。「関孝和の本」と言っても、そんな簡単には決まらないということを説明したのが今回の全集の一つの売りですかね。
橋本 そういう意味でも、新しい全集が出ることで、これまでの関孝和像、あるいは関孝和の数学とは何かというイメージが変わっていくだろうと思います。この全集の刊行によって、日本の数学史、和算史、科学史にどんな貢献ができると思われますか。
佐藤 和算のことについて何か語るとしたら、「再出発点」としてこれを見ていただけるんじゃないかなとは思っております。そういう形で使っていただけると、ありがたいですね。
関孝和の数学
上野 今までの和算史では「関はこんなことをやった」ということと、それらが例えばヨーロッパの数学に比べて早いとか遅いとか、あるいは独立してやったとか、そういう類の話はあったんですが、関孝和の数学全体を見て議論することはほとんどありませんでした。和算は中国からの伝統をずっと引きずってきた数学なんですが、関が「数学のあり方を大きく変えた」ところにもう少し注目してほしい。残念なことに、その関の数学観は、その後、誰にも理解されなかった。悲劇でもあるんです。
橋本 すごいすごい、と言われているけれど、何がすごいのかを説明できる人はあまりいないと。
上野 個々の数学的な業績のすごさはよく言われます。だけど関はそれだけじゃなくて、一般論を重要視して数学のあり方そのものを変えようとしました。しかし和算家はほとんど理解できなかった。
橋本 現代の数学者は理解できるでしょうか。
上野 現代語訳を読めばよくわかります。
国文・国語学の人にも見てほしい
上野 それから国文の人にぜひもっと見てほしいと思うんですよね。訓点がたくさん振ってあるんですが、その読み下しは地方とか年代によって変わっているはずです。我々はとてもそこまで追跡できなかったんですが、ぜひやってほしい。でも国文関係の人には「数学だから」って最初から逃げられるんですよ(笑)。
佐藤 訓点や読みがどうなのかということは国語学のほうで見ていただけるとありがたい。
上野 ちょうど文法が変わるような境目にあるんですよね。だからすごく面白い資料だと思うんですよ。
橋本 数学的な記述を「数式」がない中でどう書くかも含めて、面白いテーマですね。
上野 無理やり漢文で書いてあるんです。読み下して読まなければ和算家たちも多分わからなかったと思いますが、読み下しも、関が読んだのと、あとの人が読んだのとでは違っている可能性があるんです。そういう細かいところはすごく面白いんじゃないかと思うんですよね。
橋本 後代の読みが間違っていた、ということもありそうですね。
佐藤 あるでしょうね。
橋本 国文学者の研究に期待したいですね。
背景事情を探る史料
佐藤 関孝和というと、伝説や憶測が先行してしまい、明治以来ずっと神格化が進んだ存在で、信頼できる史実が少ない。伝記もよくわからない。そこで背景事情まで探ろうとすると、こんどの全集に入れたくらいのかなりの分量の史資料が必要です。これら史資料は、今後の研究のスタンダードとして提示できるのではないかと思っています。新説を出すにはこれらを読む必要があると評価されれば、人物研究にありがちな「安直な説」を出しにくくする効果を期待できるんじゃないかなと。
橋本 何を史料とするのかという点でも、今回の全集はアグレッシブです。当時の行政文書まで目くばりし、むしろそこに和算家たちの働きどころがあり、史料として使えるんだということを示されました。
佐藤 ええ。さらに、関以後の和算家たちが関のことをどのように見ていたのかを示す史料類を収めたのも、この全集の一つの売りになるかと思います。関の置かれていた環境や、関以後の和算家の動向を並列してアプローチする研究スタイルを提示できたとすれば、この全集を出した意味があるのかも、と振り返っています。
和算の源流、中国の数学
橋本 そもそも和算とはどういうものなのでしょうか。
上野 基本的には古代中国で始まった数学です。それが日本に入ってきて、江戸時代に新しい発展をしていくわけです。紀元前後の中国でできた『九章算術』という本があります。名前の通り九つの章がある問題集で、答えと解き方が書いてある。でもなぜ正しい答えが出るかは書いてない。
橋本 証明の過程がない。
上野 古代を理想とする中国では『九章算術』が数学の本のスタイルとして定着します。実は関もそれを踏襲しています。例えば『九章算術』の第八章は「方程」というタイトルです。今の「方程式」の名前の起源なんですけども、連立一次方程式を扱っています。漢数字では計算できませんので、算籌という棒を使って計算をやったんです。その連立一次方程式の係数の計算、今でいう線形代数の行列の計算を実際にきちんとやっているんです。2000年前ですよ。
橋本 紀元前後ですものね。
上野 だからすごく進歩していたんだけども、とても不思議なことは、それが行列の理論とか連立一次方程式の理論にはならないんです。「この問題はこうやって解きます」というだけで終わってしまっている。それが中国の数学の伝統でした。
その後、12世紀から13世紀に、紙の上に方程式を書いて、その方程式を解く「天元術」が出てきます。その場合でも「天元術は何であるか」の説明はありません。問題があって、解き方が書いてあって、いきなり答えが出てくるということしか書いてない。そういうスタイルですから、「一般的な理論」というのは全然なくて、「個々の問題を解くアルゴリズム」しか存在しなかったというのが中国数学の一つの大きな特徴です。
三国時代の魏に劉徽という人がいて、『九章算術』の円周率は「三」で計算しているけれども、それはおかしいということで、円周率を上と下から挟んで評価する方法を見つけたりしました。今日の言葉でいえば「証明」みたいなものをつけなきゃいけないということを主張したのですが、それも劉徽でおしまいなのです。劉徽が注釈をつけた『九章算術』は宋の時代まで残っていて、いろんな人が読んでいるはずですが、誰も証明の重要性には気がつかない。
橋本 中国で、科学がいわゆる「哲学の体系」にならずに、きわめて実用的な個別の解決手法にとどまっていたのはなぜなんでしょうね。
佐藤 いろんな文化的背景があると思うんですけどねぇ。
橋本 漢民族だけなんですか。
佐藤 朝鮮もそうですね。漢字文化圏みんなそうです。漢字文化圏の数学書は基本的に「問いと答え」という形式で書かれているのですが、これなどは官僚社会の上意下達文化でやりとりされる「問いと答え」(現場からの質問に対して上役が回答する)というマニュアル、規約集のスタイルそのものですね。古代の算術はそんな文化をもつ行政官が担っていたという残渣がずっと保存されて、結局数学は個別的で実学的なものに留まった。それ以上の必要性を感じなかったということでしょうかね。
上野 数学にせよ科学にせよ、それを担っていた層はみんな官僚です。だから一般の人にはほとんど伝わっていない。天元術は世界的にみて当時一番進んだ1変数の方程式の記述法で、元の時代までは理解されていたんだけれども、明の時代になったら中国で誰もわからなくなってしまう。
佐藤 むしろ朝鮮半島に残る。
上野 朝鮮が輸入して、それが残って日本に伝わってくる。
佐藤 民間レベルの数学・算術が盛り上がってくると、また違った算術の形になりますね。
上野 結局、中国の場合は民間の数学者はごく一部しかいなくて、広がらなかったというのが一番大きいのだと思いますね。
橋本 不思議です。あれだけ人口が多く、優れた人物も輩出しているのに。
上野 しかも過去のことを忘れてしまうんですから。明の末になると今度は西洋数学を輸入します。そうすると、古い数学はますますなくなってしまう。計算用のそろばんの数学は残るけれども。後になって「いや、実は中国にもすごい数学があったんだ」というのに気が付くわけなんですけどね。そうすると彼らは、西洋数学をやるのか昔の数学をやるのかって悩むわけですよ。
関以前の和算
橋本 それ以前の日本に数学的なものはあったんですか。
上野 大宝律令にも「算博士」という制度があって、『九章算術』とか、もっと難しい数学も日本に来ています。それを勉強して、試験もあったはずです。
橋本 僧侶が伝えたのでしょうか。
上野 いや、それもやっぱり官僚ですよ。算博士です。
佐藤 おそらく遣唐使が持ってきたものでしょう。平安中期ぐらいまでは痕跡が残っています。
橋本 そのあとの数学的な技術、都市を設計するとか、建物を造るとか、暦を計算するといったことに使える技術は──
佐藤 専門集団の中で「ルーティンワーク」のような形で残りますね。
橋本 その場合の専門集団とは、どのような人たちなのでしょう。陰陽寮とか?
佐藤 暦ですと密教系の僧侶たちもいましたね。
上野 でもほとんど新しい暦は作っていない。
佐藤 単純化しすぎた喩えかもしれませんが、エクセルに入ったデータをそのまま使い続けるような感じですね(笑)。
橋本 秘伝のタレを継ぎ足したエクセルみたいなものが、時々不具合を起こす(笑)。たとえば日蝕の予測が当たらない、とか。
佐藤 入力時の初期データそのものを根本的に間違えていたことが、最近の天文暦学史で言われてますね。間違えたままの条件(陽暦不蝕の原則)を日本ではしばらく使っていたとか。算術もしばらく、加減乗除程度の水準に留まっていましたね。
橋本 それが変わり始めるのは──
佐藤 戦国時代末から、ですかね。先ほどの上野先生の説明とは違った文脈を出しますと、戦国末期以降の和算の特徴は、大航海時代以降のグローバルな経済活動にリンクしていたことです。16世紀になると石見銀山、ポトシ銀山からの銀が大量に中国に流入してくるようになり、中国経済が活況を迎えて、そろばんの計算技術も必要になった。それで日本にもそろばんの計算が入ってきて、そこから日本の算術が再スタートした。大航海時代、大貿易時代の産物ですね。
上野 『塵劫記』はその典型ですよね。
佐藤 『塵劫記』には黒船の問題なんてのもありますね。そこから学校も専門職もないのに、急激に、爆発的にと言ってもいいくらい算術の知識が増加した結果が「和算」ですよね。
上野 一応測量とか治水関係の人はいたんですが、ごく一部ですよね。
佐藤 そうだと思います。この当時の日本の数学が置かれていた状況と類似したものをヨーロッパの歴史の中から探すとすると、ルネッサンス末期のイタリアですかね。
橋本 築城術や、砲弾の弾道計算などですね。
佐藤 ええ。それから数学者同士の競争が起きるんですよ。学校の先生として、生徒獲得のための。
上野 試合まであるんだよね(笑)。
橋本 試合!?
佐藤 方程式が解けるかどうかの競争があるんですよ。それで3次方程式、4次方程式などが出題されてるんです。
橋本 大学で行うのですか?
佐藤 大学ではなくて、ビジネスマン志望者を教える算術学校みたいなものです。
橋本 たとえばフィレンツェのような商業の発展している都市で、独立数学教師として活動するとか。
佐藤 まさにそれです。
上野 数学だけじゃなくて、土木工学とかもやっている感じだから。
佐藤 学校、日本でいうと塾ですかね。その経営者としての数学者がいて、彼らの間で「方程式が解けるか」っていう競争をやる。これと日本の江戸時代の『塵劫記』前後は似てるような気がするんです。「この問題を解けるか?」と著者が出題してくる。大学みたいな教育機関がないのに算術の知識が急激に増えていった背景は、ある程度これで説明できると思うんです。そこに先ほどの天元術が再発見されて、関孝和が現れた。
(2023年4月20日、岩波書店)
(うえのけんじ・数学者)
(さとうけんいち・科学史家)
(はしもとまり・ライター・エディター)
上野健爾(うえの・けんじ)
四日市大学関孝和数学研究所長、京都大学名誉教授。専門は代数幾何・数学史。著書に『関孝和論序説』(本全集編者四名の共著、岩波書店)、『小平邦彦が拓いた数学』『円周率が歩んだ道』(以上、岩波書店)ほか。
佐藤賢一(さとう・けんいち)
電気通信大学大学院理工学研究科教授、四日市大学関孝和数学研究所客員研究員。専門は科学史・和算史。著書に『近世日本数学史──関孝和の実像を求めて』(東京大学出版会)、『関流和算書大成関算四伝書』(共編、勉誠出版)ほか。
橋本麻里(はしもと・まり)
日本美術を主な領域とするライター、エディター。小田原文化財団 柑橘山美術館準備室室長、金沢工業大学客員教授。神奈川県生まれ。国際基督教大学卒業。新聞・雑誌等への寄稿のほか、NHKの美術番組などを中心に、日本美術の楽しく、わかりやすい解説に定評がある。