【鼎談】新全集が示す関孝和像(後編) 上野健爾/佐藤賢一/橋本麻里|『関孝和全集』刊行記念
目次
関孝和、突然の登場の謎
上野 『塵劫記』最後の版で、吉田光由が答えを書かない問題を出したんです。そこから「遺題継承」というのが始まった。それはある種の他流試合みたいな感じなんです。イタリアの場合は直接対決でしたが、遺題継承は本を通した、もっと穏やかな対決。
橋本 たとえば郵便将棋のような。
上野 そうやってみんな数学を一生懸命勉強するわけだけれども、多分そのときに『算学啓蒙』という本が日本に入ってきている。おそらく朝鮮経由のもので、もしかすると中国から直接お坊さんが持ってきた可能性もある。それを勉強して天元術を理解できるようになったのが沢口一之だとされている。本当に独力で理解できたのかな、と不思議な気もします。
佐藤 天元術を最初に理解した人たちが、いろんな人脈を持っていたらしいということを今回明らかにできました。
上野 数学者たちのネットワークはずいぶん大きかったような気がしますね。今まで言われていたよりもはるかに。
橋本 知識の交換や交流が頻繁に行われていたからこそ、天元術の理解が進んだのですね。
佐藤 さらにとんでもない飛躍がこの時代に出現する。
上野 関が一人でやるわけですよ。
橋本 関孝和という人があまりにも突然、彼一人だけとびぬけて異常な存在として現れるのが不思議だと、編集委員の方々は口を揃えておられますね。
上野 当時の関が出る前の数学というのは、今でいえば高校数学程度、中学~高校のレベルですよね。関は一気に研究者レベルの数学にしてしまう。
佐藤 あとは、関の弟子の建部賢弘がこれまた天才だったというのもあります。
上野 そうそう、彼がいたせいもありますね。
佐藤 歴史が生んだ奇跡ですよね。この二人の師弟関係は。
上野 おそらく、建部がいなかったら関の業績は残ってないんじゃないかと思います。
佐藤 埋もれてますね。
橋本 イエスに対する──
佐藤 使徒たち。関の弟子といえば、久留重孫という関の弟子が写した史料を一点、今回の全集では使いました。久留の記した日付が正しいとすれば、関が著述をなした約一週間後に彼がそれを筆写しているんです。でも、今回の全集では関孝和の自筆にはたどり着けなかったんですよね。
上野 そう、何も残っていません、不思議なことにね。
橋本 「一つもない」と書いてあったじゃないですか、びっくりです!
佐藤 ええ、そうなんですよ。そもそも「自筆の不在」が我々の編集の出発点にもなっていました。これまで、関の自筆だと言われていた算術の免許状があるんですが、それも実は他人の捏造だろうと。いや、捏造ではなく「改変」と言った方がいいのかな。ともあれ、旧全集では「免許状は自筆だ」という前提で論を組み立てていたので、そこに論拠をもつ史料は、すべて今回は関の著作とは見なさずに評価を保留したんです。結局、関孝和の自筆史料には今のところたどり着けていないんです。
橋本 17世紀だから残っていても不思議ではないのに。
上野 残っていても全然不思議じゃないですよ。むしろ残っている方が自然なんだけども。
佐藤 それが無いんですよね。我々が知らないだけでどこかに紛れ込んでいる可能性はあるとしても。
上野 それは大いにありますよね。
橋本 探せば今後まだまだ見つかる可能性はあるのでしょうか。
上野 だけど、本当に残っていたら、あれだけ関流というのが大きくなったんだから、彼らが大事にしたと思うんですよね。
橋本 教祖、あるいは家元の文書ですから。
上野 だから多分家元の文書がなかったんじゃないのかな。
佐藤 関のいた時代というのはまだ流派というものを固定したものとして考えてないような時代でもあるんですよね。和算においては。
橋本 江戸時代であれば、師匠からもらった書簡などは大事に保管しておいたりするじゃないですか。そういうものすらない。
佐藤 ええ。
上野 これは勝手な想像ですけどね、関はあんまり書かなかったんじゃないか、書くのがあんまり好きな人ではなかったという気がしますね。話をするのはおそらく大好きで、だから弟子が質問したら、いろんなことを答えたんだろうけども。
橋本 「関先生答ヘテ曰ク」みたいな。
上野 そうそう(笑)。だから建部が一生懸命書いたんでしょうね。
佐藤 「建部を通じた関孝和像」ということになりますね。
橋本 我々が今見ている関孝和とは、建部というレンズを通して見た像だと。
佐藤 まさにあのプラトンとソクラテスの関係みたいに。
橋本 関はどのようにして和算家として世に出てきたのか、「先生は誰だったのか」問題もあります。
上野 それもまたよくわからないんですよね。先ほど言いましたように、そもそも中国の数学というのはアルゴリズムで、要するに問題を解くための技術なわけです。方程式はあるんだけれども、数学の研究対象じゃない、問題を解くための手段だった。関がそれを数学の研究対象に変えているんですよ。
佐藤 方程式そのものを研究するという視点ですね。
上野 「そのもの」を研究するというのは、漢字文化圏では関が初めてなんですよ。それを考えると、彼はほとんど独学に近いんじゃないかって気がしますね。
佐藤 あるいは先ほどの人脈ネットワークの中で情報交換をして。
上野 直接的な先生じゃなくて。
橋本 「関孝和」という、一個人ではあるけれども、彼の数学がひとり関個人に帰するものではないのではないか。むしろ同時代に直接かかわりあった人々や文化的状況が有機的に結びつき、影響し合うところに生起した「生態系としての関孝和数学」というべきで、もしかすると「一人称の数学」ではないのかもしれない。
上野 関がいろんなアイディアを出したときに建部がいろんなことを質問したんじゃないかと思うんですよね。
橋本 まさに対話の中で──
上野 対話の中で数学ができたんじゃないかと。で、もう一つすごく面白いのは、関と建部は数学者としてのスタイルがまったく違うんです。
橋本 そう書かれていましたね。「鳥の目と蛙の目」の違いがあると。
上野 関はどちらかというと一般論が大好きで、もちろん個別のこともすごくできるんだけど。建部はどちらかというと、一般論よりも個別のことを深く追求したいというタイプで、その二人がちょうど一緒にいたから数学がすごく発達したんだと思うんですよ。
関の追究した一般論とは
橋本 では関の「一般論」がどういうものであったのか、なるべくわかりやすく説明していただけないでしょうか。
上野 例えば、問題を解くときに未知数が二つ必要になるような方程式が出てくることがありますよね。そうすると、どちらか一つの未知数を消して、方程式を導くわけです。一つ問題があったら、特別な方程式が出てきて、具体的にその変数を減らしてやれば、それで答えが出ます。関以前の数学者はみんなそこで満足したんですよ。
橋本 「解けた!」と。
上野 でも、関はそうじゃなくて、「どんな場合でも解ける方法を見つける」ということを言うんです。『発微算法演段諺解』の跋文に書いてあるんです。「数学を勉強するのはどういうことか」「どんな難しい問題もやさしい問題も解ける、一般的な方法を勉強することだ」って。「難しい」だけじゃなく「やさしい」まで書いたところが、いかにも関らしい。
橋本 バチバチに難しい方法で解ければいい、というのではなく。
上野 そうなんですよ。要するに彼には、どんな方法でも一般的にちゃんと解く方法があるんだという信念があったんです。それが一体どこから出てきたか。
佐藤 やはり「当時の問題を全部見たい」とか、それを整理したいとか、そういう方向に彼の関心が向いたんですかね。『塵劫記』以降、多種多様な問題がどんどん出てくる状況を見て。
上野 個々の問題を見るのは嫌だから、「問題持ってこい、全部解いてあげるから」っていうような、一般的な方法を見つけたいと思ったんですね。だけどそれはどこから出てきたか。だって彼しか思っていない。そこが不思議なんですよ。
橋本 弟子たち、あるいはそのネットワークの中にいた数学者たちは、その関イズムを「特別なことだ」「そういう考え方をすればいいのか」と理解し共有していたのですか。
上野 そこはよくわからないんですよ。その後ほとんど消えちゃいますからね。
佐藤 あとで何百人と和算家が出てきますが、「この分野だけ受け継いだ」という人はいるんですよね。それで、他の分野は無視してるとか。
上野 どうしても個別が好きなんですね。
佐藤 これは和算全体にかかわることですけれども、関孝和は、一般論の構築だけでなく、基本的な記号法(傍書法)を残したっていうのも大きいですね。新しい記号法を土台として、それでさらに一般論を展開できた。関の記号法が重要だと私が考えるようになったのは、江戸時代後半以降、伊能忠敬や幕末の砲術関係者も、関孝和が作った「傍書法」を使っていることに気が付いたからです。当時のエンジニアリング、数理科学に関わるような人たちの間に、関孝和の作った記号法が浸透していたことが、新知識の受容を容易にさせたであろうこと。江戸時代の後半を見ていくとなんとなくわかってきますね。そこだけはみんな関から受け継いでいる。
橋本 でもユニバーサルな数学を受け継いだ人はいない。
上野 それは多分、私たち日本人の思考体系が、どちらかというと一般論よりも、個別に向いているから。そうなると「なぜ関が」という疑問は一段と膨らむわけです。そういう特異な考え方をもっている人はいたかもしれないけども、そのアイディアを開くことができなかった。
佐藤 彼の周辺だけにはあったかもしれないですね。
上野 彼の周辺は、それを許容して花開かせてくれたということはあると思うんです。だから、そのネットワークというのはすごく大きいと思うんだけども、よくわからないです、まだね。
佐藤 わからないですねぇ。
上野 特に関西の方のネットワークとおそらく繋がっていたと思うんだけども。
佐藤 個別の問題を見ていくと、関孝和とその関西方面のネットワークは同じような問題を解いてるんですよね。ただし、超然と一般化してみせたという史料が残ってるのが関だけ。
橋本 もしかするとたどり着いていた、あるいはアイディアをもっていた人は、いたかもしれない。
佐藤 いたかもしれません。
橋本 まあそこは、史料が出てこないとなんとも言えない。
佐藤 今後の課題ですよね。
橋本 すごいですね、論敵の沢口一之ともつながりあって。沢口も関西の和算家でしたね。
佐藤 関西のネットワークですね。それを繋ぐ「繋ぎ手」に当たる人物を今回見つけました。先ほど、関の一週間後に筆写した人として紹介した久留なんです。
上野 伝説で、沢口一之がのちに関に弟子入りしたってのがあるでしょ。あれ、ほんとじゃないかと思うんだよね。
佐藤 弟子入りというより──
上野 要するに「教えてもらった」という。
佐藤 教えあっていたという関係でしょうね。
上野 手紙でも残っていればいいんですけど、記録がないのが残念ですね。
建部賢弘と、関の数学の不継承
橋本 今回の全集によって、数理科学をめぐるネットワークの広がりが明らかになっていく中でも、一番身近にいた建部の存在感の大きさが、新たにクローズアップされました。彼が関の数学を確立するためにどんな役割を果たしたのか、お話しいただけるでしょうか。
佐藤 一番正確に関の数学を見て、聞いて、わかっていた人なんでしょうが、皮肉なことに門人筋が大きくならなかった。さらに彼は後半生で「吉宗のブレイン」的な仕事をするので、天文暦学のほうで能力を発揮するんですよ。ですから、今まで関のものだと思われていた天文暦学の業績はおそらく建部周辺のネットワークからの産物だろうという印象を強くします。江戸時代のちょうど真ん中から後半への移行期に、日本の数理科学の方向転換を先導した人が、江戸幕府の中心にいたという言い方になるんでしょうかね。
上野 数学プロパーというより応用のほうに大きな影響を与えたんだろうと思います。ただ弟子筋がほとんどいないんですよね。
橋本 やはり弟子がいないと残らない。
佐藤 残らないというか、そこで終わってしまう。この建部以後は幕府天文方に召し抱えられた人たちが、和算と天文を掛け持ちする状況がしばらく続きました。先ほどの「和算とは何か」という話にからめて言うと、関以後の江戸時代後半に天文暦学の情報が海外からどんどん入ってきて、それをフォローするだけで大変だったという面もあります。
橋本 中国からも来るし、ヨーロッパからも来る。
佐藤 例えば、明王朝末期にできた『崇禎暦書』は完全にヨーロッパの天文学をもとにしていました。そういうものが徳川吉宗以後、一気に日本に流れ込んでくるので、建部以後の世代はそれを消化するので精一杯だったというのがあるでしょうね。中国の暦学を題材とした問題が和算の問題にも結構影響を与えてるんですよ。そうすると、関の数学が忘れられたとしても仕方ないのかなぁという感じはしますね。
橋本 江戸時代後半の和算家たちの中に、関の数学を受け継ぎ発展させる、あるいはそこまでいかなくても、関の事績を研究する動きはなかったのでしょうか。
佐藤 江戸時代の間に関没後100年がくるんです。その前後は和算家たちが盛り上がります。「関先生という方がいたんだ!」と。「お墓が再発見された」というのも、その頃なんです。非常に怪しいなぁとは思いますが(笑)。しかし、数学の内容の回顧はない。和算は確かにマクロ的に見ると中国数学の伝統を受け継いでいますが、システマティックに伝統回帰を志向するとか、過去を振り返ってそこから問題を再構成するということはないんですよね。先ほど言いました通り、新しい問題がどんどん海外から入ってくる。それを追いかけるだけで精一杯だったというのが当時の実情だったので、その辺がヨーロッパの数学の伝統と違います。フェルマーの定理は古代ローマのディオファントスの読み直しをしているときに「証明を書くには余白がない」旨を書き残したのがスタート地点ですし、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学が生まれたのも、古代ギリシア以来粘り強く研究し続ける中での出来事でした。江戸時代後半、関以降の和算の歴史を見ていくと、「伝統を振り返る時間」がほとんどなかったというのは現実問題としてあったでしょうね。関孝和の名前を持ち上げる、あるいはちょっとした注釈はあったとしても、彼の数学を本格的に問い直すという姿勢が醸成されなかった。和算全体を見ていくとそんな感じがしますね。
橋本 『源氏物語』などは、室町時代にさんざん注釈書が書かれたり、本文研究をされたりしましたけれど、和算にはそういうことは起こらない。「和算の古典として関孝和研究をしよう」という機運はなかったのですね。そこには家元制に起因する側面もあるのでしょうか。
佐藤 それはあるでしょうね。
上野 そういう数学の塾は、江戸時代には身分制度を離れて、数学が好きな人には心地いい空間だったので、数学を勉強したいという人がたくさんいたのは間違いないです。
佐藤 古典研究とは次元・位相の違うものですね。
上野 「数学を楽しむ」ほうにシフトした。プロのほうはヨーロッパの暦とか物理などを消化するのに精一杯だった。
もしも…
橋本 もし日本が鎖国をせずにいた場合、関の数学に類するものがもっと早く生まれた可能性や、関の数学が中国あるいはヨーロッパにインパクトを与えるような可能性はあったのでしょうか。あるいは実際に、長崎経由で日本から海外へ情報が伝えられることはなかったのでしょうか。
上野 ほとんどなくて、確か和算書で一冊だけ中国に行っているんでしたか。
佐藤 開国以後ですが、19世紀末の中国の算学書に加悦俊興という和算家の著作が紹介されてますね。それから、幕末1867年のパリ万博に和算書『算法新書』と『算法求積通考』を展示したという事例はあります。
上野 素人がもっと数学が好きだったら変わっていたかもしれないですね。そういうレベルの人たちが日本に来ていないから、どうしても伝わらない。もしも伝わったら、なかなか面白かったと思います。少なくとも関の終結式の理論はかなり衝撃だったと思いますよ。
佐藤 誰かが翻訳してくれれば可能でしたよね。
上野 マテオ=リッチみたいな研究家が日本に来ていればね。彼が日本に来ていたら、もしも関の数学を──時代がちょっとずれているけども──知ることがあったら、その続きは面白かったでしょうね。
橋本 そういうサイエンス・フィクションが読みたいです。
佐藤 まさに、関孝和だけが突出して見えてしまうので、我々の中でも雑談しながら「もしも」の話を何度もしましたね。
橋本 やっぱり出るのですね、そういう話が。
佐藤 ええ。「関孝和は双子だったんじゃないか」とかね(笑)。それで江戸と大坂に分かれて住んでいたとすれば簡単に説明がつく。
橋本 なるほど!
佐藤 そんな話もしてたんです。「なぜ江戸と上方の数学が繋がるんだろうなぁ」という話を巡って。
上野 関の数学で非常に残念なのはグラフの概念がないことです。もしもヨーロッパ数学に接していたら、グラフが入ってきて、そしたら関はもっとこんなこともやったんじゃないかって。
佐藤 天文暦学のほうで2次元的なグラフを使い始めるのは江戸時代後半ですよね。
橋本 それを目にしていたとしたら。
上野 また変わっていたでしょうね。
橋本 いずれにせよ建部とセットじゃないと──
上野 まあ、そうですね(笑)。関は何か自分で発見して、それで満足してしまう。ほかの人に伝えることはあまり気にしなかったんじゃないでしょうか。
新全集でやり残したこと
橋本 最後に、この全集でやり残したことや、あとに続く方にお任せしたいことを伺えますか。
佐藤 私は一つ一つの写本、それこそ一つの著作あたり50から80ぐらいの写本があり、それらの間の系統図を作りつつあるのですが、これらを写した人たちは一体どういう思いで書き写していたのか、何を考えながら関の数学を学ぼうとしていたのか、そういったことを明らかにしてみたいですねぇ。あとは何をおいても関の自筆を探したい(笑)。さっきも言いましたが、関の著作完成から一週間後に書かれたものまでは肉薄できたので。どこかに紛れ込んでないかなぁ。
橋本 関の自筆で出てきたらうれしいものがいろいろありますよね。なんでもない書簡ならまあ出てくるかもしれませんが、「これが出てきたらもうクリティカルヒット!」というものはありますか。
佐藤 『発微算法』の原稿ですかねぇ。関は舞台裏でどういう計算してたんだろうっていうのは見たい。
上野 草稿段階での計算。それは絶対やってますよね。すごい計算ですから。
佐藤 あれを暗算でやったとは思えないですねぇ。これが18世紀・19世紀の和算家になるといくらでも草稿はあるんですよ。倉庫に山積みになるぐらい。今回の全集にも書きましたが、関孝和の自筆は山梨県立博物館に残っている検地帳だけなんですよね。あれも実は役人が代筆した可能性があり、ハンコを押したのは本人のはずですが。唯一彼が触ったものがあれしかないっていうのがねぇ。
上野 残念だよねぇ。
佐藤 どこまで関本人の史料に肉薄できるかはこれからの課題ですね。
橋本 上野先生はいかがですか。
上野 絶対やらなきゃいけないのは、まず『大成算経』の読み下しを作って、できれば現代語訳を作ること。今回は写本の影印しか載せていません。あとやっぱり建部賢弘の全集を作らないと、最終的に関は絶対にわからないと思うんです。
橋本 ではこの全集と対になる形で。
佐藤 今度は岩波文庫にしますか、全集じゃなくて(笑)。相当分厚くなりそう。
上野 『大成算経』は一冊では終わらんでしょう。
佐藤 終わらないですよね。あの巻一だけで一冊になりそう。
上野 あと、全集では関孝和の用語辞典を作ったんですけども、『大成算経』の用語辞典も作って対照させないといけない。
佐藤 そうですね。
上野 もちろん英訳もやらなきゃいけない。まあ全部でなくても、ともかく代表作はちゃんと英訳して世界に広めないと。
橋本 英語による和算の紹介というのはこれまで、三上義夫の名前くらいはちらりと出てきますが、まとまってはいないようですね。
上野 ないんですよね。
佐藤 個別の論文はもちろんありますが。
上野 論文はあるんですけど、著作そのものは翻訳がない。一番悩ましいのは用語をどうするかですね。それが決まれば、あとはできるんだけれど。
佐藤 あらためて通史の形でまとめることが必要ですね。今回、江戸時代の数学のターニングポイントの実態をある程度明らかにできたので、通史を書く上での素材は整ったと思います。
橋本 通史は誰が書くのでしょうね、佐藤先生?
佐藤 自分が書くしかないですかねぇ。それも今後の課題ですね。頑張ってやっていきます。
おススメの予習本
橋本 和算初心者でいきなりこの全集に取りかかる人はいないと思いますので、「全集に行く前の肩慣らしとして読んでおくといいよ」という本にも触れていただければ。この鼎談を始める前に上野先生の『和算への誘い──数学を楽しんだ江戸時代』(平凡社)をご紹介いただきました。
佐藤 編者の小川さんが、中公選書で『和算』を書かれてます。あとはもちろん我々四人の『関孝和論序説』(岩波書店)ですね。
橋本 岩波新書でも大昔に出ていましたよね。
佐藤 小倉金之助の『日本の数学』ですね。あれは、古くなっちゃったなぁ。
上野 うん、誰かが書き直して改訂版を作らないと。もうちょっと専門的なのは日本學士院(編)の『明治前日本數學史』(岩波書店)。辞書みたいなものですけど。ほんとは書き直さないといけないですね。
佐藤 それもやりたいですね。
上野 しかし、藤原松三郎が一人でやったと思うとすごいなと。
佐藤 すごいですよねぇ、あの馬力。10年かけてないですからね。いくら資料が東北大学、日本学士院にあってすぐに使えたとしても、彼の仕事はすごいです。この全集の元になった情報の出発点はだいたい『明治前日本数学史』なんです。
橋本 関たちが出てくる江戸時代の文化的な状況、社会的な状況をざっと押さえられるような本で何か良いのものはありますか?
佐藤 江戸時代全般を知る上で、岩波新書の『シリーズ日本近世史』(全5冊)はよかったですね。私も大いに参考にしました。水本邦彦さんが書かれた『村 百姓たちの近世』はお勧めですね。
橋本 やはりそういう前提がないと、いきなり全集は読めません(笑)。
上野 まあ、そうですね。だから本当は簡略版みたいなのを作らなきゃいけないんだけど。中高生がわかるような。
橋本 そうそう、岩波ジュニア新書レベルがいいと思います。
上野 『傍書法で高校数学を解いてみよう!』とか(笑)。
橋本 面白い!
佐藤 明治の和算家の世代になると、傍書法で微分方程式まで記号として作るんですよ。そこまでやったら高校数学ならカバーできますね。
橋本 中高と学んできた数学を、和算に翻訳するとどうなるか。
上野 それは面白いかもしれないな。
佐藤 あと考えているのは、先ほど話題にした『日本近世史』の五冊シリーズみたいな『日本数理科学史』。和算、天文、測量、工学系とか。
橋本 書かなきゃいけないものがいっぱいありますね(笑)。
佐藤 頑張ります(笑)。
裾野を広げたい
上野 研究者がもっと増えてほしいとは思いますね。
橋本 そのためにもまずは高校生を沼に引き込まないと。
上野 でも、高校生にもなかなか勧められないですよ、将来のこと考えたら。いまの日本のシステムではね。
橋本 和算なんて文科省の大好きな「文理融合」の最たるものじゃないですか。
上野 そうなんですよ。
佐藤 だから裾野を広げる意味でも地道な活動はやっていかないとなぁと、あらためて思っているところです。
橋本 いつか国文学のほうでも和算資料を読む人が──
上野 国文学の人にはきてほしいと思うんだけどなぁ。それから漢和辞典にもうちょっと数学の用語を入れてほしい。諸橋轍次の『大漢和辞典』(全15巻)でも、他の項目は初出をちゃんと調べているんだけども、数学の初出はダメなんです。「目の前にある文献だけ見たんじゃないか、『九章算術』も読んでないのか」って言いたくなるんです。多分数学の本は対象に入ってないんですよ。数学の本は当時の税制なんかに関係してるから、ほんとは大事なはずなんですよね。
橋本 勘定方の仕事をどれだけ和算家がやっていたかと。
上野 国文関係とか中国語関係の方に、もうちょっと数学に対するアレルギーを治してほしいなぁと思う。数学の本というだけで嫌がるんですよね。こんな情けない話もあるんです。『塵劫記』の最初の版はカラー印刷なんです。2色刷りだったかな。で、のちの本は版木を合わせる合印が入ってるんだけども、『塵劫記』にはそれが入ってなくて、どうやって合わせたかわからない。
橋本 不思議です。
上野 書誌学の専門家に「すごく興味あるんだけど、でも数学の本ですからね」って言われましたからね(笑)。まったく内容に関係ないと思うんだけども。
橋本 なら、印刷博物館あたりで和算書をテーマにした展覧会を企画していただくとか。「天文学と印刷」展は非常に多くの観客が入りましたからね。
上野 もうすぐ『塵劫記』の出版400年ですね。
佐藤 1627年だから4年後ですね。
上野 展覧会どうですか?
橋本 どこでやればいいのかな。国立科学博物館?
上野 吉田光由の花押や印が入ってる刊本が結構残ってるんですよ。それを集めるだけでもずいぶん面白いと思いますけどね。
橋本 じゃあ国文学研究資料館と国立科学博物館の、2館同時開催で。
上野 『塵劫記』は絵が綺麗だから、うまくやったら結構ウケると思います。
橋本 本を並べるだけではなく、映像も駆使してわかりやすく。
上野 今は色褪せてるけども、元はどんな色だったかも知りたい。
佐藤 文化財の保存科学の専門家の方々に材料分析してもらう方法もありますね。非破壊で顔料分析などできると思います。
橋本 2024年には東京国立博物館で特別展「本阿弥光悦」が開催されます。角倉関係でまた新しい資料がいろいろ出てくるのではないかと期待しているので、その流れもうまく利用して。またコミック『チ。──地球の運動について』(魚豊、小学館)も多くの人に読まれました。ですからサイエンス・フィクションを書くのもいいのではないでしょうか。あるいはこの編者チームが監修について、売れる漫画をプロデュースするのでも(笑)。
佐藤 裾野を広げるという意味ではそういう活動が必要なんですよね。
(2023年4月20日、岩波書店)
(うえの けんじ・数学者)
(さとう けんいち・科学史家)
(はしもと まり・ライター・エディター)
上野健爾(うえの・けんじ)
四日市大学関孝和数学研究所長、京都大学名誉教授。専門は代数幾何・数学史。著書に『関孝和論序説』(本全集編者四名の共著、岩波書店)、『小平邦彦が拓いた数学』『円周率が歩んだ道』(以上、岩波書店)ほか。
佐藤賢一(さとう・けんいち)
電気通信大学大学院理工学研究科教授、四日市大学関孝和数学研究所客員研究員。専門は科学史・和算史。著書に『近世日本数学史──関孝和の実像を求めて』(東京大学出版会)、『関流和算書大成関算四伝書』(共編、勉誠出版)ほか。
橋本麻里(はしもと・まり)
日本美術を主な領域とするライター、エディター。小田原文化財団 柑橘山美術館準備室室長、金沢工業大学客員教授。神奈川県生まれ。国際基督教大学卒業。新聞・雑誌等への寄稿のほか、NHKの美術番組などを中心に、日本美術の楽しく、わかりやすい解説に定評がある。