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岸政彦 「調査する人生」

石岡丈昇 x 岸政彦 生きていくことを正面に据えると、なかなか威勢よく言えない


今回お話しするのは、日本大学の石岡丈昇さんです。今年5月に刊行の『タイミングの社会学──ディテールを書くエスノグラフィー』(青土社)では、マニラの貧困世界(ボクシング・キャンプ、都心のスクオッター地区、人里離れた再居住地)において生きられる「時間」が考察され、話題となっています。フィールドワークに基づいた『ローカルボクサーと貧困世界──マニラのボクシングジムにみる身体文化』(2012年、世界思想社、第12回日本社会学会奨励賞。2023年末に増補新版が刊行予定)以来の石岡さんの「調査する人生」を聞きます。


「咬ませ犬」ボクサーに話を聞く

 本日は、社会学のなかでも気鋭のフィールドワーカーである、石岡丈昇さんとお話しします。

石岡 石岡です。フィリピンの研究をしています。岸さんとは院生の頃からの知り合いです。20年以上前、大阪で貧困や差別を調査する「A研」という研究会があり、ぼく自身は関東にいたのですが参加していました。その時に、一番前の席に座っていたのが岸さん。

 一番前だったっけ。なんか、偉そうにしているみたい(笑)。石岡さんとは長い付き合いですよね。もう20年になりますか。「A研」は都市下層研究の第一人者で、釜ヶ崎の研究をされてきた青木秀男先生の個人的な弟子たちが集まった研究会です。当時は大阪市大に集まって月一でやっていたんですよ。とにかく現場に入り、そこでの経験をどう言語化・理論化していくのか、激しく議論していましたね。

 メンバーはとにかく現場にがっつり入る社会学者たちで、石岡さんはフィリピンのマニラでボクサーになった。その時のことを書いた『ローカルボクサーと貧困世界』があまりにも素晴らしかった。

石岡 ありがとうございます。院生でお金もないし、A研の研究会の後には、安い居酒屋の2階に集まって、延々と議論しましたね。あの居酒屋の2階、ちゃぶ台に座布団の部屋でしたが、勝手にビールを冷蔵庫から出して飲むスタイルでした。会計とかどうしてたんだろう?(笑)(※)まあ、でも、みんな眼が鋭かった。野宿者とか飯場とか移民労働者とか、貧困や差別の問題を、みんな現場にどっぷりと入って調べてました。酒を飲んで楽しいのだけど、でも下手なことは言えない。そんなことを言ったらすぐに突っ込まれるというような、ヒリヒリ感がありました。岸さんとは、その頃からの付き合いです。

 だから石岡さん、そして同じ研究会で出会った女性ホームレスの研究をしている丸山里美さんにも声をかけ、僕も含めた3人で『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』(有斐閣ストゥディア)という教科書を書きました。僕が編著をした『生活史論集』(ナカニシヤ出版)にも石岡さんと丸山さんには寄稿してもらっています。

 今日は石岡さんにいろいろとお話を聞いていきたいと思います。まず『ローカルボクサーと貧困世界』について。この本はどんな本ですか?

石岡 簡単に説明をすると、フィリピンのマニラにあるボクシングジムに住み込みをしながら、1年間フィールドワークをした時のことを書いた本です。ボクサーたちと相部屋で共同生活をしながら、同じご飯を食べて、同じ練習をして、一緒に外出して遊んで、といったやり方で調査したものです。

 なぜフィリピンのボクサーをテーマに選んだのでしょうか。

石岡 茨城の大学にいたのですが、当時はそのあたりにフィリピンパブがあったり、女性エンターテイナーの人たちがいたりして、フィリピン人コミュニティがあったんです。その中には、ボクサーの方もいました。ぼく自身ボクシングが好きなこともあって、彼らに興味を持ったんです。いわゆる「咬ませ犬」と呼ばれる人たちです。

 咬ませ犬?

石岡 ボクサーを育成するためには、実践で経験を積ませることが必要なので、そのために外国から選手を呼ぶんですよ。ボクシングでは体型の違いが大きな差になります。身体が大きく、体重が重い方が有利です。なので体型的には格下だけど、上手なボクサーを連れてきて、日本人と試合をさせる。それが「咬ませ犬」です。

 負ける役のような感じですか?

石岡 そうです。日立市にあるジムには、フィリピンからその「咬ませ犬」のボクサーがたくさん来ていました。彼らに話を聞いてみると、フィリピンで試合をするよりは、勝っても負けても手にできるお金が大きいと言います。海外へ出稼ぎに行く機会が自分にも与えられるのであればと、日本に来ていた。
 
 というのも、フィリピンでは、海外への出稼ぎが社会上昇のためのひとつの経路となっているのですが、一定以上の学歴や経済的余裕が必要で、誰にでも開かれている道ではない。しかし貧困層出身者でもボクサーであれば出稼ぎをすることができるんです。その日立市にあるボクシングジムで修論の調査をさせてもらいました。

 そのジムはどんなところだったんですか?

石岡 オーナーは日本人で、ジムの経営だけではなく、タクシー運転手もやっていましたね。小さなジムに20人ほど在籍していました。ちなみに、後楽園ホールで戦うと1ラウンド1万。10ラウンドの試合で、10万円という感じです。

 1R、1万円か……。ファイトマネーってもっと高額なイメージでした。

石岡 当時のフィリピンでは、現地で戦うと1ラウンド2000円ですから、5倍くらいにはなるんですよね。ちなみにその後はビザも厳しくなっていて、フィリピン人ではなく、タイ人のボクサーが「咬ませ犬」をやることが多くなっていきます。

 そのジムで石岡さん自身もボクシングを始めた?

石岡 はい、そうですね。ジムに通いました。

 実際のスパーリングもしてたんですか?  殴られるとき痛くないですか? なんか素朴すぎる質問だけど……。

石岡 痛いです。それでもボクシングは面白いですね。ちょっと行ってすぐ話を聞いて帰るような社会学にありがちな調査はやりたくなかったんですよね。ですから、まず現場に言ってボクシングをやってみようと。
 スパーリングについては、これは日立市の調査ではなくて、のちにマニラに行ってからの話になってしまいますけど、苦い思い出もあります。ボコボコに打たれたというんじゃなくて、スパーリングで結膜炎をもらったことがあるんです。それも重症の。マニラのジムでスパーリングをしたとき、相手の目が結膜炎で充血していて、それに気づかずにスパーをしました。それで、顔面にパンチをもらったとき、グローブ越しに結膜炎の細菌ももらった感じでした。その後、3ヶ月ほど視界が霞んだままでした。真っ赤な涙目をして毎日過ごしてたら、ボクサーの仲間たちが、お前もこれで一人前のボクサーだ、と笑ってくれました。そのスパーリング相手とは、その後「結膜炎仲間」として仲良くなって、長時間のインタビューなどもさせてもらいました。結膜炎をうつしたんだから、長時間のインタビューに付き合ってくれ、という感じです(笑)。そのインタビューは、のちに岸さんが編集に関わられた『atプラス』という雑誌(28号、2016年、太田出版)の生活史特集の原稿で取り上げました。

 とりあえず現場に行って話を聞こうと。現場に入る「深さ」って、やっぱりいろんな段階がありますよね。学部の卒論ぐらいであれば、たとえば調べてる問題における、それこそスポークスマンのような人、つまりすぐにアクセスを受け入れてくれそうなところに話を聞くだけでいいかもしれないですが、大学院でガチの調査をやろうと思うと、どれぐらい中に入れるのかが勝負になっていきますよね。石岡さんの場合は、ジムに入門したわけね。身体で入っていった。

石岡 まず入門する姿勢を見せました。

 ジムでボクサーたちと仲良くなって。

石岡 そうですね。英語と日本語を混ぜながら喋りました。あの時はまだタガログ語を喋れなくて。

 ぱっと仲良くなれるもんなんですか。沖縄の暴走族の参与観察をしている打越正行さんを見ていても思うんだけど、よく仲良くなるね、ふたりとも……。

石岡 打越さんは例外なので……フィリピンボクサーの調査は出来ても、暴走族の調査は無理です(笑)。

 わかるなぁ(笑)。打越さんの調査が伝説になっているのは、遠い国の奥地に行くよりも、内地の人間が沖縄の暴走族に入って行く方が難しいからですよね。まあ、比べてどちらが難しいっていう話じゃないですが、それにしても内地と沖縄っていうのは、壁が厚いから。

石岡 絶対にそうだと思いますよ。フィリピン人ボクサーの場合は、わざわざ外国から取材に来てもらうのは基本的に嬉しいわけです。フィリピンから来たボクサーに関心を持っているんだなと取材の意図も伝わりやすいですし。取材そのものへの警戒がある暴走族の調査よりも、受け入れてもらいやすい面があると思います。

フィリピン、マニラのボクシングジムへ

 そうして最初は日本にいるフィリピン人ボクサーに話を聞くところから調査をはじめたんですね。実際にフィリピンへ行こうと思ったきっかけはなんだったんですか?

石岡 日本だけ見てもわからないなと思いまして。岸さんと同じ(大阪市大の)研究室にいた高畑幸さん(フィリピン研究)が、「関心あったら、私とフィリピンに来てみる?」って、ぼくが修士の時に声をかけてくれたんですよ。

 あー高畑さん。高畑さんは、本当に面倒見がいいですよね。

石岡 しかも高畑さんはボクシングが好きとのことで、フィリピンのジムとのつながりもあって。タガログ語も英語もベラベラで、すごいな、これがフィールドワーカーなんだな、と当時、背中で教えてもらったように思います。

 そうそう、ボクシング好きて言うてた。さすがやなぁ。前に、高畑さんと、那覇のフィリピン人の弁護士とジャズミュージシャンを紹介して一緒に聞き取りをしたことがあります。

石岡 それで、2002年に初めてマニラに行きました。いわゆる「スラム」や「スクオッター」と呼ばれる場所に隣接する場所にボクシングジムはあった。2階に闘鶏場があって、1階でボクサーが戦い、2階でニワトリが戦っている(笑)。僕を連れてきた高畑さんは、着いたらすぐに「じゃあ、私はこれで!」と去って行った。

 いいですねぇ。フィールドワーカーですね。「あとは自分でやっときや!」と。

石岡 そのジムに何回か通って、「ここに住んで調査していいですか?」と聞いたら、「いいよ」と言うので、そのまま住みました。

 すごいなぁ。でも入ったきっかけって意外とそんな感じですよね。ぼくが沖縄に興味を持ったのも、旅行に行って沖縄が好きだと思ったからですし。そんなに覚悟をしていたわけではない。

石岡 わかる。ぼくもそのまま入った。あまり決意とかないですよね。気がついたら入っていて、それを後から決意があったように喋っている(笑)。ここからボクシングとスラム地区の貧困をテーマに調査をはじめるようになります。

 ジムがあったのは、「スラム」や「スクオッター」の近くだとおっしゃっていましたが、そこはどういった場所なんですか?

石岡 少し説明すると「スラム」とは荒廃した地区であることを指します。「スクオッター」とは、土地の所有権や利用権がないまま定住している人々や、地域を指します。使っていない土地を占拠して住み出し、出来上がった街です。スラムは必ずしもスクオッターではなく、例えばナイロビのスラムは、土地を所有している公的な書類がいちおうあるのですが、スクオッターにはない。

 どれくらい貧しい場所だったのでしょうか。どれくらいといっても、言うのは難しいかもしれませんけど。

石岡 貧しいですよ。本当に。現地の友人は、赤ちゃんのミルク代が出せなくて、水で普通以上に薄めたミルクを飲ませてました。薄めたミルク。言い方が難しいんですけど……貧しいですけど、人間くさいですよね。

 そうね。ちょっと言い方が難しいよね。あんまり深刻さを強調すると、なんかものすごい「かわいそうな人たち」になっちゃうし。でも逆に、そこでたくましくみんな暮らしてますっていうのも貧困をロマンチックに語ることになってしまう。「沖縄のオバーは優しくてたくましい」とか。

石岡 「子どもたちはみんな笑顔」とか「お金じゃない」とか。

 「お金、大事だよ!」って、思うんですけどね。

石岡 それに貧しい地域といっても、一概には表現できないところがあります。2010年以降は、マニラも経済開発が進み、スラムやスクオッターに高学歴の人が住んでいる場合もある。

 最近は世界的に有名なIT企業のコールセンターがマニラにいくつもあり、現地の専門学校や大学を卒業して、そうした場所で働く人たちが増えているんです。昔ながらの「スラム」のイメージとは違ってきている面もありますね。

 深刻な生活条件のところもあるんだろうけど、仕事も学歴もある人もいて、グラデーションがあると。

 話が飛ぶんですが、石岡さんが貧困を書く時って、それは貧困を無くすための処方箋を出すためであるというよりも、そこで住んでる人たちを「理解したい」っていう意図で書いてますよね。以前、女性ホームレスの調査をしている丸山里美さんとお話をした時(丸山里美×岸政彦 スペシャル対談『質的調査の話』)社会問題を解決したいというよりも、現実を知りたい、女性の先輩としての生き方を知りたいんだと丸山さんは言っていた。

 もちろん丸山さんは、実際に政策提言をしたり、支援団体と一緒に活動をされたりしているわけですけど、そう言っている気持ちはすごくわかる。丸山さんの本には、「女性ホームレスを減らそう」よりも、「どうやって暮らしているのか」がひたすら書いてある。石岡さんの本や論文にも同じものを感じています。貧困をなくすための処方箋ではなく、実際に貧困のどういうところがしんどいのか書いているのが大事。解決するための処方箋ではなく、理解しようとしていますよね。でもそれはたぶん、処方箋を出すためにも有効なはずです。

石岡 そうですね。いろんな作戦や術を見ているのかもしれません。例えばフィリピンで驚いたのが、お金がなくなった時にいきなり友達の家に押しかけること。スクオッター地域は土地の所有権がないはずなのに、ボスみたいな人がいて、家賃は発生するんですよ。いわば「インフォーマル家賃」ですね。

 ははは、「インフォーマル家賃」。そのひとの土地じゃないけど「払え」と。

石岡 インフォーマルですが、マーケットの原理といいますか、いい塩梅にできていてそれなりに賃料は均衡するんです。その家賃が払えなくなった時に、家族まるごとがいきなり「すみません」とやってくる。いきなり3人とか4人で押しかけるんです。例えば、僕の一家が、岸さんの家に押しかける(笑)。

 相手も拒否しないわけですね。

石岡 拒否しないですね。まぁ、そんなもんだからと。岸さんが困窮すると、今度は岸さんが僕の家に押しかけてくる。生活の回し方の前提が違うんですよね。貧しさって、人と人の距離を近づけさせますよね。互いに距離を取っていたのでは、生活が成り立たない。ぐっと接近させると思います。でも、そうやって超至近距離で接近して、肩の触れ合うような距離感で生活しながらも、そのなかで、当たり前ですが、互いのことを配慮しあう。そういった様子を見て、面白いなぁ、知りたいなぁと思う気持ちがまずは最初にあると思います。

なぜボクサーになるのか?

 石岡さんはそうやってフィリピンのジムに入るわけですが、何をしていたんですか。

石岡 朝起きて、飯を食う。

 朝起きて、飯を食う。いいですね。

石岡 スラムの調査をしたかったのですが、「話を聞かせて!」といきなり調査はできません。ボクシングジムの良いところは、ボクシングを通してスラムの調査ができるところです。

 そうですね。いきなりスラムの調査はできない。たとえば、いきなり私みたいな知らない人が沖縄にやってきて、「これまでの人生を聞かせてください!」と言っても、怪しくて聞かせてもらえるわけがない。ぼく自身も最初は、沖縄の出稼ぎとUターンの調査というテーマを決めて、そこから聞いていきました。なかなか目的もなしに、丸腰で調査はできないですよね。なにか「とっかかり」みたいなものが要る。

石岡 できないですね。その点、ボクシングジムはテンプレートが決まっています。朝5時半に起きて、走って、誰かがつくった朝ごはんを食べて。昼の1時から3時まで練習する。夕方は7時くらいにマネージャーが来てご飯を食べる。この繰り返しのテンプレの中に入ってしまえるんです。

 居場所になるんですね。ひとつの活動を共有することで、その場に居ることを許されると。『ローカルボクサーと貧困世界』では、ジムの中のどのような話を書いたのでしょうか?

石岡 ひとつは身体論です。例えば、ボクシングは個人競技ですが、ジム内で得意なパンチが似てくる傾向があるんです。ボクサーは初心者もチャンピオンクラスのボクサーも、ジムでは一緒に練習します。リングがあって、サンドバッグが横並びにあって、3分ごとに、カーンと鳴って、みんなが一斉に練習をし出す。

 一緒の空間で練習していると、先輩ボクサーが隣でサンドバッグを叩いていたら、そのリズムがこっちにも入ってくるんですよ。
 
 同期してくる?

石岡 そうなんです。これも実際にやってみてわかったことでした。最初は、フィールドノートを取るために、座って練習の風景を書いてたんですけど、ぜんぜんダメで。座って見ているだけだったら、「残り1分半、息があがってきた、ガードが下がってきた」みたいなことしか書けないんですよ。

 でも実際に一緒に練習をやってみると、3分って大変だし、きついし、残り1分半ってこんなに長いのかって思う。そして、タイマーをチラ見していると、トレーナーからは「タイマーを見ない!」(集中しろ、という意味)と怒られます。これは一緒に練習しないとわからない世界ですね。あと、別のジムでは、1ラウンドを4分で練習するとこもありました。4分なんて、信じられないですよ。でも、やってみないと、4分が1ラウンドとは、どういうものであるのかが、わからないと思います。3分と4分の間にある、この絶対的な違い。
 同じ空間にいるからといって、同じものを見ているわけではないんですよね。そして身体が同期していくこともその時間に入ることでわかっていく。先輩ボクサーのリズムが入ってくる瞬間があるんです。だから得意なパンチも似てくるのかとわかる。すごく社会的な場所だなと思いました。

 最初、目だけで観ているけれど、だんだんと現場の音を耳で聞くようになって、身体も同期していくわけですね。面白いですね。ジムにはどんな人が来ているんですか。

石岡 全員男。年齢は15~30歳ほど。体罰や上下関係もなくて、すごく開かれている感じ。からっとしていていいですよ。日本の部活とは違う。先輩のしごきもないです。

 日本で「ボクシングジム」と言えば、お金を払って通うイメージですよね。でもぼくが住んでいたジムは、住み込み式で、そこに行けばご飯とベッドと、「○○ジムのボクサー」という社会的肩書も手に入る。試合に出ると自分の名前を呼んでもらえる。

 ああ、そうか。お金を払わなくてもいい。じゃあ、食い詰めた男がそこに行くことができる。

石岡 ボクシングには才能もあるので、2年くらいで去っていく人もたくさんいる。新しい人もまた入って来ます。

 みんながチャンピオンになれる世界ではないですよね。去っていった人達はどうなっていくんですか。

石岡 ボクシングジムのネットワークを使って、マネージャーがやっているレストランで、引退後にインフォーマルな仕事をもらったりしているんです。あと最近は、マニラの各地にフィットネスジムができていて、中間層の顧客がそうしたジムでエクササイズをするのですが、そこでフィットネストレーナーとして働くことも増えました。ボクシングトレーナーは、今では需要も出てきたんです。筋トレの方法をただ教えるだけじゃなくて、実際に客がグローブをはめて、元プロボクサーが上手にミットを持ってあげてミット打ちをすると、そうした顧客たちはすごく喜ぶから。かれらは、下手なパンチでも、上手に拾ってあげるので、顧客の側は「パン」「パン」ときれいにパンチが入ったような気になって、気持ちいいんです。

 エコロジーのようなものがあるんですね。打越さんの調査でも、暴走族と地元の工務店がつながっていて、暴走族を卒業すると、工務店で日雇いをやるような流れが出来ている。

 でも僕から見ると、ボクシングをやること自体が厳しく、つらいことだと思います。石岡さんの本を読んで、正直なところボクシングって「見返りが少ないな」と思いました。「名前を呼んでもらえる」と言うけれど、ものすごくハードなトレーニングや減量があって、男同士の共同生活で、彼女をつくるのも禁止。それで一生が保証されるわけでもないし、年をとっても続けられるものでもない。でも、なぜ彼らはやっているんだろう。彼らの理由や動機って何でしょうか。

石岡 すごくいいポイントだと思います。「することがある」ことって、ぼくは大切だと思っています。日々仕事をしているぼくたちからすると、「することがない」って最高のように思えますが、実はそんな日々がずっと続くとけっこうツラい。

 貧困の問題は「することがない」ことの問題ともつながっている。単に所得が低い、失業が長いことだけで貧困は語れないように思います。スラムでは「すること」を求めてドラッグに手を出したり、インフォーマルなことをやったりする人が多い。

 しかしボクサーになったら、毎日決まった時間に起きて、メニューも決まっていて、「することがある」状態になります。しかも、自他ともに「○○ジムのボクサー」だと認められ、承認もされるんです。

 その「することがない」って、「暇」や「退屈」とは違うんでしょうね。暇や退屈があるのは、すごく贅沢なイメージがある。することがなくて生きていけるのならば、それって理想なんじゃない? とぼくは思っちゃうんだけど。

石岡 そこも大事な論点ですね。ぼくは「することがある」ことに加え、「パターンがある」ことが人間の社会生活には大事だと思っているんです。

 別の例から考えてみると、フィリピンにいるときに、タガログ語を教えてもらっていた語学学校で日本人の女性と出会いました。彼女はそこに英語を習いに来ていました。彼女は東京の仕事を辞めてマニラに来て、駐在員の友達の家に滞在していた。最初は元気だったのですが、4か月ほどすると、この生活がつらいと言って日本に戻ったんですよ。忙しい日本の生活を捨ててマニラに来たのに。彼女を見ていて、「することがある」ことだけではなく、「パターンがある」ことが大切なんだと思ったんです。

 スラムの生活を見ると、パターンをつくるのが難しいんですよ。パターンがあっても崩されてしまう。典型的な例は再開発ですね。マニラの地価が上がっているので、スクオッターの強制立ち退きが起こって、いきなり山奥の土地に住めと言われてしまう。でも山奥に仕事なんかありません。結局、男性が片道3時間かけて、マニラで仕事をするわけですが、往復6時間通勤するのは疲れる。妻子は山奥に残して、平日限定のホームレス生活をするようになります。外圧によって、住む空間が変わり、世帯の中身も変わってしまう構造がある。

 なるほど。スラムで「することがない」というのは、単に暇で退屈であるわけではない。それなりに忙しくしないと飯は食えないから、忙しく仕事はするんだけど、いきなり外部の状況で変わってしまうからパターンをつくれない。「日常」とか「予測可能性」というものがないんでしょうね。そのしんどさがある。

石岡 貧しい生活では、パターンをつくって維持するのが非常に難しいんです。だからパターンのあるボクサーの生活は魅力的なんですよね。

泣き真似、豪雨、ヘビ

 ジムの中でパンチが同期してくる話もそうですが、石岡さんの書いているものを読むと、本当に細かいところを見ているなと思います。僕が好きなのは、中でも「泣き真似」の話です。台風の日に、男数名でスラム街で飲んでいたら、その中の一人が彼女を金持ちのオーストラリア人に取られた話をして、泣き出したと。

酒を飲みながら彼は言う。「子供のことを考えたら、オーストラリアに行くのが良いってわかってる。フィリピンには仕事がない、スクオッターには仕事がないし、学校にもやってやれない」。そう語って押し黙る。そこに集っていたのは10名くらいだったろうか、誰もが彼の窮状を知っていた。天井のトタンを眺める者、足を組み直す者、空のグラスを見つめる者。皆、酒に酔い、赤目になっているから、泣いているのかどうかはわからない。場は沈黙する。彼は静かに泣いた。

 その時である。反対側に座っていたひとりが、声を上げて泣き真似を始めたのだ。「ウエ〜ン、ヒ〜」。目を擦りながらの渾身の演技である。それにつられて、もうひとりも、さらには別の者も、泣き真似を始める。みんなで泣き真似をすることで、その場を茶化し、彼が直面する事態とそれに伴う感情をやり過ごそうとしているのだ。( 石岡丈昇「スクオッターの生活実践──マニラの貧困世界のダイナミズム」SYNODOS

石岡 その時に僕は、「うわ、泣いちゃった」って思ったんですけど、もう一人いた仲間が、「ウエ〜ン、ヒ〜」と言って、思いっきり泣き真似を始めたんですよ。日本だとこの事態を真剣に扱っちゃうと思うんですけど、笑いに変えるというか、あれは本当に優しさだと思いましたね。あの泣き真似の空間って。

 とっさに泣き真似した。反射神経ですよね。

石岡 たぶんその場にいた人たちは、みんな類似した経験を持っているんですよね。当時は携帯もなく、MP3がフィリピンで流行っていて、路上で安く売っていた。そのMP3でエリック・クラプトンの「Wonderful Tonight」が流れていた。泣く人と、泣き真似する人がいるところで。

 映画みたいやな。「Wonderful Tonight」、あとでみなさん聞いてください。

石岡 流れていたのは海賊版ですけど(笑)。

 そういうおおーってなる瞬間ってありますよね。

石岡 もうひとついいですか。先ほど話したように、マニラのスクオッターで強制撤去があって、再居住地が山奥になった。そもそも暗い上に、みんな仕事がなくてマニラに行くので、人が減って、より暗くなっていく。マニラは明るいのに。

 ある日、その再居住地へインタビューをしに行きました。雨がすごく降る時期で、その日も豪雨が降った。トタン屋根なので、雨の音が響いて、話す声が聞こえなくなるんです。トタン屋根から響く雨音ってすごいんですよ。インタビューも止まって、沈黙の時間が生まれて、ただじっと「止まないね」と雨の音を聞いていた。

 雨が弱まったあとに、「ここは寂しいだろう」とその方は言ったんですよね。ただ人がいなくて寂しいというのではなく、光とか音とかも含めて、こういう世界って寂しいなと思ったんですよ。

 家族を守るってどういうことか、人が減るってどういうことか、石岡さんは場面で書くことをよくしますよね。雨のダーって音で、人が減るってこういうことなのかとわかる。

石岡 そういうディテールって、社会学という学術の中で、どう書いたらいいのかは難しいですよね。

 難しいなぁ。何が言えるんだろうなと。でもやっぱり、文学やジャーナリズムとも目的が違う。社会学ってなに? って言われると難しいし、自分がどういうふうに社会学の論文を書いているのか言うのも難しいけれど、それでも石岡さんや打越さんの話を聞くと、「ああ、社会学だな」と思う。

 ものすごく大雑把にいうと、とくに質的な社会学の目的は、ほんとに素朴な言い方ですが「他者理解」ですよね。他者の行為や相互行為を質的に理解する。そのときにたぶん、いちばん大事なことが、ディテールを書くっていうことです。よいエスノグラフィーや生活史の社会学はすべて、ディテールが書かれている。うまく書かれたモノグラフは、説明や理論化も不要なぐらい、ディテールの力によって自らを語るものです。でも、最近思うんですけど、事実関係とディテールは違うんですよ。こまかい事実関係を根掘り葉掘り聞いて、それをずらずら並べても、ぜんぜん人びとが生きてきた歴史やその生活を理解したことにはならない。じゃあディテールってなんだろう。

 沖縄って、本当に勉強することがいっぱいあるんですよ。どこでもそうでしょうけど固有の歴史がある。事実関係をただ並べようと思ったら、もう無限に並べることができる。

 例えば沖縄の戦後のジャズなんかを見ても、内地よりも盛んだし、ライブハウスもいっぱいあったし。でも聞き取りをしている時に、どういうライブハウスがどこにあったのか、地図を書いて、年表をつくることに入り込んじゃう人が実際にいたんですけど、それだったら生活史をじっくり聞く必要はない。地図をつくったり、事実関係を確定するのも大事ですが、生活史調査、質的調査に必要とされるディテールって、そうじゃないだろうと思うんです。

石岡 読んでいて、確かな記述だなと思う本ってありませんか。それって不思議だなと思うんですけど、本を読んでいるだけで、その世界にいたわけでもないし、行ったこともないのに。例えば岸さんの沖縄戦のヘビの語りがありますよね。

 石垣島はほとんど爆撃や地上戦がなかった代わりに、戦争マラリアで数千人もの方が亡くなってます。石垣島の山間部や西表島などの離島に疎開させ、一般市民に森を切り開かせた。蚊がいっぱい出て、たくさんの方がマラリアで亡くなるんです。

 話を聞いた方のお母さんが戦争マラリアにかかって、高熱が出たので、寝ながら頭をたらいの水につけて、頭を冷やしていた。そうしたら、反対側からヘビが水を飲んでいた。

 そのシーンが強力に印象に残っているんです。蛇が水飲んでるっていうその場面が沖縄の戦後社会になんの関係があるかって言われたら、なんの関係もないとも言えないかもしれませんが、普通はそういう語りは論文のなかには入れないでしょう。でも私は、なぜかその場面の語りを残したかったんです。

石岡 ですが、そういうのを読んでいると、確かな記述だと思う。確かだと思うのは、なぜなのか。それは事実関係ではない感じがする。その場のドンピシャなディテールがあると、これは確かな調査だと思う。

 そうそう。現場に「持ってかれ」るんですよね。生活史を聞いて書くのは、「歌」を聞きに行って、耳コピして楽譜に起こしている作業と似ている気がする。聞き書きって要するに「採譜」なんです。読む人はそれを再現できる。そういう仕事なんだなって思うときがあります。たとえば、生の歌を楽譜という記号に落としていくと、細かな歌の調子とか身振り手振りみたいなところは削ぎ落とされていくんですが、でもそれを読むひとが読むと、その歌のもっとも本質的な部分は伝わるんです。私も、そういう仕事がしたいといつも思ってます。

 語りの本質、みたいなことを言うと、ちょっと誤解されそうなんですけども、ぜんぜんロマンティックな意味でもないし、変に「ポストモダン現象学」みたいなんでもなくて(笑)、ただ単に、こういうことです。事実関係とディテールは違う。事実関係ばかり集めることをしだすと、そのうち、そもそも文字にせずに動画でまるごと残そう、っていう発想になりがちなんです。でも私はそういうことにあんまり興味がない。「その場のやりとり」が重要なのは異論がないですが、そこにすべてがあるとはまったく思わないんです。映像より文字(=楽譜)のほうがむしろ情報量が多いと思ってますし、本質的なものを伝えることができると思う。事実関係とディテールが違う、というのはそういう意味です。

 でもそれって、学術的な論文を書くこととは正反対のことだから、院生さんを教えていてもすごく難しいなと思う。

立ち退きは「宿命」か

石岡 このディテールで一本走る書き方が出来るのが、岸さんのすごいところですね。
 今回『生活史論集』の中で、ぼくは初めて生活史の語りを使って論文を書いてみたのですが(「連鎖する立ち退き──マニラのスクオッター地区と強制撤去」)どうやって書いているんだろうなと思いましたよ。

 いやぁ、ぼくは論文、下手なんですよ……。むしろ石岡さんの論文がとても良くて、ほんとに生活史の論文のお手本みたいだと思いました。取り上げているのは、スクオッターからの強制立ち退きをくらってしまった男性の語りですよね。彼は「宿命」という言葉を口にする。

石岡 2回、3回と立ち退きをすることになり、反対運動をしていた方でした。彼は立ち退きに対して、「宿命」という言葉を使うんですね。「上からの強引な政策による被害じゃないの?」と聞いたら、「それはそうだけど、もう歳だし、郊外に来るのもそういう人生のチャプターが始まったんだ」と言うんです。

 立ち退きに受け身で応じたのではなく、住民を組織して、戦ってきた方ですよね。そういう方が「宿命」という言葉を使う。

石岡 生活史の語りを使って初めて書いてみて思って気づいたのは、コード化しないことです。通常は、例えばAさんが話していることを、「家族カテゴリー」「仕事カテゴリー」といった形で分けていき、どの内容が会話に多く出るのかを見ていく。Bさんの話したことも同じように分けてみる。そして、Aさんの家族の話を「家族A」、同じように「仕事A」「家族B」「仕事B」みたいにコード化する。通常おこなうこうした作業を、あえてしないことで見えてくるものがあるとわかりました。

 たしかに私たちは、いわゆる「KJ法」(語りをバラバラに分割してカテゴリーごとに並べ替える方法)みたいなものは、しませんね。

石岡 もうひとつ気づいたのは、同じテーマで10人、20人と聞いて行くのですが、その平均値の人物の語りを書いているわけではない。どちらかと言えば、極致のようなところから、ぐっと問題を捕まえるようなところがある。

 でも同時に一般化しているでしょう。このあたり、いつかちゃんと論文にしなきゃと思ってるとこなんですが……。

 私たち質的調査屋は、つねに少数事例しか扱えないですよね。当たり前ですが、そのかわりひとりのひとにじっくり聞いたり、ひとつの場所でじっくり参与観察したりするんです。でも、いくらじっくり調査したとしても、しょせんそれは、たまたま偶然観察できた、ローカルな場面でしかない。そこから「社会」について何が言えるだろうか。

 「宿命」という言葉からわかるのは、その人は抵抗しながらたくましく生きていて、大きな力から甚大な被害にあっているとも言えないし、でもなんでも自由に楽しくできるわけでもない。それって人生の本質だなって思いますよね。僕らは、フィリピンの男性とは違う環境だけれども、そこで同じ人間を発見する。それを一人の人間の語りから書いている。

 でもそれってどうやって一般化できるんだろうな。1000人に聞いて、68パーセントの人が「宿命」という言葉を使いました、みたいな話でもない気がするし……。

石岡 そうじゃないですね。

 でも「宿命」という言葉に、権力や貧困と戦ってきている人たちの本質がある。それってエビデンスというよりは、「根源」という感じ。長年マニラに通っている石岡さんにはぐっと来たわけで。

石岡 社会学は自由な個人ではなく、制約だらけの個人をみます。でも制約を受けているだけではなく、受けながら自分の人生を作り直そうとしている。その時に「宿命」という言葉は、考えるべきだなと。だから書くのであれば「宿命」を軸にしようと思ったんです。

 人生やなぁ。この前、『生活史論集』共著者の前田拓也さんから「岸さん、人生って言いすぎ」って言われちゃったんだけど(笑)。

 社会学で人生って研究の対象にならないんですよ。でも僕は人生を書きたくて。沖縄の人の語りをつかって、人生を書こうと思ったら、ベタな話だけど「なぜ沖縄でそれを書くのか」と聞かれる。あれってすごく嫌い。東京でインタビューして人生を書くとスルーするのに、沖縄で書くとそう言われますよね。マイノリティの特殊なケースにされちゃう。だから人生を書きたいと思うんですよね。

 もちろん生まれてから90歳までの人生を全部は書けないけれど、断片的なものを切りだして、人生ってこういうところがあるよねというのは書けるんじゃないと。石岡さんが「宿命」を切り出したのもそういうことだと思う。こういうふうに人は生きてるんだなと。

 ここ数年、「他者の合理性」という言葉をよく使うのですが、それは基本的には、少数事例は一般化できるはずだ、という信念がベースにあります。それでは、なぜそれができるのか。それは、言葉にしちゃえば他愛もない話ですが、人間の行為の動機や理由というものは、かなりの部分「共通している」のではないかということです。当たり前といえば当たり前なのですが、ここ数十年、思想も哲学も社会学も、「通約不可能性」みたいな話ばかりしてきたように思います。でも、「こういう状況で人びとはこう生きているんだ」という話を聞くと、どこかものすごく「わかる」というときがある。

石岡 岸さんの書いたスクラップの話(「芋と鉄くず──歴史のなかの沖縄的共同性」『生活史論集』)もそうですよね。「宿命」の論文と似ているなと思いました。

 僕が書いたのは、沖縄戦やその後の占領を、自然現象と同じ感じでシームレスに語った女性の語りでした。沖縄では戦後、「スクラップブーム」というのがあったんです。1メートル四方に2発ずつ爆弾が落ちたような感じだから、そこらへんに鉄くずがいっぱい埋まっていて、朝鮮戦争の時に鉄くずが高く売れたので、みんな掘っていた。当時は不発弾でたくさん人が亡くなっています。

 ある女性に、戦後どうやって暮らしているのかを聞いたら、畑を耕して、サツマイモやお米、冬瓜もつくったし、サツマイモのツルで豚も育てて、基地のなかで軍雇用で働いて、ときどき物資をこっそり持って帰ったりして(笑)、そして地面を掘ると鉄くずも出てきたと言う。まるで自然現象のような感じで、戦争や、米軍占領のような大きな事件を語るんです。耕したら鉄くずも出てきたよと。そしてあの「宮森小学校軍用機墜落事故」の現場に立ち会うんです。そういう経験をしている。

 沖縄の戦後というのは、自然の中で芋を育てて、豚を育てて、スクラップも掘って、軍作業もして、宮森小学校の米軍ジェット機墜落事故があって、という一つながりの世界の中で生きている。人の一生って「はい、ここで終わり。はい、次」みたいなものじゃないから。当たり前だけど、人の人生は一つながりなんですよ。

 戦争や災害のような巨大な歴史的な出来事を、人間は個人として自然現象のように語るんだなと思いました。これは「宿命」とつながってきますよね。「受け入れる」とは言いたくないんだけど、それとともに生きて来ざるを得ない人々の歴史がある。

 なにか巨大なもののもとで私たちは懸命に生きている。私たちはそれに抗い、逆らって、なんとかして抵抗してるんだけど、でもそれを受け入れて、適応し、そのなかで飯を食っていかないといけない。そういう現実もある。

 そういうことって、ひとつのテーマの話をピンポイントで聞いてもわからないんですよ。「沖縄戦ってどうでしたか?」だけを聞いてもわからない。僕は戦後のこともまとめて聞いているんですけど、当たり前だけど沖縄戦は続いているんです。72年に本土に復帰してもずっと。いまだにずっと続いている。体験をしていた人が生きていて、70年前に家族が集団自決で亡くなったことを泣きながら語っている。その人の中では、当たり前だけど続いているんだなと。忘れがちなんだけどね。

石岡 フィリピンでも廃品回収はある階層において大きな産業です。それを書こうと思うとき、「この地域には○○パーセントの人が廃品を集めていて」という話になりますよね。でも生活史の場合は逆転していて、ある一人の生きている生活の中に、廃品回収もあれば、戦争の話も入っている。

 そうそう。人生の話になっていくと、特定のテーマからは離れていきますよね。

 たとえばこういうことがありました。大阪のある被差別部落に長年住む在日コリアンの女性の生活史を聞いたことがあるんです。ところが、その語りの大半は、夫から受け続けたDVの話だった。彼女はそれを泣きながら語りました。あるいは、沖縄で、琉球舞踊の先生のところに生活史を聞きに行ったこともありますが、話を長時間聞いてはじめて、彼女がユタでもあるということがわかったんです。舞踊の話からユタの話になって、さらにずっと聞いてると、嫁いだときに姑からさんざん虐められた話になった。つくづく、ひとの生活史というものは、一筋縄ではいかないんだなと思いました。

 特定のテーマの研究にするのは本当に難しい。上間陽子さんや打越正行さん、上原健太郎さんと共同で調査をして、『地元を生きる』(ナカニシヤ出版)という本をつくりました。沖縄的共同性に関する調査なんですが、それを階層格差という視点から書いたんです。よい大学を出て公務員や教員とかになって安定した暮らしになると、地元の地域社会のしがらみみたいなところからは離脱することが可能になる。沖縄の人びとも、みなが一律に、地域共同体みたいなところで生きてるわけではないんだよ、ということを明らかにした本なのですが、「階層格差は沖縄だけじゃなくて世界中にある。どういう意味でこの本が沖縄研究であるといえるのか」とコメントした社会学者がいました(笑)。

 じっくり調査して、そこで起きている「さまざまなこと」を書いて、それを理論化・一般化すると、すぐに「沖縄じゃなくてもよくない?」みたいな話は出てきます。

 でも、人ってみんな人生を生きているけれど、それぞれが特定の場所で生きているわけでしょう。例えば、抽象的な「アスリート」にはなれませんよね。卓球なりボクシングなり野球なり、なにかの競技をやって、結果的にアスリートになるわけじゃないですか。同じようにただの人生を生きている人はいなくて、東京や大阪や沖縄で生きて、女性であって、障害者であってという、重層的な生を生きているわけです。だから特定の人を書くことで、「人生」というものが書けるはずなんですよ。いま、なかなか書かれていないことでもあると思う。

威勢よく言えることを可能にする条件

石岡 生活史は連続している、つながっている感覚がありますね。特定の年号に封じ込めていた体験を、生活史で聞いてみると、それがまだ終わっていなかったり、継続されている。そういう点ではなく線でみるような視点なのかと思いましたね。 例えば齋藤直子さんの『結婚差別の社会学』(勁草書房)を読むと、そのことがよくわかります。僕たちが「被差別部落の結婚差別」と聞いて思い浮かべるのは、「結婚の時にこんなひどいことを言われた」というような話。でも実際はもっと粘り強い交渉が行われていますよね。

 母親が「私は差別しないけど、あなたの妹の彼氏の親がどう思うかしら」みたいなことを言って来る。間接的に味方なふりをしながら、他人を使って挫けさせようとする。それに対して「お母さん! これは差別です!」とは正面切って言えなくて、「この人はいい人なんだよ」と相手の人柄を出して交渉していく。本来は被差別部落をめぐって話をしていくはずなのに、そこを回避するように「人柄」を打ち出す交渉になる。

 それで結果的に結婚できたとしても、被差別部落への差別という本丸は残っていく。結婚後にも、ほかの人の結婚式に同席するかどうかといった話になっていき……という長いプロセスの中で書かれています。結婚できたら差別は終わりではなくて、一連のプロセスとしてあることがわかりますよね。

 プロセスなんですよね。特にいまの若い人は親と仲がいいんですよ。年配の活動家の人とかは「駆け落ちしたらいいんだよ」と言っちゃうひともいて、それはそれでその時代では大事なことだったんですが、いまは現実的にはなかなかそれはできない。親も子どもとの関係を悪くしたくない。だから親も、「この人はいい人だから」と例外化の戦略を取ったりする。でも部落差別をする側の偏見は温存されているわけです。たとえ子の結婚を許すにしても、部落に対する自分たちの差別意識を保ったまま、部落の外に住んでほしいとか、子どもには出自のことは伝えないでほしいとか、解放同盟とも付き合わないでほしいとか、そういう「付帯条件」みたいなものがたくさん出てきてしまう。それがリアルです。ピンポイントでしか見てないと、「差別を乗り越えて結婚できた」としか見えてないものが、長いタイムスパンで、生活史全体をみると、その前後に長い長い交渉や調整、「条件闘争」みたいなものが見えてくるんです。

石岡 「親との関係なんか切って駆け落ちしろ」と言うのは、戦っている最前線ではそうなるのかもしれないけど。でも『生活史論集』で出てくるのは、僕の場合にしても、結局は立ち退きに応じざるを得ない人の話になる。

 部落差別を乗り越えて結婚できたひとでも、100%「勝利」したかっていうと、なかなか微妙なことがたくさんある。マニラのスクォッター地区の立ち退きと闘ってきたひとでも、それを受け入れて生きていかないといけない。こういう人生のリアルな側面って、どうやったら「社会学的」に描けるんでしょうね。そういう方法論がほんとうに無い。

 沖縄戦の集団自決で家族全員が亡くなって、一人だけ生き残った方に生活史を聞いたとき、泣きながら当時のお話をされていた。でもその人は基地賛成派なんですよ。そういうところをどうやって書けるんだろう。その人の人生を聞くと、軍作業で生きてきて、飯を食ってきた人なんですよね。

 僕自身としては基地は反対派だし、反対派の立場のまま、その人の話を聞く。だって、その人の話は絶対に否定できないですよね。職業倫理以前に、人として人に話を聞かせてもらいに行っているわけだから、その人を否定してはいけないでしょう。

 そうやって人の話を聞いて、いろんな人の立場を理解したいなと思う。でもそうすると、保守的になりますよね。ラディカルなことは言えなくなってくる。基地反対。戦争反対。それは本当にそうなんだけど、その場で簡単なことは言えないわけ。

 でもやっていることに矛盾はないと思っていて、例えば上間陽子は『裸足で逃げる』(筑摩書房)で丁寧に沖縄の女性の貧困や暴力を書いていて、次に出した『海をあげる』(筑摩書房)という本は、基地に対する、もう痛切な、辺野古の基地に対するものすごい痛切なエッセイを書いた。

 だから必ず両立することができるはずなんです。でもやっぱり一方で、いろんな人の話を聞いて、その場で生きている人びとを「理解」することで、テクストの効果としては、現状の社会構造に対して容認してしまうことになる。だからそこは危機感を持っているところでもある。どうしていいのか、すぐにはわかりません。手探りでやっていくしかない。

 「宿命」の話も、ひと昔前の社会学者だったら、名もない一般大衆の諦めの感情、権力を受け入れて戦うことを止めてしまう――とか書きがちだと思うんだけど。

石岡 ぼくの関心は、自分の関与を超えたことが降ってきた時に、それにどう向き合うのかにあるんです。あんなに反対運動を組織して、みんなと一緒にやっていたのが、「宿命だった」と言って折り合いを付けようとしている。自分が影響を与えられるようなことではなく、空から降ってくるようなことがあった時に、自分のひとつの世界の中に位置づけていると思うんですよね。

 なるほどな。世界の中に位置づけている。諦めているわけじゃないんだけど……なんでしょうね。

石岡 そう。諦めているのではない。なんでしょうね。

 いまだに書き方の糸口がわからない。

石岡 似たような話があって。ちょっとお悩み相談になって申し訳ないんですけど。

 お互いお悩み相談しましょう(笑)。

石岡 スクオッターの強制撤去の際、最終的には撤去部隊が来ます。警察や機動隊もいるんですけど、実際に作業をするのは別のスラムから来た雇われの人なんですよね。

 あー、そういう時、地元の人を雇うよね……。

石岡 市役所が日給で雇うんです。撤去チームは青色のTシャツのユニフォームを着て、家をみんなで破壊していく。でもその時、青色の人が家を壊す前に、自分の家を自分で壊す人がいるんですよ。撤去作業員に壊されるくらいなら、自分で壊すと。ちょっと痛ましいシーンですが、これはまだ世界と関与しています。

 抵抗の形ですよね。

石岡 でも最後、ブルドーザーが来るとどうしようも無くなる。ブルドーザーが来ると関与もできず見るしかない。手足が奪われて、目撃者にしかなれないみたいな感覚があって。

 最後、目しか残らない。

石岡 手足が奪われて目しか残らない。それって貧困の世界だと思うんです。目撃するしかない。関与なき目撃者にされる。

 うーん。文字通り「手も足もでない」瞬間っていうのは、人間にはありますね……。

石岡 その辺、どうにかして上手く書けないかなっていつも考えています。そういうことを考えて行く上で、やっぱりその人が「食べていく」ことって大切だなとも思うし。あとやっぱり、生活史っていうのは、生きていかなきゃいけない。

 そう。飯が食えてればとりあえず大丈夫だよね。長い目で見ると、ジェントリフィケーションで地価が上がって家賃が上がったりしていくと、自分たちも住めなくなっていくんだけど、とりあえずそれで仕事が入って飯が食えるんだったら、青いTシャツも着るじゃないですか。

石岡 岸さんが言うように、それは「現状を追認している」と言えるかもしれない。でもやっぱり、人間は生きていかなきゃいけない。生きていかないといけないから、なんでもありとはならないけど。でも生きていくことを正面に据えると、なかなか威勢よく言えない。威勢よく言うためには、ブルデュー的に言ったら「威勢よく言えることを可能にする条件がない」と、威勢よく言えない。威勢よく言えることが可能になっている条件を問わないまま、みんなに「威勢よくしろ」と言うのは、観念論だと思います。

 僕らはやっぱり、飯食うのが一番大事だろうっていう共通の考えがあるよね。それこそブルデューも郵便局の息子やったからすごい苦労してるわけ。全部奨学金で行った人やし、僕も土建屋の息子だから。だから、やっぱり飯食うことの大事さ、大変さみたいなのは、骨身にしみてるんですよね。

 だから、インテリの大学の先生から「脱成長」「資本主義を乗り越えろ」って言われると、「それはそうだけど……その前に飯食うのが大事でしょう」みたいな気持ちになる。ただ、飯を食うことを大事にするのは、現状肯定の思想にはなる。そこらへんは難しいところだよね。

 でもやっぱり、飯を食うことの尊さ、大変さ、を書きたいと思う。やっぱり、飯食ってるやつがいちばん偉いと思うな……。むしろ、もっと楽に飯を食える社会にしたいよね。だから経済成長やっぱり大事なんですよ(笑)。

まだまだわかる部分があるはず

石岡 それは岸さんがおっしゃっている「ドラマチックな話にしない」ことにもつながるように思います。集団自決だ、スラムだ、貧困だというような、わかりやすい盛り上がる部分、ドラマチックなところを書きがちになってしまうんですが、それはしたくないと。

 わかりやすくしない、っていうことが、いちばん大事だと思うんですよ。質的調査の目的って、どんどん「一概に言えなくしていく」ことだと思う。普遍的な法則を発見するのが目的じゃなくて、ひたすら例外を見つけていく。

 質的社会学のやっていることは、仮説を増やすことだと思うんです。一般的に、仮説は減らしていくものだと思われています。ひとつを残してあとは消していく。ですが、逆のことをしていますよね。どんどん増やしていく。

石岡 問いをつくっている感じがあるかもしれません。

 集団自決のような強烈な体験をしていても、基地容認派の人もいる。そうやってどんどん仮説を増やして、境界線をぼかしている感じがします。通常のイメージの科学とは違って、文学に近いみたいな感じで思われがちですが、でも私はこれは立派な科学だと思ってやっています。再現不可能な、一回性の科学。

 強烈に思うんですけども、話したことも、会ったこともないフィリピンの男性の「宿命」という言葉は、人間そのもののような感じがする。私たちの人生と、それは地続きのはずなんですね。絶対になにも理解できない完全な他者であるはずがない。

 『生活史論集』の序文で書いたんだけど、ぼくらは他者性をロマンチックに語りすぎてきたなと思います。絶対に他者は理解できなくて、他者というのは謎なんだと。違うところに生きている人は、本当に分かり合えないんだと。

 そのベースには、「野蛮人」のように相手を扱ってきた植民地的な人類学の長い負の歴史への反省があります。相手の文化や価値観、宗教をまずは尊重しましょう。他者性を尊重しましょうと。その結果として、「他者を理解してはいけない」という感じになっているのではないか。

石岡 理解不可能な方向に行くんですよね。

 あと、なんか「他者は理解出来ないんだよ」って言っている方がカッコよくて、大人っぽい感じもする(笑)。

 でもぼくはそうじゃないと思う。「他者の合理性」という言葉で表現したいのは、合理性については私たちはかなりの部分を共有しているのではないかということです。どんな場所に住んでいても、家族と離れるのは嫌だし、住んでいるところから立ち退きをするのは嫌だ。みんな一緒だと思う。

 外から見たら自分と全然違う行動をしているように見える人でも、共感はできないかもしれないけど、どういう「理由」で行動しているのかを考えたときに、あるいはそれこそ聞き取りをして教えてもらったときに、なにかが「わかる」ことがあるんじゃないか。マニラのボクサーは「他者」として描かれがちなんだけど、現代の日本と地続きで、そういう人から石岡さんは学んでいるわけです。でも、「マニラのスラムで生まれ育った人の気持ちってわからないでしょう」と言われてしまう。

石岡 ぼくは基本的に通じる派なんですよね。でも、通じない派の方がロジカルな勝負では強いんですよ。科学としてのケンカの強さで言うと、他者の理解不可能性の方が強いんですよ。

 わははは。そうそう。通じる派は負けがち(笑)。

石岡 その強さが同時に、限界を伴っていることを感じる必要もある。例えばこのまえ京王線に乗っていて、なにげなく広告を見たら、和光大学の電車広告に打越さんが出ていた。

 電車の広告にあの打越さんが。すごい時代になったなあ……。

写真1

石岡 この広告の中では、キャバクラで働くシングルマザーについて書かれています。打越さんは彼女たちの調査をしますが、「なぜこの仕事をしているんですか?」と聞くかわりに、その生活をよく見て理解しようとする。そうすると、日中の仕事に比べて、キャバクラの仕事の方が、時間にも融通が利き、学校行事にも参加できること、彼女たちが子どもを中心に生活をつくりあげていることもわかってくる。

 こうした話を学生とすると、女性たちを夜の仕事に仕向けている構造と、再分配の問題がありますよね、と言う。もちろん、それはそうなんですよね。でも、そうした問題をメインにしないで、打越さんが違うところにフォーカスしているのはなぜか。

 ロジカルで強い論法を貫き通すのって、あまり考えなくても言える。テンプレがあって、なぞっているだけです。でも実際に話を聞いてみると、テンプレではない。そういうのをもう少し「理解」したいなと思うんです。

 「全部わかるはず」とは絶対言わないけれど、「わかる部分はある」と言いたいですよね。フィリピンのボクサーに僕はなったことがないけれど、「泣き真似」をする話は、わかる部分が確かにある。沖縄戦で家族を亡くした人の気持ちなんてほんとうに、わかるわけがないけど、でもそのあとたとえば軍雇用で必死に働いて家族を養ってきたひとが基地容認の考えを持ってしまうことは、それはそれで「わかる」。

 まだまだ世の中には、わかる部分がたくさんあって、言葉で埋めて近づくことができるんじゃないか。それがぼくらの仕事なんだと思う。

石岡 そうそう、まだまだわかる部分はあるはずだと、ぼくも思っていますね。

※ この店については、岸政彦・柴崎友香『大阪』p.58〜61に詳しく書かれている。

(構成:山本ぽてと)


*2022年9月6日蟹ブックスオープン記念スペシャルイベント「調査する人生 岸政彦×石岡丈昇」

*2023年1月23日『生活史論集』出版記念トークイベント(岸政彦+石岡丈昇)「ディテールを書く」 より構成

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著者略歴

  1. 岸 政彦

    岸政彦(きし・まさひこ)

    1967年生まれ。社会学者・作家。京都大学教授。主な著作に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年、紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)、『図書室』(新潮社、2019年)、『地元を生きる──沖縄的共同性の社会学』(打越正行・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版、2020年)、『大阪』(柴崎友香と共著、河出書房新社、2021年)、『リリアン』(新潮社、2021年、第38回織田作之助賞受賞)、『東京の生活史』(編著、筑摩書房、2021年、紀伊國屋じんぶん大賞2022、毎日出版文化賞受賞)、『生活史論集』(編著、ナカニシヤ出版、2022年)、『沖縄の生活史』(石原昌家・岸政彦監修、沖縄タイムス社編、2023年)、『にがにが日記』(新潮社、2023年)、『大阪の生活史』(編著、筑摩書房、2023年)など。

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