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研究者、生活を語る on the web

【番外編1】ケアとジェンダー、そして権力──山根純佳さんに聞く<研究者、生活を語る on the web>

番外編では、ケアや働き方を専門とされる方々に、ご自身の経験との関連も交えてお話をうかがいます。第1弾は、ケアとジェンダーをテーマに研究してこられた山根純佳さん(実践女子大学教授)。育児や介護といったケアとジェンダーの関連、アカデミアにおけるケア、そして現在の問題意識まで、幅広く語っていただきました。(聞き手=編集部)

 社会学が専門の研究者で、都内の私立大学で教員をしています。やはり都内の大学教員である夫と、12歳・9歳の子どもたちと暮らしています。

多様さを可視化する

 企業においても一定程度そうだと思いますが、研究者のワーク・ライフ・バランスやケアの経験はより千差万別で、ロールモデルが見つかりにくいなとすごく思います。
 私のパートナーは研究者で、今朝もゴミを出して、お茶碗を洗ってくれたので、私はさっさと家を出てきましたが、同じ女性研究者でも、パートナーの職種などによってはほぼ一人で家事・育児されている方もいて、隣にいる研究者でも全然状況がちがったりします。だからこういう連載はすごく大事で、たぶん20人いて、ようやくロールモデルが一人いるかどうかという感じですよね。
 研究者はキャリアの展開も、仕事の内容も、組織のありかたも多様。なおかつそこに、どんなケアか、どんなパートナーか、という変数が入ってくると、ものすごく多様になる。20人いたら20人ちがうというのを可視化するのは、すごく大事だと思います。

ひとりでケアを負う重さ

──夫婦共働きでケアをしていても、ケア負担が一方に大きく寄っているというケースを、連載の取材の過程でしばしば聞きました。とくに、一方の雇用が不安定だったり、短時間勤務だったりすると、ケアの負担はそちら──たいていは女性のほう──に大きく偏りがちです。それで双方が安定し、合意の上でハッピーにやっている感じのケースもある一方で、大きな不満をため込んでいるケースも少なからずある。やっぱりジェンダー問題の影を感じることが多くて、非常に悩ましいなと思いました。

 

 最近の研究で指摘されているのは、高学歴の女性たちが自分のケア負担の大きさについて、「これは性別分業構造が原因なんじゃなくて、私が選択したからやっている」という自己決定・自己責任の言説を用いる、ということです。仕事を選ぶという点では自分は選択をできたのだから、それで自分の人生が何かに制約されたというイメージはなくて、「子どものケアも教育も、こういうパートナーを選んだことも、私は好きこのんでやっているだけ」となるのです。人によっては、家のこともPTAとかも一手に担いつつ、仕事もすごくしていたりする。スーパーウーマンタイプです。そして夫の側も、妻が喜んでそうしていると思っていたりして……。
 ですが、そうして一人で何もかも負っている方は、目に見えるケアに時間を費やしているだけでなく、頭もフル回転させていて、その意味でも大忙しだと思います。
 というのも、ケアというのは、ご飯を食べさせたり寝かしつけたりという身体的な労働であるだけではなくて、「考えること」を要する営みでもあります。ケアされる本人を観察しつつ、社会で何が求められているかを考えつつ、かつ、どんな資源(お金、時間、人手)が利用可能かを考えつつ、望ましい状態(what)と、実現させるための方法(how)を、日々考え続けているのです。
 たとえば、望ましい状態を実現するために資源を調達する、というのは困難な作業です。相手にとっての必要性とか、相手の心身の状況から「こうしたほうがいい」と思っても、それを実現するための資源がなかったら、最善ではない形で「what」を再定義せざるを得ません。例えば、夜間の保育がないからネットでベビーシッターを探して雇わざるを得なくなったり、コロナ禍で学校が休校であれば子どもを一日中留守番させるしかなくなったりと、いろんなリスクの中で、どうにか時間や資源を調整して、ケアを実現しているわけです。
 研究者の場合には、金銭面での外部資源の調達能力は低くないので、外からは一見、わりとうまく回っているように見えたりします。でも、ちょっと中をみてみると、「どうすべきか」を考える責任を女性だけが担っている、ということはよくある。もちろん、時間という資源についても、ケア負担の大きい側は、早く帰宅してうまくやっているように見えても、実際にはたとえば研究室であと1章分本が読めたのを読まずに早く帰っているわけなので、外からは見えないコストを払っているはずです。若いころ、私は年上の研究者が書いた「子供一人、論文10本分(の時間をかけた)」というエッセイに衝撃を受けましたが、育児を経験した今は、これは10本以上かも……と不安になります。

スキルが一方に集積すると……

 先に述べたように、ケアというのは実はすごく複雑な営みですが、こういう複雑なことを一人だけでやっていると、他のメンバーはそれに参加できなくなっていきます。
 ケアされる本人を観察する能力も、本人と会話する能力もなくなっていき、育児なら、子どもが何を大事にしているのか、学校で何が求められているのかもわからない。つまりケアラーとして「非熟練」になっていきます。

 重度障碍児のケアの研究では、子どもをもって以降ずっと続くケアラーとしての人生の中で、子どもの人生や生活に関わるあらゆる責任が母親に集積していくことが多い、と指摘されています。サービスをすべてマネジメントして、さらにはアドボカシー──その子の権利が守られているかどうかをちゃんとチェックする役割──も、母親が一人で担い続け、父親はその分働きに行く、という分業が徹底されてしまうのです。医療や教育など利用する外部の機関も、「お母さん、どうしますか」と、母親に意思決定や判断を求める。こうして、ある種のスキルが母親に集積していくと、他の人(主に父親)はケアに関われなくなります。
 ケアの責任の大きさというのは、不確実なこと、確証がもてないことを決断しつづけ、その結果の責任も引き受けなければならない点にあります。そうした「名もなきケア責任」をゆだねられる人が一人だけで、資源もできる限り家族の中で調達するというのが、近代家族でのケアのありかたでした。しかし、一人の人間にそうした責任を委ねる性別分業は、経済的には合理的に見えても、ケアのマネジメントとしては合理的ではありません。一方がそうした責任をすべて負うのではなく、パートナーも共有してくれれば、負担は大きく減ると思います。
 私が教えている学生たちの声をきく限り、今の学生にとってでさえ、多くの場合、お父さんは「ケアできない存在」のようです。学生は「お父さんには考えられないから」と表現します。自分のことを考え、育ててきたのは、母親のほうだと認識しているようです。
 とはいえ最近、オープンキャンパスにくるお父さんの数も増えたように思います。娘にとって何がいいのか、一緒に考えるお父さんが少しずつ増えてきているのかもしれません。ケアする人の負担の面からも、ケアされる側に複数の信頼先・依存先があるという点からも、「わからないこと」を一緒に考えてくれる人が複数いる方が、家族の生活の質を高める仕組みとして優れていると言えるでしょう。

別居はつらいよ

 ケアの分担の話にも少し関連しますが、夫婦で別居している研究者は多いですよね。

 

──別居の経験がおありとうかがいました。

 

 はい。上の子が生まれるころです。
 山形大学に着任してすぐ妊娠して、産休・育休のときに半年東京に戻っていて、その後は半年夫が山形に育休できて、一歳児になった時点からは別居で、子どもと山形で暮らしていました。
 保育園も大学もどちらも家から徒歩3分とか、今では信じられないようないい環境でした。子どもが熱を出したら、隣の研究室の先生が図書館に『となりのトトロ』をみせにいってくれたり、保育園の先生が非常に手厚く見守ってくれたりもしました。
 でも、そういう社会的な資源があることと、家庭の中にもう一人、ケアに携わる人がいるかどうかというのは大きな違いです。いつもギリギリでした。東京の大学勤務の夫は、基本的には金曜にはきて、週末を山形で過ごし、週明けに大学に出勤していったのですが、平日だけでも、一人でケアする生活は本当に大変でした。
 そこで、下の子の育休中に現職の大学に異動しました。同居しないと、とにかく生活も研究もやっていけないと思ったのです。産後で衰弱した体だったのに加え、育休を取得させてもらったのに異動することへの罪悪感も大きくて、急性胃腸炎になってしまいました。
 でも一方で、そうした同居の機会を得にくく、別居を続けざるを得ない、20年別居してようやく同居を実現するような方もおられます。みなさんものすごくパワフルですが、パワフルな人だけを見ているとつらいですよね。

 

──結局、残るのはパワフルな人だけかという……。

 

 そう。健康な人だけなんです。

成果主義の世界で

 だから、「こうやって成功しました」という話だけ載せても、現実を見たことにはならない。仕事で成功した女性が、泣く子どもを置いて出張に出かけてました!みたいな話は、「やってのけた」話として消費されがちですが、先ほどの話のように、表面的にはうまくやっていても、内実はいろいろです。
 業績は個人のがんばりや努力次第と思われている研究者の世界では、「ある人が研究者として成功できて、育児もどうにかできた」というストーリーは、その人の能力に還元されてしまいがちです。「〇〇さんはすべてできたすごい人」、「なのに私はできなかった、子育てだけに時間を費やしてしまった」と。こうした能力主義で語る傾向が、研究者には強いんじゃないかと思います。でも実はそれは個人の能力だけじゃなくて、先述のような資源があったり、機会があったり、親が近くにいたり、健康だったり、そういう要素も大きいものです。
 この連載のような「こういうふうにケアを調整し、工夫して、どうにかやっている」という話は、研究者という能力主義の世界ではなかなか出にくい。どうしても仕事のほうに向かって、「いまこれができているのは、ケアをこういうふうに工夫したからです」という語り口になってしまうのですが、いかにケアに対して時間・精神力・体力が使われているかというのが、もっと声高に語られるべきではないかと思います。

「介護」の見えにくさ

 それから、介護は本当に不可視化されている。育児と、介護とを一緒にはできないなと思います。同じ「ケア」って言わないほうがいいんじゃないか、と思うほどです。もちろん育児でも、子どもが赤ちゃんのころは、後者のケアに近いものがありますが。
 これは研究者以外でも同じですが、育児は誰がやっているのか、周囲からある程度認識されています。私が山形大学にいたころ、育休から復帰してすぐ、非常にお忙しくされている先生が「育休復帰後に大変だよね、授業一つやるよ」と、その一言で授業を代わってくださったことがありました。その方はもう少し大きいお子さんを子育て中で、自分がついこの間まで大変だったので、それをわかっていて。
 育児だとかろうじてそういうコミュニケーションが成り立ちうるし、他人の状態が想像できますが、それが介護では成り立たない。まず可視化されにくいし、世代でもくくれない。
 いまは若手の女性研究者支援がいろいろありますし、配偶者の帯同雇用制度(夫婦がともに研究者の場合、一緒に雇用する制度)を設けているところもあります。そういうことが介護だとしにくい。負担の重さも人それぞれで、本当に一口でいえません。たとえばシングルの人が介護を自分一人で背負うつらさは、夫婦で一緒に子育てしているようなケースとはまったく違うでしょう。また研究者の場合、介護で職を失うような状況にはならず、どうにかやりくりしているから、なおさら見えにくい。「あの人、最近論文書いてないよね」ということで終わってしまう。
 それに、子育ての中には、「運動会だから休まなきゃ」とか、大変でも楽しいこともありますよね。自分もこの10年ほど、子どもと一緒の時間を楽しんだと思います。でも介護の時間の中に、育児と同じような楽しさがあるかといったら、そうではないでしょう。私自身も親の介護が必要になってきましたが、そこには「他にする人がいないから仕方がない」以上のポジティブな意味を付与することはできません。もっと介護の経験が語られるといいなと思います。

ケアと権力

──育児にせよ介護にせよ、働きながら家族のケアをする上では、程度の差こそあれ「外注」は欠かせません。しかしその一方で、「外注」先の方々は一般的に低賃金で、そしてやっぱり女性が多いというところに、引っかかりを感じることもあります。ケアやジェンダーといった研究分野において、この点はどのように議論されていますか。

 

 こういうことを考える人って私以外にもいたんだなあ、と思うほどで、なかなかそういう話は出てこないのです。私は介護労働、特に訪問型のケアサービスを担う労働者が直面している問題について調査しています。訪問型の場合、サービス提供時間にしか時給が支払われず、移動や待機の時間は労働時間にカウントされないため、1日に稼げる額はわずかになります。ベビーシッターや家事サービスにおいても状況は同じです。
 かつて、ジェンダー関連の研究者仲間で、「ベビーシッターを使うかどうか」という話題になったことがありました。「使う」とおっしゃる方に対して、私は、「使わずにどうにかやりくりする」と言ったんです。ベビーシッターを例えば2時間、自分の都合のいい時間に使おうとすれば、働く側の労働は細切れとなります。私は、ベビーシッターに生活賃金を保障するほどの額は支払えないから使わないのだと。もっともその後、「使う」とおっしゃった方にも、使わざるを得ない状況があるのだと気づいて、自分の発言をとても後悔したのですが……。うちはたまたまパートナーと会議の曜日がずれているとか、どうしてもの時は親にきてもらっているので何とかなっているとか、人によっていろんな状況がありますよね。
 じゃあ保育園に預けるのはいいの?みたいな話にも当然なるのですが、もちろん保育園の先生だって、低賃金という面では同じです。ケアは、それを提供する人と、利用する人のあいだの権力関係となかなか無縁ではいられません。制度の問題であって、利用者側の問題ではない、とは言えますが、利用者にも、政治や制度を変えていく責任がありますよね。でもこういう話は、研究者の間でもあまり出てこない印象があります。
 世界的にみると、利用者がケアワーカーの生活や賃金を保障しようという動きもあります。たとえばアメリカやフランスでは、いずれも公的なケアサービスはわずかなので、家庭の女性が雇用主になって使用人を雇うという、いわゆる「使用人モデル」がずっと続いてきているのですが、その中で、使用人を雇う側の女性たちが、自分たちで組織をつくって、搾取しないような賃金を家事・ケア労働者に保障できるような制度を求める運動があります。フランスでは雇用主の女性たちが、家事労働者の労働協約の実現のために運動をしてきました。いいサービスを使うには、まずは労働者の労働条件が確保されなければならないですよね。それに、ケアや家事労働の重要性や価値を、社会的に認めてもらう必要もある。一方、日本では、ベビーシッターのサービスの利用にあたって政府から補助も出るようになり、そうした市場サービスの利用が増えてきていますが、家庭で働く労働者の保護や規制はおざなりになっています。
 ケアや家事が市場化されると、高所得や高学歴の世帯でのサービスの利用は進みます。たとえばスウェーデンでは、家事サービスの購入費用に対して、政府が税額控除をする仕組みがあって、それを利用した世帯では、女性の労働時間や賃金が増えたとの分析もあります。先ほどの研究者の世界の話に戻るなら、これと同様に「研究者として成功したいのであれば、家事やケアを最大限外部化して、研究の時間を確保すれば成果を出せる」ということになりますよね。でもそれが果たして正解なのか、と思うのです。
 ヘルパーやシッターの人たちと、その方々を使う側、雇う側が、現在はwin-winの関係にはないことは確かだと思います。一方で、給付や規制の仕方によっては、搾取的ではない関係を作ることは可能です。では、どんな制度が望ましいのか。搾取的でない関係ができればそれでいいのか。いま毎日毎日、それについて考えています。特にこれという解はまだないし、一番、フェミニストが触れたくないところだとも思います。少し上の世代のフェミニストは、「女性が個人の選択で、稼いで介護を外注できる」ことをゴールにしてきたように思うからです。
 家事や、育児・介護といったケア──特に親を介護するのはすごく悩みも多いしつらいのですが、それらを軽減するために外注化できてよかったね、という話になったときに、その外注先の人たちを、どういう雇用関係や権力関係の中に置いているかということについて、研究者は社会的責任として考える必要があると思います。でもそれを、ケアを抱える人だけに求めるのは過剰な負担です。ケアを抱えていない人たちにも、一緒に考えてもらいたい課題です。

 

──ありがとうございました。

 

 

山根純佳 やまね・すみか
1976年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了。博士(社会学)。山形大学人文学部講師、同准教授を経て、2015年より実践女子大学人間社会学部准教授、2022年より同教授。専門は社会学。著書に、『なぜ女性はケア労働をするのか──性別分業の再生産を超えて』(勁草書房、2010年)、『産む産まないは女の権利か──フェミニズムとリベラリズム』(同、2004年)など。シリーズ『岩波講座 社会学』(岩波書店、2023年10月より刊行)編集委員。


 

※「研究者、生活を語る on the web」は、次回の番外編2で最終回です。どうぞお楽しみに。

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