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松本俊彦 「身近な薬物のはなし」

第8回 処方薬 医療へのアクセス向上が作り出す依存症

 はじめに

 自らも回復した依存症当事者である米国の依存症専門医カール・エリック・フィッシャーは、著書のなかでこう述べています。

 「最大規模の薬害──依存症を含む──は、ほぼ必ず合法な製品により引き起こされるという事実は、繰り返し、そして『選択的に』忘れられている」1

 連載第1回でも引用した言葉ですが、改めてこの事実を確認しておきたいと思います。その例はいくつでも挙げることができます。たとえば、英国におけるジン・クレイズ(第3回参照)、それから、清朝において侵略戦争の原因ともなったアヘンもそうです(その当時、アヘンはアルコールと同様、節度をもって使えば有用な医薬品と考えられ、事実、英国では子どもの夜泣き止めとしても用いられていました)。そして今日、北米のオピオイド危機は、決して違法なヘロインではなく、オキシコドンやフェンタニルといった医療用麻薬によって引き起こされています。これらに加えて、前回取り上げた、わが国の市販薬乱用禍を含めてもよいでしょう。

 それにもかかわらず、為政者はそのことを「選択的に健忘」し、違法薬物の取り締まりや乱用防止啓発に巨額の予算を投じ続けています。あまつさえ、当の為政者が肝心の自分の問題に気づいていないことさえあります。

 フィリピンのドゥテルテ元大統領がよい例です。彼は、超法規的な麻薬撲滅対策によって、在任中におよそ6000人の麻薬密売者を裁判にもかけないまま殺害しました。しかし、当の本人は、若い頃に起こしたオートバイ事故の後遺症に対して処方されていた、医療用麻薬フェンタニル(ヘロインの何十倍も強力なオピオイドです)を乱用していて、そのことに気づいた医師から処方を中止されています2。おそらく彼は、よもや自分が麻薬を乱用している、ましてや、依存症かもしれないなどとは微塵も考えなかったことでしょう。

 まあよくある話です。人間は、「よそ者」が使う見慣れぬ薬物に対しては厳しく非難し、舌鋒鋭く糾弾する一方で、自分を含む「身内」が使う身近な薬物には不思議と寛容で、少々不適切な使用をしていても穏便にすまし、さらには同情さえするものです。

 今回、その身近な薬物として、医師から処方される医薬品=処方薬を取り上げます。もっとも、世界的には処方薬乱用といえば、何といっても医療用麻薬ですが、さいわいにもわが国の場合、医療用麻薬の乱用は海外のような深刻な事態にはなっていません。その代わり睡眠薬・抗不安薬といった、精神科領域の処方薬の乱用は、最近20年あまり一貫して問題であり続けています。ですから、ここでいう処方薬とは、睡眠薬・抗不安薬のことを意味します。

睡眠薬・抗不安薬依存症とは? 

1. 睡眠薬・抗不安薬依存症の実態

 「第1回 本当に有害な薬物とは」で紹介した、「2022年 全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査」(以下、病院調査)3の結果を再び振り返ってみましょう。その調査結果によると、今日、睡眠薬・抗不安薬は薬物依存症臨床における中心的問題の1つであることがわかります。

図1 2022年 病院調査:全2468症例における主乱用薬物別の割合

 この調査で、全国から収集された薬物関連精神疾患症例を、主乱用薬物別に分類すると、最も患者数が多い乱用薬物は覚せい剤(49.7%)で、次いで睡眠薬・抗不安薬(17.6%)、市販薬(11.1%)、大麻(6.3%)という順になっています。

 しかし、この調査で収集された症例のなかには、「もう長いこと薬物は使っていないが、後遺症の治療、ないしは断薬維持のために精神科通院を続けている」という患者も含まれています。そうした患者は、すでに「やめられない、とまらない」という依存症の状態を脱していて、正確には薬物依存症治療の対象ではなくなっています。

 そこで、全症例中、過去1年以内に薬物使用が認められる症例だけをピックアップし、主乱用薬物の割合を出し直すと、1位と2位の順序が入れ替わります。つまり、最も多い薬物は睡眠薬・抗不安薬(28.7%)で、僅差で覚せい剤(28.2%)が続き、以下、市販薬(20.0%)、大麻(7.8%)という順になるのです。

図2 2022年 病院調査:最近1年以内に薬物使用が見られた1063症例における主乱用薬物別の割合

 最近30年あまりを振り返ると、様々な乱用薬物の「栄枯盛衰」がありました(図3)。思えば、1980年代まで、わが国において薬物といえば覚醒剤と有機溶剤(シンナー)でした。ところが、1991年をピークに有機溶剤依存症患者が減少し始め、それと入れ替わるように、睡眠薬・抗不安薬依存症患者がじわじわと増え始め、2010年、ついに睡眠薬・抗不安薬はシンナーを追い抜いて、覚醒剤に次ぐ、わが国第2位の乱用薬物となったのです。

図3  病院調査における主乱用薬物の割合に関する経年的推移

 その後、2012~2014年において脱法ハーブなどの危険ドラッグ乱用禍があり、一時的に第2位の座を譲ったものの、危険ドラッグ乱用禍が沈静した2016年以降、再び第2の座に返り咲きました。以降、調査のたびに睡眠薬・抗不安薬依存症患者の数、および全薬物依存症患者における割合は増加し、今日の状況となっています。

 なお、この睡眠薬・抗不安薬はベンゾジアゼピン系もしくはその近縁の薬剤とほぼ同義です。本稿では、これを一括してベンゾジアゼピン受容体作動薬(以下、ベンゾ類と略します)と呼びたいと思います。

 2. 患者の心理社会的背景

 私が睡眠薬・抗不安薬依存症と診断する患者には、不眠や不安を主訴する健康問題に対して定められた治療量を服用している人は含まれていません。典型的な患者は、連日、規定量の10~30倍のも薬剤を、それこそ昼夜を問わず服用しており、大半は、複数の医療機関から保険診療にもとづく処方を介して入手しています。一部、自費診療や個人輸入というかたちで入手している人もいますが、その場合、価格が非常に高くなり、かなり大きな経済的な負担となります。

 それでは、どのような人が睡眠薬や抗不安薬を乱用しているのでしょうか?

 まず、睡眠薬・抗不安薬依存症患者は、女性に多い傾向があります。覚醒剤や大麻といった違法薬物の場合、患者の大半は男性なのですが、処方薬や市販薬などの医薬品の場合には、患者は圧倒的に女性が中心となります。

 それから、年代としては30~40歳代にピークがあります。同じ医薬品である市販薬の依存症患者では、同じ女性でも10~20代に多いのと好対照です3。もしかすると、これには、継続的就労や結婚などによって保険証を自由に使えるようになる年代かどうかが、乱用薬物の選択に影響しているのかもしれません。

 睡眠薬・抗不安薬依存症患者は、覚醒剤などの違法薬物の依存症患者に比べて学歴が高く、犯罪歴を持つ人が非常に少ない傾向があります。犯罪歴の少なさには、乱用薬物が違法なものではないことも影響しているでしょうが、いずれにしても、こうした生活背景を見るかぎり、一般の人々と変わらないプロフィールの人たちといってよいでしょう。

 3. 受診のきっかけ

 病院受診のきっかけとなる精神医学的な状態像にも特徴があります。たとえば覚醒剤依存症患者の場合、逮捕をきっかけに受診するか、さもなければ、幻覚や妄想といった精神病症状を契機として医療機関につながる傾向があります。ところが、睡眠薬・抗不安薬の場合はそれとは異なります。というのも、睡眠薬・抗不安薬の所持や使用で逮捕されることはありませんし、ベンゾ類の薬理学的特性上、覚醒剤のように精神病を惹起するようなこともないからです。

 睡眠薬・抗不安薬依存症患者の依存症専門外来受診のきっかけにはいくつかのパターンがあります。仕事中の居眠りや自動車事故などで薬物乱用が発覚し、周囲から強く受診を勧められるパターン、また、複数の医療機関からベンゾ類の処方を受けていることが発覚し、医師から処方してもらえなくなって受診を決意するパターン、あるいは、連日、何軒ものクリニックをはしごして薬を集める生活に疲れ、「生き方を変えたい」と決意して受診するパターンがあります。

 さらに、救命救急センターの医師から指示されて受診するパターンもあります。そのような場合、大抵は、年末年始や大型連休といった、医療機関の休診が続く時期に手持ちのベンゾ類が不足し、けいれん発作などの離脱症状が出現して救急搬送されたことが、契機となっています。

 4. 乱用薬の種類と依存症への進展

 それでは、乱用頻度の高いベンゾ類はどのような薬剤でしょうか?

 私たちが行っている病院調査3では、隔年で実施される毎回の調査で、ベンゾ類を主乱用薬物とする患者が、実際にどのような薬剤を選択しているのかを調べています(表1)。結果は毎回同じであり、乱用頻度の高い薬剤は多い順にエチゾラム(商品名「デパス」など)、ゾルピデム(商品名「マイスリー」など)、フルニトラゼパム(商品名「サイレース」など)、トリアゾラム(商品名「ハルシオン」など)です。これら4薬剤はいわば「乱用ベンゾ類四天王」ともいうべき存在で、4薬剤内部での順位の入れ替えがあるにしても、他のベンゾ類とは比較にならないほど多くの乱用患者によって選択されています。 

薬剤 度数 %
エチゾラム 137 31.5
ゾルピデム 103 23.7
フルニトラゼパム 93 21.4
トリアゾラム 37 8.5
ブロマゼパム 28 6.4
アルプラゾラム 22 5.1
ブロチゾラム 21 4.8
ロラゼパム 21 4.8
クロナゼパム 12 2.8
ニトラゼパム 10 2.3
ジアゼパム 9 2.1
エスゾピクロン 9 2.1
ゾピクロン 7 1.6
エスタゾラム 6 1.4
クロキサゾラム 5 1.1

 表1 2022年 病院調査: 睡眠薬・抗不安薬を主たる薬物とする症例における薬剤の内訳(N=435) 

 この4薬剤、薬理作用の効力が強いだけでなく、「切れ味のよさ」が共通しています。つまり、血中濃度の立ち上がりが早く、比較的すみやかに血中濃度が低下するわけです。このため、患者は効果の発現を自覚しやすく、しかも、翌朝に眠気の持ち越しがありません。当然、患者からの評判はよいのですが、実はこういった性質を持つ薬剤は依存性が強いのです。実際、乱用者のあいだでは一種の「ブランド化」がなされて人気を集めています。

 睡眠薬・抗不安薬依存症患者は、最初からベンゾ類を不適切に使用しているわけではありません。最初は処方通りに服用しているのですが、そのなかで、たとえば人間関係の悪化や様々なストレスに曝されるなかで、1錠、2錠……と徐々に乱用を進行させていきます。とりわけ、トラブルを抱えつつも誰にも相談できない(あるいは、相談できる人がいない、もしくは、相談してはいけないと自身が思い込んでいる)、という孤立無援の状況では、薬に頼って乗り切ろうという発想になりやすく、依存症に陥りやすい傾向があります。

 ちなみに、自身の臨床経験からいうと、睡眠薬・抗不安薬を定時薬として指示通り服用する人よりも、いわば頓用薬として、「つらいときだけ服用する」という服薬方法を好む人の方が依存症へと発展しやすい、という印象を持っています。患者自身は、頓服使用する理由として、「毎日使うと依存しそうだから」「癖になるのが嫌だから」と考えているようです。しかし、医師に自身を委ねることができず、「自力で頑張る」「自分でコントロールする」といった姿勢、そして自分の決断と行動が気分の変化をもたらすという体験の積み重ねが、実は依存症との親和性が高いのです。

5. 睡眠薬・抗不安薬依存症の治療

 一般に睡眠薬・抗不安薬依存症の治療は、覚醒剤依存症よりもはるかに手がかかります。覚醒剤依存症ならば、大抵、通院治療だけでこと足りるのですが、睡眠薬・抗不安薬の場合には、ほとんどのケースで入院が必要となります。というのも、ベンゾ類のような中枢神経抑制薬(俗にいう「ダウナー系ドラッグ」)の場合、覚醒剤のような中枢神経興奮薬(俗にいう「アッパー系ドラッグ」)とは異なり、強力な身体依存を形成しているために、解毒や減薬にあたっては慎重な離脱症状の管理が必要となるからです。

 なお、身体依存とは、アルコールやオピオイド、ベンゾ類などの中枢神経抑制薬に特徴的な症候で、その存在は耐性と離脱症状によって確認されます。耐性とは、外部からくりかえし投与される薬物の抑制作用に馴化すべく、中枢神経系がその活動基準値を興奮状態へと高める結果、当初と同じ効果を発揮するのに必要な薬物量が次第に増えていく現象を意味します。一方、離脱症状とは、高度な耐性を生じた段階で、急に中枢神経抑制薬物の中止・減量をすると、抑制を解除された中枢神経系はリバウンド的に興奮状態を呈してしまう現象のことです。ベンゾ類の場合には、焦燥感や不安感、四肢の振戦(ふるえ)、けいれん発作などの離脱症状を生じます。

 すでに述べたように、睡眠薬・抗不安薬依存症患者の多くは、規定量10~30倍もの大量ベンゾ類を連日服用しているので、いきなり中止すると、激しい不安・焦燥に駆られ、断薬・減薬に対する恐怖感に襲われます。その結果、一瞬にして治療意欲は霧散し、「もうやめるのはやめた」と翻意してしまいます。なかには自分で錠剤を5分の1とか、6分の1とかに分割して漸減を試みる人もいますが、常習的に大量使用している人が自力で減薬するのはかなり困難です。そこで、入院という安全な治療環境に身を置いてもらい、乱用しているベンゾ類の総量を等価換算した薬剤をすべて粉砕化し、離脱が出ないように緩徐かつ丁寧に漸減していく必要があります。

 また、同じ薬物依存症でも、治療目標は覚醒剤依存症とは異なります。覚醒剤依存症の場合、「完全に覚醒剤を断つ」ことが目標となりますが、睡眠薬・抗不安薬の場合には、ひとまずは「医師の管理下でベンゾ類を含む処方薬を適正に服用する」ことを目標とします。

 これには、睡眠薬・抗不安薬依存症患者の多くが、覚醒剤存症患者とは異なる動機から薬物を使用し始めることが関係しています。私たちは、薬物初回使用動機に関してベンゾ類依存症患者と覚醒剤依存症との比較を行っていますが4、その結果によれば、覚醒剤依存症患者の多くは、「誘われて」、あるいは「好奇心・興味から」「刺激を求めて」といった動機から薬物の初回使用に至っていました。一方、睡眠薬・抗不安薬依存症患者の場合、大半が「不眠の軽減」「不安の軽減」「抑うつ気分の軽減」という動機から薬物使用を開始していたのです。つまり、好奇心や快感を求めて使用しているのではなく、苦痛を緩和するために薬物を使っているわけです。

 さらにいえば、初回使用のきっかけとなった不眠や不安、抑うつ気分の多くは、うつ病や不安障害といった精神疾患の症状であり、そして初回使用というのは、まさに精神科での治療であったりするわけです。要するに、患者の多くは、依存症とは別に治療すべき精神疾患を抱えていて、それに対する精神科薬物療法は別途必要である、ということです。当然、できるだけベンゾ類以外の薬剤で治療を試みますが、なかには、どうしても最低限のベンゾ類を服用しなければならない患者もいます。

睡眠薬・抗不安薬依存症の周辺

1. 依存症を作り出す精神科治療の特徴

 前述したように、精神科治療をきっかけとして初めて睡眠薬・抗不安薬を経験したとするならば、精神科治療のプロセスで依存症が発症する可能性はないでしょうか?

 実は、そうした現象が起こる可能性は大いにあります。2011年に行った古い調査ではありますが、私たちは、同年のある1ヶ月間に東京、神奈川、埼玉県にある4箇所の薬物依存症専門病院に受診した、全睡眠薬・抗不安薬依存症患者87名を対象として、睡眠薬・抗不安薬依存症の発症と精神科治療経験との関係について調べました5。その結果、睡眠薬・抗不安薬依存症患者の88.5%が精神科医療機関から乱用薬物を入手していること、そして、患者の83.9%が、うつ病などを主訴として精神科で治療を受けている経過中に睡眠薬・抗不安薬依存症を発症していることがわかったのです。

 それでは、依存症を発症した患者は、薬物依存症専門外来に受診する以前に、一般精神科でどのような治療を受けていたのでしょうか? 私たちはそのことを明らかにすべく、さらに睡眠薬・抗不安薬依存症患者に対して、以前受けていた一般精神科における治療内容について追加の質問を行いました。

 すると、診察に要する時間や診察頻度、あるいは併用されていた薬物療法以外の心理社会的治療(心理士によるカウンセリングやデイケア、作業療法など)などには、これといった特徴はなく、むしろ至って常識的、「今日の保険診療の枠組みではこんな感じだよね」といった内容でした。

 しかし、精神科主治医の処方行動には議論の余地があるように感じました。というのも、精神科治療経過中に依存症を発症した患者の71.2%が、当該医療機関で「依存性の危険がある薬剤(患者の病態には適不適切な高力価・短時間作用型薬剤や乱用者のあいだでブランド化されている薬剤)の処方」がなされており、68.5%の者が「薬剤を貯めている可能性を顧慮しない漫然とした処方」(たとえば、4週間分処方したのに2週間後に来院し、再度4週間分の処方を受ける、といったフライング処方など)を受けており、そして47.9%の者は「複数のベンゾ類併用療法」や「規定量を超えた大量処方」を受けていたからです。さらに、43.8%の者はなんと「診察なしの処方」を受けていました。

 もちろん、この結果をもって「ダメな治療」と断じることはできません。なにしろ、情報源は依存症患者本人です。申告バイアスが混入する余地は十分にあります。また、「依存性の危険性がある薬剤の処方」「多剤併用療法」「大量処方」についても、患者の病態、あるいは、治療経過上の様々なプロセスと悪戦苦闘するなかで、やむを得ずそのような結果になった可能性もあります。

 とはいえ、そのような点を考慮しても、「薬剤を貯めている可能性を顧慮しない漫然とした処方」や「診察なしの処方」については、いかなる事情があってもやはり問題です。いうまでもないことですが、フライング処方をくりかえし求めてくる患者は、処方量以上に多く服用しているか、さもなければ、貯め込んでいるか、誰かに横流している可能性があります。それから、診察なしで処方を求める患者には、医師との対面を躊躇する、何らかの事情があると考えるべきですし、何よりも「無診療投薬」は医師法に違反する行為です。

 2. 自殺行動との関係

 睡眠薬・抗不安薬が引き起こす問題は、依存症だけにとどまりません。なかでも、過量服薬による自殺行動は重大な問題です。

 1990年代後半以降、都市部を中心にわが国では精神科診療所数の増加、ならびに精神科通院患者の増加に伴い、精神科治療薬の過量摂取による自殺企図で救急搬送される患者も増えてきました。こうした患者の大半がベンゾ類を過量摂取していたことがわかっています6, 7

 もちろん、ベンゾ類の過量服薬そのものは比較的致死性の低い行動であり、それが直接的死因となることはまれではあります。しかし、過量服薬の危険性は、大量のベンゾ類が引き起こす酩酊にあります。酩酊は抑制を解除して衝動性を高め、死や痛みに対する恐怖感を弱めて、しらふではとても考えられないような行動を惹起することがあります。したがって、もともと自殺念慮がありながらも、遺される人たちへの責任や思い、あるいは、死や痛みに対する恐怖がブレーキとなっていた人に対して、そのブレーキを解除しやすくする作用があるわけです。いや、それどころか、酩酊はものの考え方、感じ方を自暴自棄的なものへと変質させる性質もあり、その人が抱える「つらい」という気持ちを「死にたい」へと変容させてしまう危険性もあります。

 私たちが行ってきた心理学的剖検研究(自死遺族を情報源とする自殺既遂者の実態調査)では、最期の行動におよぶ直前まで精神科治療を受けていた自殺既遂者の多くが、最終的な致死的行動(縊首や飛び降りなど)の直前に処方薬を過量摂取していたことがわかっています8

 この結果は、過量服薬による酩酊が脱抑制状態や衝動性の亢進をもたらし、そのような状況のなかで縊首などの致死的行動が引き起こされた可能性を示唆しています。これはとても皮肉な話です。患者の主治医を務めていた精神科医にしてみれば、おそらくは患者の健康や命を守ろうとして治療薬の処方をしていたはずなのに、結果的には、「崖っ縁に立つ人の背中を押す」効果を発揮することとなってしまった、という可能性も否めないからです。

なぜベンゾ類はかくも問題となったのか

1. 精神科医療へのアクセス向上による功罪

 それにしても、なぜベンゾ類は薬物依存症臨床においてかくも問題となったのでしょうか? 少なくとも30年前、私が薬物依存症臨床にかかわりはじめた当時、ベンゾ類の依存症患者は、皆無ではなかったものの、比較的めずらしかったように記憶しています。

 おそらく当時はまだ精神科受診に対する抵抗感が強く、通院患者も少なかったのでしょう。そもそも、精神科医からして少なかった気がします。いまでこそ精神科は、医学生のあいだで人気のある診療科の1つとなりましたが、私の学生時代、同級生を見わたしても精神科志望者はかなりの少数派、ともすれば同級生から「変わり者」と見なされかねない風潮がありました。

 いまでも思い出すのは、私がまだ研修医時代、正月か何かの親族が集まる場で、父親から「研修医が終わったら、おまえは一体何科に進むつもりだ?」と聞かれたときのことです。私が「精神科に進むつもりだよ」と答えたら、父親はしばらく黙り込み、ややあってからこういいました。「頼むから医者になってくれ」。要するに、一般の人たちのあいだでも、精神科医は医者のうちにカウントされていなかったのです。その場に居合わせた親戚も、「精神科じゃ、私たちが将来病気になったとき助けてもらえないし、相談もできない」と口々に声をあげ、私に変節を迫ったものでした。

 しかし、変節したのは親戚の方でした。いまや親戚の集まりでは、相互に自分が服用する睡眠薬や抗不安薬に関する情報交換をし、「あれがよい」「いや、それはよくない」などと会話する声が耳に入ってきます(大抵、私は聞こえないふりをしていますが……)。実際、精神科に通院しているか否かはともかく、高齢になった親戚のなかで、かかりつけ医から睡眠薬や抗不安薬を処方してもらっていない人の方がむしろまれ、という状況です。

 時代の変化は街を歩いていても気づきます。ある程度の規模の駅ならば、駅前のビルには必ずメンタルクリニックが入っています。私などは「ああ、もはや自分が開業できるエリアは残っていないな」といささか悲観的になりますが、ともあれ、確実に精神科医療への敷居は低くなり、多くの人々が気軽に精神科医療にアクセスし、そして、ベンゾ類を経験しているわけです。

 2. 医療者の問題意識の乏しさと薬事行政の「黒歴史」

 そもそも、私たち医療者からしてベンゾ類に対して無邪気すぎた気がします。1990年代前半、私が研修医として大学病院での勤務を始めた頃、病棟における薬剤管理はきわめてずさんでした。退院患者が持ち帰らずに残した、入院中の不眠時頓用薬が、病棟のナースステーションの至るところに転がっていたのを覚えています。

 こうした残薬は、本来、廃棄するなり、病院薬剤部に返却するなりすべきところなのですが、当時はまだ、医療者がそれを勝手に持ち帰ることが黙認されていました。ですから、医師や看護師は簡単にベンゾ類を入手でき、しかも、ごく気軽に服用していたように思います。実際、睡眠薬・抗不安薬の服用を躊躇する患者に対して、「大丈夫、私なんか毎日服用していますよ」とあっけらかんと告白し、患者の背中を押す医師もいました。

 こうした悪しき伝統、ベンゾ類に対する緊張感のなさも、わが国の睡眠薬・抗不安薬の歴史を振り返ると、理解できる面があります。

 現代の感覚では信じがたいことですが、わが国には、睡眠薬・抗不安薬が堂々と市販されていた時代があるのです9。1972年に市販が規制される以前の話です。具体的な薬剤を挙げると、ブロモワレリル尿素などのウレイド系(商品名「カルモチン」)、メプロバメート(商品名「アトラキシン)など)、メタカロン(商品名「ハイミナール」)、サリドマイド(商品名「イソミン」)、そしてバルビツレート酸系の睡眠薬……いずれも今日のベンゾ類よりもはるかに危険で、依存性が強い薬剤です。それから、最初期のベンゾ類であるクロルジアゼポキシド(商品名「コントール」)も市販されていました。

 文献9でも取り上げられている当時の市販睡眠薬・抗不安薬の広告をみると、あまりの脳天気さに呆気にとられます(図4, 図5, 図6)。「文化人病・都会人病の新しい薬」「奥さまのイライラ……ノイローゼを追放して家庭を明るくする薬」「心は日本晴れ!」……まるで栄養ドリンクか、何か詐欺めいたサプリの宣伝と見紛うばかりです。

 

図2・図3 メプロバメートの広告

 

 

図4 クロルベンゾジアゼポキサイドの広告

 それだけではありません。すでに1950年末以降、多くの医師たちが新聞などのメディアを通じて依存性に関する警鐘を鳴らしし、また、そうした依存症罹患症例を学術論文としても報告していたにもかかわらず10、国も企業も驚くほど呑気に構えていました。なるほど、催奇性が判明したサリドマイド、そして、睡眠薬遊びと自殺目的の使用が社会問題となったメタカロンこそ、さすがに販売停止となりましたが、メプロバメートについては形式的な注意喚起や市販自粛要請をするにとどまり、実際には市販を許容するかのごとく事態を放置していました。率直にいって、これはわが国の薬事行政における「黒歴史」といってよいでしょう。

 しかし、1971年、事態は急転直下を迎え、一気に睡眠薬・抗不安薬の市販は規制されていきました。それには2つの出来事が強く影響しました。1つは、1971 年2月に国連の「向精神剤に関する条約」においてこれら市販薬含有成分が規制対象となったことです(その後、国内法を整備し終えた1976年、日本もこの条約に批准することとなります)。そしてもう1つは、同年 12 月に、京都大学医学部附属病院精神神経科の川合仁医師が、「メプロバメート製剤の販売中止と回収を求める要望書」を厚生省と製薬企業に送達し、このことが新聞に掲載されて、ちょっとした騒ぎになったことです9。つまり、国連と世論に強く背中を押され、ようやく国は重い腰を上げ、遅ればせながら睡眠薬・抗不安薬の購入には、医師の処方箋を必須としたのでした(ちなみに、前回も言及しましたが、ブロモワレリル尿素については現在もなお市販されていて、これは依然として不可解きわまりない現象です)。

 このような薬事政策上の改革を経て、ベンゾ類はきわめて安全な薬剤と見なされるに至ったことでしょう。なにしろ、かつて市販されていた睡眠薬・抗不安薬の大半よりもはるかに安全ですし、しかも、それは処方箋がなければ、入手できないわけです。二重の意味で安全……そう考える医療者が多かったとしても、まあ無理もない、という気がします。

 もっとも、現実には、早くも1980年代初頭に、欧米において早くもベンジゾシアゼピンの安全性に関する疑義が持ち上がり、その依存性や様々な離脱症状に関する報告が相次いでいたのです。しかし、残念ながらそれはわが国には届いていませんでした。少なくとも私の印象ではそうでした。実際、1980年代の終わり、医学生時代に私が読んだ薬理学の教科書には、ベンゾ類以前の睡眠薬・抗不安薬の危険性がしきりと強調されていただけでした。

対策の功罪と精神科医療の課題

1. 「四面楚歌」の精神科医

 2010年――前述したように、この年の病院調査において睡眠薬・抗不安薬は、シンナーを抜いて、覚醒剤に次ぐ第2の乱用薬物になりました。その当時、私は、現在の職場において薬物依存部門とともに自殺対策部門も兼務していて、国内各地の救命救急センターに赴いては、医療スタッフ研修会の講師として登壇する機会がたびたびありました。

 いま振り返っても、これはなかなかきつい体験でした。精神科医である私は、救急医から敵意を向けられている、という被害妄想に苛まれながら、講義をしなければならなかったからです。

 いや、被害妄想ではなかったかもしれません。というのも、彼らは多数の睡眠薬・抗不安薬の過量服薬による救急搬送患者の対応に忙殺されていて、そうした患者のほぼ全例が精神科通院中だったからです。おそらく彼らは、精神科医による漫然とした多剤大量療法の「尻拭い」をさせられていると、日々憤りを感じていたはずです。

 実際、ある救急医からこういわれたことがありました。曰く、「私は精神科の患者が嫌いですが、それ以上に精神科医が嫌いです」。あるいは、意地の悪い質問が飛んでくることもありました。曰く、「精神科医が増えても自殺は減らないのはなぜでしょうか?」。当時、わが国の自殺者総数が3万人台に高止まりした状態が続く時期でした。私は返す言葉がなかったのを覚えています。

 既視感のある体験でした。薬物依存症患者の治療で連携してきた、民間依存症リハビリ施設「ダルク」の施設長からは、かねてより「精神科医って白衣を着た売人ッスよねぇ」と嫌味をいわれていたからです。これもまた否定しようのない嫌味でした。というのも、せっかく覚醒剤をやめたのに、今度は、精神科医から処方された睡眠薬・抗不安薬にハマって、以前よりも大変な状況に陥っている、といった薬物依存症患者は、現実にちらほら存在したからです。

 要するに、ここに今度は救急医も加わったわけです。精神科医は文字通りの「四面楚歌」の状況だな、と感じたのでした。

2. 国の対策

 ここまで述べてきた一連のベンゾ類問題に対して、2012年以降、ようやく国も様々な対策を打ち出してきました。まず、2年に1回行われる診療報酬改定のたびに、睡眠薬・抗不安薬の多剤処方や漫然とした長期処方に対する減算が強化されるようになりました。それから、2016年には、これまで向精神薬扱いされておらず、そのため処方日数に制限がなかったエチゾラムが、ようやく向精神薬に指定され、それに伴って処方日数も30日上限と定められました。なお、このエチゾラムは、適応症の広さからひとりの患者に複数の診療科から重複して処方されていることでも問題となっていた薬剤です11

 さらに2017年3月には、医薬品・医療機器総合機構(PMDA)は、「医薬品適正使用のお願い」として、ベンゾ類の依存性に関する注意喚起を行いました12

 しかし、こうした対策がどこまで効果があったのかはわかりません。多剤処方による診療報酬減算については、確かに多剤処方は減少したものの、逆に単剤大量処方が増え、ベンゾ類処方総量には変化がなかった、という報告もあります13

 それから、エチゾラムの向精神薬指定ですが、病院調査においてエチゾラムは依然として最も乱用患者が多いベンゾ類であることに変わりはありません。もっとも、かつてのような「圧倒的首位」ではなくなりました。その代わり、「同じ30日上限ならばこちらの方がよい」とばかりに、近年、ゾルピデムを乱用する患者が増えていて、エチゾラムを追い越そうとする勢いで迫っています14

 ちなみに、実は、エチゾラムやゾルビデムは、化学構造という点では狭義のベンゾジアゼピンとは異なり、特にゾルピデムは「非ベンゾ」なる名称で呼ばれてきました。しかし、この「非ベンゾ」などの呼称は実に紛らわしく、問題を隠蔽した製品プロモーションともいうべき危険な表現だと感じてきました。なるほど、ゾルピデムの化学構造式はベンゾジアゼピン系とは異なりますが、作用する中枢神経系の部位は同じベンゾシアゼピン受容体です。それも同受容体の「催眠・鎮静」にかかわる領域に特異的に作用し、効果はむしろ強力なのです。

 こうした事情から、私はあえて「ベンゾジアゼピン」「ベンゾ」といわず、「ベンゾジアゼピン受容体作動薬」「ベンゾ類」といった、まどろっこしい表現を心がけています。本音をいえば、「非ベンゾ」と通称されている薬剤については、「ベンゾのNPS(New Psychoactive Substance; 規制の網をかいくぐった、脱法的薬物の総称)」と呼ぶべきではないかとさえ思います。

 ともあれ、上述した国の対策は限定的かつ近視眼的である、と私は感じています。というのも、いずれも処方規制にとどまっていて、年々増大する医療費削減にこそ貢献しても、わが国における精神科医療の質の向上に対して何ら根本的対策にはなっていないからです。

 わが国の精神科医療はしばしば薬物療法偏重であると批判されていますが、そうなってしまうのは、薬物療法が最もコストが低く、時間を要さないからです。そして、最も大きなコストを要するのはマンパワーであり、これを節約するために薬物療法が行われてきた側面は否めません。

 したがって、経営上の必要から「薄利多売」となっている現状を変え、医師のほかに心理士や看護師、ソーシャルワーカーといった様々な職種が時間をかけて丁寧にかかわれる体制を担保しなければ、人々は「苦しいのに薬さえもらえない」状況に喘ぐだけです。

3. 海外における処方抑制の取り組みとその効果

 それでは、海外ではこのベンゾ類問題にどのように対応しているのでしょうか?

 奥村は、ベンゾ類に対する海外の処方抑制施策に関する総説のなかで、欧米各国ではベンゾ類の処方期間に8~16週などと制限が設けられていることを報告しています15。さらに、いくつかの国で行われた対策とその効果についても解説していますが、そのなかから、特に私が興味深く感じたオランダと米国の例を紹介しておきましょう。

 まず、オランダでは、全国民が公的医療保険に加入していますが、2009年よりベンゾ類を保険給付対象から外す、という決定をしたそうです。その結果、ベンゾ類の処方割合は減少しました。しかし、その減少の大半は短期使用者の減少によるものであり、長期使用者の処方日数には変化が見られなかったようです。

 一方、米国では、メディケア(65歳以上の高齢者、または、65歳未満の障害者などを対象とした連邦政府による健康保険)が、2006年にベンゾ類を保険給付の対象から除外するという対策を講じました。しかし、その対策の効果は意外なものでした。確かにベンゾ類の処方割合は著減したのですが、抗うつ薬や抗精神病薬(これらの薬剤の方がベンゾ類よりも高価です)の処方はむしろ増え、年間薬剤料は増加して、医療費抑制効果が得られなかったのです。また、老人介護施設での転倒および大腿骨頚部骨折の発生率は増加してしまいました。このため、2013年メディケアはこの施策を撤廃し、再びベンゾ類を給付対象に戻しています。

 このメディケアの失敗は、私たちに多くのことを教えてくれます。加齢に伴う脳機能低下は睡眠・覚醒リズムの変調を生じやすくさせるので、当然ながら高齢者のなかには不眠に悩む人が少なくありません。こうした不眠に対してベンゾ類を処方しないよう規制したところで、やはり不眠に対する投薬ニーズは変わらず存在するわけです。

 そこで、「ベンゾ類よりも依存性が低いから」という理由から、鎮静作用を持つ抗うつ薬や抗精神病薬が投与されれば、今度は別の問題が生じるのです。というのも、抗うつ薬は心臓血管系への影響から起立性低血圧を、そして、抗精神病薬は錐体外路系への影響から薬剤性パーキンソン症候群をそれぞれ引き起こす可能性があり、いずれも転倒リスクを高めるからです。その意味では、心臓血管系や錐体外路系への影響がほとんどないベンゾ類には、やはり一定の臨床的意義がある、といわざるを得ないでしょう。

おわりに

 人は誰しも苦痛なき人生を望むものです。もちろん、快楽や快感はないよりはあった方がよいでしょうが、それにしたって、まずは苦痛――痛みや不眠、不安――がないことが大前提でしょう。

 こうした苦痛を緩和する精神科治療薬として最も人類とのつきあいが古いのは、いうまでもなくオピオイドです。紀元前4000年前のメソポタミア文明の遺跡から発掘された粘土版にも、ケシと考えられる植物に関して「愉楽の植物」と記載があります。また、古代ローマ帝国五賢帝のひとり、哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、思うに任せぬ政務の苛立ちを日々アヘンによって鎮めていましたといわれています16。そして意外にも、精神科薬物療法はそこから長いこと進歩がみられず、19世紀後半まではアヘンやモルヒネといったオピオイドは、不眠や不安、興奮といった症状に対する、ほとんど唯一といってよい薬物療法でした(他には麻酔薬としてクロロホルムやジエチルエーテルが使われることもありましたが、これらはオピオイドよりもはるかに危険でしたし、アトロピンやジギタリスなどの心臓病治療薬が使われることがあったものの、今日からみると、これは間違った仮説にもとづいた使用でした)17, 18

 その後、アヘン戦争を通じて、オピオイドの健康被害が広く認識されるようになり、精神科医療も必死に脱オピオイドを図ってきたように思います。しかし残念ながら、はかばかしい結果は得られませんでした。20世紀初頭、代替的な治療薬として使われた薬剤――ブロモワレリル尿素、バルビツレート酸――は、いずれも早くから安全性に相当な難があることが指摘されており19, 20、しかも、病態の本質にはまったく影響しない、いかにも対症療法的な薬剤ばかりでした。

 その意味では、20世紀半ばに突如として起こった精神科薬物療法の飛躍的発展――抗精神病薬クロルプロマジンの発見(1952年)、イミプラミンの抗うつ薬としての作用の発見(1957年)、さらに最初のベンゾジアゼピンの開発(1960年)――は、少なくともその時代においては画期的な出来事であったことでしょう。それは、暗黒の精神科医療に一条の光をもたらすかのような幻想を抱かせ、もしかすると精神科医療周辺の人々の祝祭的な気分を盛り上げ、精神科薬物療法の楽観的な未来を無邪気に信じる気運を高めた可能性があります。1950年代末~1960年代における、わが国の市販睡眠薬・抗不安薬広告にみられる、あの脳天気さはそうした気運の延長線上で発想されたのかもしれません。

 しかし、そこに陥穽があるのです。「社会の生きづらさ」に起因する苦痛を薬物で緩和して過剰適応することで、確実に隠蔽され、看過されてしまう問題があることを忘れてはならないでしょう。

 かのローリング・ストーンズが1966年に発表した『マザーズ・リトル・ヘルパー』という楽曲があります(Mother's Little Helper, 1966:1966年のアルバム『アフターマス』所収。作詞・作曲はミック・ジャガーとキース・リチャーズ)。この楽曲は、当時流行していた最初の市販ベンゾジアゼピン薬「バリアム」(クロルジアゼポキサイド)を取り上げ、その小さな錠剤が家事と育児に追われる専業主婦の女性にとっての「駆け込み寺」になっている、と歌っています。

 

Mother needs something today to calm her down(母さんには、いま何か気持ちを落ち着かせるものが必要だ)

And though she's not really ill(別に病気ってわけじゃないんだけどね)

There's a little yellow pill(小さな黄色い錠剤がある)

She goes running for the shelter of a mother's little helper(それが母さんにとっての「駆け込み寺」さ)

And it helps her on her way, gets her through her busy day(そいつがあれば、母さんは何とか忙しい一日を乗り切ることができるんだ)

 

 この歌詞は、当時の欧米において女性がどのような立場に置かれていたのかを描き出しています。いかな欧米といえども、1960年代当時、女性はまだ男性優位社会の犠牲者でした。すなわち、自身の夢や願望を諦めて、「良妻賢母」の幻想に過剰適応し、夫や子どもたちに消費され搾取され続けるために、ベンゾ類を必要としている――そんな女性の姿が透けて見えてきます。

 同じことは、今日のわが国にも通じるのではないでしょうか? すでに述べたように、わが国では、睡眠薬・抗不安薬依存症患者は30~40歳代の女性に多い、という特徴があります。そして、いまパッと、自身が出会ってきた睡眠薬・抗不安薬依存症患者を思い起こしてみても、ワンオペ育児や配偶者からのモラハラやDVに苦悩しながら、「あるべき家族像、あるべき妻像・母像」の幻想に過剰適応しようとしていた女性たちが、何人も思い浮かんできます。

 そう考えてみると、ベンゾ類が「よい薬物」なのか「悪い薬物」なのか、といった議論以上に大切なことがあります。それは、ベンゾ類の「悪い使い方」をしてしまう背景には、一体どのような困難な現実があり、本当に解決すべき問題は何なのかを考えることです。

 

 文献

1. Fisher, C.A.: The Urge: Our History of Addiction. Penguin Press, 2022.(松本俊彦監修・小田嶋由美子訳:依存症と人類――われわれはアルコール・薬物と共存できるのか. みすず書房, 2023)

2. AFP BBニュース:ドゥテルテ比大統領、強力鎮痛剤の使用認める 健康に懸念も. 発信地:マニラ/フィリピン. 2016年12月18日(https://www.afpbb.com/articles/-/3111706

3. 松本俊彦,宇佐美貴士,船田大輔ほか:全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査.令和4年度厚生労働行政推進調査事業費補助金医薬品・医療機器等レギュラトリーサイエンス政策研究事業「薬物乱用・依存状況の実態把握と薬物依存症者の社会復帰に向けた支援に関する研究(研究代表者:嶋根卓也)」総括・分担研究報告書,pp77-140, 2023.

4. 松本俊彦, 尾崎茂, 小林桜児ほか:わが国における最近の鎮静剤(主としてベンゾジアゼピン系薬剤)関連障害の実態と臨床的特徴――覚せい剤関連障害との比較. 精神神経学雑誌 113: 1184-1198, 2011.

5. 松本俊彦, 成瀬暢也, 梅野充ほか:Benzodiazepines使用障害の臨床的特徴とその発症の契機となった精神科治療の特徴に関する研究. 日本アルコール・薬物医学会雑誌, 47:317-330, 2012.

6. Ichikura, K., Okumura, Y., Takeuchi, T.: Associations of adverse clinical course and ingested substances among patients with deliberate drug-poisoning: a cohort study from an intensive care unit in Japan. PLOS ONE, 11 (8): e0161996, 2016.

7. Okumura, Y., Sakata, N., Takahashi, K., et al.: Epidemiology of overdose episodes from the period prior to hospitalization for drug poisoning until discharge in Japan: an exploratory descriptive study using a nationwide claims database. J Epidemiol. 27(8): 373-380. doi: 10.1016/j.je., 2017.

 8. Hirokawa S, Matsumoto T, Katsumata Y, et al.: Psychosocial and psychiatric characteristics of suicide completers with psychiatric treatment before death: A psychological autopsy study of 76 cases. Psychiatry and Clinical Neurosciences 66: 292-302, 2012. 

 9. 松枝亜希子:トランキライザーの流行――市販向精神薬の規制の論拠と経過. Core Ethics. 6:385-399, 2010.

10. 三浦岱栄, 保崎秀夫, 武正建一ほか:禁断症状を示した慢性メプロバメート中毒の6例. 精神医学6 (6):429-434, 1964.

11. Shimane T, Matsumoto T, Wada K: Prevention of overlapping prescriptions of psychotropic drugs by community pharmacists. Japanese Journal of Alcohol and Drug Dependence 47 (5): 202-210, 2012.

12. 医薬品・医療機器総合機構:PMDAからの医薬品適正使用のお願い. ベンゾジアゼピン受容体作動薬の依存性について. https://www.pmda.go.jp/files/000268322.pdf

13. 奥村泰之, 稲田 健, 松本俊彦ほか:診療報酬改定による抗不安薬・睡眠薬の高用量・多剤処方の変化. 臨床精神薬理, 18:1173-1188, 2015.

14. Usami T, Okita K, Shimane T, et al.: Comparison of patients with benzodiazepine receptor agonist-related psychiatric disorders and over-the-counter drug-related psychiatric disorders before and after the COVID-19 pandemic: Changes in psychosocial characteristics and types of abused drugs. Neuropsychopharmacol Rep. 2024;00:1–10. https://doi. org/10.1002/npr2.12440

15. 奥村泰之:ベンゾジアゼピン受容体作動薬に対する処方抑制施策の国際動向. 月刊薬事 58:39-45, 2016.

16. 佐藤 健太郎:世界史を変えた薬. 講談社現代新書, 2015.

17. Shorter, E.: A History of Psychiatry: From the Era of the Asylum to the Age of Prozac, Willey, 1996. (木村定訳:精神医学の歴史――隔離の時代から薬物療法の時代まで. 青土社, 1999)

18. 五位野政彦:明治時代の精神科医療における医薬品ーー医学資料からの調査. 薬史学雑誌 56 (1):25-38. 2021.

19. 角田信三, 早川善平, 松場喜六:急性「カルモチン」中毒3例に就いての考察. 消化器病学 2 (2):325-329, 1937.

20. 村瀨武吉:自殺ヲ目的トセル急性中毒患者ノ統計的觀察. 消化器病学. 2 (3):455-465, 1937.

 

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著者略歴

  1. 松本 俊彦

    精神科医。国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長/同センター病院 薬物依存症センター センター長。1993年佐賀医科大学卒。横浜市立大学医学部附属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所司法精神医学研究部、同研究所自殺予防総合対策センターなどを経て、2015年より現職。第7回 日本アルコール・アディクション医学会柳田知司賞、日本アルコール・アディクション医学会理事。著書に『自傷行為の理解と援助』(日本評論社 2009)、『もしも「死にたい」と言われたら』(中外医学社 2015)、『薬物依存症』(ちくま新書 2018)、『誰がために医師はいる』(第70回日本エッセイスト・クラブ賞、みすず書房 2021)他多数。訳書にターナー『自傷からの回復』(監修、みすず書房 2009)、カンツィアン他『人はなぜ依存症になるのか』(星和書店 2013)、フィッシャー『依存症と人類』(監訳、みすず書房 2023)他多数。

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