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松本俊彦 「身近な薬物のはなし」

第11回【最終回】 「よい薬物」と「悪い薬物」は何が違うのか?  

 「ビッグ・スリー」と「リトル・スリー」

 身近な薬物をめぐる旅もいよいよ終わりが近づいてきました。

 本連載では、デイヴィッド・コートライト1のいう「ビッグ・スリー」(アルコール、カフェイン、ニコチン)を中心に、これら身近な薬物と人類とのかかわりの歴史、ならびに現代における使用実態や健康被害を振り返ってきました。

 この3つの薬物には共通するエピソードがありました。それは規制の失敗です。いずれの薬物も理不尽な規制や禁止令に遭遇し、さらには使用者や販売者が弾圧されたり、残酷な刑罰が科されたりした時期がありました。それにもかかわらず、これらの薬物は屈することなくしぶとく社会に浸透し、最終的に人々の日常生活に欠かすことのできない身近な存在となったわけです。

 それだけに不思議に感じるのです。なぜ「リトル・スリー」(オピオイド類、コカイン、大麻)の場合には、規制が易々と成功してしまうのか、と。つまり、規制政策の成否はさておき、基本的に多くの人々は「リトル・スリー」に対する規制を従順に受け容れ、表立って抵抗運動をしたり、反対の声をあげたりはしていません。少なくとも、18世紀のフランスにおいてタバコの課税率引き上げの際に見られたような暴動や革命は発生していませんし、ロシア皇帝ニコライ2世による禁酒令公布や、旧ソ連邦のゴルバチョフ大統領による反アルコール・キャンペーンのときのように、民意が離れ、為政者が失脚するといった事態とも無縁です。

 なぜなのでしょうか? そして、「ビッグ・スリー」と「リトル・スリー」を分かつもの、両者のあいだの本質的な違いとは、一体どこにあるのでしょうか?

 本連載最終回である今回、蛇足となることを怖れずに、あえて「身近ではない薬物」について少し考えをめぐらせてみます。

薬物を使う人類

薬物の発見

 まずは、おさらいから始めましょう。

 本連載において見てきたとおり、人類は、それぞれが暮らす土地に自生する植物から「好みの薬物」を見出し、文字通り「使い倒して」きました。

 たとえばユーラシア大陸においては、その歴史と広がりという点で最強の薬物はアルコールです(もちろん、大陸東部の中国には茶が存在しましたが、歴史という点でアルコールに及びません)。一方、アフリカ大陸北部には、コーヒーが人知れずひっそりと存在し、400年ほど前、満を持してヨーロッパをはじめ華々しい広がりを見せました。

 それから、長いこと隔絶されてきたアメリカ大陸には、タバコがありました(チョコレートやココアの原材料カカオもありますが、拡散力と依存性という点ではタバコの後塵を拝します)。それは、500年前の大航海時代を機に、短期間でユーラシア大陸全域を席捲しました。

 これらの薬物はいずれも植物に由来しています。

 動物と違って、植物は生を得たときに定められた場所を動くことができず、したがって、害虫から逃げることもできなければ、繁殖に適した肥沃な土地を求めて移住することもできません。

 そこで、自分の身を守るために、害虫の中枢神経系を撹乱したり、生命活動を停止させたりする物質を作り出し、あるいは、魅惑的な匂いや味を分泌して種子を遠方に連れ出してもらう能力を手に入れました。そうした植物を人類は偶然発見し、やがて意図的に精製して有効成分を抽出、あるいは改良し、医薬品や嗜好品として生活に取り込んできたわけです。

薬物によってもたらされた恩恵

 人類がある薬物を受け容れる際には、お決まりの順番というものがあります。

 最初は、宗教的な儀式に際しての神器として、そして後には、病気を治し、心身の疲労を癒す医薬品として用いられます。けれども最終的には、日々の生活に喜びと潤いをもたらす嗜好品として、庶民の生活に深く根を下ろすようになるのです。人々は薬物を介して互いに交流し、心の垣根を外してつながりを築き、絆を深め、外敵と立ち向かうのに欠かせない連帯感を育みます。

 そのような文脈における記録上最古の嗜好的薬物使用こそが、連載第4回で紹介した、シュメール人たちのビール壺2であった、と思うのです。人々が壺を囲み、そこにそれぞれのストローを挿して、同じ1つの壺からビールを飲む――この、「同じ釜の飯」ならぬ「同じ壺のビール」を吸った人たちのあいだには、親近感や信頼感が生まれ、その延長線上に郷土愛や地元愛といった、コミュニティに対する忠誠心が醸成されたことでしょう。

 おそらく同じ現象は、ロンドンのコーヒーハウスやパリのカフェで同じテーブルを囲んだ人々、あるいは、輪になって同じパイプからタバコの回し吸いをした北米先住民においても生じたはずです。そして、そのような体験は、同志や部族の結束を固くしたにちがいありません。

 「身近な薬物」と「身近ではない薬物」の違いとは?

 科学技術の進歩による薬物の変容

 しかし、科学技術の進歩はこれら「身近な薬物」を危険なものへと変化させました。

 たとえばアルコールを蒸留して少量でも十分に酩酊できるジンを作り、安価な紙巻きタバコの大量生産を実現することで、愛煙家がせわしなくチェーン・スモークできる状況を作り出しました。その結果、それらの薬物が引き起こす健康被害は、いまなお公衆衛生上の重要課題であり続けています。

 同じ現象は、「身近ではない薬物」――つまり、「リトル・スリー」をはじめとする規制薬物――にもあてはまります。

 オピオイド類についていえば、ヨーロッパと中近東の人々は数千年前からこれを使っていました。

 ことにヨーロッパにおいて人々は、ケシの実の果汁をエタノールに溶かして作ったアヘンチンキを、咳や下痢を止め、不安を鎮め、眠りを誘う医薬品として用いてきました。ときには、驚くなかれ、夜泣きのひどい赤ん坊にまで投与してきたのです。かくも気軽に頻用していたにもかかわらず、少なくとも19世紀初め頃まではその健康被害が問題になることはありませんでした。

 しかし、19世紀の半ば頃、事態は一変します。その端緒となった出来事が2つありました。1つは、1804年にドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーがアヘンからモルヒネの単離精製に成功したことであり、もう1つは、1853年に英国の開業医アレクサンダー・ウッドがピストン式注射器を発明し、モルヒネを皮下注射して世界で初めて局所麻酔に成功したことでした。

「身近な薬物」と「身近ではない薬物」との不思議な関係

 興味深いのは、「身近な薬物」に対する対策が、「身近ではない薬物」の蔓延を引き起こすことがある、ということです。

 事実、アヘン蔓延の背景には「ビッグ・スリー」の薬物が深く関与しています。たとえば、清朝皇帝によるタバコ禁止令が、人々にタバコに代わる嗜好品としてアヘンに手を出すのを促しました。しかも19世紀に入ると、人々はそれまで経口摂取で用いられてきたアヘンを、まるで禁じられたタバコを摸倣するように、アヘン膏を煙管に入れて「加熱吸煙」するようになったのです。第9回でも触れたように、この経気道的摂取は非常に依存性の強い摂取方法です

 中国にかぎった話ではありません。英国では、18世紀前半に起きたジン・クレイズ(ジンに狂った時代)対策として課税を強化した結果、アルコール飲料の価格が高騰し、そのことが人々をアヘン使用へと向かわせました。というのも、医薬品として課税対象から除外されていたアヘンチンキやアヘンの丸薬は、アルコール飲料に比べるとかなり安価だったからです。それで、苛酷な労働と理不尽な搾取に耐える人々は、日々の憂さを晴らす心の友としてこの安価な医薬品に手を出すようになり、19世紀半ばより英国においても、オピオイド問題は次第に深刻化していったのです

 ある国の「身近な薬物」への欲望が、別の国の「身近ではない薬物」の消費を促進する、という現象もありました。たとえば、英国内における茶(=カフェイン)に対する需要の高まりは、中国におけるアヘンの消費を促進しています。つまり、大英帝国が中国に対してしかけた、かの悪名高き三角貿易は、中国国内へのアヘン流入を促すとともに、大量の銀の国外流出をも引き起こしました。その結果、人々の経済状況は逼迫し、生活苦に喘ぐ人々は、日々の苦痛や空腹を紛らわすために、否応なしにアヘンに耽溺せざるを得なくなったのです。

 要するに、かつて世界各地で起こったアヘン乱用禍の背景には、アルコールやタバコ、カフェインに対する人類の欲望やその充足の挫折といった出来事があったわけです。そのありさまは、あたかも「何か1つを叩けば、別の1つが飛び出してくる」といった、モグラ叩きゲームめいた様相を呈するものでした。

薬物規制は政治的問題

 連載第2回で紹介した「薬物有害性リスト」からも一目瞭然ですが、合法薬物と違法薬物とのあいだには、有害性に関して明確な医学的根拠はありません。いいかえれば、「合法だから安全で、違法だから有害で危険」とはいえないのです。

 誤解を怖れずにいえば、薬物の合法/違法を決定するのは、医学ではなく、政治です。多数の愛好家からの支持があれば、多数決という民主主義の原理ゆえ規制は困難となります。要するに、「身近な薬物」とは、多数の人から支持され愛好されている薬物を意味するわけです。そして、多数の支持者を得るための必要条件は、皮肉にも依存性の強さなのです。

 しかし、依存性の強さだけでは不十分です。結局のところ、主流派の人々――欧米の白人を中心とするキリスト教文化圏の人々――が、何を自分たちの文化圏の内部と感じ、何を外部と感じるかが重要となってきます。たとえば、同じアメリカ大陸で先住民によって使われていた2つの薬物――タバコとコカ(コカイン)――を思い起こしてください。ヨーロッパ人に発見された後、両者はそれぞれどのような運命を辿ったでしょうか?

 すでに見てきたように、タバコは、主流文化の内側に入り込むのに見事に成功しました。それには、ニコチン自体が持つ依存性の強さ、拡散力の強さもさることながら、多くの国において財政上の利益をもたらし、それぞれの国独自の商品が作られたことも無視できないでしょう。その結果、もはや誰も「異民族・異教徒の風習」とは考えなくなり、それどころか、自分たちの文化に昔から存在する習慣とさえ錯覚していたようにも思います。このような「身近さ」は、比較的最近までタバコを「世界商品」といってよいほどの地位に君臨させ続けてきました。

 一方、コカはいつまで経っても「異民族・異教徒の風習」でした。連載第9回でも触れましたが、コカはインカ帝国の名残を色濃く引きずっていました。したがって、インカ帝国を滅ぼして新たな統治者となったスペインからすれば、コカの使用は、被征服民である先住民の脳裏から消去したい厄介な風習でした。そのような異質性、他者性ゆえに、一時的には医薬品(局所麻酔薬)として用いられたことがあったものの、最終的には、白人コミュニティの外部にある「危険な薬物」と見なされ、社会の敵意を一身に受けることになったのです。

 同じことは、オピオイド類にもあてはまるかもしれません。依存症専門医カール・エリック・フィッシャーは、米国におけるオピオイド類への悪感情は、サンフランシスコやニューヨークの中国人街にかつて存在した阿片窟(図1)のイメージに由来すると指摘しています。つまり、身を横たえて長い筒状のパイプでアヘンを吸煙する、懶惰な中国人の姿とオピオイド類とが結びつき、主流文化圏の人々の嫌悪感をかき立て、オピオイド類は完全に「外部の薬物」となった、というわけです。

 要するに、ある薬物を規制するかどうかを決定する際には、排他性や差別意識のようなものが影響している、といってよいのではないでしょうか?

 

図1 阿片窟の様子

なぜ大麻は違法化されたのか?

大麻の歴史

 排他性や差別意識と薬物規制の関係を論じるならば、大麻規制の歴史に触れないわけにはいきません。そこで、このあたりで、オピオイド類とコカインに続く「リトル・スリー」の最後の1つ、大麻について考えてみましょう。

 大麻は、すでに紀元前5世紀頃、現在の中近東付近でスキタイ人やトラキア人によって使用されていたようです。しかし、はたしていかなる目的で用いられていたのかは不明です。

 その後、1~2世紀頃になると、大麻はもっぱら鎮痛・鎮静作用を持つ医薬品として用いられていました。事実、後漢時代に成立したとされる古代中国の漢方薬の書である『神農本草経』には、大麻に関する項目が存在します。それによれば、大麻は毒性がなく、日常的に使用可能な養生薬として、便秘、痛風、リウマチ、生理不順に対する効能がある、と記述されていました

 7世紀に入ると、大麻は薬草として日本にも導入されました。近代日本においても大麻は医薬品として使用されており、1886年以降65年間もの長きにわたって、大麻は「日本薬局方」に鎮痛薬や喘息治療薬として収載されていました。

 娯楽としての大麻使用が広がったのは、大航海時代以降のアメリカ大陸においての話です9。大麻草が自生していないアメリカ大陸に最初に大麻を持ち込んだのは、16世紀半ば頃、アンゴラ出身の黒人奴隷たちでした。そして、中南米の砂糖プランテーションで過酷な労働に従事させられていた黒人奴隷たちは、サトウキビ畑の隅で大麻草を栽培し、仕事の合間に大麻を喫煙していました。労働を監督する白人たちは、大麻を吸った方が奴隷たちの生産性が高まることに気づき、大麻喫煙を容認していたようです。こうして中南米では大麻が普及し、特にメキシコでは大麻使用は大衆の娯楽として一般的な習慣になっていきました9

 いずれにしても、少なくともその時点まで、人類は大麻とうまくつきあっていたわけです。

大麻規制のはじまり

 大麻が社会から敵視されるようになったのは、比較的最近、20世紀前半の米国においてです。

 米国が規制に踏み切ったのは、決して大麻による健康被害や社会的弊害が問題化したからではありませんでした。単に13年続いた禁酒法が1933年に廃止となり、連邦禁酒局という組織の命運と、その組織に属するアルコール捜査官――アル・カポネなどの密造・密売組織を取り締まるために創設されたポストです――の雇用が危機に瀕したからです10

 この状況を打開するために、ときの禁酒局副長官ハリー・J・アンスリンガーは「別の何か」を規制することを思いつき、そこで、大麻に白羽の矢が立った、というわけです。こうして禁酒局は麻薬局へと看板を替え、アンスリンガーはめでたく連邦麻薬局初代長官に就任します。

 アンスリンガーは、有色人種に対する差別感情を巧みに利用して、その取り締まりを正当化し、乱用防止啓発を展開していきました。

 当時米国には多くのメキシコ人たちが続々と移住してきました。1910年に起こったメキシコ革命によりメキシコ国内の治安は悪化し、人々は米国に安全と豊かさを求めたのです。しかし、折悪しく、1930年代の米国は大恐慌後の不況に喘いでおり、白人のあいだでは、雇用競合者であるメキシコ人移民に対する敵意や差別感情が高まっていました。それだけに、メキシコ人移民の習慣である大麻喫煙への嫌悪感を煽るのは容易なことでした。

 その最初の一歩として、アンスリンガーは、大麻の呼称を意図的に変えています。正式名称「カンナビス」ではなく、あえてメキシコ風の俗称「マリファナ」を用いるようにしたのです。これは、人々の潜在意識のなかで大麻とメキシコ人移民との結びつきを強固にする、サブリミナルな手法といえるでしょう。

 大麻嫌悪は黒人に対する差別意識とも関係していました。大麻は黒人ジャズ・ミュージシャンに愛されており、当時、黒人ミュージシャンには、嬌声を上げる白人女性たちが群がっていました。そのような光景に多くの白人男性が漠然と危機感を覚えていたこともあり、黒人ミュージシャンが吹かす大麻タバコは格好の憎悪対象となり得たのです。そこでアンスリンガーは、大麻の蔓延が黒人男性と白人女性の混血児を増加させる、といったデマを流布させて、白人男性の不安を煽り、モラルパニックを引き起こす戦略をとったわけです11

 さらに、予防啓発のために、1936年には『テル・ユア・チルドレンTell Your Children』(数十年後に『リーファー・マッドネス』[図2]に改題し、カルト映画として話題になりました)なる題名の宣伝映画まで製作し、精力的に米国内各地の映画館で上映しました10。その映画というのがなかなかの噴飯物で、大麻の弊害を非現実的なまでに誇張し、「大麻は性欲を刺激し、人を発狂させる。女はみな淫乱になり、男は殺人鬼になるか、自殺する」といった趣旨の作品でした。

 なお、この映画が発端となって、「薬物の恐怖を伝えるためにはデタラメな誇張をしてもかまわない」という、今日まで脈々と続く、薬物乱用防止視聴覚教材の定番的系譜が始まりました。

 

図2 映画『リーファー・マッドネス』

人種差別と言論抑圧

 このように、ある薬物が違法化されると、それによって人種差別がエスカレートし、社会内の格差と分断を増大させることがあります。

 米国のコカイン対策ではそれが顕著でした。富裕な白人は、精製された、高価な白い粉末状のコカインを用い、一方、貧困に喘ぐ黒人は、重曹処理をして砕いた岩の破片のような外観になった、安価なクラック・コカインを用いる傾向があります。そして1980年代後半、クラック・コカインの乱用禍が社会問題となり、その状況をメディアが騒ぎ立てた結果、連邦政府は、同じコカイン所持でも、クラック・コカインの場合にはその量刑を粉末コカインの「100倍」重く設定する、という理不尽な法律を定めてしまったのです(粉末コカイン500g所持とクラック・コカイン5g所持とが同じ量刑)12

 しかも、警察官たちはことさらに黒人を狙って職務質問を行いました。というのも、多くの警察官が、「黒人に職務質問した方が薬物を発見できる確率が高く、効率的」と考えていたからです。その結果、コカインの使用経験率には人種間でさして違いがないにもかかわらず、重罪を科せられて刑務所に収容されるのは、なぜか黒人ばかりという事態となってしまったのです10

 それだけではありません。「クラックをキメた黒人はきわめて凶暴で、通常の拳銃では撃たれた後にも暴れ続ける」という、荒唐無稽な流言が広まったせいで、警察官が携行する拳銃は、より強い破壊力を持つ、口径の大きなものへと変更されたのです。いうまでもなく、その拳銃によって、多くの黒人の命が奪われることとなりました10,12

 また、薬物厳罰政策は、しばしば為政者によって反対派の言論抑圧や支持率向上にも利用されてきました。

 1971年にニクソン大統領がはじめた「薬物戦争」は、まさにそのような言論抑圧の典型でした。当時、公民権運動の激化とベトナム戦争の泥沼化といった出来事が、若者たちに連邦政府への不信感を抱かせ、カウンター・カルチャーによる反戦運動が勃興するなど、米国内の政情は非常に不安定な状況となっていました。

 ニクソンによる薬物厳罰化政策には、こうした反戦運動の担い手である若者を大麻所持で投獄し、運動そのものを抑え込もうとする意図があったのです12。さらに、カウンター・カルチャーにおいて神格化されていた、LSDやMDMAなどの幻覚薬についても、意識変革体験を通じて反体制的な人間を作り出す薬物として、次々に規制薬物のリストに加えていきました。

 1994年には、クリントン大統領が5年間で国内に10万人の警察官を増員し、薬物厳罰政策を加速させました。それには、白人有権者からの支持を回復する意図があったといわれています。その結果、クリントン政権の時代に、刑務所収監者数は70万人増え、全体で200万人に迫る状況となりました。おまけに、収監者の大半が黒人などの有色人種という状況となり、前科の存在によって、有色人種はますます社会的階層の底辺へと転落していったのです12

 薬物依存症を専門とする神経科学者カール・ハートは、このような米国の薬物政策を痛烈に批判しています。曰く、刑事司法制度を用いた合法的な人種差別、有色人種虐待である、と12

国際的潮流の大転換

「薬物戦争」の敗北

 連邦麻薬局初代長官アンスリンガーは、なんと30年あまりもの長きにわたってその座に居座り続けました。官僚人事としてはありえない、この異例の長期政権は、20世紀後半の世界の薬物政策に無視できない影響を与えました10

 なにしろ、米国は第2次世界大戦の戦勝国であり、経済大国にして軍事大国です。その国の麻薬局長官が、国際機関においていかに大きな発言力・影響力があったかは想像に難くありません。実際、ほとんど好き放題といってよいほど、無理筋の規制を実現させています。今日、各国における薬物規制法の根拠となっている、国連の「麻薬に関する単一条約」(1961年)――この条約では、大麻は「医療的な用途がない有害薬物」のカテゴリーに位置づけられていました(2020年には医療的用途ありとするカテゴリーに変更)――は、実質的に彼の意向がそのまま反映されたものです。

 この「麻薬に関する単一条約」以降、同条約に批准した国々では、これを根拠とした薬物規制法を整備し、法と刑罰による薬物政策を実践してきました。しかし、はたしてこうした政策にはいかほどの効果があったのでしょうか?

 同条約公布から50年が経過した2011年、各国の元首相や学識経験者を中心に組織された非政府組織「薬物政策国際委員会」は、同条約公布後50年間における世界の薬物問題の動向と「薬物戦争」の成果をレビューしています。その結果、同委員会は、この「戦争」にはまったく勝ち目がなく、いますぐ撤退する必要がある、という結論を下したのです13

 同委員会の報告書は、1961年以降の50年間、世界中の薬物問題はいっそう深刻になったことを明らかにしています。実際、規制薬物の消費量や、薬物関連犯罪のために刑務所に収容される者の数はこの間著しく増大し、薬物使用者における新規HIV感染者数、ならびに、薬物過剰摂取による死亡者数も年々増加の一途を辿っていました。

 加えて、薬物使用者は「犯罪者」という烙印を押され、医療や福祉的支援から疎外されている実態もつまびらかにされました。しかし何より深刻だったのは、規制強化が皮肉にも密売組織に巨利をもたらし、もはや国家権力でも麻薬カルテルを統制できなくなっていた、ということです。

 この報告書は国連の方針に大きな影響を与えました。まず2013年、国連は、「法の支配は薬物問題を解決する手段の一部でしかなく、刑罰は万能の解決策ではない」と、従来の厳罰政策を180度覆す声明を出したのです14。そして、2016年4月、18年ぶりに開催された国連麻薬特別総会では、「世界各地で起こる様々な犯罪や暴力は、薬物使用ではなく規制の結果」であり、「本来、健康と福祉の向上のためになされるべき薬物規制が、薬物使用者を孤立させている」との宣言がなされたのです15。最近では、2023年に国連人権高等弁務官事務所が、「薬物問題の犯罪化は、医療アクセスを妨げ、人権侵害をもたらす」との声明を出しています16

 実際、厳罰政策はあまりにも多くの命を犠牲にしてきました。たとえばフィリピンのドゥテルテ大統領は、麻薬・覚醒剤にかかわる犯罪の容疑者を、裁判にかけないまま、逮捕したその場でいきなり射殺する、という超法規的殺人指令で有名です。驚くべきことに彼は、大統領就任からわずか半年で6000名以上の人を殺害したのでした。

 一方、寛容政策は被害を最小化し、死亡者を減少させます。2001年にすべての規制薬物の使用と少量の所持を非犯罪化(違法ではあるものの、刑罰の対象とはしない)を行ったポルトガルでは、政策転換から10年を経過した時点で、国内のヘロイン使用者数が10万人から2万5000人にまで減少しました。また、2016年における薬物使用による死亡者数を見てみると、依然として厳罰政策を実施していた米国の場合、100万人あたりの死亡者が312人であったのに対し、非犯罪化を行っているポルトガルの場合には、100万人あたり6人と、圧倒的に低い数字となったのです12

 このようなエビデンスが蓄積されるなかで、世界は、薬物規制法こそが最大の薬害かもしれない、ということに気づき始めたわけです。前に紹介した、国連の様々な提言は、このような文脈を踏まえてなされたものでした。

神話の崩壊

 「麻薬に関する単一条約」において、「医療的な用途がない有害薬物」というカテゴリーに分類されてきた、大麻や幻覚薬に関しても、近年様々な医療的有用性が明らかになってきました。大麻に関しては、大麻成分由来医薬品が難治性てんかんに対して有効であることが証明され、すでに多くの国で公式の治療薬として承認されています。しかしそれ以上に衝撃的な話題は、何といっても、幻覚薬を用いた治療が依存症や難治性うつ病、心的外傷後ストレス症に有効である、というものでしょう。

 この新しい試みの先頭に立っているのが、本連載第2回で紹介したデヴィッド・ナット――2009年に「MDMAは乗馬よりも健康被害が少ない」と主張して、英国内務大臣の逆鱗に触れ、英国薬物規制諮問委員会会長を解任された、英国を代表する神経薬理学者にして精神科医――です。

 近年、彼はLSDやMDMAをはじめとする幻覚薬の医療的可能性を追求して、驚くべき研究成果を挙げています18。そのなかでも近い将来、実用化される見込みが最も高いのは、マジックマッシュルームに含有される幻覚成分サイロシビンによる依存症や難治性うつ病の治療です。

 ナットによれば、サイロシビンなどの幻覚薬は、脳内のデフォルト・モード・ネットワークを休止させて人為的にマインドフルネスな状態を作り出すとともに、神経栄養因子を増加させるようです18。おそらくそれによって脳内ネットワークの再構成を促し、何かにとらわれた人間の意識を改変するのでしょう。

 確かにありそうな話ではあります。なにしろ、アルコール依存症の自助グループ「アルコホリクス・アノニマス」(通称AA)の創始者ビル・ウィルソンが体験した、有名な「ホワイトライト体験」――断酒成功の端緒となった幻覚体験――は、ビルの主治医ウィリアム・D・シルクワース博士が投与した幻覚薬(ベラドンナ・アルカロイドの一種だったといわれています)によるものだったという、まことしやかな噂があるからです19

 サイロシビンの治療効果に関する文献を読んでいると、近い将来、精神科薬物療法革命が起こるかもしれない、という期待が高まります。その革命とは、従来の「半永久的に服用し続ける薬物療法」から、「単回の服用で永続的な効果を出す薬物療法」への転換です。その最初の一歩はすでに始まっています。2023年7月より、オーストラリアでは、MDMAとサイロシビンが心的外傷後ストレス症に対する公式な治療薬として承認されているからです20

 まさしくこれは、1970年代に「医療的用途がない有害な薬物」と決めつけられ、規制対象となってしまった薬物が、敗者復活戦から勝ち登り、とうとう決勝戦に臨んでいる、といった状況を彷彿させます。実際、かつて新大陸に住む未開部族のおかしな風習としてヨーロッパ文明から否定され、蔑まされていた、ペヨーテ(南米に自生する幻覚作用を持つサボテンの一種、有効成分としてメスカリンを含有)やアヤワスカ(南米に自生する幻覚植物、有効成分としてジメチルトリプタミンを含有)を用いた呪術的医療ですが、ここに来て復権の兆しもあります18

 幻覚薬をめぐる一連の事実は、これまでの薬物規制法の根拠をぐらつかせるどころか、覆しかねないものです。なぜなら、もはや薬物に関して、「どれがよい薬物で、どれが悪い薬物なのか」を簡単には判断できない時代が到来しているからです。

 このような現実を前にして、私はこう自問しないではいられません――「薬物戦争において、人類は一体何と戦ってきたのか」と。

 この問いに答えるのは容易ではありませんが、この戦争が不毛で無意味なことだけは明らかでしょう。

「よい薬物」も「悪い薬物」もない

 私たちの長い旅路も、いよいよこれで本当の最後となります。締めくくりにあたって、本連載における私の主張を改めてまとめておきましょう。それは、おおよそ次の3点に整理できます。

 第1に、薬物の違法/合法は医学的にではなく、政治的に決定される、ということです。ここでいう「政治的」とは、ある薬物を支持する者が多数派に属しているのか、という意味です。もちろん、多数派という立場を手に入れるには、その薬物がいかなる弾圧や禁令にも屈しない拡散力――つまり、強力な依存性――を持っている必要があります。しかし同時に、人種的、民族的に「外部」の風習といった差別的イメージを払拭し、そのコミュニティの主流派の人たちが自分たちの「内部」の習慣と認識するようになるかどうかも重要です。こうした条件をクリアした薬物群こそが、かの「ビッグ・スリー」なのです。

 第2に、「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは「よい使い方」と「悪い使い方」だけ、ということです。ともすれば薬物政策は、薬物を「よい薬物」と「悪い薬物」とに分け、前者の弊害には目をつぶるか気づかないふりをし、後者のみを法と刑罰によって規制する、という方法で行われてきました。しかし、すでに見てきたように、病気による苦痛を緩和するための処方薬や市販薬といった医薬品もまた、使い方いかんでは様々な健康被害を引き起こす危険性があります。

 実際、市販薬製品のなかには、今日の医学的水準に照らして、多くの医師が「さすがにこれはまずいだろう」と感じる、時代遅れの危険な成分を含有するものがあります。そして今日、市販薬乱用がかくも社会問題となっているにもかかわらず、そうした製品は依然としてドラッグストアで販売され続けているのです。もはや私たちは、一般に「よい薬物」とされている薬物に関しても、その評価を鵜呑みにすべきではないのでしょう。

 そして最後に、「悪い使い方」をする人は何か別に困りごとを抱えている、ということです。本連載でも触れたように、蒸留酒やタバコが浸透していった背景には、深刻な社会問題がありました。たとえば、ジン・クレイズの背景には、産業革命の時代における苛酷な労働環境が、そして喫煙率上昇の背景には、度重なる戦争――兵士が苛酷な戦場に耐え、政府が戦費財源を確保する――が無視できない影響を与えていました。

 同じことは、「身近ではない薬物」にもあてはまります。連載第1回で触れたように、米国における2回にわたるオピオイド危機にしても、南北戦争が人々の心に残した爪痕、すなわち心的外傷の問題や、中西部の工場労働者の失業と経済的困窮といった問題がありました。

 こうした傾向は、わが国が経験した覚醒剤乱用禍にもあてはまるかもしれません。傍証となるデータがあります。最近50年にかぎって考えても、わが国における自殺者総数のピーク(昭和58~62年[1983~87年]、平成10~23年[1998~2011年])は、同じ期間における覚醒剤取締法検挙人員のピーク(昭和53~62年[1978~1987年]、平成8~15年[1996~2003年])と不思議と時期の近似が見られます()。

 

表 わが国における自殺者総数および覚醒剤取締法検挙人数(厚生労働省『厚生労働白書』および法務省『犯罪白書』より作成) 

 これは単なる偶然ではないと、私は考えています。おそらく社会に蔓延する何らかの息苦しさや、その時代において人々が抱えていた生きづらさが、一方でアディクションの問題として浮上し、他方で自殺の問題として表面化したにすぎないのではないでしょうか?

 要するに、薬物問題の本質は、「薬物」ではなく、「人間と社会」の側にある、ということです。なぜなら、アリストテレスを引き合いに出すまでもなく、人間は社会的動物ではありますが、同時に、薬物を使う動物でもあるからです。

 

文献

1. デイヴィッド・T・コートライト著/小川昭子訳: ドラッグは世界をいかに変えたか: 依存性物質の社会史. 春秋社, 2003.

2. マーク・フォーサイズ著/篠儀直子訳: 酔っぱらいの歴史. 青土社, 2018.

3. Kapoor, L.D.: Opium poppy: botany, chemistry, and pharmacology. The Haworth Press Inc., New York, 1997.

4. 牧嶋秀之: アヘンの社会学: 『エドウィン・ドルードの謎』をめぐって. 『Seijo University (青木健教授退職記念号)』, 315–328, 2012.

5. Nutt, D.J., King, L.A., Phillips, L.D., et al.: Drug harms in the UK: a multicriteria decision analysis. Lancet. 376(9752):1558-1565, 2010.

6. ジョーダン・グッドマン著/和田光弘・森脇由美子・久田由佳子訳: タバコの世界史. 平凡社, 1996

7. カール・エリック・フィッシャー著・松本俊彦監訳・小田嶋由美子訳: 依存症と人類――われわれはアルコール・薬物と共存できるのか. みすず書房, 2023.

8. 国立研究開発法人科学技術振興機構・社会技術研究開発センター「安全な暮らしをつくる新しい公/私空間の構築」研究開発領域ATA-net: 第1回ティーチイン「大麻—禁じられた歴史と医療への未来—」.

9. Pinho AR. Social and medical aspects of the use of cannabis in Brazil. In: Rubin V, eds. Cannabis and culture. Mounton Publishers; 293-302, 1975.

10. ヨハン・ハリ著/福井昌子訳: 麻薬と人間 100年の物語. 作品社, 2021.

11. 山本 奈生: 1930年代米国における大麻規制:ジャズ・モラルパニック・人種差別. 佛大社会学 44 28-43, 2020.

12. Hart, C.L.: Drug Use for Grown-Ups: Chasing Liberty in the Land of Fear. Penguin Press, 2021.

13. Global Commission on Drug Policy: War on Drugs: Report of the Global Commission on Drug Policy. 

14. 国際薬物乱用・不正取引防止デー(6月26日)事務総長メッセージ

15. United Nations Office on Drugs and Crimes: Outcome document of the 2016 United Nations General assembly special session on the world drug problem.

16. United Nations Human Rights Office of the High Commissioner. UN experts call for end to global ‘war on drugs’.

17. Csete, J., Kamarulzaman, A., Kazatchkine, M., et al.: Public health and international drug policy. Lancet, 387(10026): 1427-1480, 2016.

18. デヴィッド・ナット著/鈴木ファストアーベント理恵訳: 幻覚剤と精神医学の最前線. 草思社, 2024.

19. ウィリアム・L・ホワイト著/鈴木美保子・山本幸枝・麻生克郎・岡崎直人訳: 米国アディクション列伝: Slaying the Dragon(スレイング・ザ・ドラゴン)アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史. 特定非営利活動法人ジャパンマック, 東京, 2007

20. Haridy, R.: Australia to prescribe MDMA and psilocybin for PTSD and depression in world first. Decision to make the previously illicit drugs available is dogged by suggestions that it was rushed. Nature. NEWS 30 June, 2023.

 

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著者略歴

  1. 松本 俊彦

    精神科医。国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 薬物依存研究部 部長/同センター病院 薬物依存症センター センター長。1993年佐賀医科大学卒。横浜市立大学医学部附属病院精神科、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所司法精神医学研究部、同研究所自殺予防総合対策センターなどを経て、2015年より現職。第7回 日本アルコール・アディクション医学会柳田知司賞、日本アルコール・アディクション医学会理事。著書に『自傷行為の理解と援助』(日本評論社 2009)、『もしも「死にたい」と言われたら』(中外医学社 2015)、『薬物依存症』(ちくま新書 2018)、『誰がために医師はいる』(第70回日本エッセイスト・クラブ賞、みすず書房 2021)他多数。訳書にターナー『自傷からの回復』(監修、みすず書房 2009)、カンツィアン他『人はなぜ依存症になるのか』(星和書店 2013)、フィッシャー『依存症と人類』(監訳、みすず書房 2023)他多数。

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