【特別公開】命を削って訴える高齢者たち(栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』より)
一夜にして10万人もの民間人を殺害した東京大空襲。戦災孤児、障害者、PTSDなど、苦難のなかで戦後を生きざるを得なかった多くの人たちがいます。
社会の無知や偏見に苦しめられながら、自分たちを切り捨てようとする国に対して救済を求めて立ち上がった空襲体験者たちの闘いをたどります。
この国の「戦後」とは何であったのか。栗原俊雄著『東京大空襲の戦後史』(岩波新書、2022年)より一部を抜粋掲載します。
国会前、「若手」の空襲被害者=82歳の訴え
「先の大戦の空襲被害者は今も補償をされていませーん」。東京・永田町、国会議事堂を望む衆議院第二議員会館前。全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)のメンバーら数人が、ここで「こんにちは活動」を始めたのは2019年4月だ。原則として、国会会期中の木曜日正午から1時間。「民間人空襲被害者が補償を求めていまーす」と声を出しながら、通りかかる人にリーフレットを渡そうとする。国会議員や秘書らに渡すのが狙いだ。
活動を思いついたのは、河合節子(1939年生まれ)。東京大空襲で母親と弟2人を殺された。自身は茨城県に疎開していて助かった。2007年、東京大空襲国賠訴訟の原告団に加わった。敗訴が確定した後は立法運動でリーダー的な役割を果たしている。80歳を過ぎたが、高齢化が進む当事者の中では「若手」だ。「私は、社会運動の経験もありませんし、何をしたらいいか分かりませんでした。でも、今自分たちでできることをやろう、と思って」
「受け取って下さ~い」。河合たちはそう語りかけるが、手に取る人は少ない。
リーフレットには、こう書かれている。
「1945年、第二次世界大戦末期、米軍による空襲が日本全国にありました。東京に始まり名古屋、大阪など大都市、県庁所在地、中小都市、さらに沖縄、広島、長崎が大きな被害を受けました。国中が戦場だったのです。戦禍の中で、一般市民が命を奪われ、重傷を負い、住むところを奪われました。
戦争が終わってからが本当の苦しみの始まりとなった多くの人がいます。戦争孤児、戦争障害者、PTSD(栗原注・心的外傷後ストレス障害)の人たちです。社会的偏見、経済的困難の中、生きることに精一杯で、長い年月、声を上げることができずに、生きてきました。
軍人軍属には恩給が、その遺族には年金が支払われてきましたし、さらに継承者にも弔慰金が支払われています。しかし、一般市民の空襲被害者には今も、全く救済措置がありません。なぜでしょうか。
(中略)74年間も見捨てられてきた被害者は高齢となり、日ごとに少なくなっています。
未来を生きる人々のためにも、こんな不条理を放置したまま死ぬわけにはいきません。
皆様のご理解、ご支援を、お願いします」
第二次世界大戦で、首都東京は米軍により122回もの空襲を受けた。1945年3月10日の東京大空襲だけでおよそ10万人が殺された。民間人が米軍の無差別空襲で被害にあったことを、日本政府は認めている。しかし、被害者たちが求める補償には頑として応じない。1973年から1988年、野党による民間人空襲被害者援護法案が実に14回、国会に提出されたがすべて廃案となった。司法による解決を求め、東京、名古屋、大阪空襲の被害者たちがそれぞれ国に補償をもとめて提訴したものの、いずれも最高裁で敗訴が確定した。被害者たちは、行政にも政治にも救済を求めてきた。しかしどちらも動かないから、司法に解決を求めたのだ。ところが、司法も救済に応じなかった。
解決するとしたら、それには立法が必要。それが司法の判断だった。つまり国会にボールを投げたのだ。その国会が動かないから司法に訴えたにもかかわらず。高齢化が進む民間人戦争被害者の命が削られている。「三権分立」は、少なくとも民間人空襲被害者たちの救済問題に関する限り、被害者たらい回しの機構として機能している。
「アメリカ大使館前でやれ!」国会前に響く怒声
国会会期中でも、昼時に外を歩く議員はそう多くない。リーフレットを受け取る人はさらに少ない。それでも河合ら80歳を過ぎた老人たち、空襲で家族を殺された人たちが、救済立法を信じて活動を続けていた。
2019年6月。若い男性が足を止め、リーフレットを受け取った。かいわいを通りかかる若者は少ない。筆者は話を聞こうとした。19歳。都内の大学1年生で国会の見学に来たという。「リーフレットを配っている、民間人空襲被害者たちの主張についてどう思いますか」。そう問うと、彼は少し考えて言った。
「アメリカに補償を求めるべきじゃないですか」
米軍が戦時中に日本で行った無差別爆撃は、戦時下でも民間人を狙わないという国際法に違反する蛮行であった。当然、日本政府は被害者である国民を代表してアメリカに補償を求めるべきなのだ。政治に関心のある、19歳の学生が言うのは、「正論」である。
しかし、とかく「正論」と「政論」は違う。日本は1952年にサンフランシスコ講和条約が発効することで独立を回復した。同条約は、アメリカやイギリスなど日本が戦った連合国との間で、相互に補償請求権を放棄した。これにより、日本政府がアメリカに補償を求めることはできなくなった。
河合ら政府に補償を求める民間人空襲被害の当事者たちと、当事者以外の国民の間には大きな断絶が2つある。1つは、国民の多くが河合たちが無補償のまま放置されている事実を知らないことだ。もう1つは、前述の講和条約によって加害者であるアメリカに補償を求めることが不可能であるのを知らないことである。
「こんにちは活動」の周辺では、さまざまな個人、団体がそれぞれの主張をしている。拡声器で大音量の主張をする者もいる。河合たちは肉声一本だ。
4カ月後の10月末日には、全国空襲連の横で大声を張り上げていた団体の中から、初老の男性が河合たちに近付いてきて、怒鳴り声を上げた。
「アメリカ大使館前でやれ!」
憎しみがこもった怒声だった。「顔をさらすぞ!」。さらに、活字にするのを避けざるを得ない暴言が続く。取材していた筆者は、河合の横に立って迷っていた。「どうして何の罪もないままに戦争被害にあった人たちに、そんな暴言を吐けるんですか。そもそも日本政府は国民の了解を得ないまま、アメリカへの補償請求権を放棄したんですよ! この人たちがアメリカに補償を求めることはできませんよ。そうしたのは日本政府なのだから、日本政府が補償するのは当然でしょう!」と言い返したかった。
だが興奮している男性の様子を見て「反論したら必ず言い合いになる。騒ぎが大きくなったら、河合さんたちに迷惑が掛かる。かといって、このままこの男性の暴言を許すのは……」とためらっていた。
時間にして1分程度だっただろう。しかし長く感じた。幸い警備の人が男性を引き離して、事なきを得た。「今度同じ事があったら、言い返しますよ」。私がそう話すと、河合は穏やかに言った。「いいんですよ。私たち慣れていますから。街頭活動をしていると、「もう補償はされているんでしょ? まだほしいの?」などと言われることもありますから。口に出さなくても、そう誤解している人はたくさんいると思いますよ」
初老の男性は、翌週も河合たちに詰め寄ってきた。筆者はこんどは我慢できなかった。
「サンフランシスコ講和条約で、日本政府は戦争被害の補償請求権を放棄しているんですよ。空襲被害者がアメリカ政府に補償を請求することは、事実上できないんですよ。そんなことも知らないんですか。そもそも、何の罪もない戦争被害者にどうしてそんな罵声を浴びせるんですか」
そう言うと「戦争に負けたんだから仕方ないだろう!」と言い返された。「じゃあ、その負ける戦争を始めたのは誰なんですか。この人たちじゃないでしょう!」と言おうと思ったところ、ここでも警備の人が間に入って男性は引き取った。
第二次世界大戦下、全国各地が米軍の無差別爆撃にさらされ、多くの人が殺されたことは歴史の教科書に書かれている。毎年夏、新聞やテレビなどがそうした戦争の被害を伝える。しかし、民間の戦争被害者たちに対して国がまともな補償をしなかったこと、その被害者たちが戦後70年以上苦しみ、国に補償を求めて命を削るように闘ってきたことを伝えるメディアはさほど多くない。
戦争被害者は三権すなわち司法と行政、立法に救済を求めた。しかし相手にされなかったり、たらい回しにされたりと苦しめられてきた。さらに社会全体の無理解と無知、無関心とも闘わざるを得なかった。多くの人たちが無念のままに亡くなった。
大日本帝国は77年前に降伏した。戦後日本の復興の始まりとなった。しかし多くの戦争被害者がそうであるように、空襲の被害者たちにとってはそこから新しい苦しみ、悲しみが始まった。本書では、東京大空襲の事例を中心にその歴史を振り返っていきたい。
著者略歴
栗原 俊雄(くりはら・としお)
1967年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同大学大学院修士課程修了(日本政治史)。1996年、毎日新聞社入社。現在、毎日新聞社専門記者。著書に『戦艦大和生還者たちの証言から』『シベリア抑留――未完の悲劇』『勲章知られざる素顔』『遺骨戦没者三一〇万人の戦後史』(以上、岩波新書)『シベリア抑留は「過去」なのか』(岩波ブックレット)『20世紀遺跡帝国の記憶を歩く』(角川学芸出版)『「昭和天皇実録」と戦争』(山川出版社)『特攻――戦争と日本人』(中公新書)『戦後補償裁判――民間人たちの終わらない「戦争」』(NHK出版新書)ほか。2009年、第3回疋田桂一郎賞。2018年、第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞。