小峯和明 円仁の見た宝誌像[『図書』2025年3月号より]
円仁の見た宝誌像
山東の醴泉寺を訪ねて
2024年10月18日、中国の山東大学と山東交通学院での講演に赴いた折、念願の醴泉寺を訪れることができた。同行は人民大学の李銘敬、清華大学の高陽、山東交通学院の趙倩倩の各氏。
山東省中心の済南から北へ車で1時間ほど。醴泉寺は九世紀前半、名高い天台僧の円仁が山東半島から五台山に向かう途次に立ち寄った寺である。
円仁は最後の遣唐使の短期留学僧であったが、滞在許可が出ず、新羅の通詞と共に山東半島で帰国船から下りて不法滞在を断行、半島先端の新羅の居留地である赤山に身を寄せ、張保高ら新羅人の支援で滞在許可が下りると、新羅僧の勧めもあり、天台山行きをあきらめ、長駆、五台山をめざして旅立つ。
山東半島の北側の煙台や蓬莱などを経て黄河を渡り、途中で登州の開元寺や龍興寺などいくつかの寺院に立ち寄るが、その一つが醴泉寺であった。ちなみに開元寺では、僧伽堂で日本の遣唐使の発願で描かれたという西方浄土や補陀落浄土の壁画を見ているが、寺自体、今は残っていない。
一方、醴泉寺は鄒平市青陽鎮、市街西南部の長白山中に位置する、今も格式高い古刹である。創建は南北朝時代にさかのぼり、もとは龍台寺と呼ばれたが、唐の中宗の時代に僧仁万が堂を再建中に、東山から泉が湧き出して、中宗がその名をつけた、という。ゆかりの人物としては、『岳陽楼記』で知られる北宋の范仲淹がいる。
円仁の日記『入唐求法巡礼行記』によれば、840年(開成5年、承和7年)4月6日、醴泉寺に到り、瑠璃殿内に安置された誌公和上の像を礼拝、
誌公和上は是十一面菩薩の化身なり。其の本縁は碑上に鐫着す。和上は朱氏、金城の人なり。此の長白山に降霊して滅度す。其の後、肉身は向かう所を知らず。但、影像を作って国を挙げて敬重す。堂西の谷辺に醴泉あり。井は前に向かって泉湧す。香気、甘味あり。之を喫するものは病を除き、寿を増す。(平凡社・東洋文庫本の訓読文)
と、記される。さらに和上の滅後、泉水は涸れ尽くして空井となった。今は泉井の上に小堂を建て、和上の像があり、その前に深さ五尺ほどの石井があるが水はなかった。寺の南峯で龍が舞ったので龍台の名が付き、龍台寺と呼ばれていたが、泉が湧いてからは醴泉寺と名を変えた、という。
「誌公」とは、六朝時代の名高い神異僧の宝誌(418―514)のこと。梁の武帝に仕え、金陵(今の南京)を拠点に予言者や観音の化身として早くから伝説化されていた(『梁高僧伝』ほか)。日本の終末を説く予言詩『野馬台詩』も書いたとされ(天皇百代で日本は終わるとの「百王思想」の典拠)、顔の中から顔が出てくる観音化身の木像でもよく知られている(京都の西往寺蔵、京都国立博物館寄託)。国王が絵師に宝誌の肖像を描かせるが、本当の顔はこれではないと顔を裂くや中から観音の顔が現れた、という説話も広く伝わる(『宇治拾遺物語』ほか)。
遣唐使の吉備真備の活躍を描く『吉備大臣入唐絵巻』にも、真備が中国の王から課せられた難題で『野馬台詩』を長谷観音の霊験で解読する話があり、宝誌が『野馬台詩』を深夜の宮殿で書いている画面だけ残っていたことが知られている。これらの問題はすでに繰り返し論じており、新刊の拙著『世界は説話にみちている──東アジア説話文学論』(岩波書店、2024年12月)でも再論している。
円仁の見た宝誌像がどんなものだったのか、以前からの懸案であり、ともかく醴泉寺に行ってみたいとの一念であった。
主殿の大雄宝殿の右側にある西偏殿の釈迦牟尼仏殿に何気なく入ると、中央に大きな釈迦像の仏頭があり、その左手奥にガラスケースに入った、高さ2メートル以上、横1メートル以上もある石碑が置かれていた(図1)。

石碑の上層には5体ほどの仏像が彫られており、碑文の大半は摩滅して判読できなかったが、翻刻された文言が手前の小さいケースに展示されていて、概要は了解できた。碑文の名は「大唐斉州章丘県常白山醴泉寺志公之碑」、年時は「開元三年歳次乙卯二月己酉朔十五日癸亥」。西暦715年、名高い玄宗の治世の制作である。円仁が見たのはまさしくこの碑文で、制作から125年後に当たるものだった。
同行の3人が先に外に出た後も、何か気になって碑文の裏側にまわって見たところ、初めは堂内が薄暗くてよく見えなかったが、次第に目が慣れてきて、かすかに石碑に何か線が刻まれているのが分かった。あわてて皆を呼び戻し、そろってその線をたどっていくと、明らかに特徴的な三布帽らしきものをかぶった、顔はやや右向きの宝誌像であることが分かった(帽子ではなく、肩までかかる長髪の可能性もあるが)。錫杖も左肩にかついでいて、ハサミもぶらさがっているらしいところまで何とか見えてきた。
とっさのことで調査の準備もなく、スマホのライトでは不十分で全容は見分けられなかったものの、敦煌莫高窟・第三九五窟の宝誌像(図2)や唐の呉道子(呉道玄)の肖像画、李白の「誌公画讃」、顔真卿の題字からなる『三絶詩』の宝誌像に相当すると思われる。『三絶詩』の図像は南京郊外の宝誌の塔墓や揚州などでも見たことがあり、一つの定型となっているが、錫杖は右肩でかついでおり、左肩でかつぐ敦煌の図像が近い。四川省・大足の石仏の宝誌像も左手に持つが時代は宋代に下る(図3)。


ネット情報だが、この宝誌像を実見した清朝の王漁洋『長白山録』に拠れば、像高130センチ、身に長袖袈裟を着、腰に長径の小口瓶を下げ、手に錫杖を持ち、錫杖には鏡、剪刀(ハサミ)、鎖などを下げている、とあるので、ほぼ間違いないだろう。
石碑の上部は、右端以外はえぐられたように欠けていて、その下に5体の仏像が彫られている。5体のうち、中央と両端は座像、間の左右2体は立像で、座像3体には円形の光背もある。これも摩滅していて分からないが、おそらく観音像であろう。
五体像の下には3つの正方形が横並びで少しずつ間隔を空けてくりぬかれている。中央の方形内はさらに真ん中に円形の宝珠だろうか、左下に波頭のような模様が刻まれている。左右の方形内はそれぞれ中央の方形を向いた横向きの人物像らしく手に何かを持っているようだ。
さらに方形と方形の間には縦書きで文字が刻まれているがこれも判読しがたく、わずかに中央と右手の方形の間の一番下の字は、「寂」と読める。この方形の下に碑文の文字がびっしり刻印される。
問題の碑文は、後で『全唐文』巻九九三に収録されていることを知ったが、すでに判読不明箇所が随所に見られ、完全な解読は難しそうである。ここでは判明したことだけを書くことにするが、景龍2年(708)、斉州正智寺の僧仁万が堂建立の折、醴泉が湧出、広さ三四尺、深さ三尺ほどで、色浄く甘味であった。これにより、龍台寺の名を醴泉寺とあらためた、という縁起の文言があり、さらに宝誌の伝説が、そこにからまる。
以下の宝誌伝の内容は「梁寺史伝」とあり、ほぼ『梁高僧伝』に合致するから、これに拠ったのであろう。もと朱氏で金城の人、道林寺で出家、街を歩き、数日何も食べず、讖記(予言)をよくし、応験は神の如し。天監13年(514)に亡くなる。異香馥郁とし、鍾山の龍阜に葬り、龍台に埋めた。今の大唐太極元年(712)から198年前になる。
湧泉と宝誌の結びつきが今ひとつ判然としないが、おそらく宝誌が長白山に降霊したという伝説が生まれ、それと湧水の伝承とが結びついたのであろう。龍台寺の名称も宝誌が埋葬された龍台の名に関係するのであろうか。宝誌と仁万とでは時代にかなり開きがあるが、宝誌の伝説のひろまりがうかがえて興味深い。
最大の問題は、はたして円仁の見た宝誌像がこの碑文の裏側に彫られたそれであったのか、それとも碑文とは別個に宝誌像なるものがあったのか、である。『入唐求法巡礼行記』を読み直せば、「今は泉井の上に一小堂を建て、更に和上の影を作る。影前の堂内には石井ありて深さ五尺余。今見るに水なし」とあるから、小堂内に宝誌像があったことになる。これが現存する、裏面に宝誌像をもつ碑文そのものなのか、碑文とは別の宝誌像なのか、円仁の日記からそこまでは判断できない。
清朝の成晋徴『鄒平県景物志』の醴泉寺条には、寺の伝説は宝誌に始まり、今の宝公殿の東面には唐代の碑があり、宝誌の像が鐫られている、とある。かつては宝公殿が存在し、そこに唐代の碑文があり、宝誌像も刻まれていたことを伝える。これが今も残る碑文と裏面の宝誌像を指すことはまちがいない。先に見た王漁洋『長白山録』でも碑文の裏面の宝誌像の説明だけであった。仮に碑文とは別に宝誌像があったとしても、すでに失われていたことになる。
私見では、円仁は宝誌像を「礼拝」、わざわざ「十一面観音の化身」と言っているので、やはり観音化身像があったのではないかと思われるが、はたしてどうであろうか。円仁より前の時代に奈良の大安寺の僧戒明が金陵で実見し、日本に伝えた宝誌の十一面観音化身像に類するものであったか、あるいは石碑の裏面に見る、敦煌の壁画や『三絶詩』に近い像が別にあったのであろうか。戒明が請来した宝誌像は、12世紀の『七大寺巡礼私記』によれば、明らかに顔の中から顔が出てくる像であるが、円仁が見た像ははたして如何。さらには、円仁は宝誌作とされる『野馬台詩』を知っていたであろうか、疑問は尽きない。
円仁の請来目録『入唐新求聖教目録』には「壇龕僧伽誌公邁廻三聖像」があるが、これとは無縁であろうか。ちなみに僧伽は、円仁が登州の開元寺で見た浄土変相図の壁画がある堂にゆかりある僧であった。
新刊の拙著で、円仁の見た宝誌像を「醴泉寺で十一面観音の化身像を見る」(157頁)と断言してしまったが、円仁は「誌公影」とするだけで、「十一面観音の化身」とは言っているものの、実際の像は分からない。
円仁が碑文裏面の宝誌像だけ見たとしたら、碑文には観音化身とは出てこないから円仁はすでに宝誌の観音化身説を充分知っていたことになる。円仁の記述も龍が舞った話をはじめ、碑文に見られない面があり、寺で聞いた伝説をそのまま書いた可能性もある。
いずれにしても、円仁が見た唐代の碑文そのものが現存していたことに感慨を禁じえない。円仁が制作から一世紀以上を経て見たものを、それからまた1100年以上も後に見ることができたわけで、「眼福を得る」とはまさにこういうことを言うのであろう。
文字どおり一瞥に過ぎないので、美術史の専門の方々のご教示を請いたいと思う。
なお、寺僧から日中戦争の際、寺の西側の山間が激戦地となり、醴泉寺が救護所になったとの話も聞かされた。今もその記憶が残っているようで、寺男の一人が我々一行を見て、あらわに嫌悪感を示していた。円仁が訪れてから千年以上も後、宝誌像もまた来し方行く末を見つめ続けていたのだろう。思わず宝誌の予言詩『野馬台詩』の結句「星流飛野外、鐘鼓喧国中。青丘与赤土、茫茫遂為空」の一節が胸をよぎった。
(こみね かずあき・日本古典文学)