北野佐久子 ピアスさんの思い出[『図書』2026年7月号より]
ピアスさんの思い出
イギリス児童文学が生まれる「風土」
代表作『トムは真夜中の庭で』で名高いイギリスの児童文学作家、フィリッパ・ピアスさんが2006年に86歳で亡くなられてから今年で20年。3月にはデビュー作となった初作品、『ハヤ号セイ川をいく』が新たに訳され、岩波少年文庫に加わりました。
生前のピアスさんに会ったことがある一人として、たった一度だけとはいえ、ご本人に自ら物語世界とその舞台を案内していただくという貴重な経験を味わったものとして、ピアスさんを偲びながらそのことを記してみたいと思います。
夏の心地よい日差しとさわやかな風が頬をくすぐる、1994年の夏、私はグレート・シェルフォードという村にあるフィリッパ・ピアスさんの庭でお茶の時間を楽しんでいました。
馬がのんびりと草をはむ草原の向こうにはキャム川が静かに流れています。『ハヤ号セイ川をいく』のセイ川はこのキャム川がモデルとなっています。この作品はセイ川を流れてきたカヌーを通して知り合った少年、デイヴィッドとアダムの宝探しをめぐる冒険と友情の物語です。アダムはグレート・バーリー村、デイヴィッドはリトル・バーリー村と、隣り合う田園地帯の村に住んでいますが、このモデルはピアスさん自身の故郷である村、グレート・シェルフォードとその隣村、リトル・シェルフォードなのだそうです。ピアスさんの娘さんが帰ってきたら乗るというカヌーも、庭の片隅に置かれていました。物語の世界は生きているのだ、と実感したものでした。
ピアスさん訪問という、この奇跡にどうしてめぐりあえたのか──それは児童文学者である斎藤惇夫氏が率いる児童文学の旅のお仲間に飛び入りで参加させていただいたおかげでした。ウィンブルドンに住んでいた私は、その日、ピアスさんの自宅と庭、ルーシー・ボストンさんが住んでいた「グリーン・ノウ」の物語の舞台となった自宅を訪ねる旅に加えていただくという、この上ない幸運に恵まれたのでした。

「ようこそ」
ブルーの花柄のワンピースを着た、ピアスさんの眼鏡越しの優しいまなざしと笑顔、そして柔らかな声が出迎えてくださいました。
庭先に用意されたテーブルクロスの上には、ピアスさんお手製のケーキが切り分けられて、お皿の上に並んでいました。愛らしい花柄のカップも用意されて、お茶の時間がはじまるばかりにしつらえてあったのです。
当時ピアスさんは、ハーブの植え込みで囲われた、小さな白い平屋、コテージに一人でお住まいでした。その家は製粉業を営んでいた父親が使用人のために建てたものでした。
ロンドンから車で1時間ほど、ケンブリッジからほど近くに物語のモデルとなったグレート・シェルフォードは、そのコテージとともにありました。小道をはさんで向かいには、ピアスさんが4人の兄弟姉妹とともに子供時代の大半を過ごした家、「キングス・ミル・ハウス」がありました。
その思い出の家こそが『ハヤ号セイ川をいく』や『トムは真夜中の庭で』の舞台となった場所なのです。
そこでは、ピアスさんの祖父の代から、敷地の端を流れるキャム川に造られた水車小屋を使って製粉業を営んでいたそうです。その製粉業を継いだピアスさんの父親が引退する時、家族で住むところを他に探すために家と庭を売りに出すことになりました。1957年のことでした。その時、思い出の詰まったこの庭をなんとしても記憶にとどめておきたいという、強くせまる喪失の想いが、ピアスさんに『トムは真夜中の庭で』という作品を書かせたのでした。ピアスさんが兄弟と遊んだ庭は、かつて父親が小さいころに兄弟姉妹たちと遊んだビクトリア朝時代の庭でした。物語の中でトムがハティと遊んだのもまた、おなじ庭なのです。
お茶の時間の後、The Garden of the King’s Mill House, Great Shelford(グレート・シェルフォードにおけるキングス・ミル・ハウスの庭)と題されたプリントを、みなに一枚ずつ手渡してくれたピアスさん、そこにはピアスさんと庭、作品とのかかわりがピアスさんの言葉でわかりやすく書かれていました。ピアスさんはそのプリントにサインをしてくださいました。おかげでその一枚はいっそう特別な宝物となり、今も大切にしています。
画家の SUSAN EINZIG は物語の挿絵を描くとき資料となるものをピアスさんに求めたそうです。古い写真とともに手渡されたのはピアスさんの大叔母さんが1920年代に描いたという「日時計の道」と題した、キングス・ミル・ハウスの庭を描いた水彩画でした。ピアスさんは、その絵を椅子の上にのせて、庭先で見せてくださったのでした。これらはすべて、その後に案内してくださる庭への予習でした。
「今の持ち主から鍵を借りているから大丈夫」
と、先頭きってピアスさんは小道を渡ってすぐのところにある思い出の家に向かわれました。ピアスさん自身が案内してくださるとはだれが想像できたでしょうか。大きな壁のような木製の門を開けると、そこには芝生の緑もまぶしい、広々とした庭が広がっていたのです。この庭はレンガの塀で囲われていますが、左端の石塀の中に日時計がありました。実際に『トムは真夜中の庭で』の15章にその挿絵が載っています。塀の上を歩くトムの姿はピアスさんの父親の小さいころの姿と重なります。挿絵ではトムが塀の上で跪いていますが、それは日時計の陰に作られたミソサザイの巣を上から見るためでした。昔のままに庭には草花のほかにリンゴ、プラム、洋ナシ、ブラックベリーなどの果実がたわわに実り、野菜畑にはルバーブ、ニンジン、えんどう豆などが栽培されています。ピアスさんがそのプラムに手を伸ばして、赤く熟した実をとる仕草は、この庭で育った少女の面影を見るようでした。
日時計のある塀の反対にあたる庭の端には、ゆったりと、静かにキャム川が流れています。
「生垣や柵や金網でかこわれているほかの庭とちがい、モス家の裏庭のいきつく先は、ゆったりと流れるセイ川の岸だった」(『ハヤ号セイ川をいく』より)
まさしくその文章のままの光景が広がっているではありませんか。
カヌーに乗せてとデイヴィッドにせがむ妹のベッキーは、どうやら4人兄弟姉妹の末っ子だったピアスさんそのものだったようです。
ピアスさんの祖父母が建てたという、キングス・ミル・ハウスの家そのものは、庭全体を見渡せるような位置にありました。
「ここからキングス・ミル・ハウスの家を見ると、イラストのバーソロミュー夫人のアパートにそっくりでしょう? イラストは物語に合わせてもう1階高い、3階建てになっているんですよ」とピアスさん。『トムは真夜中の庭で』の表紙に描かれている家が目の前に現れました。家から庭に出る玄関を囲むように造られた真っ白なトレリスもそのままです。
この扉から13回鳴る大時計の鐘に誘われるようにして、トムは庭に出て、少女ハティと出会うのでした。
斎藤惇夫氏がピアスさんご自身から聞いたところによると、『トムは真夜中の庭で』の中で創作したのは13回鳴る大時計だけだと話されたそうです。あとはすべて現実にあったそのままだというのです。
こうしたピアスさんの作品に代表されるような、ファンタジーの世界がイギリスには日常に息づいていること、そして作者が慣れ親しんだ風土とのかかわりが活かされているということ、それを教えられたのは、恩師である吉田新一先生の文章からでした。
「イギリスの児童文学は、というよりは、文学は、その顕著な特性のひとつとして作者の担うローカル性が色濃くでている点が指摘できるだろう。極言すれば、イギリスの自然、生活、気象、つまりは風土に、肌で触れてみなければ、その文学作品は本当には理解できないと言える。むろんそれはどこの国の文学でもそういうものであろうが、程度の問題になると、イギリスの場合、圧倒的にそれが高いのである」(『イギリス児童文学会会報』昭和61年夏至号より)
イギリス文学、とくにイギリスの児童文学において、その風土性とのつながりを自分の足で歩くことで、私にとっては確かな発見がありました。イギリスの児童文学作品と重なるように存在する別の世界を探るために、物語の舞台となった場所、作家たちと密接につながる場所を訪ね歩き、作品への想いをめぐらせてきたように思います。
拙著『物語のティータイム』(岩波書店)では物語の中に描かれる食について、その風土性に絡めて書きました。
作品の中に出てくるお菓子、特にイギリスの物語にはいったいどんな味がするのだろう、と想像するほど具体的な名前がよく登場します。日本に住んでいると、実際にそれがどんなお菓子なのか、わからないものも多いものです。
『ハヤ号セイ川をいく』では主人公のひとり、デイヴィッドのお母さんが焼くロックケーキが登場しますが、このイギリスでは古くからあるお菓子も私たちにとっては目新しく映るかもしれません。
ロックケーキはその名のとおり、岩のようにごつごつと見えるところから付けられました。特に第二次世界大戦中の物資が乏しい時代にイギリス政府が設置した食糧省が推奨したことで広まったともいわれています。
バターや砂糖などの手に入りにくくなった材料が、他のお菓子と比べて少ない分量で作れることがその理由です。湖水地方を舞台にアーサー・ランサムが著した『ツバメ号とアマゾン号』でも、島に行く子供たちが船に積み込む食料に、お母さんが焼いてくれたこのお菓子が含まれています。
お茶の時間が欠かせないイギリスの暮らしの中で、家庭で焼かれる母親の手づくりのお菓子は誰もが心の中に大切に秘めているものです。
それは生まれ育った、慣れ親しんだ土地への郷愁にも通じるような、イギリス人の心深くに存在するものに違いありません。作者が暮らした場所、自然、そこに食が加わって、風土というものに触れてこそ、作品世界をより深く味わえるようになると信じています。
ピアスさんがくださったプリントを見るたびに、心はあのときに戻ります。そして、ピアスさんの焼いてくださったケーキの味わい、あの自然、あの庭、どれもが物語の世界そのものであったのだと、物語を読み終えたようなすがすがしい気持ちで思い返しています。
(きたの さくこ・イギリス文化研究)




