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岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

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『図書』9月号 【試し読み】若菜晃子/細見和之

◇目次◇
 
ギュスターヴ・モローと……亀稲賀繁美
書物と出会う……山口信博
江戸の編集者……横田冬彦
心霊写真師マムラーの事件簿……前川修
『チェリー・イングラム』のその後……阿部菜穂子
デッド・オア・アライヴの彼岸……ブレイディみかこ
くんち・半ドン・初飛行……さだまさし
スポーツについて語るということ……柳広司
はじめての座談会……加藤典洋
生の誇り……若松英輔
二次元と三次元……齋藤亜矢
渡し賃をとられた天皇……三浦佑之
バルト海の島ゴトランドで、三人と犬一匹が合宿する。……冨原眞弓
(表紙=司修) 
(カット=佐々木ひとみ) 
 
◇読む人・書く人・作る人◇
 
かつてあったいいことは
 若菜晃子
 
 二〇一四年に、戦後日本の児童文学の礎を築かれた石井桃子先生の言葉を集めた『石井桃子のことば』を編集させていただいた。編集者であり翻訳家であり作家でもあった先生の遺された言葉は、どれも百一年の生涯における体験と思索に基づく信念に満ちたもので、そのなかからこれという言葉を選んでいくのは、まさに呻吟する作業であった。

 そうして出会った数ある言葉のなかで最も印象に残ったのは、石井先生ご自身のそれではなく、先生が四十代でアメリカに留学したときに知り合った児童図書館員の言葉だった。
 先生は留学時に得たものを帰国後日本の児童文学界の発展に生かしたが、再訪の折り、手本としたかの国の児童図書館が時代の趨勢に従い変容しているのを目にし、その行く末を案じ、当時の同僚に問いかけたところ、「かつてあったいいことは、どこかで生きつづける」と言ったと書き記している。
 時が流れ、人は代わり、時代は移り、多くのことごとが思わぬ方向に変貌していったとしても、「かつてあったいいことは、どこかで生きつづける」と信じることが、先の見えない暗闇を進んでいくときの確かな光明になる。

 石井先生ご自身を励ましたであろう言葉を著書に遺して下さったことで、その言葉はこの本の編集を続ける間、はるか後方に連なる私を強く励まし、没後十年を経た今もことあるごとに支えてくれている。言葉とは、こうして書物を通して、目には見えないところで人々の心に受け継がれていくものなのだ。
(わかな あきこ・編集者)
 
◇試し読み◇
 

ジョン・レノンとプルードンジョン・レノンとプルードン
 ――もう一つの「近代」の可能性――

 細見和之

  先日、プルードン『貧困の哲学』を優れた日本語訳で読んでいて、つぎの箇所に出会ったときに、不意に胸を衝かれるような印象があった。
 
宗教における、政治における国家、経済における所有、人類はこの三つ重なりの形態のもとで自分自身を外在化させ、自分自身をたえず自分の手から引き離してきた。そしていま、われわれはこの三つをまとめて廃棄しなければならない。(ピエール=ジョゼフ・プルードン『貧困の哲学』上、斉藤悦則訳、平凡社ライブラリー、二〇一四年、五四四頁。原文の強調は下線)
 
 この一節にふれたとき、ほかでもない、ジョン・レノンの名曲「イマジン」のことが私の頭に浮かんだのだった。あの曲では、「イマジン(想像してごらん)」という言葉に導かれて、一番で「天国」と「地獄」が否定され、二番で「国家」が否定され、さらに三番では「所有」が否定される。まさしくプルードンが「廃棄」を訴えている三つないし「三つ重なり」が順番もそのままに登場するのだ。一九世紀の半ば、一八四六年に刊行された『貧困の哲学』と一九七一年にアルバム『イマジン』に収録された「イマジン」のあいだのこの決定的な結びつきないし重なりを、私たちはどのように理解すればいいのだろうか。
 
 レイ・コールマンによる伝記『ジョン・レノン』(上下、岡山徹訳、音楽之友社、一九八六年)を読んでも、あるいはレノンのインタビューを集めた大部な『ジョン・レノン 音楽と思想を語る――精選インタビュー1964―1980』(ジェフ・バーガー編、中川泉訳、DU BOOKS、二〇一八年)を紐解いても、当然ながら「イマジン」という曲は繰り返し話題にのぼっても、その歌詞がプルードンの思想と関係づけられたりはしていない。おそらくレノンが直接プルードンを読んだ事実はなかったのではないかと思われる。
 レノン自身はしばしば、「イマジン」は彼の二番目の妻ヨーコ・オノとの本来合作と呼ばれるべきものだった、と語っている。彼が具体的にあげているのはオノの『グレープフルーツ』である。一九六四年に東京で初版が刊行され、一九七〇年に増補版がニューヨークで出版されたものだ。再販に際してはレノンがごく短い「序文」を書いている(「ハーイ! ぼくの名前はジョン・レノン/ヨーコ・オノを紹介するね」というわずか二行がその「序文」である)。全篇にわたって、オノの優れた言語感覚がうかがわれる、特異な詩集のような本だ。とはいえ、レノンが触発されたのは、そこで繰り返されている「イマジン(想像してみなさい)」という命令形であって、宗教、国家、所有の否定というプルードンの思想とそのまま重なる歌詞の内容とは、無関係であるように思える。
 
 しかし、直接的な結びつきがないにもかかわらず、一二五年の歳月を距てて、一方はフランス語の著作で、他方は英語の歌で、ほぼ同じ内容が語られ、歌われている、ということ自体が、ここではやはり重要なのではないだろうか。レノンが身を置いていた文化環境のなかにプルードンの思想が地下水脈のように流れていた、といってもよい。あるいは、一九世紀と二〇世紀において、およそユートピアについて考えるかぎりこうならざるを得なかった、ともいえる。
 ジョン・レノンは一九四〇年に生まれ、一九八〇年に四〇歳で銃撃によって殺された。その四〇年は、プルードンの思想がマルクスの影にいちばん隠されていた時期かもしれない。プルードンといえば、マルクスの『哲学の貧困』によって「プチブル」として一蹴された思想家というイメージが長らく続いた。実際、日本においても、プルードンが本格的に紹介されたのは、三一書房の「アナキズム叢書」に三巻本としてプルードンが翻訳されたときのことだろう。プルードンの名を一躍知らしめた『所有とは何か』を収めたその第Ⅲ巻の翻訳が出版されたのは、一九七一年六月一五日、まさしく「イマジン」とほぼ同時期なのである(「イマジン」の録音は一九七一年七月。ただし、『所有とは何か』の翻訳自体は英訳版からの重訳の形で、戦前に出版されてもいた)。
 
 レノンの「イマジン」の詞に関しては一方で、「夢物語」と批判的に捉えるむきもある。たとえば、レノンの活動を月ごとに緻密に追いかけたジョン・ロバートソンすらこう記している。「今となっては〈Imagine〉を、自分自身と世界への希望を歌ったレノン最大の傑作だとする神話と切り離して考えるのはひどく難しい。しかしその歌詞は、実のところはるかに複雑だった。『所有なんてない、と想像してごらん/はたしてきみにできるかな』」とレノンは、自分が富を捨て去ることはできないことを承知のうえで書いた」(ジョン・ロバートソン『ジョン・レノン大百科』速水丈・奥田祐士訳、ソニー・マガジンズ、一九九三年、一二六頁。この本の原題は「ジョン・レノンの芸術と音楽」)。
 レノンとオノが自らの資産をさまざまな慈善事業につぎ込んでいたことはよく知られているだろう。それもまた、ビートルズに由来する莫大な資産を持つ者にのみ可能な贅沢の一種と見られるかもしれない。しかし、「所有の否定」を実際どう考えるかは、『所有とは何か』における「所有とは盗みである」という名高い言葉とは裏腹に、じつはプルードンにおいてもけっして単純ではない。さきに引いた『貧困の哲学』の一節において神、国家とならべて所有が明確に否定されているにもかかわらず、同じ『貧困の哲学』において、プルードンは所有を、彼にとってかけがえのない「自由」と結びつけてもいるのだ。
 プルードンは、分業であれ、機械であれ、人類が生み出したものには基本的に肯定的な力が備わっていると考える。それは本来、生産力を高め、人類を豊かにするはずのものなのだ。けれども、それらがことごとく否定的な威力を発揮して、かえって貧困をますます増大させている。それが一九世紀の現実だった。だからといって、分業や機械を根絶しようとするのは間違いだとプルードンは考える。肝心なのは「均衡」と彼が呼ぶものに到達することである。平たくいえば、人類を総体として豊かにするようなバランスを、分業についても、機械についても発見することである。これはきわめて常識的な考え方といえる。もっというと、常軌を逸した現実のなかで、同じく常軌を逸した対案が跋扈するなかで、懸命に正気を保とうとしていたのがプルードンだったといってもよい。
 
 所有についても、同じような方向で彼は考えていたに違いない。自他ともに認める「社会主義者」でありながら、そもそも、所有の否定から単純に帰結しがちな「共産主義」に対して、プルードンは一貫して激烈なまでに批判的なのである。そして、まさしくその点が、プルードンの思想を私たちにとってきわめてアクチュアルなものとしているのだ。
 河野健二は『プルードン研究』の「はじめに」で、その点をこう評している。
 
プルードンの思想と行動が私たちに示唆するものは、一〇〇年間の時の経過をのりこえて直接的であり、アクチュアルである。このブザンソン生れの独学者〔プルードン〕は、第一インターに始まる共産主義運動の一〇〇年末のなりゆき、ロシア革命に始まる六〇年間のプロレタリア権力をあたかも知りつくしているかのように、私たちに語りかける。(河野健二編『プルードン研究』岩波書店、一九七四年、ⅲ頁。〔 〕内は引用者、付記)
 
 プルードンを読んでいるとまさしく河野のいうとおりなのだ。一八四〇年代の時点で、当時の共産主義者たちの思想が実現されれば国家権力による非情な独裁に至らざるを得ないことを、プルードンは危機感をもって執拗に説いている。その後の社会主義革命の歴史は、まさしくプルードンの予言どおりに展開したとしかいいようがない。河野の文面は一九七四年に書かれている。つまり、まだ社会主義国が現に独裁的な力を発揮して、今後も発揮し続けると想定されていた時代に書かれたものであって、私たちはその後の社会主義圏の崩壊を目にしてすでに三〇年近くに至ろうとしているのだ。
 とはいえ、「所有とは盗みである」とか、神、国家、所有をまとめて廃棄しなければならないというプルードンの激烈な主張が、重要な意義を有していたことも疑いがない。プルードンからすると、本来自由の実現と結びつくべき所有であればこそ、現存の所有形態は激烈な批判の対象であらねばならなかったのだ。そういう彼の思想はパリ・コミューンまでは公然とした影響力を発揮していたのだった。ジョン・レノンにおいても、神の否定が祈りの否定でなく、国家の否定が人間の共同性の否定でないように、所有の否定は事物との固有の関わりの否定ではなかっただろう。それでいて、あるいはだからこそ、「イマジン」という楽曲は私たちにあるべきユートピアをいまも示唆してやまない。
 
 一九七〇年代にプルードンが日本でも本格的に紹介されながら深められることがなかったのは、あくまでマルクスとの対抗関係でプルードンが捉えられていたからではないだろうか。マルクスに厳しく批判されたにもかかわらず、独自の意義を有していたプルードン――。それはやはりどこかマルクスという亀のうえに乗せられたプルードンだったのではないか。そのかぎりにおいて、マルクスの退潮とともに忘れ去られるべきプルードンだったのではなかったか。 プルードンを読みながら、そして「イマジン」を聴きながら、ここから近代というものをやり直すことはできないものかと、私は一種の夢想に駆られる。マルクスとはいわないまでも、少なくともマルクス主義とは縁もゆかりもない、私たちの「近代」を辿りなおす可能性である。
 
(ほそみ かずゆき・ドイツ思想・詩人) 
 
◇こぼればなし◇
 「命に危険があるような暑さ」「災害と認識している」――気象庁気候情報課が異例の会見を開いてこのように述べるほど、今夏の列島は異常気象に襲われました。連日の記録的な暑さに、全国各地で熱中症と見られる症状のため病院に搬送される方々が相次ぎ、お亡くなりになる方が数多く出ています。

 水辺で涼を得ようと思っても、予想を超える猛暑が続き、熱中症の懸念がぬぐえないため、夏休みのプールの開放を中止にした小学校もありました。三〇度を超える水温に、これまでは水温が低くてプールの使用を中止したことはあっても、高くて中止することになったのは初めてだとか。

 官房長官や文部科学大臣が猛暑対策は緊急の課題だとして、全国の小・中学校に対するエアコン設置のための財政的支援や、夏休みの延長を検討する考えを示すなど、前例のない反応もみられました。今夏の酷暑は、今後の列島の四季のあり方の画期を示すメルクマールになるのかもしれません。

 世界気象機関によると、こうした異常な猛暑に襲われているのは日本だけではないようです。カナダ東部のケベック州でも、熱波に加え湿度も上昇し、高齢の方数十人がお亡くなりになりました。

 一九一三年に五六・七度の世界最高気温を記録したアメリカのカリフォルニア州デスバレーでは、七月に五二・〇度を、ロサンゼルス近郊のチノでは四八・九度を観測したほか、ノルウェーとフィンランドの北極圏で三三度を、アルジェリアのサハラ砂漠では五一・三度を記録するなど、世界各地で異常な高温となっています。

 異常気象ということでは、西日本を襲った平成三〇年七月豪雨もまた、そうでしょう。これまで経験したことのない種類の集中豪雨は各地に甚大な災害をもたらしました。この大雨でお亡くなりになった方や行方のわからない方は二〇〇名を超え、多くの地域で河川の氾濫や浸水被害、土砂災害が発生しました。水道や通信といったライフラインが断たれ、道路や鉄道など交通にも大きな影響が出ました。いまも猛暑のなか、被災地では生活再建への取り組みが進んでいることでしょう。被害に遭われたみなさまには、あらためてお見舞い申し上げます。

 直近の出来事に目を奪われがちですが、この六月には大阪の北部を中心とした大きな地震もありました。最大震度6弱を記録したこの地震でブロック塀が倒れ、登校途中の小学生が下敷きになって亡くなったほか、四名の方がお亡くなりになっています。

 これまで経験のない異常な暑さ、予想を上回る集中豪雨、突然襲ってくる地震。加えて、それらがもたらす副次的な災害――この列島がもたらすのは自然の恩恵だけではないのだと、あらためて感じざるを得ません。

 本号でブレイディみかこさんの連載が終了となります。ご愛読ありがとうございました。新稿も加え、来春の刊行を予定しております。ご期待ください。

 

 
 

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