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篠田謙一『江戸の骨は語る』

篠田謙一「宣教師のDNA」(『図書』2017年2月号)


 文京区小日向1丁目23番地のマンション建築現場で行われていた文化財調査で、3体の人骨が発見されたという連絡が、わたしの勤務する国立科学博物館にあったのは、2014年の7月のことだった。ここは江戸時代の切支丹屋敷の一部に該当しており、建築に先立って文京区教育委員会が主導する文化財調査が行われていた。当初は墓地遺跡ではないので人骨が出土することは予想されていなかったのだが、歴史資料の中には、この敷地に埋葬された人物がいることを書き記したものがあり、第一報が届いたときから、その人物との関係を調べることを目的とした調査を行うことになった。彼の名はジョバンニ・バチスタ・シドッチ(シドッティとも記述される)。鎖国下の日本に侵入を果たしたキリスト教の宣教師である。
 
 切支丹屋敷、別名山屋敷は、もともとは、キリシタン禁圧の一手段として、領民の宗旨を踏絵などによって検査する、宗門改役の井上政重の下屋敷だった。島原の乱の5年後の1643年、ポルトガル人の宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に上陸し、捕らえられるという事件が起こる。彼らは、江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられたが、1646年にこの井上の屋敷に牢や番所などを建てて収容することになった。これが切支丹屋敷の興りである。
 
 マルクエズらは想像を絶する拷問を受け、キリスト教の信仰を棄て、この屋敷で余生を送ることになった。その中の一人、日本名岡本三右衛門を名乗って生きたイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラは、遠藤周作の小説『沈黙』の中のセバスチャン・ロドリゴのモデルとしても有名だ。彼らは、少なくとも表面上は仏教に帰依することになったので、死後、小石川の無量院に埋葬されたことが記録に残っている。そしてこの一行の最後の一人が1701年に78歳で亡くなって、切支丹屋敷に収用された人物は途絶えることになった。
 
 相次ぐ宣教師の棄教の報がバチカンに伝わって、17世紀の中頃には、ローマ教皇庁は日本への宣教師の派遣を諦めることになった。それ以後、日本に潜入しようとする宣教師はなく、18世紀初頭にはキリスト教の存在も忘れ去られ、過酷な弾圧の痕跡もない時代を迎えていた。そのような状況の中で、日本への侵入を果たしたのがシドッチだった。
 
 シドッチは1668年、イタリア・シチリア島のパレルモで生まれた。すでにローマ教皇庁が日本への布教を禁止していた時代である。しかし、カトリックの司祭として活躍しているうちに日本における宣教師や現地の信徒の殉教を知り、渡航を決意することになる。教皇クレメンス11世に願い出て宣教師となり、マニラで4年間奉仕した後、1708年8月、鎖国下の日本へ出発した。50日の航海の末、屋久島に到着した彼は髷を結い、武士の身なりに帯刀して上陸したという。しかし、彼が最初に出会った島の百姓藤兵衛は、その異形と言葉の通じないシドッチに恐れをなし、すぐさま役人に届け出ることになった。
 
 こうして捕縛されたシドッチは、その後、長崎に送られ、さらに翌1709年には江戸に護送されて、切支丹屋敷に収容されることになる。そこで時の幕政の実力者だった新井白石から直接、尋問を受けることになったが、この出来事がその後の日本の科学の歴史に大きな影響を与えることになった。白石はこの尋問を通してシドッチの人格と学識に感銘を受け、双方が敬意をもって接したといわれている。彼はシドッチへの4回にわたる尋問をもとに有名な2冊の本、『西洋紀聞』と『采覧異言(さいらんいげん)』を著した。前者は上・中・下の3巻からなり、上巻はシドッチ訊問までのいきさつと取調べの状況を記している。われわれは、シドッチが捕らえられた経緯や、取り調べの席でどのような言葉が交わされたのかを、この記述から知ることができる。
 
 白石はシドッチとの対話から、キリスト教自体が、それまで考えられていたような日本への侵略の意図をもったものではないと理解したという。そのことが、幕府の蘭学の容認へとつながり、漢訳蘭書の輸入禁止が緩和されて、その後の西洋学問の受容へとつながっていく。シドッチと白石の邂逅は、江戸時代の日本における西洋科学の発展の端緒を開いた出来事だった。
 
 シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、拷問を受けることもなく過ごすことになったという。しかし、4年後の1713年に、彼の世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したために、3名とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチはその10カ月後の1714年、旧暦の10月21日に47歳で衰弱死したといわれている。来日6年を過ぎた頃のことだった。なお、長助はシドッチに先立って死亡したことがわかっているが、はるについてはいつ死んだのか記録がない。この両名の来歴は不明だが、彼らは切支丹の親をもち、親が処刑されたため、キアラが存命の頃から切支丹屋敷ですごしていたとされている。
 
 『西洋紀聞』にシドッチの埋葬についての記載はないが、いくつかの文献にはその記述がある。とくに間宮士信(まみやことのぶ)という人物が、1811年に書いた「小日向志」という文書にある絵図には、切支丹屋敷の建物の配置とともに、長助とはるの墓の位置が描かれている。そしてシドッチの墓には榎を植えたと記載されている。間宮は切支丹屋敷の前に住んでおり、記述にはそれなりの信憑性があると思われるが、書かれたのはシドッチの死後100年以上のことであり、細部にわたる描写の正確性は保証されていない。実際、「小日向志」に描かれた長助とはるの墓墓の位置は、切支丹屋敷の裏門を入って、左手になる。右手側に榎が描かれている絵図もあり、これがシドッチの墓だとすると、長助とはるの墓は今回の発掘域から外れている。発掘されるのはシドッチの墓1基だけのはずである。
 
 しかし、発掘で明らかになった墓の位置は絵図とは異なり、さらに3基が1カ所から見つかった。また、その埋葬の状況も一般には見られない非常に特殊なものだった。3基の墓は、東西方向に一直線に並び、遺構の形から、一番西のもの(172号遺構)は、江戸時代に一般的な円形木棺、いわゆる早桶であることがわかった。一方、中央(169号遺構)と東側(170号遺構)は、当時ではめずらしい直方体をしており、172号とは異なっていた。なお後に、中央の169号は長持ちを、170号は櫃を棺に転用したものであることが判明している。絵図とは異なっていることを考えると、切支丹屋敷跡から出土したからといって、これらの人骨をただちにシドッチらのものであると断定することはできない。
 
 われわれは、この問題を人類学の研究から解き明かすことにした。人骨の形態およびDNAを調べることで、この3名を特定する手がかりを得ることにしたのである。人骨は3体とも、多数の破片になっていたので、特に情報の多い頭骨は現場で周りの土ごと取り上げて、研究室に運び込み、微細な骨片も残さず選別して復元を行った。また、それと同時にDNAの分析を試みることにした。
 
 最初に、この3体の人骨に分析が可能な量と質のDNAが残っているのかを調べるために、ミトコンドリアDNAの分析を行うことにした。DNAは、ミトコンドリアと核に含まれる。ミトコンドリアDNAの大きな特徴は、一つの細胞に数百から数千存在することだ。そのため、古人骨でも核のDNAより圧倒的に残存している可能性が高い。また、ミトコンドリアDNAは、母親と同じものが子へと代々受け継がれるが、世代を重ねることで突然変異が起こる確率が高い。そのため、人類集団の中に、さまざまな変異が存在する。分析した人骨のDNAの変異が、現代人のどの地域に住む人のタイプと一致するかを調べることで、出自を類推することができるのである。
 
 われわれの祖先である現生人類が、アフリカを旅発って世界に拡散する過程で突然変異が起こり、それが地域に特有の系統を産んでいった。現在ではその系統は、ハプログループという分類体系にまとめられている。そこで、ミトコンドリアDNA分析から、最初にこのハプログループの決定を行うことにしたのである。
 
 その結果、残念ながら東端の170号にはDNAが残っていないことが判明した。何度か実験を繰り返したのだが、結果は常にネガティブだった。一方、早桶に埋葬された172号と、中央の169号からは安定した結果を得ることができた。そして172号のミトコンドリアDNAのハプログループはB5b、169号の方はHというタイプに分類されることが判明した。この結果は、ある程度予想をしていたとはいえ、衝撃的だった。中央の長持ちに埋葬された人物のもつハプログループHは、ヨーロッパ人に特有のものだったからだ。
 
 B5というハプログループは、東南アジアから東アジアにかけての集団に普遍的に見られ、日本人における頻度は数パーセント程度と、頻度自体は高くない。しかし、詳しく調べると、172号の持つB5bは、現代人では日本人にしかいないことも今回、明らかになった。
 
 江戸時代の江戸から出土した人骨がもつDNAが、日本人に特有なものであることには何の不思議もない。しかし169号については、少なくともミトコンドリアDNAからは、ヨーロッパ人と判断されたのである。
 
 厳密にいえば、ミトコンドリアDNAは母系に遺伝するので、この人物がヨーロッパ人の母と日本人の混血である可能性も考えられるが、少なくとも169号がシドッチであると考えることに矛盾はない。とはいえ、これだけでは彼と断定する根拠が弱いので、核DNA分析も含めたさらに詳細な分析を行うことにした。
 
 古人骨の核DNA分析は、長年この分野の研究者の夢だった。もちろんミトコンドリアDNAの分析だけでも、その威力は絶大で、これまでの人類の起源と拡散に関する定説を次々に書き替える研究が行われてきた。ネアンデルタール人と現代人の関係について長く交わされてきた論争に決着をつけたのも、ミトコンドリアDNAの情報だった。彼らはわれわれの祖先ではなく親戚筋に当たる人類だったことが、1997年に報告されている。
 
 しかし、核のDNAに含まれる情報は膨大で、髪の毛の色やある種の病気へのなりやすさなど、体に関するありとあらゆる情報が書き込まれている。それが分析できれば、われわれの人類集団の由来や成り立ちに関する理解は飛躍的に進歩する。ところが従来の方法では、膨大な核DNAをまとめて解析することができず、研究は進んでいなかった。
 
 この状況を打開したのが、次世代型シークエンサと呼ばれる大量のDNA断片を高速で処理するマシンの登場だった。2006年頃から実用化が始まり、2010年にはくだんのネアンデルタール人の核DNAの分析に成功している。驚いたことに、彼らは親戚というだけではなく、一部は交雑してわれわれにもDNAを伝えていたという結果をもたらしたのだった。今回は、ミトコンドリアDNAの分析に成功した2体について、この解析手法を応用することにした。
 
 この手法では、まず人骨から抽出した溶液に含まれるすべてのDNA断端の配列を決定する。次にその情報をデータベースに登録されているあらゆる生物の配列と比較して、ヒト由来のDNA断端を選び出す。人骨から抽出されたDNAであれば、すべてヒトのDNAだと思われるかもしれないが、実はそうではない。土壌微生物などのDNAも混入しており、通常ではヒトDNAの占める割合は1パーセント以下なのだ。次にこのヒトDNAがゲノムのどの部分かを判断し、オーバーラップしている配列情報を手がかりに断端同士をつなげていく。こうしてそのヒトがもっていたDNAの再構築を行うのである。
 
 次のステップでは、再現したヒトゲノム情報から他人と違うところを見つけ出す。ヒトのDNAにはおよそ1000塩基に1カ所くらいの割合で、他人と異なる部分がある。その大部分は変化していても意味のない部分なのだが、なかには身体的な違いを生み出すような変異もある。このような一塩基の違いをSNP(スニップ)(1塩基多型=Single Nucleotide Polymorphism)とよぶ。現在ではこのSNPを、比較的安価で大量に分析できる技術が開発されている。そのため、世界各地の集団について、多くの参照データが存在する。そこで、172号と169号の配列データから、SNPに該当する部分を探し出して、世界の集団と比較することにした(くわしい分析方法は、拙著『DNAで語る 日本人起源論』を参照されたい)。
 
 その結果、172号は予想通りアジア人の中に入り、169号はヨーロッパ人の範疇に収まった。この個体は母系も父系もヨーロッパ人に由来したのである。
 
 なお、DNA断端の中で、男性のみがもつY染色体DNAに由来するものをカウントして、172号、169号とも男性であることも判明した。さらに169号は、ヨーロッパ人のなかでも現在のイタリア人の範疇に入る遺伝的な特徴をもつこともわかった。
 
 さらには図をご覧いただこう(拙著『江戸の骨は語る』p128)。169番の頭骨の復顔写真である。私たちの教室の坂上和弘さんが監修して復元したものだ。日本人離れした容貌ではないか。月代(さかやき)を剃って帯刀した姿は、屋久島の農民の目には怪異なものに映っただろう。
 
 これらの証拠から、われわれは169号がジョバンニ・シドッチであると判断した。史実が正しければ、残りの二人は早桶の男性が長助、DNA鑑定はできなかったものの、形態的な特徴から女性と判断される170号は、はるなのだろう。
 
 こうしてDNA分析は、歴史書の中にある事実を明らかにすることができた。しかし、そこからさらに新たな謎も生まれることになった。埋葬の状態から考えて、この三名はほぼ同時期に亡くなったものだと考えられるが、なぜ長助だけが早桶に埋葬され、シドッチとはるには長持ち、櫃が使われたのだろうか。最初に亡くなったとされる長助の埋葬を見て、シドッチがカトリックの様式の埋葬である伸展葬を望んだのかもしれない。西洋式の棺が手に入らないので、長持ちや櫃で代用した可能性もある。だとすれば、シドッチを丁寧に扱ったという記述とも一致する。DNA研究だけではそこまで踏み込むことはできない。今後の歴史研究の課題になるのだろう。
 
 今回の分析で、これまで教科書の中の住人だったシドッチを、眼前によみがえらせることができたわけだが、実はこの研究は、このタイミングでしか行うことのできないものだった。これより発掘が遅れれば、DNAは経年変化で破壊されてしまっただろうし、前であれば分析自体が不可能だった。加えて発見されたのは、彼の没後300年の年にあたっている。そこに運命的なものを感じざるをえない。
 
 シドッチは2度日本に現れた。最初の出現では、彼の意図したことではなかったかも知れないが、白石との邂逅によって、日本に西洋科学導入のきっかけを作ることになった。2度目の出現は、科学と技術の進歩と発掘の時期がマッチした結果である。昨今では技術と結びついた科学は、お金を儲ける手段としてしか捉えない風潮がある。しかし、科学は社会を豊かにする文化としての側面ももっている。今回の出現はそれを私たちに教えているように思う。
(しのだ けんいち・人類学) 

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著者略歴

  1. 篠田 謙一

    1955年生まれ.京都大学理学部卒業.博士(医学).佐賀医科大学助教授を経て,現在,国立科学博物館副館長(兼)人類研究部長.専門は分子人類学.日本や周辺諸国の古人骨DNA解析を進めて日本人の起源を追究するほか,スペイン征服以前のアンデス先住民のDNA研究から,彼らの系統と社会構造について研究している.
    著書に『DNAで語る日本人起源論』『江戸の骨は語る――甦った宣教師シドッチのDNA』(岩波書店),『新版 日本人になった祖先たち――DNAから解明するその多元的構造』(NHK出版),編著に『化石とゲノムで探る人類の起源と拡散』(日経サイエンス),『インカ帝国――研究のフロンティア』(東海大学出版会)などがある.

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