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岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む

岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む(前編)

注目度が高まる北斎

 葛飾北斎(1760-1849年)といえば、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏かながわおきなみうら」が一番の代表作といえるでしょう。ある研究者は、この「神奈川沖浪裏」が、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519年)の「モナリザ」(ルーヴル美術館蔵)に次いで、世界で2番目に有名な絵画だといっています。その根拠ははっきり分かりませんが、日本の絵画の中で、世界で最も知られている作品が「神奈川沖浪裏」であることは間違いないでしょう。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

(The Metropolitan Museum of Art, H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929)

 近年のニュースをたどりますと、北斎が日本はもちろんのこと、世界においても注目されていることが分かります。2019年1月、六本木の森アーツセンターギャラリーで「新・北斎展」が開催され、20万人以上の来場者がありました。
 さらに、2020年3月頃から、パスポートのデザインが変更されます。出入国の際に判子を押すページには、「富嶽三十六景」の図柄が色味を抑えた状態で掲載されることになりました。
 また、2024年には紙幣のデザインが変更されます。そのうち千円札の表のデザインは北里柴三郎(1852-1931年)ですが、その裏側は北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」となるのです。
 世界に目を向けてみますと、2017年5月、イギリスの大英博物館で“HOKUSAI:Beyond the Great Wave”というタイトルで展覧会が行われ、人気を博したほか、イタリアでも、近年北斎を中心とした浮世絵の展覧会がいくつも開催されています。

 

「富嶽三十六景」とは何か?

 まず、「富嶽三十六景」について簡単に話しておきたいと思います。題名の通り、「富嶽」、すなわち富士山を題材にしています。場所、あるいは季節や天候の違いによって、様々な表情を見せる富士山を主題とした揃物ということです。
 岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』に掲載している地図を見ますと、「富嶽三十六景」がどこから描かれているのかが分かります。東は茨城県、西は愛知県、北は長野県といった具合に、日本各地から富士山を眺めているのです。さらに東京都内、江戸近郊を見てみましても、いろいろな場所から描かれていることが分かるでしょう。題名は「三十六景」となっているのですが、おもしろいことに実際に描かれたのは全部で46点です。当初は題名の通り36点でシリーズを完結させる予定だったのですが、人気が高かったようで、追加でさらに10点摺られて全部で46点となりました。浮世絵は人気商売ですので、人気がありますと、そのような変更も容易におこなわれるのです。
 制作は天保元年-5(1830-34)年頃といわれますが、一度に46点を刊行するのではなく、最初に10点、様子を見ながらさらに10点といった具合に、少しずつ数年かけて作られていったと推測されます。ちなみに、この頃、北斎は71-75歳。もし北斎が60歳の還暦を過ぎたくらいの年齢で亡くなっていたら、つまり「富嶽三十六景」を刊行せずにこの世を去っていたら、おそらく北斎の名前は世界に知れ渡っていなかったと思います。
 それ故、70歳を過ぎて北斎が「富嶽三十六景」という境地に辿り着いたことは、彼自身が新しい世界を切り拓いたということだけではなく、日本美術の歴史においても、非常に重要な成果であったといえるでしょう。

日野原健司さん 

特色1——摺りの良し悪しを見極める!(江戸のものと復刻版・初摺りと後摺り・保存状態)

 さて、今回の講演のタイトルが「岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む」ですから、この文庫を作る上で留意した、2つの特色についてお話をしたいと思います。
 1つ目は、日本だけでなく世界各地の美術館を調べまして、摺りや保存の状態が良い作品を収録するように努めました。こうお話をすると、書籍として刊行するのだから、それは当然だろうとお考えになる方も多いでしょうが、これが結構大変なことなのです。実は、北斎の作品が紹介される際、摺りや彫りの状態がいい加減なものが含まれているということが多いのです。
 試しに、「富嶽三十六景」をパソコンやスマホで検索してみてください。だいたい最初の方に出てくるのは、Wikipediaの「富嶽三十六景」かと思います。パソコンでは、そのページの右上に、作品の代表例として「神奈川沖浪裏」が掲出されています。ここで、岩波文庫に掲載したメトロポリタン美術館所蔵の「神奈川沖浪裏」と見比べてみてください。よく見ると、富士山の雪の積もった部分とそうでない部分の境目の線の形が違います。最も大きな違いが明確なのが題名とサインの部分の文字の形です。特に「北斎改為一筆」の「為」という字は明らかに筆跡が異なります。
 この違いは何によるのかというと、先程お話をしたように、「富嶽三十六景」は天保元-5年に作られますが、明治時代以降になって、北斎の絵をもとに新たに版木を彫り直した復刻版が制作されているからです。復刻版というのは、贋作ということではなく、高くて買えなくなってしまった江戸時代の版画を、現代の彫師さんや摺師さんが同じ技術で再現することで、手頃な価格で浮世絵版画を手元で楽しめるようにと作ったものです。ただし、一から線を彫り直すことになりますから、復刻版はオリジナルと細かい線のずれが発生します。Wikipediaの「神奈川沖浪裏」の出典に、1930年頃のModern recut copyという記載があるように、江戸時代のオリジナルが使われていないのです。
 江戸時代のものと現代の復刻版とが別のものであることを承知して見て頂ければいいのですが、皆さんがネットで検索すると出てくるものが、江戸時代の本物ではないということがあったり、復刻版であることが注意書きなく使われたりしていることが多々あるのです。これはネット上のことに限ったことではなく、書店に並んでいる本の中にも見受けられたりもします。
 さらに、江戸時代の浮世絵の中でも、摺りの早いものと摺りの後のものとで、だいぶ印象が変わってきます。たとえば、色の違いです。
 有名なところでいえば、「富嶽三十六景 甲州石班沢かじかざわ」という作品があります。川沿いで漁師が投網をしていて、背景に富士山の線が見えます。初摺りは、藍一色で摺られたもので、濃淡で表わされた藍色が非常に美しい作品ですが、後摺りになると多くの色が使われるようになります。後摺りは、先程お話しした復刻版とは違い、同じ版木を用いて江戸時代に摺られたものです。
 何故、色が変えられたのでしょう? おそらく、藍一色だと画面が寂しいという意見が出たのでしょう。当初は、北斎のコンセプト通り、藍一色で摺られていたのですが、人気が出て何枚も何枚も摺られているうちに、北斎からのチェックも入らなくなり、勝手に版元や摺師が色を鮮やかにしたと考えられます。そういう例は他にもたくさんあります。
 「富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図えどするがちょうみついみせりゃくず」、現在の日本橋三越がある場所から富士山を眺めた作品です。初摺りの場合、空の部分に水色が摺られていますが、ほんの少し後の摺りになりますと、空の色は摺られずに白く抜けています
 また、これはマニアックな指摘になりますが、「富嶽三十六景 山下白雨さんかはくう」も見てみましょう。富士山の山頂は晴れていますが、山裾は黒い雲がかかり、右下には雷が光っています。初摺りと後摺りの違い、色味が少し違う気がしますけれど、見極めのポイントは、富士山の地面を表す茶色い丸い点です。これが1個だけ、後摺りのほうでは欠けているのです。最初に見つけた人はよく気が付いたなと思いますけど、このシリーズは有名なものですから、昔の研究者たちが同じ作品を見比べ、どれが一番早い摺りなのかをいろいろ探っていったという歴史があるのですね。

富嶽三十六景 山下白雨(島根県立美術館)


富嶽三十六景 山下白雨(The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1914)


 このようにお話をしてくると、初摺りとは何か?、後摺りはどうやって見分けるのか?とお思いになる方も出てくるかと思います。
 実は、浮世絵の版画は、1度に200枚摺るといわれていますが、この最初に摺ったものを「初摺り」といっています。人気が出れば、どんどん摺り重ねていって、多い時は6000-7000枚摺ったといわれています。しかし、現代の版画のように部数を管理するエディションナンバーを振って、これが初摺りで本物ですというふうに、江戸時代の浮世絵は管理されておりません。ですので、江戸時代の浮世絵の初摺り・後摺りというのは、同じ作品を見比べながら、感覚的に見極めているということになります。
 比較のポイントは、やはり線の細さです。ここに一番の差が出ます。特に、作品のタイトル、題名を彫った細い文字。また、題名を囲んでいる枠線、これも摺りが早い時期のものは、真っ直ぐシャープな線になっています。それが、摺りが後の方になると、枠線が欠けたり、題名の文字がぼやけたりします。
 それから、こちらの「富嶽三十六景 江戸日本橋」ですが、私は以前、画面の下が2㎝ほど切り落とされた作品を見たことがあります。日本橋を渡っている群衆の姿がかなり見えなくなってしまっていたのです。
 実は、浮世絵というものは、四方が切られてしまっているものが結構あるのです。破けて邪魔だったから切ってしまう。また、浮世絵を保存するため、画帖にスクラップする際、画帖からはみ出したので切られてしまうということがあります。枠線が描かれている作品であれば、切られていることが分かりやすいのですが、「富嶽三十六景」の場合は、紙のギリギリ端っこまで絵が描かれていますので、状態の良い作品を知らないと、切られていることに気が付かないこともあります。
 浮世絵は一度に沢山の枚数が摺られますから、同じ作品であっても、北斎が深く関わっていた初摺りの出来の良いものと、後で摺られたものとで相違がありますし、現代にいたるまでの保存の仕方でも違いが生じます。さらには、現代に新しく摺り直されたものが、特にネットの世界ですと、但し書きもなく混ざってしまっています。
 ですから、「富嶽三十六景」の図版はパソコンやスマホですぐに調べられるからとか、どの本でも同じだなどとお考えにならずに、岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』ではできるかぎり状態の良いものを紹介するように努めましたので、是非御覧頂ければと思います。

 

特色2——北斎のオリジナリティーを具体的に解説

 岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』のもう1つの特色は、北斎のオリジナリティーを具体的に解説したことです。北斎のオリジナリティーとは、はたしてどういうものなのかということを、1000字程度でまとめました。
 一般的な美術館の作品解説は150-200字、展覧会の図録や画集での解説は400-800字程度です。つまり、岩波文庫では解説を通常よりも長く書いているということになります。
 では、この字数を用いて何を書いたかということなのですが、解説にまず欠かせない事柄としては、どこから眺めた富士山なのかという場所の説明です。たとえば、「富嶽三十六景 江戸日本橋」でいえば、日本橋を書いていますよ、遠くに江戸城が見えますよ、ということを記述します。
 そして、日本橋には沢山の人で賑わっていて、周辺に魚河岸がある繁華街であることを説明します。すなわち、富士山のまわりに描かれている人達がどういう様子なのかということを書きます。
 さらに、北斎の個性的な表現、たとえば西洋から伝わった透視図法を勉強していることや、幾何学的な画面構成などを説明します。このあたりまでが通常の解説文でも触れられるところでしょう。
 今回は、これらにプラスして、北斎のオリジナリティーをより明確にするため、たとえば「日本橋」がこれまでどのように描かれてきているのかということにも着眼して解説してみました。
 北斎以前にも、日本橋はいろいろな浮世絵師が取り上げてきた画題でしたから、北斎以前にはどういうふうに描かれる場所だったのかに着目します。もし日本橋の絵がたくさん描かれているなら、北斎は過去の作品と同じようなスタイルを踏襲しているのか、それとも他の絵師が描かなかった視点で描いているのかについて分析していきます。
 また、北斎以前には誰も描いていないような無名な場所であるということも、過去の作品を遡っていけば分析することができますから、そのようなマニアックな場所を選んで描いているのは何故なのかということを考えていきます。
 このような北斎のオリジナリティーという視点で研究ができるようになったのは、ここ10年くらいの間で、世界各地の美術館が、所蔵している浮世絵のデータベースを公開するようになったことが大きいのです。
 私の学生時代、20年程前ですが、浮世絵を研究するには、画集を見るしかありませんでした。しかし画集には代表作品しか載っていません。無名な絵師の作品はほとんど掲載されませんし、有名な絵師であっても、代表作品に限られ、つまらない作品は掲載されないことがほとんどです。それが、インターネット上でデータベースが公開されることが広がったおかげで、マイナーな作品に関する情報もたくさん集められるようになったのです。
 正直なところ、「富嶽三十六景」の本自体は何十年も前から何回も刊行されており、目新しいものではありません。ですので、今更新しい研究成果が出て来るのかと思われる方もおいででしょうが、岩波文庫の『北斎 富嶽三十六景』では、先程お話ししましたように、過去の作例を念頭におきながら、北斎ならではの描き方、オリジナリティーとは何なのかということを出来るだけ突きとめようと試みました。完全に解明できたわけではもちろんないですが、「富嶽三十六景」の魅力が、これによってより一層お分かり頂けるのではないかと思っています。

 

【関連サイト】

『北斎 富嶽三十六景』特設サイト » https://www.iwanami.co.jp/fugaku36/

 

【イベント概要】

講演名:日野原健司氏「岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む」
     2019年6月23日(日)午後2時〜 
     明治大学グローバルフロント(東京都千代田区神田駿河台2丁目-1) 
主催:画廊兼古書店 シェイクスピア・ギャラリー
共催:明治大学風致研究者の会
後援:岩波書店 

 


<図版出典一覧>
富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
The Metropolitan Museum of Art, H. O. Havemeyer Collection, Bequest of
 Mrs. H. O. Havemeyer, 1929

富嶽三十六景 甲州石班沢
The Metropolitan Museum of Art, The Howard Mansfield Collection,   
 Purchase, Rogers Fund, 1936
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1922

富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1922
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1922

富嶽三十六景 山下白雨
島根県立美術館
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1914

富嶽三十六景 江戸日本橋:
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1936

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著者略歴

  1. 日野原健司

    1974年千葉県生まれ.太田記念美術館主席学芸員.慶應義塾大学非常勤講師.慶應義塾大学大学院文学研究科前期博士課程修了.江戸時代から明治時代にかけての浮世絵史を研究.
    『北斎 富嶽三十六景』(岩波書店),『ヘンな浮世絵 歌川広景のお笑い江戸名所』(平凡社),『かわいい浮世絵』『歌川国貞 これぞ江戸の粋』『小原古邨 花咲き鳥歌う紙上の楽園』(東京美術),『戦争と浮世絵』(洋泉社)など著書多数.

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