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岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む

岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む(後編)――世界を魅了する「神奈川沖浪裏」

世界を魅了する「神奈川沖浪裏」

 さて今日は、私達が住んでいる現在の東京の街並みが「富嶽三十六景」の風景と比べて、どのように変化しているのか。あるいは、19世紀に江戸の町が東京へと移り変わっていく中、他の浮世絵師の描いた作品と比較してみると、北斎の作品からはどのようなことが読み取れるのだろうか。そのようなお話をしたいと思います。
 江戸の町といいましたが、まずは、海外でもGreat Waveという名前でおなじみの代表作「神奈川沖浪裏」に触れないわけにはいかないでしょう。
 まず波の表現についてですが、波そのものは、江戸時代の絵画の歴史の中でしばしば描かれています。たとえば尾形光琳(1658-1716年)や円山応挙(1733-95年)といった江戸時代に活躍をした有名な画家達が、波をテーマにした作品を残しています。
 北斎は40代頃から波というものに関心を持ち、「神奈川沖浪裏」のプロトタイプとなるような作品を制作しています。「おしをくりはとうつうせんのづ」(1804-07年頃)や「賀奈川沖本杢之図かながわおきほんもくのず」(1804-07年頃)にはまさしく「神奈川沖浪裏」に通じる巨大な波の表現がすでに見られます。ただこれらの絵にインパクトがあるかどうかといわれると微妙なところで、崩れゆく波の先端部分にはほとんど迫力がありません。


賀奈川沖本杢之図

(すみだ北斎美術館/日野原健司編『北斎 富嶽三十六景』岩波文庫、2019年より転載)

 この40代から70代にかけての30年間、特に50代60代の間は、いろいろな波を継続的に描いています。たとえば『北斎漫画』二編(1815年)という絵本の中で、寄せる波と引く波の描写をしています。同じ波でも波打ち際に寄ってくるのと引くのとでは水の動きが違うということを、北斎は海岸に出かけ、ずっと眺めながら、絵筆を取ってスケッチし、最終的にこのような線で描写したのではないかなと思います。さらに櫛のデザイン、『今様櫛〓雛形(※注 「〓」は竹冠+手偏+金)』(1823年)には、同じ波でも、ちょっと荒れている波、さざ波のような波、波しぶきが砕けるような感じといったように、いろいろな表情が描き分けられています。これは、風や水の流れによって波は大きく変化するのだというような観察を、北斎が絶え間なく続けていた証拠ではないかと思います。
 そして、その結果、「神奈川沖浪裏」にたどり着きました。何といっても特徴的なのが崩れ落ちる波の様子です。北斎はシャッタースピードの速いカメラのような目を持っていて、崩れる波の瞬間を捉えて絵にしたのだと形容する方もよくいらっしゃいます。しかし、実際はこういう形には波は見えません。ただ、この絵が世界の人達に愛される理由は、国境を越えて誰もが親しみのある水・波・海という存在でありながら、非常に形になりづらい対象を明確に形にしたことにあると思うのです。それは、まさしく言語を超えて、あるいは宗教や政治を超えて通じるメッセージになっているのだと思います。
 また、北斎の波の色は、白い色、薄い水色、薄い藍色、濃い藍色の4色で構成され、これが回転するような感じで配色されています。波の色がストライプ状なのを意識することはあまりないと思うのですが、この描写方法が波の回転力というものを上げているのです。
 さらにポイントになるのが富士山です。富士山を知っている日本人が見ると、あそこに富士山があるなと認識できます。富士山は巨大な山であるのに、ここでは小さく描かれていますので、かなり遠い距離があって、富士山から手前の波までは非常に広い空間が広がっているなということを無意識のうちに感じさせます。あるいは、巨大で絶対的な動かざる富士山が激しい波の動きに対峙している。波と富士山によって動と静の動きが対比されることで、この絵がよりダイナミズム溢れる作品に仕上がっていると思います。
 ここからは普段あまりしない話をしましょう。この絵はどこから描いているのか、あるいは他の浮世絵師がこういう絵を描いているのかということです。ご覧になってお分かりになるように、場所を示すものは富士山がある程度で、どことは明確に言いづらいのです。ただ、題名が「神奈川沖浪裏」ですから、大雑把にいうと横浜の東側の海岸沿いあたりが神奈川沖だと思います。実際にそのあたりの海から、真西の方角を見ると、現在はビルが建って見えづらくなっていますが、富士山が見えるスポットもあります。
 では、具体的に横浜のどのあたりなのかとなると、これが難しいのです。考えられる説は2つあります。1つは文字通り神奈川沖。神奈川沖というのは、今でいう京浜急行電鉄の神奈川駅あたり、横浜の北の方で、いわゆる東海道の神奈川宿のあたり。海辺に近いところに東海道がありましたので、文字通りそのあたりだろうという考えです。もう1つは、もうちょっと南、現在の中華街よりももう少し南に行った山の手のあたり、つまり本牧のあたりではないかということが考えられます。
 というのも、まず1つめの説、神奈川宿のあたりですと、たとえば歌川広重(1797-1858年)が保永堂版の「東海道五拾三次之内」(1834-36年頃)の中で神奈川宿の様子を描いています。湾岸沿いに東海道があり、見晴らしが良い場所で、船が停泊しているのが見えます。ただし、この場所はそれほど波が激しくはないことから、北斎の描く神奈川沖が、本当に神奈川宿の沖なのかというのが判断しづらいところです。
 一方、2つ目の説、先に紹介した北斎の「賀奈川沖本杢之図」はまさしく本牧の風景を描いています。横浜の南は、この絵のように崖が切り立っていて、大きな波が打ち寄せるような場所です。少なくとも神奈川宿に比べると波が激しい場所だったことでしょう。北斎は「賀奈川沖本杢之図」というタイトルにしておりますので、「神奈川沖浪裏」も本牧を想定していることは十分に考えられると思います。
 そこで、明治初期の古写真を探してみると、本牧あたりを撮った1枚を見つけました。写真の画面の左端が本牧の鼻といわれる崖が切り立った場所です。かつては漁場で、漁船などもあった場所だといわれています。実はこの場所を広重も描いています。北斎が亡くなった後、広重が手がけた「富士三十六景 武蔵本牧のはな」(1859年)には、先程の本牧岬の切り立った崖が描かれ、その南側にある磯子の海岸あたりを向こうに、遠くの富士山を眺めています。広重が北斎に対抗し、あえて波のない静かな水面を描いたのかもしれません。
 北斎の「神奈川沖浪裏」を改めて見ますと、どこの場所から描いたというのは、北斎にとっては重要ではなかったのだろうと思います。絵の中には、神奈川沖あるいは本牧あたりということを示す要素は何もありません。あるのは、波と富士山、そして波に翻弄される船に乗った人々だけです。余分な要素を削ぎ落として、波と富士山の対比を描くという思い切った表現を北斎は試みようとしていたのでしょう。
 ちなみに、場所は神奈川ではなく静岡で、違っているのですが、「富士三十六景 駿河薩タ之海上するがさったのかいじょう」(1859年)において、広重は北斎の大波に倣った、波越しに富士山を眺める絵を1点だけ描いています。岩にぶつかって大きな波しぶきが起き、その先に富士山を眺めています。広重は、風景を実際に見たような形で描くことをモットーにしていますので、北斎と違って手前に岩があったり、中景があったり、富士山の手前に陸地の部分があったりと、いろいろな要素を組みこんでいます。これと全く同じように見えることはないと思いますが、実際にありそうな景色だと思わせるように仕立てています。ここで北斎を改めて見ると、そういった空間のリアリティよりは、波の動き、波と富士山の対比というものを私達にストレートにぶつけてこようとすることが、よりはっきりと分かるでしょう。その点がまさしく、北斎の個性であり、オリジナリティーといえます。

 

江戸の起点「江戸日本橋」の定番を外す

 次に、すでにご紹介した「富嶽三十六景 江戸日本橋」を見てみましょう。手前に日本橋、そして日本橋から西の方角にある一石橋。さらには江戸城と富士山を眺めるという構図ですが、何といっても特徴的なのが、日本橋川の両岸に並んでいる蔵を、遠近感を強調して描いている点です。
 遠近法といえば、北斎が西洋絵画に興味を持っていたことを示す一例として、『北斎漫画』三編(1815年)には「三ッワリの法」という、北斎独自の解釈で透視図法を図解したものがあげられます。風景を描く時に、画面の上3分の2を天、すなわち空とし、下3分の1を地、地面とする。そして2つの消失点に向かって、周囲の風景が小さくなっていく。これは厳密な西洋の透視図法の理論からいえば間違っているのですが、北斎ならではの解釈としてこういう図を描こうとしていることが分かります。また、この図の隣には、西洋風の建物と西洋風の格好をした人がいる波止場の様子が描かれていますが、これも北斎の西洋への興味を示すものといえるでしょう。
 さて、「江戸日本橋」を見てみましょう。本来はいずれの建物も消失点へと向かって小さくなっていくはずですが、途中で急に建物の角度が変わっていることが分かります。北斎は透視図法をちゃんと理解していなかったから整合性が取れていないと判断することもできますが、そういう細かいことにこだわらず、画面全体の構成を重視しているのが北斎の良さとみなすこともできるでしょう。これまで「江戸日本橋」を説明する際、この透視図法の使用がもっとも重視される点でした。
 では、実際に19世紀の江戸の町の中で日本橋を見た場合、どのように見えるのでしょうか。場所は、有名な日本橋ですからすでにご存知かと思います。現在の東京メトロの東西線あるいは銀座線の日本橋駅からすぐ出たところに日本橋があります。今では首都高速道路が橋の上を通っています。そして日本橋の下を日本橋川が流れていて、西の方角を見ると、皇居となります。
北斎の「江戸日本橋」では遠くに江戸城と富士山が描かれていましたが、日本橋を描く際、富士山と江戸城を組み合わせるのは、いわば日本橋の絵の定番でした。それを非常に分かりやすく表している作品として、歌川広重の「名所江戸百景 日本橋雪晴ゆきばれ(1856年)が挙げられます。まず日本橋の特徴として注目したいのが、画面右下の魚河岸です。今では築地からさらに豊洲に移転してしまいましたが、かつては日本橋川を遡り、いろいろな魚が日本橋に集まってきました。その魚を担ぎ、朝早くから江戸市中で売り歩く魚売りの人達も沢山いました。画面の真ん中には日本橋が描かれています。その右奥には一石橋。このあたりは物流の中心地ですから、蔵が日本橋川沿いにずらりと建ち並んでいます。また、ここは交通の要衝で、東海道のスタート地点。東海道だけではなく日本全国を走る五街道のスタート地点にもなっていました。今でも高速道路で日本橋から何kmという表示がありますが、まさに交通の起点となっていることの証だと思います。日本橋の左側には、高札場こうさつばと呼ばれる御触書の立て札を掲示する場所があり、ここも日本橋の賑わいを象徴しています。そして日本橋から西の方角を眺めると、江戸城と富士山。人々で賑わう日本橋と国を治める徳川幕府の城、そして江戸の町を温かく見守ってくれる富士山という組み合わせが、日本橋を描く際の典型的な表現なのです。
 明治5(1872)年4月の雑誌『ファー・イースト』に日本橋の写真が載っています。明治44(1911)年に現在の石造に変わりましたが、この写真からはまだ江戸の名残を見ることができます。浮世絵と比べると、橋の長さが思ったより短いなという印象を受けますが、手前には漁船や荷物の運搬船、さらにその対岸には高札場の建物の屋根が見えます。浮世絵と比べるとだいぶ古びた、掃除が行き届いていない感じもしますが、北斎や広重もこれに似た景色を目の前に見ていたのではないかと思います。


日本橋
(小沢健志監修・三井圭司編著『レンズが撮らえた 外国人カメラマンの見た 幕末日本Ⅱ《永久保存版》』山川出版社、2014年より転載)

 

 ここで北斎の「江戸日本橋」に戻ってみると、日本橋と江戸城と富士山という典型的な風景の組み合わせという点では、非常にオーソドックスであると見ることができます。ただ一方で、私が見て非常に不思議に思うのは、北斎の日本橋の賑わいの描き方です。下の方に人々の頭だけが見えており、渋滞といっていいほど混雑しています。この雑踏の賑わいを描くのが面倒くさかったので省略したのかもしれないのですが、本来ならばこの賑わいこそが日本橋らしさを伝えるものです。しかしそれをしっかりと描かず、人々の頭の上だけを見せるという削ぎ落とし方をしているという点が、大変に面白いところです。
 北斎以前の日本橋の風景画を見てみますと、メインとして描かれるのは日本橋の雑踏や、魚市場の賑わいです。所狭しと人々が溢れている様子が、日本橋の主要なテーマだったのです。というのも、江戸の風景画を販売する目的の一つとして、江戸の町の人達だけではなく、地方からやってきた人達のお土産にしてもらうということがありました。田舎の人が江戸の町にやってきますと、噂には聞いていたけれども、何でこんなに人がいるのだろうと驚くわけです。現在の渋谷のスクランブル交差点のような感じでしょう。今でもたくさんの外国人が渋谷のスクランブル交差点で記念撮影をしています。江戸の賑わいを地元の皆に伝えたいという思いから、このような浮世絵は買われていきました。このような販売の目的であるにもかかわらず、北斎は、あえて賑わいをカットし、ギリギリ日本橋だと分かるだけにする一方、遠近法を使った新しい画面構成に取り組んでいるのです。すなわち、定番の描き方に飽きてしまい、いつもと違う形で日本橋を演出しようという隠れた狙いがあったのではないかと感じるのです。

日野原健司さん

 

「東都駿台」の高低差

 続いては「富嶽三十六景 東都駿台とうとすんだい」を見てみましょう。画面の手前側に道があり、すぐ向こう側に山が広がっていますが、その間をよく見ると神田川が流れています。神田川の奥には建物の屋根が見え、その奥に富士山が見えます。画面の手前をよく見ると、物売りでしょう、大きな荷物を持って歩いている商人、その隣には供の者達を連れた武士が歩いています。武家屋敷も近かったので、武士の姿が多く見られたのではないかと思います。そこは坂道になっていて、荷物を持った人達が登ったり下りたりしています。神田川の前には、野菜らしきものを運んで売り歩く人や宗教のお参りか何かに行く人、あるいは何も荷物を持たず、頭に手ぬぐいを巻いてブラッと散歩をしているような人もいます。
 場所はおそらく、皆さんが今いる明治大学の近くになります。ここから水道橋の方向に向かうと神田川にぶつかりますが、その北側、住所だと東京都文京区本郷1丁目付近でしょう。そこからやや南西の方角を眺めていることになります。明治大学は丘になっているところにありますので、北斎の絵でいえば、坂道を登った先にある感じです。神田川は江戸時代の初め、武家達がこの付近の山を掘削して作った人工的な川だという話は有名です。
 写真は明治初頭のものですから、ほぼ江戸時代の様子を伝えていると思います。渓谷のだいぶ切り立った中を神田川が流れていて、東の方向、水道橋側から秋葉原方向を眺めています。北斎はおそらくもうちょっと西側の景色を見ていたのではないかと思われます。駿台つまり駿河台は、台地状になっている間を神田川が流れる山あり谷ありの江戸の高低差を楽しめる場所で、見張らしも良いところでした。見張らしが良いということは、当然富士山もよく見える場所でもあります。
 通常、他の浮世絵師が描く駿河台はやはり神田川です。川を挟んで両側が切り立った崖のようになっていて、角度によってはその神田川の西の先に富士山が見えるというビューポイントです。昇亭北寿(生没年不詳)の「東都御茶之水風景」(1804-09年)は、北斎の絵よりももうちょっと東の方で湯島聖堂のあたり、秋葉原に近づいたあたりなのですが、非常に切り立ったような崖や坂道、そして富士山が描かれるという一般的な描かれ方でありました。

昇亭北寿「東都御茶之水風景」(太田記念美術館)


 また歌川広重は「不二三十六景 東都駿河台」(1852年)でこの場所を描いています。こちらは神田川を描かずに、神田川に背を向けて、駿河台の高台からその眼前に広がる武家屋敷を見下ろしているという絵です。明治大学のすぐ近くに「山の上ホテル」があり、そこから東京メトロ半蔵門線や都営地下鉄新宿線などの神保町駅の方に下ろうとすると、錦華坂という坂道があって、かなりの高低差を体感できると思います。このあたりは高台で、今みたいにビルもありませんから、目の前に広がる神保町からさらに江戸城を含めた武家屋敷が広がっている光景を窺うことができる大変見晴らしの良い場所でありました。ただ、この絵はちょっと謎の点があります。江戸城が右で、富士山は左というのは、実は逆です。富士山は西の方ですから、画面の左手に江戸城、右手に富士山でないといけないのです。なぜこのように描いたのか、理由はちょっと分かりません。まあ間違えたのでしょうね(笑)。
 そういったことも踏まえて、もう1度北斎の「東都駿台」を見ると、北斎は定番を外した描き方をしているという印象を受けます。一応、神田川や両側の渓谷の様子も描こうとしてはいるのでしょうけれども、谷の中を流れる神田川の高低差をあまり強く感じさせません。さらに、高台から見える武家屋敷についても、広重のようにしっかりと描かずに、隙間からちょっと見えるだけです。そもそもこの右端にある大きい建物が何かよく分かりません。武家屋敷の建物かと推測できるのですが、このような大きな面積を使って何の建物を描いているのかが謎なのです。ですので、岩波文庫の解説でも、しばしば定番を外すとか、あまのじゃくなとか、へそ曲がりな描き方をしているという言い回しを使っているのですが、そういったところもこの作品に見受けられるのではないかと思います。御帰宅の際にでも、水道橋のあたりに行き、坂道を感じていただけると北斎の絵とつながれるかなと思います。

 

「五百らかん寺さゞゐどう」の真の姿とは……

 次に「富嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどうごひゃくらかんじさざいどう」をご紹介しましょう。現在JR目黒駅から徒歩約10分のところに五百羅漢寺があります。このお寺、江戸時代は別の場所、東京都江東区大島3丁目あたりにありました。そこには栄螺堂さざいどう、正式には三匝堂さんそうどうという名前の、まるでサザエの貝殻のような構造の建物があります。1階の入口からスロープ状の階段で屋上にたどり着くと見晴らしの良い回廊があるという建物で、江戸の人々が散策に出掛け、景観を楽しむスポットとして知られていました。
 この絵、展望台らしきところで、人々が背中を向けて富士山を眺めています。先程の「江戸日本橋」のように、透視図法を分かりやすく使っているわけではありません。前を向いている人々の背中から、作品を見ている私たちが絵の中の人達と一緒に富士山を眺めているような感覚にさせるという、非常に北斎らしい作品なのです。北斎は人物の後ろ姿を描くのが大好きです。人物の後頭部を見ることによって、その先に富士山があるのだなと絵を見る人の視線を誘導するのがうまい。こういうテクニックが詰まった絵であります。
 では、この絵についても、どういう場所で、どのように描いているかを見てみましょう。かつての五百羅漢寺は、現在の都営地下鉄新宿線西大島駅あたり、JR亀戸駅を南に行ったところにありました。当時は、周り一面田んぼで建物も少ない場所でした。北斎の絵も何もないような感じで描かれていますが、あまりにも何もなさすぎですね。少しは田んぼとかが広がっていたはずだと思うのですが、北斎はあえて全部削り落とし、巨大な平べったい沼地のように描いています。そこはまた北斎らしい省略なのだろうと思います。
 この五百羅漢寺はしばしば描かれるのですが、北斎以前にも浮世絵師の北尾重政(1739-1820年)の「浮絵 五百羅漢寺右繞三帀堂之図ごひゃくらかんじさざいどうのず」(1781-82年頃)では、階上の見晴らし台と共に、画面の左端には富士山が見えていました。
 他の浮世絵師、広重なども「名所江戸百景 五百羅漢さゞゐ堂」(1857年)でこの場所を描いています。これらの作品を見ていて、やはり北斎の絵は不思議だなと思ったことが、明らかにこの展望台の面積が広すぎるのではないかと……。というのも、よく見ると結構前に張り出していますよね。しかも画面の右上に軒が見えますが、わずかしかありません。重政や広重の絵を見ますと、下の階の屋根に足場を組んで、少し手前に出るようにはしていることが分かりますが、どう見ても北斎の絵ほど張り出しているわけではありません。
 さらに、『江戸名所図会』(1834-36年)という当時の名所ガイドブックがあります。結構建物の形を正確に描いている本と考えられるのですが、この本でも回廊はそれほど張り出しているわけではありません。
 栄螺堂も明治初期の古写真が残っています。ただ残念なことに、回廊自体が見当たりません。おそらく安政の大地震(1855年)でこの回廊の部分が崩壊し、欄干の部分だけが若干残っているのではないかと推測できます。
 このように他の作例と比べてみて明らかになることは、まず北斎は、見晴らしのいい場所から富士山を眺める素晴らしさを強調しようとしたと思われます。その演出のために、回廊のスペースを広く取って、大勢の人々を横並びにさせて眺めさせました。私達も絵の中の人と一緒になって眺めているという気持ちにさせる細工といえるでしょう。
 さらに軒の部分、本来ならもっと軒が長かったと思うのですが、かなり短くなっています。軒の先には風鐸が掛かっており、さらにその先には富士山があります。すなわち、絵を見る人たちの視線が、画面の上の軒から富士山のある中央に自然に向かうように、実際の空間の形を極端に変えたのではないでしょうか。北斎ならではの演出といえるでしょう。
 ただ、岩波文庫の刊行後に不思議な絵を見つけてしまいまして……。「富嶽三十六景」以前に北斎自身が描いた「元禄歌仙貝合 さざへ貝」(1821年頃)という作品です。五百羅漢寺の栄螺堂を描いています。これを見ると回廊がかなり張り出しているのです。この時期、実は回廊はかなり張り出していて、後に何らかの理由で狭まったのか、あるいはこの図でも北斎はかなり誇張して描いているのか、まだ解決できていません。ただやはり「五百らかん寺さゞゐどう」の軒は短すぎますし、北斎も実際の景色を忠実に描くことよりも、絵としての迫力を優先したかと思うのです。


元禄歌仙貝合 さざへ貝(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

 

北斎独自の画面構成

 最後に、「富嶽三十六景」にはない場所ですが、北斎が風景をどう捉えていたかを知ることができる興味深い作品をお目にかけて、終わりにしたいと思います。これはフェリーチェ・ベアト(1825-1903年)が撮影をした溜池の落し口です。現在では埋め立てられてしまったのですが、虎ノ門近くにこういったお濠があり、そこに葵坂がありました。そして、小さな滝のようなものが溜池から流れてきています。この場所を広重が「東都名所坂づくしの内 葵阪之図」(1830-44年)で描いていますが、実際の景色に合わせつつも結構坂道が急勾配になっています。この風景のポイントとなる場所を、より誇張させて目立たせるようにしているという印象を受けると思います。実は北斎も、「富嶽三十六景」とほぼ同時期の作品である「諸国瀧廻 東都葵ヶ岡の瀧」(1833年頃)で、この場所を描いています。坂道と小さな滝を縦長の画面の中に強引に入れているので、広重の絵や実際の景色を撮影した古写真と比べてみると、北斎が必ずしも実際目の前に見える景色をそのまま描こうとしたわけではなく、その景色を踏まえた上で、自分独自の一つの画面を作り上げて、絵を描いているということがご理解いただけると思います。


諸国瀧廻 東都葵ヶ岡の瀧
(The Metropolitan Museum of Art, Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939)


 今回、岩波文庫として刊行した『北斎 富嶽三十六景』には、これまでお話ししてきたような観点で、北斎ならではの表現がどういうところにあるのかをできるだけ紹介しています。他の作品につきましても、ぜひ文庫の解説文をご覧になりながら、鑑賞していただければ、北斎のアイデアをより深く楽しむことができると思います。

 

【関連サイト】

『北斎 富嶽三十六景』特設サイト » https://www.iwanami.co.jp/fugaku36/

 

【イベント概要】

講演名:日野原健司氏「岩波文庫『北斎 富嶽三十六景』を読む」
     2019年6月23日(日)午後2時〜 
     明治大学グローバルフロント(東京都千代田区神田駿河台2丁目-1) 
主催:画廊兼古書店 シェイクスピア・ギャラリー
共催:明治大学風致研究者の会
後援:岩波書店 

 


<図版出典一覧>

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏:
The Metropolitan Museum of Art, H. O. Havemeyer Collection, Bequest of Mrs. H. O. Havemeyer, 1929

賀奈川沖本杢之図:
すみだ北斎美術館/日野原健司編『北斎 富嶽三十六景』岩波文庫、2019年より転載

北斎漫画 二編:
太田記念美術館

『今様櫛〓雛形』:
国文学研究資料館DOI:10.20730/200018399 

保永堂版 東海道五拾三次之内 神奈川 台の景:
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1918

本牧の写真:
小沢健志・山本光正監修『レンズが撮らえた 幕末明治 日本の風景』山川出版社、2014年より転載

富士三十六景 武蔵本牧のはな:
山梨県立博物館

富士三十六景 駿河薩タ之海上:
山梨県立博物館

富嶽三十六景 江戸日本橋:
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1936

北斎漫画 三編:
太田記念美術館

名所江戸百景 日本橋雪晴:
Museum of Fine Arts, Boston, William Sturgis Bigelow Collection

日本橋の写真:
小沢健志監修・三井圭司編著『レンズが撮らえた 外国人カメラマンの見た 幕末日本Ⅱ《永久保存版》』山川出版社、2014年より転載

富嶽三十六景 東都駿台:
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1922

駿台の写真:
港区立港郷土資料館編『港区立港郷土資料館所蔵 幕末・明治期古写真集〜名所・旧跡、そして人びと〜』港区教育委員会、2013年より転載

東都御茶之水風景:
太田記念美術館

不二三十六景 東都駿河台:
山梨県立博物館

富嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう:
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1922

浮絵 五百羅漢寺右繞三帀堂之図:
Museum of Fine Arts, Boston, William Sturgis Bigelow Collection

名所江戸百景 五百羅漢さゞゐ堂:
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

江戸名所図会:
国立国会図書館デジタルコレクション

栄螺堂の写真:
小沢健志監修・三井圭司編著『レンズが撮らえた 外国人カメラマンの見た 幕末日本Ⅱ《永久保存版》』山川出版社、2014年より転載

元禄歌仙貝合 さざへ貝:
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

溜池の落し口の写真:
小沢健志監修・三井圭司編著『レンズが撮らえた 外国人カメラマンの見た 幕末日本Ⅰ《永久保存版》』山川出版社、2014年より転載

東都名所坂づくしの内 葵阪之図
「錦絵でたのしむ江戸の名所」国立国会図書館

諸國瀧廻 東都葵ヶ岡の瀧:
The Metropolitan Museum of Art, Henry L. Phillips Collection, Bequest of Henry L. Phillips, 1939

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著者略歴

  1. 日野原健司

    1974年千葉県生まれ.太田記念美術館主席学芸員.慶應義塾大学非常勤講師.慶應義塾大学大学院文学研究科前期博士課程修了.江戸時代から明治時代にかけての浮世絵史を研究.
    『北斎 富嶽三十六景』(岩波書店),『ヘンな浮世絵 歌川広景のお笑い江戸名所』(平凡社),『かわいい浮世絵』『歌川国貞 これぞ江戸の粋』『小原古邨 花咲き鳥歌う紙上の楽園』(東京美術),『戦争と浮世絵』(洋泉社)など著書多数.

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