web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

シリーズ「日本の中の世界史」完結記念 座談会

「日本の中の世界史」完結記念 座談会(前編)

 出席:南塚信吾・木畑洋一・小谷汪之・久保亨・油井大三郎・池田忍・吉見義明

    ☞プロフィールはこちら

司会・進行:渡辺 勲(編集者。元 東京大学出版会)

(2019年7月5日 岩波書店会議室にて)

 

――この「座談会」は、2018年11月に刊行を開始し、19年6月に完結した書下ろし単行本シリーズ「日本の中の世界史」全7冊の著者7名の語りによって構成されています。前半は、シリーズの完結巻『買春する帝国――日本軍「慰安婦」問題の基底』を担われた吉見義明さんから始めて、刊行順を遡りながら、7名の著者の現時点での自著に対する思いを語っていただきます。そして後半は、本シリーズの完成に至るまでの研究会(2014年8月開始、2017年5月企画として成立)でリーダー的役割を果たされた南塚さん、小谷さん、木畑さんに、シリーズ全7冊を分担して、語っていただきます。さあそれでは始めましょう、まずは吉見さん、お願いします。

吉見 かなり前から私には、日本近現代における性買売の歴史を通観したいという思いがあり、「慰安婦」問題がなかなか解決しない背景にある、買春に対して寛容な日本について考えてみたいと思っていました。

 そして、南塚さんが『「連動」する世界史』で言っている世界的傾向の中には、「文明化」とか奴隷制廃止という大きな流れがあるのですが、フランスを始めとしてヨーロッパでは、国内とか海外に公娼制を作ろうとする逆の動きがあり、さらにそういう動きに対して、公娼制批判の運動が起こってくる。日本にはこの三つの流れが、時間差を伴い流入するのですが、このような動きに日本はどのように対応しようとしたのか見てみたい、と思ったのです。それは実にエキサイティングな営みでした。また日本という地域自体も北海道に拡大し、沖縄を取り込み、朝鮮・台湾・満州、それから中国・シベリア・南樺太・南洋群島・東南アジア・太平洋へと広がっていき、性買売の制度、性奴隷制度を作り維持しようとする力が非常に強いという問題を、どう考えるのか。

 それから「黙認」の問題です。公認しつつ隠蔽するという強い動きが、併合前の朝鮮、満州の満鉄附属地、中国本土、南洋群島、で起こってくる。日本国内の廃娼県では、料理店酌婦制度に回帰していくという問題がある。それから、日本軍「慰安婦」制度自体はさらに極端化して公設になる。米軍の「慰安婦」制度も公設と隠蔽ですね。占領下でGHQから公娼制廃止と言われて赤線を作っていく、というようなことも、同じ問題だと思います。

 このようなことを調べていく中で、木畑さんに言われて気付いたのですが、シンガポールに寄港した新聞記者が、シンガポールの日本女性を見て憤慨するわけですが、同じ人物が日本では公娼制を維持しようとしている。それをどう考えたらいいのか。「外に絶娼、内に存娼」という態度を確立していったことが分かったのは、非常に興味深かったです。

 とはいえ、できなかったこともありまして、性買売に関する民衆の意識や性売行動、貸座敷業者の搾取や芸娼妓酌婦周旋人の実態について、一次史料を用いて解明することは、今後の課題として残っています。


――では続いて、本シリーズの第6冊目にあたる『手仕事の帝国日本――民芸・手芸・農民美術の時代』を仕上げられた池田忍さん、お願いします。

池田 今回は、新しいテーマに取り組んだこともあり、いざ、締め切りが迫ってきても、調査が足りない、勉強中というモードから抜け出せず、心配をおかけしました。なんとか着地できたのは、研究会を重ねる過程で、シリーズの目標が自分の中で次第に明確になったからだと思います。本シリーズの「刊行にあたって」の言葉通り、「世界史の潮流」の中に、20世紀初頭の日本の美術運動、青年美術家たちの試みと葛藤を位置付ける。そこに的を絞ることになりました。

 私が取り上げた明治末から大正期にかけて、日露戦争後にほぼ青年期に達した若者たちは、西欧に学ぼうと情熱に燃えて海外へ出ていく。けれども、ロンドンやパリで出合うものは、西欧の文化にとどまらない。博物館を訪れ、帝国の周縁にまた足を延ばして、さまざまな土着的文化に目を奪われる。各地の民具、手仕事などに触れて、強い印象を受け、帰国後に海外で養った目を持って、今度は自分の出てきた場、ローカルな土地の文化、周縁化された手仕事に向かっていきました。そして強い自意識を抱えながら、在地の人々との協働を模索した。そういった青年たちの実践や思想を、掘り下げて考えてみたかったわけです。現代の若者たちは留学、海外経験を促されているけど、何をつかんでくるのかな、なんていつも思いながら、史料を読みふけりました。

 それはともかく、近代の男性知識人である若き美術家たちと、彼らが協働を望んだ女性や農民、地方の工人たちとの関係性は、水平ではなかったから、葛藤と挫折が続くのですが、資料にそれを探っていくと興味は尽きず、つい本の中にたくさん紹介、長く引用したくなってしまって……。それから、本書では、協働を求められた人々の反応、エリート美術家との意識のギャップ、独自の試みに目を向け、踏み込んで分析することが十分には出来ませんでした。その点は今後の課題として、これからも考え続けたいと思います。

――次は第5冊目『平和を我らに(Give peace a chance)――越境するベトナム反戦の声』の油井大三郎さんにお願いしましょう。

油井 本書の対象である「時代」は、私にとっては同時代史で、後書きにもちょっと書きましたが、ベトナム戦争がなければ私は研究者にはなっていなかったというほどに思いが強いので、いつかは取組みたいと思っていたテーマでした。しかしやってみて、同時代を研究することの難しさを痛感させられました。同時代としてのベトナム反戦運動のどこかに自分もいたわけですが、その時に、特に他のグループに対して抱いていたイメージと、今度本を書くためにそのグループの資料を読んだ時の印象とがすごく違っていました。自分の限界を見た、そのような感じがしたのです。

 もともとアメリカと日本を比較してみると、日本の左翼や平和勢力が極めてセクト的であるということは前から感じていました。日米比較をすることで、アメリカ側の非暴力・直接行動主義のグループを発見して、アメリカのガンジーと言われるようなA.J.マスティとか、デイヴィッド・デリンジャーとか、そういう人たちを発見して、それを日本に伝えた意味はそれなりにあった、とは思っています。

 問題はそういう非暴力・直接行動主義の人たちが中心になって様々なグループをまとめ上げるという米国での努力が、日本でもベ平連を中心に6月行動委員会という形であったのですが、結局日本はそれに失敗したわけです、それは何故なのか、ということは未だに気になっています。

 それから、もともと私がアメリカを研究してきたこともあって、ベトナム反戦運動での日米交流が結構重要だったのではないかという、最初は仮説的な思いで始めたのですが、調べていくとそういう事実がどんどん出てきて正直びっくりしました。だから、最初に仮説的に考えていたことがある程度実証できたという満足感もあります。

 また、ある大学のゼミでテキストに使用してくれたのですが、学生の感想文の中に、政府が間違ったことをしている時に民衆が立ち上がって是正する直接民主主義の大切さがわかったとか、第三世界との関係で自分を見直す必要を感じたなどの感想があった、と聞いて非常にうれしく思いました。

 それから反省点としては、考えてみるとこのシリーズの中で私だけが近代ではない、皆さんは戦前期の近代を中心に書いていますが、私だけが戦後史になっている、とするともう少し違和感があっても良かったかもしれない。シリーズ全体で共有しているような問題意識で、ベトナム反戦運動を掘り下げる、特に「脱近代」、近代で当たり前だった植民地支配とかを否定して、脱近代的・思想的な努力がなされてきたことを、もう少し掘り下げた方が、シリーズの中の1冊としては良かったのかな、そのようなことを感じました。

 それと、かなり通史的に扱わざるを得なかった、特に旧左翼の貢献を浮き彫りにするに当たって、第一次インドシナ戦争から論じた方がいいということで、かなり長い時期を扱ったので、表現が通史的になってしまいました。だから、もう少し時期を絞るとか、特定の個人について追究するというアプローチもあって良かったわけです。私の場合にそれを適用すれば、例えば鶴見俊輔とか小田実(まこと)とか、そういう個人に絞って、彼らが何故ベトナム反戦運動に取り組んだのかという点を掘り下げれば、さらに膨らみのある本になったのかもしれない、という思いもあります。

――続いて第4冊目『日本で生まれた中国国歌――「義勇軍行進曲」の時代』の久保亨さんにお願いします。

久保 本を書き終えた後の最も大きな感想は、というと、まずは新しいことをたくさん勉強することができた、ということです。本に書くのだからしっかり調べておこうと思って調べ始めたら、これも分からない、あれも分からない、ようやくいろいろ分かってきたら、次にはこれをやらなければならない、という具合で、すごく調べることになりました。

 いくつか挙げておくと、一つは邵元冲(しょうげんちゅう)という国民党の幹部のことです。蒋介石とも非常に仲が良かった人ですが、彼の社会主義への接近というのが非常に顕著だったということが分かったのには、自分でも驚きました。右翼的というイメージだった人が実は、廖仲愷(りょうちゅうがい)とか汪精衛とか、その時期の左派と一緒になって労働組合条例を書いている。だからモスクワで蒋介石と落ち合ってソ連を一緒に視察したというのは偶然ではなかった。やはりその頃の中国国民党は、ソ連や社会主義と非常に近いところにいた、という印象を強く持つことができた、これは大きかったです。

 台湾で出版された邵の文集の中には、労働組合条例の話は書いてありません。つまり台湾としても扱いにくいことはカットしていた。1920年代の革命的な雰囲気が漂っている国民党は、台湾に行った後の国民党には少々扱いにくい存在だった、だから国民党の歴史の中でも外れてしまっている。今の共産党の書く歴史からはもちろん外れている。だから誰も書けなかった蒋介石や邵元冲を、本書で初めて書くことができたのだ、と思っています。

 それから張黙君(ちょうもくくん)についてもそうです。この女性運動家が邵元冲の夫人だということまでは分かっていたわけですが、彼女は驚くほど活躍していました。1920年代の前半に上海で出ていた新聞の毎週1回の女性欄の専門の編集者になり、女性労働者の問題をまっしぐらに取り上げています。振り返ってみると、向警予のような共産党系の女性運動家については、大陸でもたくさん研究があるのに対し、張黙君については、全く研究がありません。ただ、漢詩を作る才能があった人なので、文学史のところでは論文はあるのですが、女性運動家としての評価ではありませんでした。

 2番目は、「雲南の近代」に対する見方です。従来、雲南というのは非常に遅れた辺境の大変な地域だったが、日中戦争の時に基地になって頑張った、という話が多かったのですが、それに対し本書のイメージは、実は雲南は相当程度に近代化が進んでいて、フランスとの関係もあり、中国の近代の先頭の方で思いのほか独自に近代化を進めていた、その社会の変化の中で生まれてきた若者の一人が聶耳(じょうじ)だった、ということになっています。

 そして3番目の論点は、1926年から29年の日中両国の左翼運動の近さです。ナップの機関誌『戦旗』を東京芸大の卒業作品の絵に描きこんだ中国人留学生・許幸之が実は映画「嵐の中の若者たち」を監督した本人だったという事実も、初めて分かったことです。

 対支非干渉運動に出てくる岩崎昶、村山知義、秋田雨雀らは、1970年代から80年代の日本の左翼の出版物によく名前が出てきた人たちです。まさかこの本を書いている中でこの人たちに出会うことになるとは、これはあまり想像しませんでした。調べていくうちに、ああ、こんなにも近いところにこの人たちがいたのだ、ということを発見することができたのは、すごくうれしかったです。

 本書に寄せて下さった感想などについて言えば、1980年代に日本に留学し、日本で大学の先生になっている中国の方が、ついひと月前ぐらいに、最近になって読んで面白いですね、とハガキを送ってきてくれました。彼らも面白いと思って読んでくれるというのは、よかった、という感じです。このように、新しいことがたくさん勉強できたというのは何を意味するかというと、要するに自分の勉強が足りなかったということです。と同時に日本の中国近現代史が、まだまだ、戦後、中国共産党が作ってきた神話のイメージにとらわれており、実際の歴史をちゃんと捉え切れていないということを痛感させられました。その克服は依然として大きな課題だと思います。

 この研究会での議論は、私にとって決定的な意味を持ちました。調べなければならないと思っていたことを指摘していただいたということです。編集部から、邵元冲と聶耳、二人とも面白いけど、どこで関係するんですかと言われ、どこかで重なりますよ、と返事して調べていったら本当に重なった。政権の文化政策の担当者とその文化政策の下で文化活動をやっていた左翼という形で、これが実に見事に重なることができた。

 また、これは研究会で皆さんから言われたのですが、張黙君というすごい女性がいたのに彼女についての研究が見つからなかったので、刺身のつま扱いにしていいですかねと話をしたら、そんなことは絶対に許されないと怒ってくださいました。そこで本格的に調べてみたら、とんでもない大きな存在だったというのが分かってきた。全て研究会での議論が元になっているので、そういう意味では、この研究会を通してこの本ができたと言っても過言ではありません。

 本書をしっかり読んでくれた方は、結構重く受け止めてくれました。ゼミで絶対に読むからねと言って、10冊ドンと買ってくれた先生もいます。最後に言いたいことは、この本には多くの方の知らないことがたくさん書いてあります、放っておいたら買ってもらえないかもしれません、これは難しい問題です。

――第3冊目『中島敦の朝鮮と南洋――二つの植民地体験』の小谷汪之さん、お願いします。

小谷 いろいろと書きたいことがたくさんあったのですが、枚数を厳守するという立場から随分多くのことを切り捨てました。それで心残りみたいなものがあるので、そのうちの一つ二つについて、述べさせていただきます。

 一つはマーシャル諸島についてです。マーシャル諸島の西側の列島はラリク(日没)列島と言うのですが、その北の端っこにあのビキニ環礁がある、という一言だけで済ませてしまった。もともとはビキニの原水爆実験のことを書こうと思ったのですが。ビキニ被曝事件の時、私は小学校5年生だったと思いますが、大変な大きな事件で、報道も随分賑やかにされていたし、その後原水爆禁止運動というのが広がっていくことになるわけです。しかしあの時に日本人の問題として一番欠けていたのは、じゃあ実際にその水爆を落とされたマーシャル諸島の人々は、一体どうなったのかということについて全く想像力が及ばなかったということだったと思います。それは当時の日本、戦後の日本が非常に狭く内向きになっていて、いわば視野狭窄的であったということの現れだと思うのですね。それは日本人が当時四つの島々から外になかなか出られないという、強制された鎖国状態に置かれていたということが心理的に働いたのでしょうが、内側にしか目が向かない。そういう戦後思想、戦後の日本人の精神構造の自閉症的傾向、それが典型的に現れた事例がビキニの水爆実験の問題であろうと思います。

 マーシャル諸島における原水爆実験というのは、1946年から58年まで12~13年間で計67回もやられているんです。あのビキニ被曝事件を起こした時の水爆というのは、広島に落とされた原爆の1,000倍の威力で、あんなものを空中100mぐらいのところで爆発させられたら、一体どういうことが起こるのか考えただけで恐ろしくなります。未だにマーシャル諸島の人々の間では、たくさんの身体的障害が残っているし、もう二度と住めないであろうという環礁がいくつもある。本当に酷いことをやったものだと思う。これはやはり書いておくべきだったと思います。

 それからもう一つは、初期の南進論について。これもかなり書いたんだけど、全部切り落としてしまいました。初期の南進論者というのは榎本武揚、田口卯吉、横尾東作といった人々です。初期の南進論を議論として取り上げても面白くないと思うのですが、実際に1880年代ぐらいから、盛んに南洋へ南方へと日本人が進出していくわけですね。それは戦後の日本人なんかとは全く大違いの、すごい海外進出意欲だと思いますが、その時に、最初に目標とされたのはアホウドリの捕殺なわけですね。アホウドリっていうのは馬鹿鳥なんて書いてある時もありますが、あのアホウは本当に馬鹿という意味なのです。ヨチヨチ歩いて人間にすぐに殴り殺されるからなのでしょう。アホウドリがいかに1880年代から1900年位までの日本の海外進出とか輸出にとって重要であったかというのは、今では想像も付かないぐらいです。アホウドリの羽毛、ダウンをヨーロッパに輸出するわけですね。

 アホウドリってすごく面白い。(伊豆)鳥島という島がありますね、八丈島と小笠原諸島のちょうど真ん中辺のところに。そこで1887年からアホウドリの捕殺が行われはじめた。1902年に鳥島が大爆発して、百何十人という日本人が全滅したのですが、その間の15年間に捕殺したアホウドリの数が約600万羽。1人大体1日100羽ずつ殺していたって言われている。マーシャル諸島に原水爆を落としたアメリカ人もひどいとは思うけど、このアホウドリを殺した日本人もひどいなと思うのです。鳥島は1933年に禁猟区になって、アホウドリの捕殺が禁止されるのですが、それまでに約1,000万羽が捕殺されたと言われています。そういった類いのことをも全部削ってしまった。今思うと残念です。

――第2冊目『帝国航路(エンパイアルート)を往く――イギリス植民地と近代日本』の木畑羊一さんです。

木畑 まず言いたいことは、この本は、書くのがきわめて楽しかったということです。テーマ自体は以前から温めてはいたのですが、実際にはいつ取り掛かれるか分からなかったこともあり、それほど材料を集めてもいませんでした。この研究会がスタートしてから本格的に調べ始めたわけですが、非常に楽しんで書いた、そんな感じの本になりました。

 結構いろいろな人が読んでくれています。その中にはお医者さんが二人いて、一人は、新聞の広告を見て買って読んで面白かったという心臓の先生。それからもう一人は、近所の最近かかりつけになってもらった先生で、「毎日新聞」での加藤陽子さんの書評を見て買って、10連休で読まれたそうです。それから同志社大学のあるゼミで取り上げて、一学期間検討してくれたところもあります。来週そのゼミに来てくれといわれています。

 それからもう一つ意外な読まれ方があったのが、私の義理の兄の場合です。読んでから、うちの曾祖父もこの航路で行ったというのですね。確かに義理の兄は、文久2年の遣欧使節団に加わっていた人のひ孫かそのもう一代下かなのです。その人の記録も残っていて、実は私も読んでいました。ただ、本に使うだけの情報はなかったので、残念ながらその人の名前は出てこないのです。名前としては知っていたわけで、へえ、そんなつながりがあるのかと、驚きました。

 かつては船で旅するということだけが外国に行く手段だったわけですが、特に明治初め頃の人たちは、その旅で非常によくものを見ていると思いました。南塚さんの議論でも、明治初年の人たちの視野の広さが強調されていますが、その通りです。前から岩倉使節団の記録を見て、これは詳しいなと感心していたのですが、あれは必ずしも特別ではなく、岩倉使節団の記録が特に詳しいということは確かですが、他の人もそういう姿勢をとっていたのです。ただ、この本で取り上げることができたのは、その人たちの記録のごく一部です。そういう記録を読んで、全体として面白いと思いながらも、私自身の議論に使えるところに絞って取り上げざるをえなかったため、いろいろなものを落とさざるをえませんでした。そういう記録を読んでいくこと自体、それなりに面白かったですね。

 素材についていえば、崩し字が読めないということもあって、肉筆の一次資料をほとんど使えなかったというのが、一つの反省点です。

 それから、時代を経由していくにつれて、見方がどう変わっていったかということが鍵になるため、それぞれの時期ごとの材料が必要だったわけですが、満遍なくは集められませんでした。例えば第二次世界大戦がヨーロッパで始まってからしばらくの間は、まだこの航路を辿れたわけですが、その時期についてもう少し何かあるかと思っても、結局はうまく探せませんでした。また明治の中頃から終わりにかけてはいろいろな形で材料があるのですが、それ以前のものはなかなかなくて、旅行記などがシリーズの形で編纂されているものに頼るところが結局多くなりました。その他にも、まだいろいろ素材があるのだろうという感じがしながら、執筆したわけで、食い足りなさはありますね。

――いよいよ、本シリーズ全7冊の総論的位置づけともいえる『「連動」する世界史――19世紀世界の中の日本』の南塚信吾さんの番です。ではよろしくお願いします。

南塚 この本のきっかけは、江口朴郎さんと国分寺でいつもアフターファイブに酒を飲んでいた頃にあります。江口さんは、帝国主義が帝国主義である限り、ゴム風船みたいなもので、こちらで緊張が高まればあちらでは緩んでくる、そのような話をされていました、私にはそれがずっと気になって、これまで来たのです。

 その次のきっかけは、1980年に東欧と日本の文化交流についての調査研究をやったことです。その時に幕末から明治初めの頃の文献にバルカンの話が出ていて驚いたのですね。その後ほっておいたのですが、2004年松本へ行った時に、古本屋で岡本監輔の和綴本『万国史記』を見つけて、見た途端にびっくりしたのです。1870年頃に出た本にポーランドやらハンガリーやらの歴史が正確に書いてある。そういう認識を明治期に既に持っていたというので、これはきちんと取り組まないと駄目だと思って、その後、万国史を次々と集めて調べるようになったのです。そして箕作麟祥の『萬国新史』の重要性に気がついた、という訳です。これに刺激され東欧と日本の関係、広く国際関係を見直すことになりました。

 その次の段階は土着化ということなのですが、きっかけは恥ずかしながらNHKの大河ドラマです。坂本龍馬の「船中八策」の話や、「八重の桜」の中の山本覚馬の『管見』などは一体どこから来たのかと、そのような疑問を持ったのです。

 私の本は皆さんご承知のように、何も新しい史料を使っているわけではなく、使っているのは、ほとんどが活字化されたものです。研究書、あるいは概説書のようなものもありますが、そこに書かれていることを少し違う角度から読むのです。そのようなことで成り立っている仕事なので、歴史書としては二流とは思っているのですが、しかしそこから出発しなければならないのが、今の日本の世界史研究の現状ではないか、と思っています。

 それともう一つは、話が大風呂敷になっていて、世界各地についての日本での研究、研究史を完全に押さえているわけではないので、もしかすると大昔の研究成果を使っているのではないかとか、大きな誤解をしているのではないかということが怖かったですね。その点ではこの研究会でいくつかヒントをもらったり、注意してもらったりして助かりました。

 刊行後の反響の方は、私の場合トップバッターということもあったから、比較的書評などでも扱ってもらいました。私が面白い反応だなと思ったのは二つあって、一つは私の周りにいる社会人連中が非常にポジティブな反応をしてくれたことです。この本は面白い、俺たちが昔習った歴史とは全然違う、と言ってくれたのです。

 もう一つは、この間千葉の歴史教育者協議会の会合に行ってきたのですが、高校の先生たちが私の本を読んできて、質疑、討論を行ったのです。あの本を題材にして、どういう教案を作ったらいいか考えているとか、歴史総合でこのように教材化できるとか、びっくりするような嬉しい話をたくさんもらいました。

 もちろん一方にはいろいろな批判もあって、あの本はどこか天上のずっと遠いところから地球を眺め回しているような、そういう本ですね、と言われました。私は、天上もいいけれども、それはアジアの方にあるのだよ、と言っているのですが。

 最後に、本書では、長い19世紀についてこういう議論をしているけれど、これがそのまま21世紀に通用するとは思わない。19世紀の歴史がこうあったということは、そのまま歴史の教訓として学ばれるわけだから、これが21世紀にそのまま通用するという話ではない、と思います。人間は利口と言うか、悪賢いところがあるのでね。それはともかくとして、今回は書き手7人が息を合わせて全7冊を完成させたのです。実にうれしい話ですね。

【後編につづく】

 

■著者プロフィール■

南塚信吾(みなみづか・しんご)
1942年生.ハンガリー史.千葉大学・法政大学名誉教授.『義賊伝説』(岩波新書)
 
木畑洋一(きばた・よういち)
1946年生.イギリス現代史.東京大学名誉教授.『二〇世紀の歴史』(岩波新書)
 
小谷汪之(こたに・ひろゆき)
1942年生.インド史.東京都立大学名誉教授.『「大東亜戦争」期 出版異聞――『印度資源論』の謎を追って』(岩波書店) 
 
久保亨(くぼ・とおる)
1953年生.信州大学特任教授.『社会主義への挑戦1945-1971』(岩波新書)
 
油井大三郎(ゆい・だいざぶろう)
1945年生.アメリカ現代史,国際関係史.一橋大学・東京大学名誉教授.『好戦の共和国 アメリカ』(岩波新書)
 
池田忍(いけだ・しのぶ)
1958年生.日本美術史.千葉大学教授.『日本絵画の女性像――ジェンダー美術史の視点から』(筑摩書房)
 
吉見義明(よしみ・よしあき)
1946年生.日本近現代史.中央大学名誉教授.『従軍慰安婦』(岩波新書)
 

タグ

バックナンバー

閉じる